第16回
山野愛子の美容事業展開物語 〜
技術を公開、裾野を広げて事業の発展〜
ヤマノグループ創始者 山野 愛子 氏

明治も末の40年(1907)と42年(1909)、日本で最も有名な2人の美容師が生まれた。1人は95歳の今日でも現役の吉行あぐり、もう1人は2歳年下の山野愛子。2人はその後対象的な人生を歩む。吉行は小説家の妻となり、また小説家と女優・詩人の母としてTVドラマにまで登場する。一方、山野愛子は山野美容高等学校や山野愛子美容室をはじめとする美のコングロマリットを作り上げ、美容界をリードする。
東京向島で育った勝気な少女が自立を目指して髪結の世界に飛び込んだのは16歳の時、昭和の初め、まだ美容師が"髪結さん"と呼ばれていた時代だった。山野愛子の父は糸屋の主人だったが、遊び好きが嵩じて店を手放すことになり、その後は母が向島で西洋料理屋「茶目軒」を開業、一家を支えた。常日頃、男に頼らず独り立ちしなければ、と母親から繰り返し言われ、それが頭にこびりついていた。
1925(大正14)年、16歳の愛子は、半年間の速成の髪結修行のあと、向島に「御髪結・松の家」を開業した。それは髪結所とは名ばかりの「茶目軒」の片隅に鏡台を1台据えた3畳ばかりの広さだった。しかし若さにまかせたガムシャラな働きが報われ、2号店出店にこぎつけたが、そこで伸びは止まった。最初の試練の中で、もがく愛子はこう考えた。いくら繁盛しているといっても限られた人の手で頭をいじっているのではタカが知れている。その解決策は、人に働いてもらう、つまり愛子の技術を売ることだった。それまでのような徒弟修業ではなく、もっと大規模な講習所を作り美容師を育てていく。それが山野愛子の名前を全国に広めていく、そうすれば美容室にも客が増える。こうしてパーマネント機械の製造、高級店や大衆店の出店など、愛子の多角化戦略は始まった。
(2002年11月25日公開)









