連邦軍と未来の戦争
地球連邦とは、一体どういう存在なのだろうか。
初期のガンダム・ワールドの中で、それはひとつの大きな勢力を担うものとして登場はする。しかし、その実体については、余り詳しく描写されたことがない。
地球連邦というからには、現代の国家という区分けを越えた、全地球的な組織であるのだろう。また、一年戦争以前は、スペースコロニー群のすべてが、基本的に連邦という組織に属していたことは間違いないようだ。
このことから、おそらく、地球上だけで人類が生存を続けていくのが困難になった時代に、宇宙への移民を推進するため、全世界的な協力体制が必要となって誕生したのが、この連邦という組織だと推測できる。
しかし、高い志で誕生した組織も、一世代、二世代と経るうちに腐敗が進み、スペースノイドからひたすら搾取を続ける、硬直した官僚システムに堕してしまった。実際、1000年後のターンAガンダムの世界からみたガンダムは、体制側に与してスペースノイドの独立を阻んできた、悪魔のようなマシンと認識されているわけだ。
この圧政に対抗するため、ジオン・ズム・ダイクンはスペースノイドの独立を試み、後のザビ家による一年戦争へとつながっていく。とくに、初期のブリティッシュ作戦は、連邦側に壊滅的なダメージを与え、それによって連邦組織も寸断されたのだろう。一年戦争以降の連邦は、その後の急場しのぎで再構成された不完全なものだったと考えられる。
連邦とジオン皇国を比較すると、ジオンは軍事国家で、その姿は第二次世界大戦当時のドイツをベースにしているようだ。ジオン軍を概観すると、非常に規律正しく、ある美意識が背後を貫いているように見える。また、戦士たちには、何のために戦っているのかという自覚があって、人間的にしっかりした人物が多く見受けられる。もちろん、一年戦争発端の、ジオン側住人の動機が圧政からの独立運動だから、これは当然かも知れないが。
ところが連邦軍には、あちこちに、当事者感覚のない、無能な官僚のような上官がいる。どうして俺が戦わなくちゃいけないんだとか、できれば危険は避けたいとか、戦いに対して前向きの意志の感じられない人間が多い。
また、上官の命令を無視してもほとんど咎められないような、現代の感覚からすれば不思議なことが頻繁に起きる。これは軍事組織を描いたものとしては、ほかに例のないくらいユニークな姿だ。とくにホワイトベースは、身内みたいなメンバーだけで行動しているせいもあるだろうが、それにしても軍隊の規律というようなものが、全く感じられない。
もちろん、これは70年代終わり頃の若者と親や教師との関係を象徴させたものだから、こうなっているのではあるのだけれど。
しかし、その点を除いても、ひょっとすると、未来の軍事組織がこんな感じになっていく可能性は、あるのではないかと思う。
豊田有恒のSF小説に『ぼくのスペースオペラ』(早川文庫JA『両面宿儺』収録)という中編がある。これは後に、『スペースオペラ大戦争』(新潮文庫)という長編にもされているんだけど、その基本のアイデアが、未来戦争のひとつのカタチを予言しているようで、なかなか面白い。
プロットを紹介すると、舞台は31世紀の未来世界。平和なこの時代に、突如、宇宙から昆虫型の侵略者が襲来する。彼らの文明は人類と同等で、軍事テクノロジーもほぼ互角といったところだ。ところが、人類は文明の高度化にともなって、戦争をする意欲を完全に失っており、連戦連敗。ついに存亡に危機にさらされる。困った未来人たちは、過去から歴史上の偉大な戦士たちを招聘して、その侵略に対抗しようとした。もちろん、それで歴史が変化しないように、過去の戦士たちは、いずれも歴史上の死の瞬間に転送される。
