第21回
石橋正二郎のタイヤ製造物語 〜
気は長く持つが、行う時は果断に〜
ブリヂストンタイヤ株式会社(現株式会社ブリヂストン)創業者 石橋正二郎氏

日本で初めて国産タイヤが誕生したのは1930(昭和5)年4月9日、福岡県久留米市の地下足袋工場の片隅だった。地下足袋からタイヤ、一足飛びの飛躍に踏み切ったのが、日本足袋社長の石橋正二郎。足袋の裏にゴムを貼り付けるという斬新なアイデアで地下足袋を考案し、大ヒットを飛ばした。そんな石橋がゴムをキーワードに目をつけたのが自動車タイヤ。当時日本の自動車はわずか4〜5万台。その足はグッドイヤー、ミシュラン、ダンロップ等の外国勢だった。将来自動車が街に溢れると読んだ石橋は、周囲の反対を押し切った。
石橋は、1889(明治22)年、久留米市で仕立物屋「志まや」の次男として生まれた。父から、兄と一緒に店を継いで欲しいといわれ、進学を断念、久留米商業学校卒業とともに店に入った。
"やるからに大きく事業を発展させ、世のためになって世界にはばたきたい"、と弱冠17歳の経営者石橋は、新しいアイデアを積極的に取り入れていった。1918(大正7)年には「地下足袋」の大当たりにより、「志まや」を発展させた日本足袋株式会社は、足袋4大メーカーの一つに数えられるまでになる。
しかし、新しい素材、ゴムを取り入れた時、石橋の目は足袋というワクから踏み出し世界に向いていた。その答えが自動車タイヤだった。試作品が完成した翌1931(昭和6)年には、"石橋"をもじってブリヂストンタイヤを設立、久留米に工場を建設し本格的な生産を開始する。なお兄は日本足袋の経営に専念、戦後も事業を拡大させた。
だが、輸入品に負けないタイヤを造るのは難しかった。倒産を覚悟しながら軌道にのるまでに5年、中国やアジアに進出し始めたころ、戦争が激しくなり、民間向けのタイヤを作ることが許されなくなっていた。軍需品に専念させられた。そして終戦、再び世界を目指そうと考えた石橋の前に、今度は世界との技術力の格差が立ちはだかる。それがレーヨンコードという新技術。ひるむ技術者を叱咤激励し国内他社に先駆けてレーヨンコードを導入したことが、さらにナイロンタイヤ、スチールラジアルタイヤとブリヂストンのタイヤを世界に認めさせる花形商品の開発に繋がっていった。
(2003年3月3日公開)











