神経学的マイノリティについて
前のエントリーに出て来た、自閉圏とか神経学的マイノリティについて、ちょっと書いておこう。
自閉圏の人とは、広汎性発達障害(PDD)とか、アスペルガーとか、高機能自閉とかいう名前で分類される人たちのことをいう。
ADHD(注意欠陥・多動障害)やLD(学習障害)の人も含めて、軽度発達障害と呼ばれることもあるし、オレ的には神経学的マイノリティと言う事が多いかな。
それは、こういう人たちが、治療対象にすべき「病気」ではないからで、だから一般的な用語である自閉症という言葉もほとんど使わないようにしているし、障害という言葉もなんかきつい感じがするのよねん。
これらの言葉は厳密に定義できるものではないし、ほとんど気まぐれと言っても良い診断基準の変更によって、内容が変化したりもする。
診断名とは、現実的には、社会生活をする上で不都合が多い人が、なんらかの援助をうけうるときに必要なものにすぎないという側面が大きい。
また、これは軽度発達障害全体に言えることだけど、一つの診断名でまとめられる人たちが、同じ原因で、同じ神経学回路の不具合を抱えているわけでもない。
現代の精神医学の診断基準は、見かけ上、これとこれとこの症状が揃っているから、この疾患というやり方で、内部メカニズムについては全くと言って良いほど考慮していない。
なぜなら、それはわからないから。だから、同じ診断名を持つ人でも、原因が全く違うことは大いにあり得るし、それを示唆する研究も多数ある。
自閉症スペクトラムという言葉があって、これは自閉症の人は非常に個性が強くて、一言で言い表せるような物ではなく、スペクトルのように広がっているというような意味だ。これはまあその通りだけど、これだけでは不十分だと思う。
なぜなら、そのスペクトルは、自閉症という特別な人たちの中にだけあるのではなくて、神経学的多数派の人たちまでずっと連続しているからだ。また、これは軽度発達障害という人たち全体についても同じだ。
診断されていなくても、自閉圏の特徴を備えた人は社会の中にたくさんいる。
学者には多いし、クリエイティブな人、おたく系の人にも多い。
それらの人は、人付き合いについてなんらかの不都合を感じながら、まあしかし、人生ってこんなものかと思いつつ、どうにかこうにか日常を過ごしている。
神経学的マイノリティの特徴は、色盲の人とか左利きの人にたとえることができる。
色盲というのも実は色々なタイプがあるのだけど、ある人は緑と赤の区別がつきにくい。ところが、ベージュ色系の微妙な違いは、一般人より遙かに詳細に区別が付けられる。色の区別が全くつかないタイプの人は、カモフラージュされた戦車などを容易に見つけられるので、第二次大戦中はそのような任務に就いた人もいたらしい。
ただ、それらの人も、多数派の一般人の中では、色々と生きづらい部分がある。
たとえば、LEDの信号の赤と緑は、当初は色盲の人には見分けがつかなかった。
LEDの単色光だと、彼らには全く区別ができないのね。そこで今では、微妙に波長のちがうLEDを混ぜて、マイノリティの人にも見やすくしている。
これはつまり、マジョリティの人には、マイノリティの人がそんな不便を被っているなんて、ほとんど想像外で、気づきにくいということでもある。
左利きの人の不便は、左手でハサミを使ってみると真っ直ぐ切れないことでわかるけど、普通はなかなか気づかない。でも、そういう一見小さな不便の影響のせいか、左利きの人の平均寿命は、右利きの人より短いらしい。
それと同様に、神経学的マイノリティの人も、神経学的な機能が障害されていて、なにかがわからない。なにかができない。そのために、マジョリティの人にはなかなか気づけない不便を被っている。
また、神経学的なマイノリティの当事者も、自分は、なんでみんながわかることがわからないのだろうか、できることができないのだろうかと、悩む事が多い。
また、どちらかというと神経学的多数派に入る人も、こどものころは少数派的な特徴をある程度持っているのが普通で、幼い頃は両者の区別はあまりつかない。
マイノリティもマジョリティと同じように、年齢を重ねれば成長するので、弱点を補って目立たなくする方法を身につけていくことが多い。
それは、大人になってから英語を身につけるのに似ている。発音はネイティブに及ばないかも知れないし、ニュアンスを伝えるのも難しいだろうけど、だいたいの用は足りるようになることはできる。
