第13回
川上嘉市の会社再建物語
〜ぬるま湯から飛び出す気力を〜
日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)元社長 川上 嘉市氏

浜松から世界に飛躍したヤマハは、1888(明治21)年、山葉寅楠によって設立された。まずオルガンを手掛け、次にピアノに進出。1900(明治33)年にはアップライトピアノを、翌々年にはグランドピアノを世に送り出す。
大正時代に入ると、ハーモニカ、木琴などの製造にも乗り出し、学校教育の進展にも乗り、事業は拡大の一途をたどった。山葉の後を継いだ2代目の天野千代丸は、釧路工場の建設、西川楽器の吸収合併、中国への進出など拡大路線をひた走った。これといった競合相手も国内にはなく、輸入品は逆に高価すぎて競合しないという"ぬるま湯"が続いた。
しかし、修羅場を知らない企業はもろい。1922(大正11)年、不慮の事故で本社の工場が一部焼失、翌年には関東大震災で東京支店、横浜工場が倒壊した。1926(大正15)年には、100日におよぶストライキを中心とした大規模な労使紛争まで起き、倒産寸前まで追い込まれた。
放漫経営に慣れきった重役からは対策らしい対策は出ず、ついに改革派の役員が主張した社外の人間に再建を託すことを受け入れざるを得なかった。翌1927(昭和2)年1月、浜松出身で住友電線製造所(住友電工の前身)の若き取締役であった川上嘉市に白羽の矢が立った。
東大工学部を主席で卒業後、東京ガスを経て住友電線に入社した川上は、ヨーロッパへの2年間の留学も経験し、住友電線の将来を担う若手ホープとされていた。また、新聞・雑誌等にも知識人としてたびたび登場していた。42歳であった川上は社長就任の要請に戸惑った。家族、親戚は、火の中に薪を背負って入るに等しい、と皆反対。しかし浜松から生まれた日本最大の洋楽器メーカーの再建は国家的使命、と考えた川上は引き受ける決断を下す。"普通の会社"に戻せばヤマハは立ち直る、という確信を胸に川上は家族を残し1人何年かぶりの浜松に向かった。
(2002年10月15日公開)











