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今に生きる歴史を動かした男たち 第23回 山田長政 -400年前、異国の地で王にまでのぼりつめた男-

経営・戦略 泉 秀樹 2011年08月01日

山田長政(やまだながまさ)

 天正18年(1590)生まれ、父・出生地は不詳。母の再嫁先であった駿河国(静岡県)の駿府城下・馬場町で紺屋「津ノ国屋」を経営する山田家で育つ。長じて沼津城主・大久保家に仕えたのち、暹羅(シャム/現在のタイ)のアユタヤに渡り、武勲によってアユタヤ王から取り立てられるが、後継者争いに巻き込まれ、寛永7年(1630)陰謀の内に葬り去られる。享年40歳。

山田長政肖像画(模写)

身長6尺の大男、大海を渡る

 田仁左衛門長政は天正18年(1590)秀吉が相模国(神奈川県)小田原・北条攻めを行った年に生まれた。生誕地は駿河(静岡県)、尾張(愛知県)、伊勢(三重県)説があってはっきりしない。
 母は駿河国・安倍郡富厚里村(静岡県静岡市)の紺屋・寺尾惣太夫の娘で、長政をもうけた夫(詳細不明)とは死別し、駿府城下・馬場町(ばばんちょう)の、実家と同じ紺屋「津ノ国屋」を経営する山田九平次に再嫁した。 

駿府城(静岡県静岡市)

 馬場町は、もとは駿府城外濠の四ッ足門に近い西の角に接していた馬場であったが、やがて賎機山(しずはたやま)・浅間神社(大歳御祖神社)から南へ向かう参道の門前商人町になってにぎわう駿府の市街地の中心地域である。長政が育った「津ノ国屋」は、現在約160軒の商店が立ちならぶ浅間通り商店街(宮ケ崎町・馬場町)のほぼ中央に位置していたといわれる。
 長政は幼少期から母親の連れ子という気兼ねしなければならない立場にあって家庭的にあまり幸福ではなかったからか、長ずるにしたがって乱暴者になっていったようだ。
 そして、駿府で成長した長政は、その体格を生かして沼津・大久保家の「六尺」になった。家康の側近・金地院崇伝(こんちいんすうでん)が書いた『異国日記』に「大久保治右衛門六尺山田仁左衛門」とある。「大久保治右衛門」は有名な旗本・大久保彦左衛門の兄で、沼津城主(2万石)であった。「六尺」(陸尺)という呼称は駕籠かき、槍持ち、雑役夫のことで、身長6尺以上の体格のいい男がこのような仕事に選ばれたことからきており、長政は身長2m近い大男であったことがわかる。
 だが「天性不適の男にて、口論に長け、相手あまた殺害し、今朝に遁(のがる)る可(べ)き地として天竺(てんじく)暹羅(シャム)に渉(わた)り」(『浅間詣』)ともいう。
 多少才幹があり、武技武術の心得もあり、野心家であった長政は、周囲との協調を乱し、人と争い、ある時にはみずからを信長の子孫と称して軍談、兵談など大言壮語し、人殺しまでやっておたずね者、凶状持ちになるなど、簡単にいえばまっとうな社会からはみ出した無頼の輩というところであろう。
 結局、日本からの逃亡を考え、やがて、新天地で一旗あげたいという野望を抱いて、長政はその目を海外に向けた。

 長政の渡航時期とその方法については諸説あるが、ここでは東南アジアに盛んに船を出していた有馬晴信(島原)、あるいは亀井茲矩(これのり/因幡)の朱印船に便乗して慶長13年(1608)前後に18歳くらいでシャムへ渡った説を採っておく。『天竺物語』には「渡天船賃一人前銀五百匁づゝ」とあり、インドまでの船賃が銀2㎏弱であったが、長政はもとより無一文だから、水夫にでも雇ってもらったのだろう。
 慶長13年というと、関ヶ原の合戦後8年ほどであり、大御所として江戸城から駿府に移った66歳の徳川家康が、駿府城だけでなく彦根、伏見、丹波篠山、名古屋などの城の修築・新築を次々と諸大名に命じていた。家康は近臣と謀って諸大名の経済力を削り落とし、秀吉以来の黄金をかかえこんでいる豊臣秀頼・淀君を中心とする大坂方との対決に万全を期そうとしていた時期であった。
 従って、長政が台湾、カンボジア経由で到着したシャムは、アユタヤ王朝の後期初頭にあたり、21代エーカトットサラート王の治世下にあったが、この王に対して家康は長政が渡航する前の慶長11年(1606)に書簡と鎧・太刀を贈って伽羅(きゃら/香木)と最新型の鉄砲、塩硝(火薬)を手に入れるために商船の来航を要請していた。 