主人公はこの計画で、何かの手違いで未来に呼ばれてしまった、20世紀のしがないライターだ。一見、何の役にもたちそうにない彼だが、やがて未来を救う重要な役割を担うことになる。歴史世界から未来に呼ばれた戦士たちは、はっきりいって野蛮人ばかりで、軟弱な未来人の言うことなんか聞いてくれない。そこを主人公が、歴史の知識を利用してうまくリードしていく。たとえば、神に敵の心臓を供物として捧げる信仰を持つ部族には、ここが敵の心臓だと教えて、戦闘の意欲を持たせてやるわけだ。
未来の戦争は文明人同士の戦争なので、武器もレーザー光線みたく、敵をシャッと一瞬に蒸発させてしまう。血の一滴も流れない、とても清潔な戦いだ。主人公の目から見て、その戦争はまるでゲームみたいに軟弱なものだった。(そうか、『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモトヨーコ』はこれがもとネタかな)
しかし、野蛮人たちの戦いかたは、血と肉片の飛び散る、おぞましいものだった。そして、文明度の高い昆虫型宇宙人は、そのあまりの恐ろしさに圧倒されて、敗北していく。
この作品の話はコミカル・タッチなんだけど、おぞましい戦い方は相手を圧倒するということと、未来の戦争は非常に清潔だということは、この小説の優れた洞察だと思う。
実際、たとえばアレクサンダー大王やチンギス・ハンがあれほどの世界制覇をなしとげたのは、ところどころで常識を越えた殺戮を行なったからだ。たとえば、チンギス・ハンは、町を襲って住人を全て虐殺し、そのしゃれこうべで山を作ったという。
こういう話が噂として伝わると、それが力を持ち始める。こいつらは正気じゃない、まともにやり合ったら命がない、と敵に思わせることができれば、戦わずして勝てたり、戦いを有利にすすめることができるのだ。
大阪にある国立民族博物館で、古代の武器の展示を見たことがある。そこには、先がふくらんで、不規則にイボイボのついた木製の棍棒や、刀身に動物の歯を植え込んで、鋸みたいになった木製の剣などが展示されていた。
この武器は、合理的に判断すると、殺傷能力はほとんどない。でも、その武器はものすごく恐ろしげに見えて、こんなんで殴られて頭が変なカタチにへこんじゃったら嫌だなあとか、この剣で切られたら傷がギザギザになって痛いだろうなあとか、とにかく、これを持った人とは争いたくないと感じさせる、すごい迫力を放っていた。
戦いは人と人が対決する限り、その心理が非常に大きな力を持つ。ある種の物語が、客観的な尺度で測った力の大きさ越える力を、発揮させるのだ。
ガンダムワールドにおいて、ガンダムはいつも、天才的なニュータイプのパイロットが駆る、圧倒的なモビルスーツだった。
その姿は、ちょうど戦国武将や、第一次大戦初期の、エースパイロットに近い。彼らは、敵に対しては、とてもかなわないと思わせ、味方に対しては、一緒に行動すれば必ず生きのびられると安心させる、物語を持っている。だから、彼らは白いモビルスーツ、赤いモビルスーツといった、はっきりと存在をアピールできる機体に乗っていたわけだ。
でも、こういう物語性は、冷徹に戦力を計算する近代戦争には、あまりなじまない。実際、ファースト・ガンダムの中でも、ホワイトベースはおとりだと言われていた。この時代の戦争においても、エースパイロットが活躍できるような場面は、巨大な戦争の流れの中の、ほんの傍流にすぎなかったのだろう。
第一次世界大戦の後半または第二次世界大戦以降、戦争は非常に科学的に、合理的に考えられるようになった。いかに効率良く、こちらの損害を最小限に抑えながら、相手の兵力を奪うかを、計算するようになった。
たとえば、対人地雷なんていうのは、その合理性を追求した武器のひとつといえる。対人地雷は、100円以下の非常に低コストで作ることができ、それを踏んだ人の手足を吹き飛ばして重傷を負わせるが、命は奪わない。なぜなら、重傷者が生きている限り、その世話をするために何人かが必要になるので、その部隊の行動力や戦力を効果的に引き下げることができるからだ。しかし、殺してしまっては、その犠牲者を放置して部隊が進行できるため、戦力の削減効率は相対的に劣ることになる。冷酷だが合理的、それが近代戦争のひとつの方向性だ。
