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乱世を生き抜く知恵 第9回 天正少年使節-信仰と政治に翻弄された少年たちの生涯-

経営・戦略 泉 秀樹 2015年08月21日

天正少年使節(天正遣欧少年使節)

天正10年(1582)、九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年(伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)を中心とした使節団で、日本でのキリスト教布教の支援をローマ教皇から得ることを目的としていた。しかし、出立から8年後、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣秀吉による伴天連追放令だった…。

信長お気に入りの男・ヴァリニャーノ

 天正9年(1581)の『イエズス会日本年報』に信長が安土城の屏風を描かせたという記録がある。
 「約1年前日本の最も著名な画工(狩野永徳)に命じて、新京(安土)と其城(そのしろ)の絵を少しも実際と相違なく、湖水(琵琶湖)諸邸宅その他一切を有りのままに描かせた。(中略)完全な作品であり、著名な画工が非常に努力して絵を描いたものである故、信長は大いに満足してこれを珍重した」(岡田章雄訳)
 狩野永徳に描かせたこの屏風はみごとな出来栄えであったらしく、これを見るために大名や京・堺の人々が続々と安土城を訪れたという。また、朝廷からは、是非ほしいと所望されたが、信長は献上しなかった。そして、誰にもわたさなかったこの屏風を、信長は、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノにあたえた。


アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

安土城下のセミナリヨ跡
セミナリヨは琵琶湖へ直接船で出入りできるようになっていたのだろう。モノクロ写真(下)は昭和45年に撮影されたものだ。整備して公園のようになった(上)が、かつての方が史跡らしい趣があった。

 日本に来たヴァリニャーノは、真夜中に床につき、午前3時には床を離れて働きはじめるという旺盛な布教活動をつづけた。若いころ刃物で女性を傷つけたことがあり、以来、厳格に禁欲的な信仰の徒として生きていた。神の存在など信じていたとは思われない信長とは対照的な人物である。
 が、信長は、この軀の大きな5歳年下のヴァリニャーノに対して好感を抱いていた気配である。世俗的になりすぎていた日本の仏僧への反発が強かったこともあるが、それ以上に初対面以来ヴァリニャーノの潔癖な生き方に共感と親密感を抱いたように感じられる。
 というのも、信長はヴァリニャーノに安土城下にセミナリヨ(小神学校・初等教育機関)と修道院を設立する許可を快くあたえた。その設立に高山右近が協力して開校すると、生徒がたちまちのうちに25名集まった(『日本史』フロイス)といわれる。
 また、ヴァリニャーノが日本を離れるときがちょうどお盆で、信長は安土城天守閣を色とりどりの提灯で飾りつけ、松明を持った群衆を整然とならばせておいて城と城下町の灯火をすべて消させ、真の闇をつくり、一斉に火を点じて光のページェントを行った。それはみごとに美しく「司祭、神学校の子供たちが寛ぎながら(神学校の)窓から(祭りの)火を眺めた」という。
 セミナリヨは安土城の天守閣のそれとおなじ青い瓦で葺かれた3階建てで、すでに肥前の島原半島に建てられていた有馬晴信の日野江城下(長崎県南島原市北有馬町)のセミナリヨと同じ様式の建物で有馬と同じ規約と規則で運営され、同じ時間割で授業が行われた。