国際都市で頭角をあらわす

アユタヤ王宮跡(タイ・アユタヤ)
かつて栄華を極めた都も今では遺跡として静まりかえっている。

 バンコクからチャオ・プラヤ川(メナム川)を北へ80キロほどさかのぼったタイ最大の穀倉地帯の中心に位置するアユタヤの町は、本流とパーサック川とロップリー川の合流点にある島とでも呼ぶべき要衝の沖積層上にあり、高いレンガの城壁に囲まれていた。
 かつて36人の王が417年(1350~1767)にわたって君臨したアユタヤ王朝の都で、約20万の仏教徒が住む城壁の内側には、城外を流れる3本の川に通じる農業用水用の溝渠(クリーク)を兼ねた運河が道と並行して葉脈のように四通八達していた。いまでもところどころに残る煉瓦の城壁や仏塔に南国の豊かな緑が濃い影を映し、当時の栄華の気配を今に伝えている。
 折から日本では石見銀山(島根県・世界遺産)の産銀量が飛躍的に増大した時期にあたり、世界に流通していた銀の30~40%が石見産で、当時の国際経済にインフレを引きおこしたといわれるほどであったから、朱印船はさまざまなものを買い漁った。富裕な日本人は東南アジア南中国一帯で武具や着衣に使用する鹿、水牛、鮫の皮や生糸、絹織物、船、砂糖、硝石、香木などを、現地の品物が底をついてしまうほど徹底的に買い集めていた。加えて造船・航海技術の先進国であったポルトガル、オランダ、スペイン、イギリスなどがキリスト教の布教熱、植民地主義とあいまって世界の海に進出し、大航海時代の真っ只中にあったから、東南アジアには沸騰するように各国の利権が入り乱れていた。
 こうした状況にあって、シャムにおける貿易は、アユタヤの日本人町(ヨーロッパ人はCampoとかSettlementと呼んでいた)を中心に行われていた。日本人町はアユタヤの城市の東南郊外に位置しており、アユタヤ王室の日本人に対する意識がかなり冷たい警戒心に固められていることをうかがわせるが、チャオ・プラヤ川の東岸に沿う約3万6000~4万坪(11万9000~13万2000m2)というさほど広くもない雨季には氾濫原になる低地に住んでいた日本人は、緊急時に傭兵として戦場へ赴くと同時に、貿易のために懸命に働いていたのである。
 現地における買付け、集荷、船への積みおろし、乗組員の手配や世話や商品の売買に関する仲介、斡旋、通訳などを行い、全盛期には1000~1500名が住んでいたといわれる日本人町は、アユタヤ王に任命された「頭領」(オンプラ)が統率支配していた。 
 頭領は初代・オークプラ純廣(すみひろ/オークプラは伯爵の意)、2代・津田又右衛門、3代・城井久右衛門、そして山田長政が4代であり、これを日本の幕府は「仕置(しおき)」と呼んだのである。さきの金地院崇伝の『異国日記』には長政が「暹羅(シャム)へ渡り有付(ありにつき)、今は暹羅の仕置を仕候由也(つかまつりそうろうよしなり)」と記されている。シャムで「仕置」つまり、統率者の地位にあったと。
 長政はまずはアユタヤ日本人町の初代頭領・オークプラ純廣のもとで、商品倉庫の武装自警団の1人として働きはじめ、その後、軍事訓練を受けたり、仲買人として皮革の集荷、売買にたずさわったりしているうちに次第に頭角をあらわしていった。 

アユタヤの古地図(部分)
日本人町はアユタヤの城壁の外、36と記させた位置にあった。舟運が盛んな、繁栄をうかがわせる地図である。左は日本人町部分の拡大。

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コラムニスト・プロフィール

泉 秀樹いずみ ひでき

昭和18年(1943)静岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒 産経新聞社勤務を経て文筆活動に入る。 同48年(1973)「剥製博物館」で第5回新潮新人賞受賞。 著書は「海の往還記」(中公文庫) ...

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