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乱世を生き抜く知恵 第21回 フランシスコ・ザビエル-神を連れてきた男と日本人-

経営・戦略 泉 秀樹 2016年09月16日

フランシスコ・ザビエル

 カトリック教会の宣教師でイエズス会創立メンバーの1人。日本に初めてキリスト教を伝えた。ゴアに到着した1542年から中国・広東省の上川島で亡くなるまでに受洗した人数は聖パウロを超えると言われている。享年46。
(撮影地:スペイン・ザビエル城)

鉄砲と聖書

 フランシスコ・ザビエルがマラッカ(マレーシア)を出発して日本に向かったのは天文18年(1549)6月24日である。
 同6月24日、薩摩(鹿児島県)の島津忠良・貴久の幕下にあった伊集院忠朗は、島津勢に敵対する肝付兼演(きもつきかねひろ)がたてこもっている大隅の加治木城(鹿児島県姶良市)を攻撃した。これに対して兼演は弓と鉄砲で応戦したものの、結局は敗北して島津氏の幕下に入ることになった。
 さほど有名な合戦ではないが、重要なのはこの合戦に鉄砲が本格的に使われたことが記録に登場する最初の合戦だったことである。
 そして、ザビエルの乗ったジャンクが鹿児島の稲荷川河口・戸柱港に接岸したのは、この合戦からわずか52日後の8月15日であった。
 長い日本の歴史の流れから考えれば、52日という時間差は、ほとんどないようなもので「鉄砲」と「聖書」は一対であり、同時期から日本の近代化という車軸の両輪になったと考えるべきだろう。


ザビエル上陸祈念碑(鹿児島市祇園之洲公園)
ザビエルは布教への熱い想いを胸に日本へ上陸した。それは同時に「銃と聖書」を日本にもたらした。

銃と十字架

 ライバルのスペインとともに華やかな大航海時代を築いていたポルトガル国王ジョアン3世は、東インド地方(インド、東南アジア、極東を含む地域の総称)にカトリックの司祭を派遣することを思いたった。
 それまでに獲得した植民地を政治・経済・軍事的に支配するだけでなく、そこに生きる人々をキリスト教化することによって支配体制をいっそう強固に安定させるためで、布教活動はこの時代の豪宕な武力制圧型植民地主義と親密な協力関係にあった。
 これが鉄砲と聖書が一対であり、一本の車軸の両輪であったということである。
 具体的には、ジョアン3世がローマ教皇に東洋への司祭の派遣を願い出た。
 ローマ教皇はイグナチオ・ロヨラをリーダーとするイエズス会にインド布教を命じた、という経緯である。 
 そして、ロヨラとともにイエズス会を設立したザビエルは、天文11年(1542)5月にインド・ゴアに赴任した。
 以来布教活動に明け暮れていたザビエルは、ある日マラッカ(マレーシア)の「丘の上の聖母教会」でヤジローという罪のゆるしを願う日本人と出会うことになった。

マレーシア・マラッカの丘の上の聖母教会
ヨーロッパ人ザビエルと日本人ヤジローの出会いは、記録に残されたヨーロッパと日本のはじめての出会いであった。

 根占(鹿児島県肝属郡南大隅町)の武士階級の出身だといわれるヤジローは、人を殺し、鹿児島に停泊していたポルトガル船に逃げこんで、それ以後は海外で逃亡生活を送っていた。そして、罪を償うためにザビエルに出会うことになったのだった。 
 このころはヨーロッパ人が日本の存在を知ってからまだ日が浅く、ザビエルもヤジローからはじめて日本と日本人についてさまざまな知識を得て驚いた。
 東インド地方でそれまでに出会った人々と、日本人とは、非常に異なっているように思われたのである。
 そのあとザビエルがゴアで洗礼をさずけたヤジローは、殺人犯ではあったが頭が良く、礼儀正しく、理知的で学ぶことが好きだった。
 ザビエルは「若し全部の日本人が彼(ヤジロー)と同じように学ぶことの好きな国民だとすれば、日本人は、新しく発見された諸国の中で最も高級な国民であるとわたしは考える」(『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』ペトロ・アルーペ・井上郁二訳)という。
 また、日本からマラッカへ戻ってくる商人たちに尋ねても、日本人はたいへん理性的であり、他の国よりはるかにキリスト教を受け入れる可能性が高い、と口々にザビエルに語った。
 こうして日本の情報を収集・分析したザビエルは、日本布教を決心し、コメス・デ・トルレス司祭、ファン・フェルナンデス修道士および2人の従者やヤジローなどを伴ってジパングの薩摩・鹿児島をめざしたのだった。


