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今に生きる歴史を動かした男たち 第16回 秋山好古・真之兄弟 -"陸の兄"と"海の弟"に見る明治日本の頂と精神-

経営・戦略 泉 秀樹 2010年12月17日

秋山好古

秋山真之

秋山好古(あきやまよしふる)

 安政6年(1859)生まれ。陸軍大将。伊予松山藩の下級武士の家に生まれる。家庭の困窮により師範学校で学ぶとともに、早くから経済的に独立し、後に陸軍士官学校に入学。フランス留学を経、日本騎兵の確立に寄与した。後にフランス軍人により「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎馬集団を破るというただ一点に尽きている」と賞し、「日本騎兵の父」とうたわれた。昭和5年(1930)没。

秋山真之(あきやまさねゆき)

 慶応4年(1868)生まれ。海軍中将。兄・好古に支援を受け、幼馴染でもある正岡子規とともに、東京大学で文学を学ぼうとするが、その後転向し、海軍士官学校へ。アメリカ留学時の米西戦争を観戦武官として視察。この時の報告書や真之の経験が、後の旅順港閉塞作戦の礎となる。日本海海戦時、真之は司令長官東郷平八郎の参謀として連合艦隊第一艦隊旗艦「三笠」に乗り、自らが考案した「丁字戦法」によって世界最強と言われたバルチック艦隊を撃滅する。大正7年(1918)没。

秋山好古
貧しさと独立精神

  秋山好古は、安政6年(1859)四国の伊予(愛媛県)松山藩の徒士かち目付(禄高10石)秋山久敬(あきやまひさたか)の三男として生まれた。母は貞。長じて大柄になったものの、月足らずの未熟児で、虚弱な子供であったという。

 慶応4年、つまり明治元年(1868)には五男・真之(さねゆき)が生まれた。こちらは小柄で手がつけられない餓鬼大将に育った。
 好古は8歳で藩校・明教館に入り、成績抜群で11歳で助手になった。
 明治4年(1871)には廃藩置県が行なわれ、小学校が設立され、続いて中学も設立されたが、秋山家は困窮していて、好古は教育を受けることができなかった。

 14歳から近所の銭湯で働きはじめた。水を汲み、風呂釜焚き、番台にすわり、ときには薪にする木を山まで伐採に行く重労働だった。日当8厘でかけ蕎麦1杯ほどの値段である。銭湯へ働きに出る前には豆を売り、近所の家へ玄米搗つき(精米)に行って家計の足しにした。

 僅かずつ貯めた金で書物を買って独学し、17歳の1月に大阪へ出た。小学校教員の検定試験に合格したからで、以後教師として生活したが、2年後には陸軍士官学校へ入学し、陸軍軍人として生きることになった。

 もともと騎馬の武士にあこがれていた好古は騎兵科を選択し、21歳で卒業して騎兵少尉となった。軍人としての経歴を積んで、さらに陸軍大学校に進んだ25歳の秋、好古は9歳年下、16歳になっていた弟・真之を東京へ呼びよせた。

 真之は小学校からの親友であった正岡子規とともに大学予備門に入学して文学を志すが、19歳のとき方向転換して海軍兵学校に入り、海軍軍人として活躍することになる。

フランス留学と日清戦争、そして騎兵の確立

  好古の人生の転換点はフランス留学である。
 好古は松山藩主・久松定謨(ひさまつさだこと)の補導役として明治20年(1887)にパリへ行く。

 フランスは革命後100年を迎えようとしていた。エッフェル塔が建てられ、万博が催され、パリは世界の先端をゆくテクノポリスとして繁栄しており、好古は衝撃を受けた。

 そして、好古はナポレオンが創立したサン・シール陸軍士官学校で学び、ルーアンの猟騎兵14連隊に1年間勤務した。

 帰国して3年後に勃発した日清戦争に参戦、清国(中国)盛京省花園口の東に上陸し、金州の敵情の偵察にあたった。龍口で敵騎兵を撃破し、各地に転戦して戦功をあげた。

 帰国してからは騎兵関係全般の革新に励み、陸軍乗馬学校の校長として『本邦騎兵用兵論』『本邦騎兵に付属すべき騎砲論』を書いた。ロシアのコサック騎兵との対戦を予想した戦術論であり、これによって日本の騎兵は見ちがえるほど整備強化された。好古によって騎兵の用法が確立されたのだ。

