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乱世を生き抜く知恵 第6回 大友宗麟-自領を没落に導いた男-

経営・戦略 泉 秀樹 2015年04月17日

大友宗麟

大友義鎮(よししげ/大友氏第21代当主)。法号は宗麟。享禄3年(1530)1月3日、豊後・府内(大分県大分市)に大友氏の嫡男として生まれる。海外貿易で得た経済力とすぐれた家臣の補佐により、戦国の九州随一の勢力を誇った。キリシタン大名としても有名だが、耳川の合戦を皮切りに次々と領地を失い、晩年は秀吉傘下の一大名として終わった。享年58。

九州最大の権勢を誇る大大名・大友宗麟

 大友宗麟(義鎮・宗滴)は天文23年(1554)8月に肥前守護職に就任した。 
 その5年後の永禄2年(1559)6月には豊前、肥前、筑後3ヶ国の守護職に就任、最終的には九州6ヶ国の守護となって同年11月九州探題に任じられた。九州最大の権勢である。北に肥前・龍造寺氏と周防・毛利氏、南に薩摩・島津氏がいたが、九州の約80%を支配する最大最強の大大名としてその武名は畿内まで轟いていた。
 宗麟がそこまで領国の版図を拡大して絶対的な権勢を誇ることができるようになったのは、ひとえに人に恵まれたからである。
 宗麟の周囲には、ただ優秀なだけでなく信義に篤く、誠実で勇猛な武将がそろっていた。
 まず立花道雪(戸次鑑連)、臼杵鑑速、高橋紹運たちである。道雪は紹運の長男・統虎を養子に迎えている。この統虎がのちの立花宗茂で、筑後・柳川(福岡県)の藩祖になった人物である。
  ほかにも田原宗亀、田北紹鉄、田原紹忍、志賀道輝らが宗麟を支えた。くりかえすが群を抜く知略と武力に秀れた猛者ばかりで、それぞれが一国の主になってもおかしくない器の男たちである。
 一方で宗麟は中国や朝鮮との貿易で巨利を収めている博多の豪商・島井宗室や、祖父の代から石見銀山の開発や中国・朝鮮をはじめ南洋諸国との貿易をやっている神屋宗湛たちとの交遊も忘れなかった。宗麟自身も朝鮮や対明貿易で大きな利益をあげていたのである。
 さらには多種多様な美術品を求めて能や蹴鞠、犬追物や鷹狩りをやり、茶や茶道具を楽しんだ。また豊後一宮・柞原神社(大分市大字八幡)を援助し、臨済禅に親しんだ。武将であると同時に当代一流の経済に明るい知識人・文化人であったということである。
 こうした公的な側面を見ると幸運幸福な成功者であったといえるが、しかし、宗麟は私的には不幸な、性格的に問題のある失敗者、愛情に餓え、欲望に餓えた倫理観や道徳観が欠落した性格破綻的な人物でもあった。


大分城(大分県大分市)
鎌倉時代から戦国時代にかけて大友氏の権力の拠点として重要な役割を果たした城である。

公的な成功者、私的な失敗者

 宗麟は享禄3年(1530)1月3日、豊後・府内(大分県大分市)に生まれた。
 父は豊後守護と鎮西探題を兼ねる大友義鑑。
 母は周防・長門・豊前(山口・大分北部)、筑前(福岡)、安芸(広島)、石見(島根)の守護を兼ねる周防・山口の大内義興の娘(義隆の姉)だから、名門中の名門の両親の長男として生まれたことになる。
 といっても、宗麟は順調に家督を継いだのではなかった。
 大友家には宗麟と異母兄弟である塩市丸がいたため、どちらを家督とするかで家臣が分裂して抗争をくりかえしていた。宗麟は父からあまり愛されていなかったということであり、このことが人生観に暗い影を落としていたのかもしれない。
 そして、天文19年(1550)2月10日、宗麟側の家臣が決起して義鑑と塩市丸と、その母親が襲われた。
 父・義鑑は重傷を負い、異母と塩市丸は殺害された。「二階崩れ」と呼ばれる事件である。
 2日後には、義鑑も傷がもとで亡くなってしまうが、亡くなる直前に宗麟は義鑑に自分が後継者になることを納得させた。
 宗麟は同じ年の8月、肥後・菊池義武を捕らえ、その妻を側室にした。義武は父・義鑑の弟で菊池家の養子になっていたから義理の叔母を側室にしたということで、これは、誰からも非難された。実は、宗麟はその前から「淫蕩無頼」(『日本西教史』ジャン・クラッセ)な生活を送っていた。
 「都より楽の役者をめされ酒宴乱舞、詩歌管絃に日を送り、ひとへに好色に傾き給ふ」(『大友記』)
 「畿内関東までも尋ね求め美女艶色とだにいへば千金を出して呼び集む」(『両豊記』)
 太守の息子であることをいいことに、金にあかして女たちを集めて手のつけられない放蕩に明け暮れていたようで、父・義鑑や一部の家臣たちがたとえ妾腹でも塩市丸を後継者にしたいと考えたのはもっともなことであった。