長崎・島原半島日野江城下・有馬のセミナリヨ跡
個人宅の一角に看板が立てられているが注意していないと見落としてしまう。戦国時代このあたりに讃美歌が流れていた。

有馬のセミナリヨ図
実際に見て描かれたのではなく、ヨーロッパで描かれた想像図である。

 長崎から車で橘湾(千々石湾)に沿って走って愛野、千々石を経て小浜に向かい、さらに海沿いの道を南下して加津佐、口之津へ。
 口之津はなんの変哲もない漁港だが、そこはヴァリニャーノが上陸し、日本布教の方針を定めた「口之津会議」が開かれ、南蛮船が往来した国際的なウォーターフロントであったことを知る人は少ない。また、湿地帯や田圃の残る口之津の唐人町がかつて港としてにぎわったことを知る者はさらに少ないだろう。
 だが、ここからすぐ近くの、口之津と同じような小さな漁港である加津佐で、日本ではじめての活版印刷が行われ、異国の珍奇な品物やパードレ(神父)が南蛮船で往来していた。
 口之津から右手に湯島(談合島)を眺めながら海岸道路を島原市方面に向かうと、間もなく原城である。整備されて公園になっている城跡から眺望できる有明海と天草は美しい。
 原城には天草四郎を首領とするキリシタン大名の残党、信徒、女子供など3万7000人が籠城した。寛永14年(1637)の島原の乱である。陸からは幕府軍、海からはオランダの艦船に攻撃され、全員が虐殺された。
 原城跡から有馬の日野江城跡へ行く。
 北有馬の農家の脇から細い道をのぼって行くと、戦国時代の石畳がそのまま残っていて、やがて畑に出る。僅かだが石垣が残っている。典型的な平山城の跡である。


日野江城跡
この平場に有馬晴信の華麗な館が建てられていた。古図や記録がないのが残念だ。

 城主・有馬晴信の居館は、華麗なものであった。
 「広間の長さは20バーラ、幅10バーラ(1バーラは84センチ)であった。(中略)床はえんじ色のビロウドの縁をつけた畳がしきつめてあった。天井は白いヒノキで何の飾りもなく、紙のすべり戸(襖)には金色やひどく薄い青色を使って、何千という薔薇の花やまるで本物のような遠景の山。冬をあらわしたものでは、雪をかぶった山脈(中略)池には幾羽かの鴨が泳ぎ、手もとにやってくるほど馴れていた」(アビラ・ヒロン『日本王国記』会田由訳)
 いまではこうした栄華の痕跡は残されてはいないが、ここは日本におけるキリスト教史を考えると、きわめて画期的な出来事があった場所なのである。それは、ヴァリニャーノがこの日野江城の城下にもセミナリヨを建てていたということである。
 先に述べた通り、このセミナリヨで、生徒たちは次のような時間割に従って学んだ。

  起床と祈り    4時半
  ミサ       5時~6時
  独習       6時~7時半
  宿題       7時半~9時
  食事・休養    9時~11時
  日本語の読み書き 11時~2時
  音楽       2時~3時
  ラテン語     3時~4時半
  夕食・休養    5時~7時
  復習       7時~8時
  反省と就寝    8時~

 高度な学問がまだ幼さを残した少年たちに教えられたのである。16世紀に、すでに彼等はラテン語を話し、オルガンやギターを演奏し、哲学まで論じあっていた。

選ばれた4人の少年

 ヴァリニャーノはローマに使節を派遣する計画をたてた。天正少年使節である。
   伊東マンショ(13歳=出発時・以下同じ)
   千々石(ちぢわ)ミゲル(13歳)
   中浦ジュリアン(14歳)
   原マルチノ(13歳)

 この4人の少年たちがリスボン港を守るベレンの塔の美しいたたずまいを目にしたのは天正12年(1584)8月10日のことであった。


リスボン・ベレンの塔
ベレンの塔は16世紀にヴァスコ・ダ・ガマの世界一周を記念してマヌエル1世が建造した。テージョ川に入ってくる船を監視する要塞で、世界遺産になっている。

 少年たちは水の流れをさかのぼる船の甲板に立って、目の前に横たわっているヨーロッパの風景を見つめながら、2年半の歳月を思い出さずにはいられなかっただろう。それは、ただの長い海の旅ではなく、神を求める旅であった。日本語のうまいディオゴ・メスキータ神父に引率されていたし、ラテン語もかなり勉強していた。闘志も意欲もあったし、あつい信仰心もあった。しかし、帆柱よりも高い波、焙るような日ざしの下の、油凪に凪いだ海、赤痢、岩礁、風、すべてが凶暴な敵であった。たとえばサルガッソ海では33名の乗組員が病に倒れて亡くなった。旅は神を求める旅であると同時に、皮膚が死とじかに触れあっている旅でもあった。

 ポルトガルに到着した少年たちは、イエズス会の取りはからいでリスボンの教会や、美しいシントラの城を訪れ、仮装舞踏会に招かれた。
 エヴォラの大聖堂では、マンショとミゲルがパイプオルガンを弾いた。
 荘厳なミサと晩餐会、テージョ川の舟遊び、貴族の館で催される歓迎の式典、祈りと石畳を蹴って走る馬車の馬の蹄鉄の音。彼等はグアダルペを訪れ、国境を越えてトレドへ。トレドからマドリッド。マドリッドでは国王フェリペⅡ世に謁見し、駐ローマ・オリバレス大使宛ての「提供さるべきあらゆる事どもに援助せんことを卿に依嘱す」という最大級の礼をつくした親書を得ることもできた。