しかし、ここに非人道的な兵器という考え方がある。実際、対人地雷は非人道的な兵器として、いろいろな困難はあるものの廃止の方向に向かいつつある。
戦争なんてそもそも非人道的なものだから、そんなのナンセンスと思う人もいるだろう。
しかし、今や戦争は、ただの人の殺しあいではない。国家間の利害を調整するための、最も過激な方法であって、最終目標は相手の破滅ではない。戦争が終わった後の、相手のことも大いに意識する必要がある。だから、戦争といえども無法であってはならず、過剰に被害を大きくしないようにする必然性がでてくる。そのキーワードが、人道的か否かということだ。
これはとても文明的な思考で、ぼくのスペースオペラで、未来人が文明化によって戦争意欲をなくすという洞察が、具体的にはこういうカタチで進みつつあるのだと思う。戦争というものに対するイメージが、徐々に変わり、しだいに安全に、誰も傷つかないものになっていく。
実際、80年代、90年代のアメリカの戦争のやり方は、可能な限り自国の兵士を安全に、傷を負わせないように、努力が払われているように見える。その理由は、議会が一人の死者、一人の捕虜の存在にも強く反応して、戦争継続に異を唱えるからだ。そして軍事テクノロジー開発の基本姿勢も、この方向に向いていると思う。ステルス機や、赤外線暗視装置のように、敵には見えず、味方が一方的に攻撃できる装備や、TMDのようなミサイル防衛システムなどは、その具現化した例だ。
また80年代のドラマ、スタートレック・ネクストジェネレーションでは、戦艦であるエンタープライズ号で、全ての乗組員が、豪華な個室を持ち、ゆったりと自分の趣味を楽しむことができる。ネクストジェネレーションの連邦は、純粋な軍事組織ではないけれど、これはつまり、軍艦であっても、やがては居住性や快適性が、大きな問題になることを予見しているのではないだろうか。
それは今の感覚からすると、非常に軟弱で軍隊らしくない。この上なく安全で、快適な環境の軍隊。そこからは、軍人であるにもかかわらず、平和ぼけして軟弱で、爪のささくれでも泣き言をいうような人間が、生まれてきても不思議はないだろう。
そういえばJCOの臨界事故だって、システム的には、これ以上ないくらい安全に設計されていた。そのシステムを使う限り、臨界は原理的に起きないから、放射線の警報装置も設置されていないし、監視用のテレビカメラさえなかったわけだ。その安全性に身をまかせきりにして、いつしか当事者感覚を失った作業員たちが、常識では考えられないような違法な操作を行い、事故につながった。
技術によって安全を確保するのは、今の世界の趨勢だ。ぼくたちは、すべて技術という殻につつまれて、従来不可能だったことを可能にする巨大な力を手に入れ、同時に、安全性も確保されるようになっている。つまり、目に見えないモビルスーツに包まれている。
自動車のエアバッグは、運転者の安全性を高めるための装備だ。しかし、これによってかえって無謀運転が増え、結果として、悲惨な事故はそれほど減っていない。しかし、エアバッグの代わりに、槍でも飛び出すようにしたら、誰も無謀運転はしないだろう。
おそらく連邦は、地球の長い歴史と文化の積み重ねを背景に、圧倒的に行き届いたテクノロジーを備えるようになったのだろう。その安全このうえないシステムに包まれて、力は強大だが、精神的には軟弱な人々が生まれたのではないだろうか。そしてその軟弱な人々と、開拓者であるタフなスペースノイドたちとの精神的なすれ違いが、一年戦争の悲劇へとつながっていったのかも知れない。
最終更新時間 2007年12月02日 00:02
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