神経学的マイノリティの中でも、自閉圏の人は、他者の心を読むのが不得意な人が多い。また、とくに抽象的な言葉だと、同じ言葉が、同じ意味を表さないことも多い。
たとえば、火星の人類学者といわれるテンプル・グランディンは、自分を動物行動学者といっていて、アメリカの大半の大手ファーストフード・チェーン(マクドナルドとか)の食肉工場の設計をしている。
彼女は人の心は直感的に理解できないが、動物の心を理解することはできて、動物たちがおびえずに屠畜されるように「人道的」な食肉加工工場を設計できる。企業にとっては、従来の工場のように、突然家畜が暴れ出して手こずる事が無くなって、非常に都合が良いので、彼女の設計が全米で採用されるワケね。
ここで、彼女のいう「人道的」な屠畜という言葉に、多数派の人はなにか奇妙な感じを持ったんじゃないかと思う。殺生するのに人道的なんて、なんかヘンじゃない?ってね。
でも、彼女はたぶん、皮肉でもなんでもなく、心底そうだと信じていると思う。こういう言葉の感覚のずれが、自閉圏の人にはある。
これはオレ様理論だけど、おそらく自閉圏の人は、発達段階の非常に早い段階で、多数派の人には容易にできる、親子が同じものに注意を向けるメカニズム(共同注意)が障害されていた結果、起きてくる物ではないかと思う。
言語の学習や、心の理論の理解(空気を読む力)は、親子が同じものに注意しながら、何万回何千万回のやりとりのループのなかで、徐々に発達するもののはずだ。そのループが初期にうまくできないことが、マイノリティを形作る。
もちろん、そういう共同注意的なしくみは一通りではなく、多数あって、その障害のされ方、発達の進み具合の順序パターン、原因もいろいろあり得る。
ただ、結果として、多数派なら自然に、この言葉はこれだよね、この行為はこれだよね、という合意ができるところにずれが生じる。
このずれは、人付き合いをするときには、相手から誤解されることもあるし、自分が相手を誤解してしまう原因にもなる。
ただ、それはユニークな発想にも繋がる。グラハム・ベルや、チューリングやニコラ・テスラは、伝記を読むとあきらかに自閉圏の人で、ネットワークやコンピュータや電力は、彼らの多数派の人が思いもしない発想から生まれてきたものだ。
多数派の人は、とかく人の気持ちがわからないのはダメだと言いがちだけど、空気が読めてしまうがために、無意識になにかに盲いてしまうことも多々ある。
たとえば、コロンブスの卵の逸話では、誰もが空気を読んでしまい、卵を割って立てるというアイデアに到達できない。それはしちゃいけないんじゃないのという、無意識のしばりがあるわけね。
神経学的マイノリティの人は、自分がそうだという自覚をもっていたほうが、生きるのは楽になる。
なんでみんながわかること、できることができないのか思い悩んでいるのは辛いけど、自分の弱点はこれのせいかと理解できれば、それを補う方法を自分で工夫する勇気がわいてくるからね。
まわりの人も、その人が神経学的マイノリティであることを理解していると、この人には、こういう言い方だと理解しにくいかなとか工夫できて、あらぬ誤解を生まなくてすんだりする。
アスペルガーの翻訳者、ニキ・リンコさんの著作を読むと、へえー、こういう事がわからないのかと、いろいろわかって面白い。おすすめ。
ちなみにオレはADHDで、30年遅く産まれていたら、確実にそう診断されてた。
今でも、オレは非常に落ち着きが無くて、オレを知っている人なら、オレがいつもくねくねしているのをごらんになっていると思うけど、オレにはその意識が全くないのだ。じっとしてないから、講演とか聴いていると、時々隣の知らない人に怒られちゃうんだよね、今でも。(´・ω・`)
まあしかし、それがオレなのだ。そのくねくねがオレなのだ。
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「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を読んで
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(早川書房)
マーク・ハッドン著 小尾芙佐訳
自閉圏の少年が書いた小説という体裁をとったミステリー。
はじめは、早川の児童書シリーズで出ていたらしいけど知らなかった。