宗麟・ザビエルと出会う

 この翌年の天文20年(1551)9月19日、22歳の宗麟はかねてから手紙を送って招聘していたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと面会した。
 槍隊500名をならべてザビエルを迎えた宗麟は、ただ最新の鉄砲と火薬、大砲や西欧の文物を求めていたのだったが、意外な結果を得る。
 キリスト教の教義について「いま聴聞せし説より高き説はなかるべし。また、この説よりよく道理に合したる説はなかるべし」と感じてそれがのちに宗麟の人生の最終目的を決定することになってゆくからである。
 ところが、宗麟は、教義は軽んじた。義理の叔母を側室にしたことをザビエルから激しく叱責されたにもかかわらず、宗麟の女癖の悪さは改まらなかったのだ。
 ザビエルの諫言の効果もなく、宗麟の好色癖は墓穴を掘ってしまう。
 天文22年(1553)家臣の一万田親実の、美人で知られていた妻を無理矢理奪って側室にした。そのために、親実に無実の罪をなすりつけることまでした。
 宗麟の重臣にこの親実の兄・高橋鑑種がいた。無実の弟が殺され、その妻が奪われた鑑種は、宗麟に叛旗をひるがえした。背後には毛利元就がいたともされるが、それはともかく問題はこの反乱鎮圧に3年間の日々を費やした点にある。
  府内(大分)の町屋300戸が焼ける反乱はなんとか鎮圧できはしたが、ことほどさように宗麟は至極一般的な理性や倫理観とは程遠い、惰弱な一面を持つ人物だった。そして、好色が招いたこの事件が大友氏滅亡を確実に早めたのに違いない。
 また、こんな調子では、家庭がうまくいくはずがなかった。
 丹後・一色家から来ていた正室をすぐ離別した宗麟は、2人目の正室・イザベル(奈多夫人)を迎えた。宗麟が21、2歳のころか。
 この何歳か年上のイザベルは、ザビエルに影響を受けた宗麟を、批判的な目で見ていた。
 というのも、イザベルは国東郡安岐郡(大分県国東市安岐町)に大きな勢力を持つ奈多八幡大宮司の娘で、つまり神道の豪族の家に生まれ、さらには熱心な仏教徒であったばかりかまことに性格の激しい女性で、その後もつづいた宗麟の女遊びとキリシタン道楽にあきれ果てて「国中の尼僧山伏に仰せて呪詛せられたり」(『九州治乱記』)という。妻が夫を嫌い呪うという忌まわしい家庭状況を招来することになったわけだ。
 対する宗麟は、おこって妻子を府内(大分市)の館に残し1人家出して新しい臼杵城(大分県臼杵市)へ移ってしまった。33歳のときで、それまでは家庭のなかでは宗教論争と女遊びを詰る、わめく、いい返す、怒鳴るの喧嘩口論が絶えなかったものと思われる。
 宗麟はさらに子供や親類のキリシタン入信問題などで大友家の筆頭家老格であるイザベルの兄・田原親賢とも対立し、不仲になって家庭は無茶苦茶になった。
 それでも宗麟は、ザビエルが残していった宣教師たちの布教活動を支援した。


