ニュータイプとは何者か
前に予告したとおり、本日午後11時からBSデジタル11チャンネルで、ガンダム特番が放送される。
で、それに出演したので、そこでしゃべっている事の元ねたというか、詳細版をアップします。
と、いっても、これは1998年からアスキーから出版された、「G20」というガンダム20周年記念雑誌に連載していたものを、少し修正したもの。
つまり、もう10年近く前に書いたもので、ターンAの話とかJOCの話とか当時の世相に関係した話もでてきたりする。でも、本質的なことについては、今でも古くはなっていないと思うんだけどな。
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ニュータイプとは、いったい何者なのだろうか?
ファースト・ガンダムの中でのそれは、古くからある、ありきたりの超能力者――念動力者や、超感覚能力者とは、違うものとして描かれていた。
ニュータイプの存在を、世界に向かって最初に説いたのは、ジオン・ダイクンだったという。彼は、「ニュータイプは宇宙世紀に適応した人の革新であって、人は現在以上に認識力が拡大し、よりわかりあえるようになる」と主張した。その「人の革新」とは、一体どんなものなのだろうか。
ニュータイプとして覚醒したアムロは、エルメスのビットの動きを「みえる……みえるぞ!」と予測して攻撃したり、相手の意図を感じて背後からの攻撃をかわすようになっていく。飛びぬけたカンの良さと先読みの能力が、アムロを伝説のエースパイロットにしていったわけだ。
また、アムロとララアは、戦いの中のほんの短い交流で、お互いを深く理解しあうようになる。それぞれがどんなしがらみを持ち、どんな思いで戦っているのかが、一瞬の交感で明らかになったのだ。
そして同じ現象が、アムロとシャアの最後の白兵戦でも起きている。ただ、すべての事情を了解しあえたからといって、争いをやめられるわけではないところをみると、業の深さにおいて、ニュータイプもオールドタイプも、大差ないようではあるのだけれど。
これらの現象は、相手の心を、あたかも自分のものであるかのように共感し、感じ取る能力の現れだったのではないだろうか
この能力を一言でいうなら、優れた洞察力というのがふさわしい。洞察力とは、少ない手がかりから、物事の全体像を正確につかんだり、他者の心に深く共感できる能力のことをいう。そして、もしニュータイプが洞察力に優れた新人類だとすると、これは現実の進化論の延長上に、面白い解釈ができるだろう。
さて、その前に確認しておかなければならないことがある。それは、進化とは一体何かということだ。なぜ、今さらそんなことをいうのかと思われるかもしれないが、実は進化という現象は、多くの人に誤って理解されているのが現状なのだ。
進化とは、生物がより優れたものに変化することだ……こういって疑問を感じる人は、ほとんどいないだろう。ところが、これは進化ではないのだ。これは進化と進歩を混同した、完全な誤解にすぎない。
進化とは、ただ、長い時間とともに生物が変化することをいう。そこには、より良くとかより悪くという価値観はない。現代の分子生物学や、集団遺伝学を加えた進化論(総合説)では、進化の定義は「遺伝する変化」といった程度のものでしかないのだ。
この他にも、進化を巡っては誤解がたくさんある。たとえば、生物の世界は最適者生存、弱肉強食だといわれる。下手をすると、進化論が専門と自称する学者まで、そう思っていて困るのだが、これはダーウィン進化論の考えではない。弱肉強食の思想は、古くからヨーロッパの土着文化としてあったもので、実は進化論とは無関係なものなのだ。
ダーウィンの真の独創性は、自然界を精密に観察した結果、その古い考え方は正しくないことに気がついたことだった。
ダーウィンの進化論では、生物は自然淘汰で進化するという。これはつまり、生物は自然に添う形に変化するということだ。自分をとりまく環境が変わると、それに収まりの良いものが選ばれて、生物は変わっていく。つまり、生物の変化は受動的なものなのだ。これは、いわゆる弱肉強食の競争原理とは、全く違った性質といえる。
