文明を超生命体と見なすことの意義
文明を超生命体と見ることの意義はもう一つある。
それは、ソラリスの海やスパルタクスのように、文明とは、基本的に人とは階層の違う生命体だと考えられることだ。
つまり、人間的な理解や直接的なコミュニケーションは不可能な存在なのね。
超生命体は、ある意味で本能的にしか動かない。
その本能的なものとは何かは、なかなかわからない。
とりあえずぼくは、今の文明超生命体の本能は、経済を活性化する事ではないかと考えている。まあ、別のもっと良い考えもあるかもだけど。
大局的に見ると、人間がやっているあらゆる事は、結果的に経済を活性化する。
一個の人間として、経済を活性化しない生き方は、かなり難しい。経済の活性化というのは、現代社会に生きる僕たちにとっては、ようするに浪費をすることなんだよね。
色々買い物したり、何かを体験して楽しんだり学んだりしちゃうことなどみんな浪費。なにしろ、日本人は動物としての生存に最低限必要なエネルギーの20倍をいつも使っているんだから。
もっとマクロに、文明超生命体も、しょっちゅう経済の活性化=浪費を行っている。
たとえば戦争がそうだ。
戦争は、国というローカルな観点では、経済的に大きなマイナスになったりするけど、すでにきちんとできあがっていたものをぶっ壊して、新しいものを作るわけだから、マクロな観点からは経済が活性化していないはずがない。
その武器を作るために働く人、戦場に赴き戦う人、破壊された町を復興する人、全ての人がそれらの行いによって食べていける。経済が活性化されている。
それから地球温暖化対策もそうだ。
温暖化対策というのも、すでにできあがっていたものを、より高率の良い物に取り替えたり、全く新しいもの(太陽光発電とか風力発電)を付け加えていく行為だから、経済は必ず活性化する。まあ、本質的には戦争がやっていることと同じ事を、ソフトに見せかけてやるだけだ。
結果として、地球温暖化対策をやればやるほど、炭酸ガス排出の絶対量は増えていく。エネルギー消費の効率は上がるだろうから、国とか企業とか家庭とかローカルには減るだろうけど、地球全体としては必ず増えるのよねん。
炭酸ガスの絶対量を増やさないためには、経済を不活性化するしかない。一切の浪費をやめるしかない。書物を投げ捨て、ファッションを諦め、機械に頼る生活を放棄して、今あるありとあらゆる文化的な活動を、ごく小さなものにシュリンクさせない限り、そういうことは起きない。つまり炭酸ガスを減らせば持続可能な社会がやってくるというのは、まったく欺瞞に充ちた、無意味なスローガンなのね。
まあ、炭酸ガスが今後増えようが、増えるペースが少なくなろうが、全く増えなかろうが、大局的に見て地球環境の変動は今後も、人為かそうでないかに関わらず、止まることはないので、そんなことは小さな話だ。
酷い物の見方だと思う人もいるだろうけど、これは現代文明超生命体の本能が、経済を活性化することじゃないかという認識からきた思いつきなのね。
その認識に基づいて、戦争や地球環境問題には、欺瞞が紛れ込みやすいと、用心することができる。
たとえば、中国の工場に脱硫装置などの環境対策を行うのは、地元住人の健康や、風下の日本への影響を軽減するためにも、やるべき事だと思う。耐用年数を越えたものから、より高率の良い物に置き換えていくのも、基本的には悪くはないだろう。
でも、炭酸ガスの排出権取引とかは、炭酸ガス排出量の地球全体での絶対値は増えるし、経済を回すか、他国の発展を牽制するという意味しかない。まだ使えるものを、効率が上がるからって、全く新しいものに取り替えようとするのも、かなり怪しげだ。そういう欺瞞は、たとえばバイオエタノールのように飢餓の危険を増幅して、やがて戦争の火種になる可能性もある。
個別の対策の何を選び何を拒否するかは、人間というレベルでは凄く大切なことであることは間違いない。無駄すぎる無駄に浪費することなく、適度な浪費を赦しながら高率を上げていけば、文明が自壊してしまうまで、時間の余裕が少しは増えるんじゃないかと思う。
今の僕たち、人間とか人類のレベルでやるべきことは、環境変動は避けられないというこの状況下で、いかに長く、戦争や暴動などを押さえられるかってことじゃないかと思う。
文明が地上に留まる限り、いつかは破綻する事は間違いないけれど、それを今すぐ諦めたりしないで、粘り強くそうならないように努力していくこと。そうすれば浮かぶ瀬もあるよ、きっと。
現代文明超生命体のふるまいを見ると、残念ながら今のところ、あまり宇宙へ向かって生まれ出ようとはしていないように感じられる。能力というか可能性はすでに整いつつあるとは思うけど、あまりその方向には動いていないみたい。
前にも書いたけど、第二次大戦以降、戦争に浪費された資金、資源、エネルギー、人的損失と同じ規模のものが宇宙へ使われていたら、人類は20世紀のうちにスペースコロニーのひとつくらい作れていたと思う。
そうなっていないのは、経済を活性化するという本能の方向が、宇宙に向かずに、戦争とか、近頃は地球環境に向いているからだろう。
さて、それでは、現代文明超生命体が、宇宙へと産まれ出たくなるように仕向けるようにするにはどうしたらいいか。
その答えは、オレにはない。
何しろ超生命体の振る舞いは、その細胞である一個の人間にははかり知ることはできないし、コントロールができるかどうかも不明だ。
ただ、こういう物の見方にヒントを得てくれる人が多くなれば、何とかなるような気がしないでもない。そんなぼんやりとした思いはある。