マレーシア・マラッカの丘の上の聖母教会のザビエル像
マラッカの海辺の丘は、要塞の中心になっていた。穏やかな表情で佇むザビエルは、ここでも慕われている。

ザビエル、神の教えを説く

 鹿児島の戸柱港に到着したザビエルたちは、さっそく神の教えを説きはじめた。
 唯一全能の、永遠なる神について熱心に語った。
 そして、ザビエルの噂は領主である島津貴久の耳にも入り、まずヤジローが貴久の居城である一宇治城(鹿児島県日置市伊集院町)に招かれた。


一宇治城跡(鹿児島県日置市・城山公園)
島津貴久に招かれたザビエルは、ここで布教活動の許可をもらった。

 ヤジローは幼子イエスを抱いた聖母マリアの絵を持参し、貴久はこれに感動を示してその前にひざまずき、家臣たちにもひざまずくように命じた。
 また、貴久の母もこの絵はどうしたら手に入るかと、あとでヤジローに尋ねてきた。
 つづいて、9月29日にはザビエルにも謁見が許され、貴久は鹿児島における布教を許可した。
 このとき貴久は島津家15代・当主の座について数年しか経っておらず、薩摩全体が大隅、日向を併合しながら欝勃たる新興の力強さに充ちていた。
 貴久から住む家(所在不明)もあたえられたザビエルは、戸柱港から1.5キロほど西にある島津家の菩提寺・福昌寺(鹿児島市池之上町・玉竜高校裏)の住職・東堂忍室(勝文)と親しくなった。
 語学力の不足からヤジローが「デウス」を「大日如来」と誤訳し、忍室がザビエルを天竺から来た仏僧だと勘違いしたためだ。
 やがては間違いに気づいて敵対しなければならなくなるが、それまでは親友同士のようにつきあい、人々は2人の親しい様子を見てザビエルに「白坊主」、忍室には「黒坊主」というニックネームをつけた。
 そして、この「坊主」といういいかたには、2人に対する親しみと、どんなに異なる宗教でも混在させてしまう日本人の庶民感覚がうかがわれる。西欧や中東的な一神論ではなく、日本人の汎神論的な気質である。
 全知全能の唯一の神を、八百万(やおよろず)、八百万分の一、ONE OF THEMにしてしまう日本人の体質と、日本の湿潤な風土のありかたを考えさせるエピソードだといえよう。


福昌寺(鹿児島市)
島津家の菩提寺。墓地に歴代の墓がならんでいる様子は壮観である。是非参詣に行くべき興味深い場所だ。

ザビエルから見た日本人(1)