これに対して、ラマルクの進化論は、生物はこうなりたいと望むものに変化すると考えた。キリンは高いところの草を食べたいから首が伸びたというように、進化を能動的なものと思っていたわけだ。
また、最適者生存という言葉は、個人主義の思想を提唱した社会学者のハーバート・スペンサーによるもので、正確にはダーウィンの言葉ではない。さらに、ダーウィンもスペンサーも、どちらの思想もいいかげんにしか理解せず、古臭い考えを権威づけるためだけに、その名を利用する者が現れた。
これを社会ダーウィニズムといって、彼らは、生物が進化する原因は最適者生存といわれる闘争だから、人間社会においても闘争は不可避で有益であると主張した。そして、アメリカの大資本家たちが、これを労働者を搾取するための論理として利用したため、進化論とはそういうものだという誤った認識が普及してしまったのだ。
さて、それではこの前提にたって、人類の進化とニュータイプについて、あらためて考察してみよう。まず人類が属する霊長類が、他の動物と際だってちがう点は何だろうか。
それは、脳が非常に大きいということだ。
霊長類は、他の一般的な哺乳類と比べて、体重比で平均2倍の脳を持っている。なかでも大型類人猿(ホミノイド)の脳は巨大で、たとえばチンパンジーの脳重は、同じ体重の哺乳類の平均に比べて5倍もある。そしてヒトの場合は、その値が11倍にもなるのだ。
しかも、脳重量の増加ペースは、一般の進化速度に比べてかなり速いほうだ。実際、現世人類の脳は、300万年前のアウストラロピテクスに比べて、3倍になっている。
一方、人間の脳は、成人で体重の2パーセントほどの重さがある。ところがこの脳の消費エネルギーは、摂取したエネルギーの20パーセントにも達するのだ。たった2パーセントの部分が、全体の20パーセントのエネルギーを消費しているわけだから、脳とは恐ろしく燃費の悪い臓器といっていいだろう。
こんな臓器が急速に進化し、しかもそれを維持しつづけていることに関しては、それなりに納得のいく説明が必要だ。
一九九〇年代に入って、心理進化学という新しい分野が立ち上がってきた。これは主に、霊長類の心の進化を、生態学的な観察と分析から考えようとする学問だ。
その文脈の中で、ヒトを含む霊長類の脳が、なぜ大きくなったかを説明する、面白い考え方が出てきている。それが、社会脳仮説(マキャベリ的知能仮説)だ。
これは、イギリスの心理学者、リチャード・バーンとアンドリュー・ウィッテンによって提唱されたもので、霊長類が大きな脳を持つのは、我々が非常に複雑な社会システムの中で暮らしているからだとする。
霊長類の色々な種類について、脳の大きさと、生態学的特徴との関係を調べてみると、食物の種類や、どれくらいの範囲を活動するかという遊動パターンなどとは、関係しないことが明らかにされている。では、何が相関するかというと、それは社会集団の大きさだ。
つまり、霊長類では脳が大きいほど、基本的な社会集団のサイズが大きくなっている。
霊長類社会の特徴は、複雑な政治的かけひきの存在だ。たとえばサルは派閥を作るのだ。
ライオンなどの群れを作る動物も、協力関係をつくることがあるが、それは厄介な状況になったときの、一時的な同盟にすぎない。
ところがサルは、将来の必要を予測して、数ヶ月前から協力関係を設定できる。しかもそれは、自分を助けてくれるか、敵対するかという、詳細な社会的知識に基づいている。
サルの世界の政治抗争は、まるで人間の縮図で、たとえば派閥抗争で仲間がやられているのを見ても、怖じ気て助けにいけなかったりすると、後からやられた仲間に侘びを入れるのだ。あるいは、不倫関係にあるチンパンジーは、交尾のクライマックスで上げる大きな声を、意図的に抑制したりもする。これらの行動を行うためには、サルたちに、他者の心を推測する能力がなくてはならない。つまり霊長類は、複雑な社会で生き延びるために、洞察力を発達させてきた動物なのだ。
社会の中で生き延びるのは、いちばんの「悪党」と組むのが適切だ。しかし、どうしたらそれができるかは、かなり熟考を必要とする。これに比べると自然法則は明快で、社会法則を理解するより、単純な情報処理で十分に対応していくことができる。つまり霊長類は、自然現象より遥かに難しい、社会の複雑さに対応するために、脳を増大させてきたのではないか。そして、その傾向の最先端にあるのが、人類ではないか、というわけだ。