きちがいじみているかな。まあそうではあるけれどね。
最終更新時間 2008年03月31日 19:53
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ダーウィニズム的な進化生物学とアダム・スミス的な経済論理の両方を眺めてきて、奇妙な類似が見られる気がしています:
・個々の主体から認識できない長期にわたる統計的な過程でふるい落としが行われること
・進化/分化/発達する主体(生物や経済主体)と、その適応性を測るベンチマーク(「子供の数」や「お金の量」)の間に大きめの距離があること
これは何なんだろう、とずっと長いこと考えるともなく考えていて、おそらくはダーウィニズムの強力さを示すひとつの証拠であろうとは思っていたのですが、文明は超生命体でその本能は経済発展、という見方はこれを逆から見ているようでとても興味深いです。
それでは「これ」の正体は、いったい何なのでしょう。経済主体は生物でお金はその子供であり全体として進化の法則に従う、という見方も、生物は経済主体であってその子供はお金の一種であり全体として経済の法則に従う、という見方も、奇妙に正しくて間違っている気がする。さらに一般的な式があり、生物や経済主体はその式のパラメータを変えたそれぞれの解で、超生命体としての文明というのもそこに含まれる物かもしれない。
もうひとつ興味深いのは「SF者の本能」とも言えそうな宇宙指向です。
古くからのSFのテーマとして、宇宙開発という短期的には損に決まってることを我々はどうしてやりくてしょうがないんだろう、というのがあって、今度のエントリはそれを説明しようとしておられる感じがあるのだけど、どうもまだ納得が行かない気がします。無駄が経済活性化指向の超生命体の本能に従うから「我々が」宇宙に行きたい、というのはよくわからない気がするのです。明らかにリターンが見えない状態だから。
超生命体が本能的に目指すものが経済活性化であるとして、そのベンチマークはやはりお金の量だと思います。ところが宇宙開発は今のところ消費的であって、なかなか投資的な面が見えてこない。それでも我々は投資的な面を探し続け、宇宙に行こうとし続けます。どうして我々は宇宙に行くことを頭から善と信じているのでしょう。我々が消費と見ているものが超生命体にとっては投資になりうるのでしょうか。
文明という超生命体が個々の人間を超えた認識を持っていれば、それが我々には見えない経済活性化を目指していると見ることはできます。または、地球の外に出ることによる永続化を指向している、と考えることもできます。超生命体の超感覚はおそらく統計的に働くものだから、個々の人間レベルで認識できないものを認識してくれてもよいかもしれない。しかし人間レベルに下りて、オスのフロンティア指向が暴走してるだけ、であるとか、みんなクラークに躍らされているだけだ、と考えるのも面白い気がする。そうした話も含めて超生命体としての文明の集合知とも考えられるし…なんて書いていると術中にはまってる気がしますが。
投稿者 鴨澤眞夫 : 2008年03月31日 23:02
おお、そういう方向に話が進むとは。。。
現代文明は超生命体で、その本能は経済の活性化だと。。。
資本主義は主義でもなんでもなくて、たまたま人間の活力を生み出すシステムだったに過ぎないとどこかで読んだことがありますが、それが人間にはコントロールできない超生命体の振る舞いだとしたら????
もう東洋も西洋も創造性も無名性も批評精神も全く関係ない世界ですねえ。。。
うーん。
投稿者 木全賢 : 2008年04月01日 01:49
今回も面白く読ませていただきました。
スペンサーの社会有機体論から始まって(?)、複雑系の「自己組織化」「バタフライ効果」「フラクタル構造」といった理論のほとんどを社会のメタファーとして読んできたもので、決して文明超生命体論は奇異には響きませんでした。岸田秀は「人間は共同体を作るのに、細胞のやり方をまねた」なんていう驚異的な洞察をしているそうですし、北朝鮮のチュチェ思想にも本質的に共同体を一個の生命として捉える見方が根本にありますよね(社会有機体論の発展系なのかな?)。
とゆーことで、きちがいじみているかな、なんてさみしーことを言わないでくださいね。理解もすれば共感もするんですから。
ついでに仏文学者、渡辺一夫のこんな言葉も付け加えておきます。
「真に偉大な事業は、「狂気」に捕へられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によつて、誠実に執拗に地道になされるものです。」
投稿者 もりのひと : 2008年04月02日 23:44
まったく関係ないですが、LOGiNが休刊ですね
鹿野さんをこの雑誌で知り、毎回の連載に子供ながら大変刺激を受けたことを思い出しました
これからもがんばってください
投稿者 きりん : 2008年04月11日 20:18
LOGiNが休館というニュースのコメントから、このブログを見付けて過去のエントリを一気に読みきってしまった、20ン年前のLOGiN読者です。
文明自体を超生命体として捉えてるところは、アシモフのファウンデーションシリーズに出てくる「心理歴史学」みたいですね。あちらには、それを操作する歴史心理学者ってのが出てくるところが、違いますが、、、
投稿者 すぎたっち : 2008年04月16日 18:37