で、去年出た新装版で読んだ。面白くてすごく読みやすい。かなりお薦め。
主人公の少年は、ある晩、向かいの家の庭で、農業用のフォークで串刺しにされた犬に遭遇する。おもわずその犬を抱き上げ、血まみれになった彼は、はじめはその犯人と誤解され、かけつけた警官を殴った(合理的な理由がある)ことで補導されてしまう。
少年には、多数派の人には自明なことでも、わからない事がある。
多数派の人にとっては、そんなことがわからないなんてことが、あり得ると思うことすらできないようなことが、わからなかったりする。
しかし、それとは逆に、多数派の人がまず気づかないようなことを、敏感に察知することもある。それも、多数派の想像を遙かに超えた事柄について。
そんな彼が、この事件を契機に、犬を殺した犯人を見つける決意をし、それを養護学校の先生の薦めもあってミステリー小説のスタイルでまとめはじめる。そして、驚くべき謎が解き明かされていく……。
著者は、自閉圏の人と働いた経験がある神経学的多数派(健常者)なんだけど、自閉圏の人の推定できる内面を、とてもリアルに描いている。
もちろん、他者の内面なんてホントのことは解るわけはない。
ましてや神経学的マジョリティの人に、神経学的マイノリティの内面がわかるわけないといえばその通りなんだけど、まあカタいことはいいっこなし。
読んでいくと、自閉圏の人は、確かにこういう感じだなあと思えることの連続だ。
自閉圏の人は、多数派から見ると、しばしば理解しがたい振る舞いをしたり、言動を行ったりする。理由のわからないことにものすごく頑固にこだわったり、
多くの場合、それはとても厄介だと認識される。
しかし、それは、その人の内部では、きちんとした理由があって、その人なりの論理的な振る舞いなのね。ほとんどの場合、意味なく強情なわけではない。
多数派の人が抱くいちばん大きな誤解は、そういう振る舞いをしているときの自閉圏の人が、感情的に、自分を困らせてやろうと思っているに違いないと思うことだ。
でも、実際には、そんな意図は全くない。
たとえばこの少年は、黄色のものと茶色のものが嫌いで絶対に触らない。
一方、赤と銀色が好きなので、カレーを食べるときは赤い色素で真っ赤にしてから食べたりする。黄色い車を5台連続で見てしまうと、それは最悪の日なので、誰がなんと言おうと部屋から外に出ない。(それらの理由は他の人には語らない(理由を説明すればわかって貰えるという発想もない)ので、両親はじめまわりの人は何故外に出ないかわからず、困り果てたりする)
この物語を読むと、逆説的だけど、他者の内面を理性的に理解することが、他者とよりよくつきあうためのコツのひとつかなという感じがする。
それはたぶん、多数派の人同士でも同じなのね。
あまりにも手強い、ワケのわからない人の内面にも、その人なりの理由がある。それはなんだろうと考えることができれば、そういう人とよりよくつきあうための入り口になる。
相手にイヤなことを言われたりされたりしたとき、反射的に怒るのではなく、いや、反射的に怒るのはしょうがないとしても、しばらく時間をおいて自分の気持ちが静まってきたら、そういうところに目を向けてみる。いつまでも、自分の一時の情緒の高ぶりにとらわれて、相手が悪いと決めつけていては、解決の糸口はみつからない。
もちろんそれはメチャクチャ大変なことなので、誰彼かまわずそういう態度で挑むのはしんどすぎるわけだけど、家族とか、どうしてもつきあわなきゃいけない人とかの場合は、それを試みてみても良いんでないかなあ。
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ころばない犬
ボストンダイナミクス社のBigDogというロボットがある。
まずはyoutubeのビデオを見てみてね。
これを見ると、そのすごさは一目瞭然。
たぶんロボットという物に対する、イメージが大きく変わるんじゃないかな。
何故このロボットは、これほど生き物っぽいのか。
その仕組みについては、robot watchに記事を書いていので、良かったら読んでみてね。
鹿野 司の「人生いろいろ、ロボットもいろいろ」-BigDogの秘密にせまる-
記事の中では書いていないけど、BigDogとアシモの違いは
アシモは原理的にミリ単位以下の正確さで動ける。
指示した場所にぴたりと止まることができる。