人類の洞察力は、社会集団の中で生き延びるために発達してきた。まあ、先にあげた例は皮肉な感じのするものばかりだが、こういう洞察力があるから人間は相手の気持ちを汲みとったり、共感や同情ということができるわけだ。また、文学や芸術、それにスポーツ観戦などで感動できるのも、人間の優れた洞察力のおかげだろう。人間を、良くも悪くも人間らしく生き生きとさせる能力。それが洞察力なのだ。
こうしてみると、ニュータイプは、これまで霊長類がたどってきた洞察力の進化の流れを、さらに進めた存在と考えることができそうだ。洞察力に優れた彼らは、たぶん政治に関して、旧人類以上に複雑な駆け引きができるのだろう。つまり、宇宙時代の戦争のきっかけは、そういうニュータイプたちの、駆け引きの中から生じた物なのかもしれない。
その一方で、ニュータイプは人間以上に、互いを深く理解しあうことができる。たぶんそれは、どちらか片方だけを取り出すことのできない、裏腹の関係にある性質なのだろう。
ところで、Ζガンダム以降、ニュータイプに対抗する存在として、強化人間が登場する。これは、優生思想のガンダム・ワールド版といっていいだろう。
優生思想は、民族から遺伝的に劣ったものを取り除き、優れたものを選抜して、人間を改良しようとするものだ。これは、倫理的に問題があるとされている。実際、ナチスはこの考えに基づいて、精神病者や先天障碍をもつ人々を断種殺害し、されにその考えを拡大して、一方的に劣等とみなしたユダヤ人を虐殺していったのだ。
しかし、倫理には、時空を超える普遍性はない。自分の子供は優秀であって欲しいと願う親の気持ちが悪でないとすれば、いつか我が子の遺伝子改良を望む親が出てくるのは、妨げることができない必然かもしれない。
しかし、それにも関らず、こういう考え方は、そもそも無意味なものではないかと思う。
優生学は、動植物の品種改良の成功が基礎になって生れたものだ。たとえば作物の収穫量を多くするとか、特定の病気に強くするとかいった改良は、人類の歴史の中で非常に成功したことだった。この手法を人間自身にも適用して、人の優良品種を作るのは、一見うまくいきそうな感じがある。しかし、この考え方には大きな落とし穴がある。
品種改良が成功するのは、その目的が明確に設定できるからだ。ところが、人の品種改良には、そういった目的が設定できない。できると思うのは、実は幻想なのだ。
たとえば、より優れた性質を持たせたいといっても、その優秀性の中身が何かは、決められない。たとえば、仮に頭をよくするとして、その頭の良さとはいったい何なのだろう。
知能指数なのか、それとも記憶力なのか。
仮に記憶力だとして、それを飛躍的に高めた結果、嫌な思い出も忘れることができず、気分が落ち込んで自殺しやすい人間になってしまうかもしれない。
洞察力の優れた人間をかけあわせて、より洞察力のある人を作れたとしても、その人はシャアのようにエキセントリックで、現実と妄想の区別がつかなくなって、自滅しやすい性格になるかもしれない。
ある性質が優れていると思うその内容は、しょせん、ある時代、ある環境においての、限られた優秀性に過ぎない。
進化はこれまで、生命のバリエーションを増やす方向に動いてきて、どうやらこれは生命が連綿と続く限り、必ず起きる変化のようだ。つまりこれこそ生そのものの姿で、ニュータイプは、宇宙という新しい環境に添うように多様化していく、人類の子孫たちの先駆けだったのだ。
一方、優生学に基づく強化人間は、ある時代ある状況で発想された、狭い了見に基づく形に人の未来を押し込めようとする、バリエーションを減らす方向の考え方だ。
それは間違いなく、進化とは逆むきの行為だったといえるのではないだろうか。
注:今にして思えば、このコラムで使っている「洞察力」とは「心の理論」と言い換えても良いだろう
最終更新時間 2007年12月02日 00:00
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