日露戦争と好古の功績

  続いて清国駐屯軍司令官に就任し、レジオン・ド・ヌール・オフィシエ勲章を授与された好古は、44歳で陸軍少将となり、その2年後の明治37年(1904)に日露戦争がはじまった。

 好古は騎兵第1旅団長として目ざましい戦いぶりを展開した。
 日本軍は瀋陽しんよう南部の遼陽りょうよう会戦に勝ったが、2万を超える死傷者を出していた。
 とぼしい弾薬で前進し、南下するロシアと遼陽・奉天の間の沙河さかで向かい合い、その攻撃に懸命に抵抗した。が、好古の騎兵旅団が左翼から攻撃を加え、およそ2倍の戦力を誇る敵騎兵を破って本軍を助けた。

 好古軍は司令部のあった李大人屯りたいじんとんから沈旦堡ちんたんぽ、奉天の南西の黒溝台こっこうだいまでの約30㎞を守っていた。そして、沈旦堡では激しい攻撃を受けた。これをなんとか守り切り、黒溝台を取り返すことができた。これによって日露の陸戦の勝敗が決したといわれる戦果であった。また、400の騎兵を遠征させてコサック騎兵1万を北部の松花江しょうかこうで身動きできなくさせた。

 乃木希典(のぎまれすけ)大将の第3軍に配され、長春北方の大房身で25000のロシア軍と遭遇したときは、半分以下の兵力で戦い、苦戦しながらも乃木軍を無事に移動させることができた。

柔軟かつ現実的な好古の戦法

  好古はなぜ敗北することがなかったのか。
 まず、コサックの騎兵は、ウクライナ、クリミヤ、チェチェン、オセアニアを征服するときに最前衛で戦った伝統を持つ。戦争馴れして戦い方に磨きがかかっていた。そういう兵が長い槍と銃を持ち、改良を重ねた体格の大きな、しかも大砲の轟音や耳もとの鉄砲の音、火薬の煙や臭いに馴れた能力の高い馬で怒濤のように攻めてくる。

 受けて立つ日本の騎兵隊は、貧弱な体格で、焚火の煙にも怯えて暴れる馬を使っていた。日本には馬の改良などできる金も余裕も発想もなかったのだ。
 つまり、好古は騎兵ではあったが、馬にこだわらなくなった。

 戦況の変化によって馬の機動性を捨て、地形や遮蔽物しゃへいぶつを利用した陣地を作り、迎撃した。そういうときのために火器を充実させておき、集中的に砲撃を加えた。華々しく勝てなくても殲滅せんめつされない、敗北しない。その結果、持ちこたえ、いつか押し返してゆく、そうした戦法を好古はとったのだ。

退役後の好古

  「日本騎兵の父」といわれ、陸軍大将従2位勲1等功2級という極官にまで登りつめた好古は、元帥就任を辞退して松山へ帰り、私立北予中学(松山北高等学校)の校長に就任した。大正13年(1924)4月のことである。そのニュースは全国を驚かせたが、そんなことは歯牙にもかけず、好古は時間厳守で1日も休むことなく学校へ通った。町の人々は敬意をもって馬で登校する好古を見つめたという。

松山北高校玄関の好古像(撮影:泉 秀樹)

 校長を退任して7か月後の昭和5年(1930)、東京・新宿区戸山の陸軍軍医学校で、糖尿病からくる心筋梗塞で没した。享年72歳であった。

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コラムニスト・プロフィール

泉 秀樹いずみ ひでき

昭和18年(1943)静岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒 産経新聞社勤務を経て文筆活動に入る。 同48年(1973)「剥製博物館」で第5回新潮新人賞受賞。 著書は「海の往還記」(中公文庫) ...

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