ただし、外乱には凄く弱い。
BigDogには、正確な動きは無理。
しかし、よたよたしながらでも、どんな条件でも動ける。
BigDogは外乱をものともしない。
アシモは量産可能。
BigDogは個性的な存在。
アシモのような、王道的なロボットは、量産して同じプログラムを与えれば、その通りに動く。
でも、BigDogは、たくさん作った場合、きちんと歩けるようになるには個々の体をどう使いこなすか、ある程度学習の時間が必要だと思う。(予想だけど)
どんなに高精度の量産技術をもってしても、100%同じ物を作ることは不可能で、ギアの微妙な遊びの違いとか、関節の硬さとか、小さな違いは無数にある。
つまり、個々の肉体の特性は違うワケで、それを物理的な現実の世界の中で動かして学ばないと、あれほど凄い動きはできないんじゃないかな。
ただ、あらかじめ、どのていどのものが組み込めて、どの程度が学習に頼らなければいけないかは、わからない。ものすごく学習が必要となると、一点物みたいになっちゃうけど、最初からあるていど歩けて、それを学習で選りすぐれた物にできるという程度なら、工業製品として使えるだろう。
産まれたばかりの馬や牛は、わりとすぐに立って歩けるけど、最初はやっぱりふらふらだ。でも、成長に伴って、より速い走り方や、より複雑な地形への対応などを学んでいくのだろう。
そんなかんじで、産まれたBigDogを、しばらく牧場みたいなところで訓練すると立派に成長して、役に立つようになるとかね。でも、その場合、個性も出てくるはずで、このBigDogは足が速くて優秀だけど、こちらBigDogはちょっと怠け癖があるねとか。
あと、アーリーバージョンも見とく価値ありよ( ・∀・ )
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憲法を攻撃的に使う
ほぼ同じ内容の話を今発売中のSFマガジンに書いているけど、憲法記念日も近かったことだしブログにも載せておく。ちなみにSFマガジンのほうには、SFファン向けにコードウェイナー・スミスの話も
文科省が新指導要領に愛国心養成を追加したらしい。
愛国心養成は大賛成だ。
ただし、その愛国心とは現代の日本にふさわしいものでなければらない。
古くさいナショナリズムみたいなものを今さら教える必要もないしね。
日本は、日本国憲法で律せられた民主主義国家だ。
だから愛国心養成とは、日本国憲法の理念を骨身に染みこませることであるはず。
憲法を知らないなんて非国民は赦されない。
日本国憲法は、キチガイ憲法だ。
アメリカの純粋な若者たちが、自国の憲法よりも遙かに理想に近い理念(カント哲学)を文書化し、その心意気に日本の憲法学者たちが共感してできあがったのが、今の日本国憲法だ。
女性に関する権利とかは、当時のアメリカより進んでいたしね。
これは、スター・トレック・ネクストジェネレーションの「艦隊の誓い」に匹敵するリベラルで空想的な憲法で、このようなものがこの世に存在し得たのは、奇跡としか言いようがない。
そしてキチガイほど強力な武器はない。
バカとハサミは使いよう。使いこなせば武器となる。
憲法を立てに、やりたくないことはやらないと主張したり、これを世界でやるべきと主張できる。その奇抜さは、他国の頭をしばし白くさせ、それに乗じて日本は国益を確保できる。
あんな小国の北朝鮮が、国際政治の中で、なんだかんだ言って自分の思い通りの利益をあげていくのは、そのふるまいに、他国の想像を超えた常軌を逸したところがあるからだ。
そのキチガイっぷりが武器になっているのだ。
しかし、これをやるには、高度な外交力、優れた交渉力、深い人間知をを持つ人材が、非常にたくさん必要になる。
日本国憲法では、国際紛争を解決する手段としての軍事力を放棄している。つまり日本は、軍事によらない力で、国際紛争を解決する強靱なシステムを持つべきと、憲法に書かれているわけだ。
それを具体化するには、まず有能な外交官の育成が必要だろう。
自民党政府は、ミサイル防衛のために、これから毎年最低2000億円以上の予算を計上していくつもりらしい。その金額はどんどん増え続け、何十兆とか凄い金額になるといわれる。まあ、そもそもミサイル防衛ってのは青天井なので、そうなっても不思議はない。