 ザビエルは福昌寺の石段でキリスト教を説き、鹿児島の人々は明るい表情でさまざまな質問を投げかけた。
 ザビエルがそうした日本人についてうれしそうに語っている。
 「此の(日本の)國民は、わたしが遭遇した國民の中では、一番傑出してゐる。私には、どの不信者國民も、日本人より優れてゐる者は無いと考へられる。日本人は、総體的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じがよい。彼等の名譽心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名譽が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問はず、貧乏を恥辱だと思ってゐる者は、一人もゐない。
 彼等には、キリスト教國民の持ってゐないと思はれる一つの特質がある。それは、武士が如何に貧困であらうとも、平民の者が如何に富裕であらうとも、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪と同じやうに尊敬されてゐることである。また貧困の武士は、如何なることがあらうとも、また如何なる財寳が眼前に積まれようとも、平民の者と結婚などは決してしない。それに依つて自分の名譽が消えてしまふと思つてゐるからである。それで金銭よりも、名譽を大切にしてゐる」
 ザビエルの見た日本の原住民は誇り高く、美しく、卑しいところのない日本人であった。
 「彼等は侮辱や嘲笑を黙って忍んでゐることをしない。平民が武士に対して、最高の敬意を捧げるのと同様に武士はまた領主に奉仕することを非常に自慢し、領主に平身低頭してゐる。これは主君に逆つて、主君から受ける罰による恥辱よりも、主君に逆ふことが自分の名譽の否定だと考へてゐるからであるらしい」
 ザビエルは日本人が酒好きであることにちょっとクレームをつけ、さらに賛美し続けている。
 「日本人の生活には、節度がある。たゞ(酒を)飲むことに於て、(日本人は)いくらか過ぐる國民である。彼等は米から取つた酒を飲む。葡萄は、こゝにはないからである。賭博は大いなる不名譽と考へてゐるから、一切しない。何故かと言へば、賭博は自分の物ではないものを望み、次には盗人になる危險があるからである。彼等は宣誓によつて、自己の言葉の裏づけをすることなどは稀である。宣誓する時には、太陽に由つてゐる。住民の大部分は、讀むことも書くこともできる。これは、祈りや神のことを短時間に學ぶための、頗る有利な點である。日本人は妻を一人しか持つてゐない。竊盗は極めて稀である。死刑を以て處罰されるからである。彼等は盗みの悪を、非常に憎んでゐる。大變心の善い國民で、交はり且つ學ぶことを好む」
 ザビエルの目には、日本人が最高に「心の善い國民」に映じていた。
 ザビエルはバスク人(スペイン)である。
 バスク人はベレー帽を好み、一般のスペイン人と比較して小柄で働き者だといわれる。 冒険心に富み、闘うときは猛々しく勇敢過激で民族意識が強く、誇り高く、難解なバスク語を話すことを頑固に守っている。バスク語は言語学的にフランコ時代には使用を禁止されていた類例のない特殊な言語である。
 こうした特徴をことごとく備えた典型的なバスク人だったといわれるザビエルは、あるいは鹿児島に住む日本人に理想的なバスク人のイメージや、自分と似たところを見出していたのかもしれない。



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  • のりおちゃんさん

    典型的なバスク人だったといわれるザビエルは、あるいは鹿児島に住む日本人に理想的なバスク人のイメージや、自分と似たところを見出していたのかもしれない。というところが、一考に値すると感じました。

    2016年09月21日 16:54

  • ムッシューマックさん

    かつての日本人のユニークさがグローバリゼーションの中で、力を発揮するのか、その逆なのか?
    あるいは、「日本人」と一括りにできない多様な個性が活躍することこそ、本来のグローバル化でしょうか?

    2016年09月21日 00:57

  • attさん

    明るく屈託がなく働き者でかつ知への好奇心があった日本人は、今の日本にはほぼ皆無なのではないだろうか。
    理不尽なことも多かったであろうかつての我が国だから昔は良かった、とは思わない。
    しかし人の気立てが確実に悪化した今の日本において、
    こうした過去の日本人の気質には多いに学ぶべきところがあるし、
    海外の文化を柔軟に受け入れる謙虚さは取り戻してほしいと感じる。

    2016年09月20日 21:28

  • 2e0l6さん

    フランシスコザビエルの足跡が良く理解出来ますね.

    2016年09月20日 12:03

コラムニスト・プロフィール

泉 秀樹いずみ ひでき

昭和18年(1943)静岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒 産経新聞社勤務を経て文筆活動に入る。 同48年(1973)「剥製博物館」で第5回新潮新人賞受賞。 著書は「海の往還記」(中公文庫) ...

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