− 第11回 −
人は、なぜ情報発信するのか。
発信される情報の種類
ところで、そもそも生活者や企業としての法人がWebで発信する「情報」には、どのようなものがあるのだろうか。図表2は、筆者が「情報発信者は情報と引き換えに対価が得られるものだ」という立場に立って、Webにおける情報の種類を整理したものである。
営利企業が発信主体となっている情報は[1]〜[3]のいずれかに分類される。自社サイト内のコンテンツや自社サイトに誘導するためのバナー広告、ダイレクトレスポンスを目的とした通信販売広告は、いうまでもなく宣伝をその内容としているため「広告([1])」に分類できる。情報発信者である企業は、直接的に資料請求数の増加や売上高の向上を目的としている場合もあれば、自社の知名度や商品認知率の向上を通して間接的に売上向上を目指している場合もあるが、後者の目に見えない非物質的な価値を高めることを目的として、企業はしばしば知識やノウハウといった情報を顧客に向けて発信することがある。筆者はこれを「情報資源([2])」としている。新聞データベースや映画や音楽などのいわゆる「コンテンツ([3])」は、直接的にカネを生む(消費者が購入する)「商品」となりやすい。いずれにしても営利企業が発信を行う際には、直接的であれ間接的であれ、発信のコストに見合うだけの経済的対価が必要となる。
一方、生活者が発信主体となる情報は、[4]〜[6]のように分類できる。インターネット上の掲示板やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)への投稿、あるいはトラックバック機能をオンにして投稿されたブログ記事の内容を見ると、挨拶を交わす、意見を求める、質問をするといったよう内容がほとんどであり、通常発信者は読み手からのレスポンスを期待している。つまり、情報発信者はコミュニケーションを目的として「対話([4])」をしているのだ。しかし、生活者自身が主催しているホームページやブログには、情報発信の対価として読み手からの返信や返答といったような直接目に見えるレスポンスを目的としていない内容の情報が多数見受けられる。これを筆者は「モノローグ([5])」と「クチコミ([6])」に分けて分類している。モノローグやクチコミは、一見すると他者からの対価を求めない無償の行為に見えるが、実は相手からの「感謝やお礼」を期待していたり、「評判や名声」などを得たいと思っているとも考えられるだろう。あるいは、本人が意識しているかどうかにかかわらず、発話は「他者の共感」を得たいという心の現われであったり、結果として共感は得られなかったとしても、発話によって「自己の満足感」が高まったりストレスが発散されたりという経験が読者である皆さんにもきっとあるのではなかろうか。
【図表2】Webで発信される「情報」の種類と内容

情報は交換されるのか、贈与されるのか
今度は逆に「対価を求めない発信」があるかどうかについて考えてみたい。ここでは「交換」と「贈与」という概念を取り上げ論をすすめよう。
「交換」とは、希少性のある財を手に入れるための方法であり、人間の欲望や欠乏により生まれた行為であると考えられている。稀少な財は「交換」によって再配分が行われことになるが、希少な財であればあるほど通常その財の経済的価値は高まる。
一方「贈与」とは、「希少性」ではなく「過剰」がもたらす行為であると考えられており、それは物質的な欠乏があまり起きない社会で生じるとされている。実際に、穏和な気候と豊富な食料を持った経済圏の原住民の間には「贈与文化」が顕著に見られることがこれまでの文化人類学の知見より明らかになっている。
そこで、情報は交換されているのか、贈与されているのかといった観点で人々の情報発信という行為について考えてみると、もし生活者自身に対価を要求する意図が全くない場合には、本人が意図するかしないかに関わらず、そもそも情報は「交換」の対象ではなく「贈与」される対象として位置づけられる(但し、情報提供に見合うだけの対価を得たいと思っているにも関わらず、実際に対価が得られないことを生活者自身が不満を持っているような場合はこのケースに含めない)。すなわち、生活者が対価を求めない情報発信というものがあるとすれば、それは「贈与」として位置づけられる。
贈与は余剰のある者だけが行うのかといえば、ある面では確かにその通りであろう。寄付や社会貢献といったリアル社会での経済的贈与の背後には先立つ経済的余裕がなければならないし、インターネットユーザーによる無償の情報提供で成り立っている「ウィキペディア」のようなサイトは(ここでは経済的対価を求めないという意味)、書き手の「知識や労力や時間」の贈与の上に成り立っているのだ。「互酬の精神(持ちつ持たれつ)」や「遊びの文脈」の上で成り立っている情報発信の根底にも、結局は資源(労力や時間を含む)の余剰が必要だといえる。