南蛮貿易場跡(大分県大分市 神宮寺浦公園)
大分港のすぐ前に「沖の浜」と呼ばれる島(瓜生島)があり、港として栄えた。しかし大地震で一夜にして消えたと伝えられ、この神宮寺浦が国際貿易港として栄えた。


臼杵城(大分県臼杵市)
本丸の天守櫓台。宗麟は大阪城を訪れてそのスケールや豪華さに仰天したが、それでもこの臼杵城は、九州ではきわめて立派な城郭であった。


臼杵城地図(泉秀樹事務所制作)
切り立った崖の島に築かれた臼杵城は、宗麟の全盛期の力を今に伝えている。

 豊後領内の布教を許し、教会を建て、臼杵にノビシャド(修練院)を建造し、ハンセン病患者を収容する病院まで建てたから、宗麟の保護のもとでキリスト教はしだいに普及していった。同時に狙い通りに貿易が盛んになり、武器弾薬が大量にもたらされてその製法まで知ることができた。宗麟が九州を治めることができたのは鉄砲や仏郎機(フランキ/国崩し・大砲)などの新兵器を獲得したことによるともいえる。また、臼杵の町は明人やポルトガル商人が行き交い、貿易で賑わう国際都市の様相を呈した。


仏郎機・国崩し(大分県臼杵市)
仏郎機・国崩しと言われたこの大砲が、いつ、どこで、どのように使われたかを伝える資料はないが、近隣の武将は当時の強力な最新兵器としての威力を恐れたことだろう。

 そして、やがては妻子と和解して臼杵城で再同居するが、やっぱりうまくいかなかったため、宗麟はついにはイザベルと離婚してしまった。
 この離婚を実行に移した陰には女性がいた。
 なんと正室イザベルの実の姉・ユリア(実名不明)と3度目の結婚をしたのである。
 これを知ったイザベルは、逆上してみずから胸に短刀を刺して自殺しようとしたという。天正6年(1578)3月、宗麟49歳で、このとき現役から隠退した。
 隠居の宗麟は臼杵城のなかに一戸を構え、そこで新生活をはじめた。
 九州最大最強の武将が城のなかに一軒家を建ててそこを愛の巣にしてちんまり暮らすというのは、なんともおかしいというか滑稽というか、奇妙な印象をあたえる。
 イザベルとちがってユリアは病身であったせいか、温和で優しい性格であったようだ。
 宗麟は干しシイタケやイリコでダシをとった醤油汁に乱切りゴボウや大根、ニンジンや里芋、小麦粉を手握りや延べ棒でのばして千切ったものを入れた団子汁を好んだがユリアはそうした手料理もつくったことだろう。
 2人は手に手をとりあうようにして教会に通い、やがては宗麟も洗礼を受けた(洗礼名ドン・フランシスコ)。



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  • としやんさん

    臼杵で生まれ育った少年時代、臼杵城がある臼杵公園でちゃんばら遊びをした頃を思い出します。

    2015年04月27日 17:04

  • 2e0l6さん

    いろいろと参考になりますね!

    2015年04月20日 14:15

  • あき39さん

    キリシタンが泣く放蕩であったことが良く伝わった

    2015年04月20日 14:01

  • Masabonさん

    高校でんは「歴史」の勉強は大学入試用に勉強する。
    教科書にでてくるのは 
    大友 義統(おおとも よしむね)
    ですね。関ヶ原の戦いがはじまると同時に、黒田官兵衛が九州で義統と戦い一気に九州を制圧し始めたのは有名。
    大友義鎮の話をみていると、実に出鱈目なキリスト教の信者ですね。
    離婚は許されていないのに、下半身の乱れはどこかの学校の先生のようですね(イギリスでは王様がこれをやってしまい、イギリス国教となってしまった)、キリスト信者がここまで殺戮をくりかえすのか?
    歴史の読み物としてはあまり読みたくないですね。

    2015年04月20日 11:15

コラムニスト・プロフィール

泉 秀樹いずみ ひでき

昭和18年(1943)静岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒 産経新聞社勤務を経て文筆活動に入る。 同48年(1973)「剥製博物館」で第5回新潮新人賞受賞。 著書は「海の往還記」(中公文庫) ...

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