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今に生きる歴史を動かした男たち 第22回 小栗忠順 -今日の工業・技術大国の礎を築いた最後のサムライ- 

経営・戦略 泉 秀樹 2011年07月11日

小栗忠順(おぐりただまさ))

 文政10年(1827)、旗本であった忠高の子として神田駿河台で生まれる。上野介は官位。若くから才気煥発、33歳にして大老・井伊直弼に命により日米修好通商条約批准のための渡米団に加わり、世界一周の後、帰国。尊皇攘夷の嵐が吹きすさぶなか、弱体化する幕府を支え、設備・組織両面で近代化を推し進めるが、大政奉還によって御役御免。上野国群馬郡権田(ごんだ)村の領地に引きこもるも、新政府軍よりあらぬ疑いをかけられ、慶応4年(1868)賊軍として斬首される。享年42歳。

小栗忠順像

若きサムライ、世界を知る

  小栗上野介忠順は文政10年(1827)に生まれた。
 2500石取りの名門旗本で「御大身」とよばれる家柄である。
 7歳から安積艮斎(あさかごんさい)に漢学を学び、剣は島田虎之助に、柔術は久保田助太郎、砲術は田付主計に師事した。
 12、3歳からタバコをたしなみはじめていた忠順は播州(兵庫県)林田藩主・建部内匠頭政醇(たけべたくみのかみまさあつ)を上屋敷に訪ねたとき、臆したふうもなくキセルでタバコをくゆらせた。
 まだ少年であった忠順が、煙草盆にキセルの雁首を叩きつけて吸殻を出す。すぐに新しいタバコを詰め替えて、火を点ける。その態度物腰が堂に入っていてひどく大人びていたという。また、話すときは聡明な輝きを目に宿しながら、しっかりした口調できちんと論理的に話をしたという。政醇は忠順を気に入って、その後次女を嫁がせている。

 天保14年(1843)3月、17歳の忠順は江戸城に初登城した。
 忠順は幼いころ疱瘡にかかったため満面にアバタがあり、小柄で眼光鋭く、精悍で言語理論明晰、登城の際には駿馬にまたがって、たいへん威勢のいい青年に育っていた。
 翌年、父・忠高が御留守居番になり、翌々年には忠順も「番入り」を許されて切米300俵を下賜される身分となった。
 「番入り」とは旗本の嫡男が御小姓組か御書院番のいずれかに組み込まれることで「於菊之間(おきくのま)縁頬」であった。
 「縁頬」(エンキョウ・エンホホ)とは、畳廊下ではなく、廊下に頬をくっつける者、廊下に平伏して命令を仰ぐ、という身分である。
 そして、安政7年(1860)忠順は日米修好通商条約批准のために大老・井伊直弼に命じられて目付として渡航し、フィラデルフィアで見たアメリカの新聞で桜田門外の変を知った。
 帰国すると、忠順は外国奉行に任命された。
 しかし、文久元年(1861)ロシア軍艦ポサドニックが対馬(長崎県)を占領する事件が起こり、忠順は「見回り」を命ぜられて対馬に渡ったが、交渉に失敗して外国奉行を辞任した。
 このあと忠順は小姓組出頭、勘定奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、勘定奉行勝手方、軍艦奉行とめまぐるしく人事異動させられ、世間では「またまた小栗様のお役替え」「任免七十回」などといわれた。すでに幕府内部が弱体化し、混乱していたからだ。

仏・英の思惑と忠順の見据える未来

  フランス駐日公使レオン・ロッシュとイギリスの駐日公使ハリー・パークスは幕末の日本を舞台に、ことあるごとに火花を散らしたライバルだった。
 ロッシュは物腰柔らかく食い込むタイプだったがパークスは乱暴で強引なタイプで、両国の日本に対する意図とその対応は対照的だった。
 ロッシュはパークスよりも1年ほど先に赴任して、ともすればイギリスに引きずられがちだった前任者ベルクールにかわって、日本外交の主導権をイギリスから奪うために着任したようなものだった。
 着任早々ロッシュは下関戦争(第一次長州征伐)に参加した。元治元年(1864)8月のことで、ひとえにイギリスに対する対抗意識からにほかならなかった。そして、ロッシュはイギリスを公然と誹謗中傷することも辞さなかった。狡猾に自国の利益を追求し、貿易の利益を独占するために、経済援助を幕府に持ちかけた。
 一方のパークスが自由貿易を主張し、幕府が貿易を独占することを雄藩が快く思っていないことを重視していたのとは対照的である。
 忠順の親友であった幕臣・栗本鋤雲(じょうん/瀬兵衛)はフランス人宣教師メルメ・デ・カションと親交があったが、このカションがロッシュの通訳官であったから、幕府権力の強化を目指していた忠順と鋤雲はフランスに急接近していった。
 すでに幕府はフランスを頼っていたから、かねてから海軍の施設をつくるべきことを説いていた忠順の主張はすぐに受け入れられて横須賀製鉄所(造船所・ドック)の建設計画が進められることになった。が、幕府に金がないことを知っていた忠順は、その厳しい財政難を見越してこういった。 

横須賀製鉄所跡(神奈川県横須賀市)
米海軍横須賀基地内にあるため、普段は一般公開されていない。(米海軍横須賀基地協力・横須賀市史編さん室提供)

 「当時の経済は真に所謂(いわゆる)遣繰身上(やりくりしんしょう)にて例え此事(このこと)を起こさざるも、其の財を移して他に供するが如きにあらず。故に、無かるべからざるのドック修船所(しゅうせんじょ)を取り立つるとならば、却て他の冗費を節する口実を得るの益あり。又愈々(いよいよ)出来の上は、旗号に熨斗(のし)を染め出すも、猶(な)ほ土蔵(どぞう)附(つ)き売家の栄誉を残すべし」(『小栗上野介小伝』川崎紫山・福地源一郎)
 たとえ幕府が旗に熨斗を染め出して身売りするときでも、製鉄所があれば土蔵付きの売家だと威張ることもできようよ。現在の幕府財政はまったくの火の車で、この事業をやらないからといって、その分だけ余るというわけではない。だから、どうしても必要なドック修船所を建てるのだといえば、かえって他の冗費を節約する口実にもなるだろうさ、というのである。なかなか腹の据わった財政観である。 

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コラムニスト・プロフィール

泉 秀樹いずみ ひでき

昭和18年(1943)静岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒 産経新聞社勤務を経て文筆活動に入る。 同48年(1973)「剥製博物館」で第5回新潮新人賞受賞。 著書は「海の往還記」(中公文庫) ...

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