− 第7回 −
自己分析の危うさ (2007年5月14日掲載)
ご存じのように、最近は大学3年生から就職活動に追われることになる。25年ほど前私が大学生だった頃は4年生の10月1日から就職活動解禁となっており、その日は早朝からスーツ姿の4年生たちが会社の前に行列を作るというのが毎年の風景であった。こうした時代から比べるとあまりの違いに愕然とする。
ところで、就職を一所懸命考える人たちほど、「自分にあった職業」、「自分に向く職種」というものへのこだわりが強い。
こうなると「いったい自分とは何ぞや」という話になり、自己分析ということになる。また大学の就職部や、企業の方でも「自己分析」なるものを学生に課し、「自分がいかなる人間なのか」をとうとうと語れるようになることを求めている。
しかしこの問題は難しすぎる。私は四捨五入すれば50になる年だが、いまだにさっぱり自分というものがわからない。
こういう実感は私だけではないはずだ。孔子ですら50にして天命を知ったのだ。凡人が22、23歳で自分を知れるはずがない。もっと言えば、「僕はそもそも・・・という人間だから」などと話す人間には、言いようのない浅薄さを感じるのは私だけではないだろう。
そもそも自己分析という行為は、「自己」というもの自体についての誤った認識も含んでいる。最近、認知科学では、関係論や社会構成論という観点から自己というものを問い直す動きが出ている。簡単にいうと、これは自分の性格や行為を周りとの関係の中で捉えていこうとする立場だ。
たとえば、ある学生が今までの経験から「自分は根性がある」と思っていたとしよう。そして、それが評価されて入社したとする。しかしそうした特性を評価するような会社には、ほかにも根性のある人がたくさんいることになる。すると彼の根性は目立たなくなってしまう。むろんその逆もありだ。
自己というものは一生変化し続ける。人は周りの人たちとの関係の中で、今までの自己を失ったり、新しい自己を作り出したり、見つけたりしながら、成長していくのだ。若者たちが自己分析を通して自己を安易に「発見」してしまい、自己を築き上げるのをやめてしまうようなことだけは避けねばならない。
挿絵/山本 正明