エヴォラの大聖堂
ポルトガルの重要文化財のひとつ。
Evora(エヴォラ)大聖堂に天正遣欧少年使節の伊東マンショらが弾いたというパイプオルガンが 420年以上の歳月を経た今でも残っている。

シントラ城白鳥の間
フランスの貴族に嫁いだポルトガル王ジョアン1世の娘・イザベラ王女が好んだ白鳥が27羽描かれている。首にかかっている王冠は、フランス貴族の紋章を表したもの。
この部屋はレセプション・ルームとして使われていて、天正遣欧使節団もここで催された仮装舞踏会に招待された。

 やがて、スペインの明るい港町アリカンテから5000トンの軍艦でイタリアに向かった少年たちは、天正13年(1585)3月1日にリヴォルノの港に到着した。
 4人は下船すると、ひざまずいてイタリアの土に額を近づけた。あこがれのローマに近づいたからである。
 ピサ、フィレンツェ、シエナを経由したところで少年たちは教皇グレゴリオ13世から遣わされた約300名の騎兵に迎えられ、彼等に護衛されてビテルボを通過し、カプラロラに着いた。
 そして、3月22日の夕刻、ローマに着いてイエズス会本部(ジェス教会・修道院)で旅装を解いた。日本の長崎の大波止を出発してから、実に3年1か月が経っていた。
 現代の私たちにはそこはイタリアの首都にすぎないが、少年たちにとっては「至聖の都」であった。
 翌23日、少年たちは衣装を整えた。
 「使節は各々、臍の辺りまで下がった緊束した有袖短外套を上に羽織り、上部より足にいたるまで皺がよった襞のある寛闊な長袴をはき、これを臍の辺りで堅く結んでいる。この服は、繊細な絹糸をもって織りなし、巧妙な技芸による絹製品で、数多の色で花鳥を現したり、金糸をもって織り出した花枝は、まるで生きているようであり、綺羅を点じ、巧妙を極め、おそらく我が国人の中、何ぴともこのような妙工を想像し得る者はないであろう。なお使節は湾曲した剣と小刀を腰に帯び、頭上には美しい紋飾りの帽子をかぶっている」(『天正少年使節』松田毅一訳)
 その姿は、ヨーロッパ人の目には奇妙に映じたようだ。事実「この衣服は大して立派とは言い得ず、道化役者の服に似ている」と思った者もいた。しかし、そのいでたちで少年たちはバチカンの丘へ向かった。



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  • akoさん

    少年たちは、無垢に神を信じて、翻弄されたことは事実だとおもいます。
    少年たちに焦点を当てているのでまだ読めるけれど、視点が偏っている。なぜ宣教師たちが日本にきたのか、なぜ千々石ミゲルが「転んだ」のか?
    その時代ポルトガルが大規模におこなっていた奴隷貿易についてかかないとフェアじゃない。
    日本人を奴隷として海外に売りさばいていた事実、奴隷へのあつかいを目の当たりにした千々石ミゲルがローマ滞在中に嫌悪感を表明している事実、そしてシナ・日本を軍事拠点としてあつかっていた宣教師の手紙が残されている事実などを無視して「全能の神は…」とはちょっと 感情によりすぎて歴史公証がたりないようにおもいます。
    もしその知識があれば、「すれっからし」などと戦国大名たちをまとめて書くことがあるでしょうか?
    上記の事実があって、人道をおもったとき、秀吉と宣教師(の仮面をかぶった人種差別主義者)、どちらがすれっからしでしょうか?