一方、一人の有能な外交官を育てるのに、一年1億円を20年かけるとして20億。2000億なら100人が育てられ、20年後には2000人の有能な人材ができている。
2000人ではちょっと少ないか。20兆円なら10万人育てられるけどね。
現実には、これよりもうんと安い金額で教育は可能だろう。
空想的だと思う人もいるだろうけど、オレに言わせればミサイル防衛が防衛に役に立つとかいうアイデアも、それ以上に空想なのね。
ただし、この人材育生には注意が必要だ。
彼らは古い意味でのエリートであってはならない。
エリートは、明治以降、しばしば日本をミスリードした元凶だからだ。
将来、政府の中枢に入っていくようなエリートは、金持ちや教育に金をかける家庭出身者が多く、高校大学へと進むうちに選抜され、非常に均質な、同じような世界観の人たちに純化されてしまう。
彼らは、語り合う友も同じような人たちで閉じて、他の世界観を理解できなくなる。
最悪なのは、自分たちのような考えを持たぬ者は、劣っている、理解力がないと考えてしまうことだ。
高級官僚たちは、たぶん一般の人が想像するより遙かに賢い。オレも若い頃、彼らを取材して、こんなに頭の良いやつ見たことねーって感嘆したことが何度もある。
彼らが今ある地位に選抜されたのは、伊達じゃない。
しかし、オレも長じてわかってきたけど、彼らはやはり理念の世界に生きていて、現実からは解離する傾向がある。
大局観はすばらしいけど、現実をその方向に動かすために必要なことに対する想像力が乏しい。
それは、エリートの宿命だ。
その理想を実現するには、どろどろした現実と折り合いを付けないといけないのだけど、そのことに思い及ばない。取るに足らないことだと誤解する。
彼らの作る制度が、しばしば現場に大きなしわ寄せを課したりするのはそのせいだ。大日本帝国の軍事官僚たちが、今の目で見て常軌を逸した愚かな判断を下していったのも、そのせいだ。
そのことについて、彼らを責めてもしょうがない。
人とは弱い存在なので、そのように選抜されれば、そのようになるのはやむを得ない。
だから、これからは、そんな欠点を生まないような選抜法やカリキュラムを深く考えて作る必要がある。彼らを知的エリートではなく、人間的に深みのある人物に育てなければならない。
外交の本質は、相手の文化を深く知ることだ。
相手文化の独自性を心から愛し、決して低く見ないことだ。
自分の文化を深く愛してくれるものに対して、人は悪い思いを抱かない。
相手の文化を深く理解するすることは、交渉において、押しどころや引きどころをつかむ基礎知識となる。
これをするには、大小を問わず、世界の全ての国の学校に人材を送り出し、若いときから相手国の将来を担う人と交流させるのが良いだろう。
また、世界のあらゆる国から優れた人材に日本に留学して貰い、日本の学生たちの中で育って貰うことだ。
また、異文化をおもしろがり、理解し、決して見下さない態度は、全国民に養われる必要がある。
もともと日本には、外国からくる珍しいものを、かっこいいと思う民族性がある。
明治以降、舶来かぶれのえらい人たちが、東洋を見下し西洋を持ち上げるいびつな物の見方を普及させたのは残念だけど、それはこれからでも修正し、本来の姿に戻すことができるはずだ。
東洋もイスラムもアフリカもスラブも、ありとあらゆる異文化はそれぞれ面白いし尊敬に値する。
その態度が国内に満ちれば、日本に滞在する外人も、日本により深い理解と共感を示してくれる可能性が増すだろう。
また、海外の平和、教育、医療などに従事するNPO、NGOなどに対する援助を増やしたり、そういう活動に従事することのすばらしさを、全ての人の教育課程で繰り返し教えるのも良いだろう。
その結果、実におめでたい人たちが、世界の隅々まで出かけていって、いっぱい良いことしちゃうようになる。日本人といえばおめでたいよなって、世界中の人たちが思うようになる。
それは、日本の外交において強力な力になるはずだ。
また、そのような活動に従事した人たちは、現実の厳しさ、この世の無情にさらされ、大きく成長するだろう。この平和な日本では得難くなった試練を経て、人間とは何かの理解を深め、理想と現実のバランスの取り方を学ぶはずだ。そういう人が増えることは、ますます日本の利益になる。
そのように日本国憲法を使えば、日本には独特の権威が生まれ、世界の中で、今以上に確固たる地位を築くことができるとおもうのよねん。