    2016年09月08日 13:24

  • TaiMasayoshiさん

    日本人の海外との関わり具合(程度)は、薄い。もしあったときは、必ず有名な人となっているか、歴史に名をとどめている。それだけだろうか?
    海外にでかけるという強い意志だけではなく、余程の鍛錬も行っている。聖徳太子、空海・最澄さん、道元さん、明治維新の各氏。
    えらくなるとは、このように努力が報われなくとも、せわーない と 笑い飛ばすか、瞑想状態になれることだと思う。
    まだまだ元気な私は、まだまだ勉強しなくちゃ、自分が自分でほめられんからな。
    もうひとふんばり。

    2015年09月08日 13:37

  • サイクリングさん

    無知が、人間の価値観の形成に歪みを構成すると言うこと
    真理として認識されていることが、過ちになりうるのは
    怖いことです。
    教育の重要性を強く認識するとともに、家庭、地域での
    取り組みが非常に重要だと感じます。

    2015年08月24日 19:41

  • attireさん

    この連載にある写真の風景や泉氏の文章は、かつて遠い昔、歴史上の誰かが見たものというだけではなく
    わたしたちにも感じることも出来るのだと、時空を超えた視座を与えてくれる。

    2015年08月24日 18:43

  • 大粒小粒さん

    天正少年使節団の4少年の壮大な物語である。純粋であるが故の弱さと信ずることの力の両面を教えてくれるように思う。歴史の一方の流れである秀吉、家康のキリスト教弾圧にはくじかれたが、開国後の近代文明受容(例えば教育、印刷術)の流れは先取りしていたといえる。悲劇に終わったとはいえ平凡な4少年は歴史に名を残した。それにしても布教の陰に日本征服とは人をどこまで信じていいのか怖くなる。現代社会を彷彿とさせるではないか。

    2015年08月24日 12:44

  • ケチャップさん

    歴史を身近に感じることができ、わかりやすい連載をいつも楽しみにしています。写真も素敵で、大きな時代の波に翻弄される若者たちの想い、遠い国、時代に想いを馳せました。

    2015年08月24日 12:24

  • ごっそさん

    天正少年使節の小歴史を知りました。

    2015年08月24日 11:03

  • ginzaloverさん

    人々の暮らしや人生が時代に翻弄された様子がまざまざと思い知らされ、胸が詰まる思いで読み進めました。歴史で学ぶ側面以外にも新たに知ることがあり新鮮でした。このような、歴史にかんする連載をもっと掘り下げて読んでみたいです。

    2015年08月24日 10:47

  • スギサンさん

    我々の先輩は実に懸命であった。豊臣秀吉とか徳川家康がキリシタン禁止令を発布した。そのお陰で現在の我々は”キリスト教徒”という偽善者集団の仲間になっていなくて実にありがたい思いがする。神の王国を目指して新大陸へ引っ越した連中は神の名において先住民を殺戮した。はたまたアフリカからそこに住んでいた人間を強制連行してきて”奴隷”にした。この強制連行は金王朝の拉致どころの騒ぎではない。あれから200年以上経過し、自由と民主主義を”価値観とする”と喚くのである。この種の人間と同種にならないでいれることは幸せなことであると思う。

    2015年08月24日 10:31

  • 大串さん

    取り急ぎ、以下の部分に反応させてください… 「よくいわれることだが、12月24日にはクリスマス・イブ、31日には除夜の鐘、元旦には初詣ということで、これはとりもなおさず日本人の精神構造の柔軟さである。価値判断の基準が無数にあるということである。」これは少し違うように思うのです。より正確には「これはとりもなおさず日本人の精神構造が長いものに巻かれやすく世間様を恐れ敬うことに道徳的価値のよりどころを求めることの好例であろう。柔軟だから世間様と自分の良心次第で右にも左にも転べる。結果、表面的には価値判断の基準が無数にあるように外国人からは見えるが、その実、世間様の支配する日本人的価値観の枠組みからは決して外れないのである。まあ最近は世間様が日々変容していることもあってか、日本的社会規範から逸脱した行為また犯罪が多発中ではあるが。」 ※当時のローマ・カトリックを一神教を振りかざす悪玉として描くのはまあいいんですが、実際は神や聖書の名を借りて悪事を尽くしたというのが専門家たちも指摘するところかと。一神教をそこまで敵視する必要がないことは、福音書を読めばすぐ分かるはず。迫害を受け殺されたのはキリストとその追随者であって、本当の一神教とはそういうものなのでしょう。

    2015年08月24日 09:55

コラムニスト・プロフィール

泉 秀樹いずみ ひでき

昭和18年(1943)静岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒 産経新聞社勤務を経て文筆活動に入る。 同48年(1973)「剥製博物館」で第5回新潮新人賞受賞。 著書は「海の往還記」(中公文庫) ...

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