wisdom Business Leaders Square
ビジネスに役立つ「次の一手」をあなたに
ビジネス用語辞典 Wisdomブログ

経営戦略 成功ストーリー マネジメント ビジネススキル ITトレンド IT講座 マーケティング ちょっと一息

2007/12/04

ガンダム特番・ネット視聴と再放送

実はオレはまだ見てないんだよなー。

ネットでは、
http://event.yahoo.co.jp/bs11/gundam/
でそのうち見られるようになるらしい。

再放送は、
BS11:2008年1月1日(火)26:00~28:00
だって。

最終更新時間 16:06 | コメント (1) | トラックバック

2007/12/02

ガンダムの世界・補足

これより前のエントリーの記事は、約10年前に書いたものなので、ちょっと補足。

●人類を滅亡させる方法。

これまでの歴史で、最悪の流行疾患は1918年から19年にかけて起きたスペインかぜで、感染者が6億人、死者は4000~5000万人。

当時の世界人口は、8~12億人なので、最悪で人類の6.25パーセントが死んだことになる。

これまでの歴史で最悪の死者を出した戦争は第二次世界大戦で、戦死者1500万、一般市民の死者数3800万、軍人負傷者2500万という。
死者の合計を6000万人、当時の人口を20億として3パーセントの人が亡くなった。

一方、今現在、年率1.5%で人口が増えている。
すると、2年で2.25%、5年で7.5%人口が増える。
つまり、今、スペイン風クラスの疫病や、第二次世界大戦と同じ割合で死者が出たとしても、2年または5年で、人工は減った分を上回る。

しかも、今現在、いかなる病気も戦争も、スペイン風や第二次世界大戦のような割合で、人を殺すことはできないだろう。

●文明の価値 恐竜との比較
恐竜は三畳紀(約2億5,100万年前)に、は虫類から進化し、白亜紀末期(6500万年前)に滅んだ。その期間は2億年近い。

霊長類が誕生して6500万年だからその3倍
類人猿が誕生して2500万年だからその8倍。
人類が誕生して  500万年だからその40倍。

それだけの期間、ほ乳類と同等の複雑さを備えた恐竜は地上に生きていた。
しかし、今の我々と同じような文明は、ついに現れなかった。

それは、我々の文明が、必ずしも進化の必然ではなく、特異的なものであることを示しているように思える。

●宇宙移民のリアリティ
スペース・コロニーの構想を、1971年に発表したプリンストン大学のオニールは、1980年代には10万人規模の居住が可能なスペースコロニー、「島一号」の建設が始まるだろうとまでいっていた。

今から思うと、トンデモ話に聞こえるかもしれないけど、
アポロの予算は300 億ドル。当時のレートで10兆円以上。
その頃の日本の国家予算が7兆円だった。
そしてアポロの時代、アメリカは平行してベトナム戦争も行っていた。

その戦費は累計で6000億ドル。つまりアポロ計画の20倍だ。
しかもこの戦争による死者は、アメリカだけでも5万8千人いた。

アメリカはその後何度も戦争を繰り返し、直近の対テロ戦争の関連支出も、今や8000億ドルを越えようとしている。

これだけの予算と、これほどの犠牲者を容認できるなら、スペースコロニーがとっくの昔に完成していたとしても、決して不思議じゃない。

戦争は人類の業のようなもので、全てなくすことは不可能かもしれない。
でも、これまでに費やされた額を見ると、無駄遣いにもほどがあるというかんじ。いくら人類の業だとしても、ここまで資源とエネルギーと犠牲を無駄にすることはないじゃないか。同じ浪費をするなら、宇宙への努力につぎ込んだ方が、よほど実があると思うよ。
 つーか、宇宙移民のような、まるでSFの物語のような世界を、実際に作り出すだけのエネルギーや資源を、人類はとっくの昔に持っているわけだ。

●軌道エレベータで人類の宇宙移民はできるか。
新宿駅が一日75万人の乗客をさばいているらしいので、軌道エレベータも一基あたりその程度の人間を輸送できるとしよう。
東京の人口が1千万人くらいで、そこに新宿駅くらいの輸送力をもつものがあれば、移民にもリアリティが出てくる。
つまり、未来の地球人口が100億人くらいになった世界なら、7億本くらいの軌道エレベータが必要な訳ね。

●人類超生命体論
 この考え自体は、実はG20の頃より前から主張していたこと。

 一匹のアリは単純な神経回路しかもたず、とても知的な存在に見えないけれど、アリの巣は、牧畜や栽培といった高度な知的活動をやってのける。

 それと同じで、人も、一人の人間の脳を見る限り、単純でたいした情報処理能力を持つとは思えない。

 ところが、僕たちの身の回りを見渡すと、無数の人工物にあふれている。これらの人工物は、どれ一つをとっても一人の人間によって理解し尽くすことも作り出すこともできないものだ。人智を超えた無数の人工物の中で、ぼくたちは生きている。そのような奇跡が起きているのは、人の集合体である文明が、アリとアリの巣の関係と同じように、人に対する超生命体だからだ。

 過去において文明は、周りの環境を壊しながら、手近な資源を使い尽くし、滅びていった。この轍を、今の文明にも踏ませてはならない。

 宇宙へと到達できる可能性を獲得した文明は、この宇宙でもかなり貴重なもののはずだ。このレベルに育った文明超生命体を、宇宙へ産まれ落とすことが、これから50年あまりの大きな課題だと思う。上手にやらなければ、この超生命体の胎児は、宇宙へ産まれることなく流産してしまうだろう。

 そうなったとき、文明は過去とおなじように、環境を壊し手近な資源を取り尽くして、徐々に崩壊していく他なくなる。

最終更新時間 00:07 | コメント (4) | トラックバック

宇宙に広がる生命

 スペースコロニーのアイデアは、アメリカの物理学者、ジェラード・K・オニールによって70年代に提案された。

この宇宙植民島構想のすばらしさは、それまで大勢を占めていた惑星偏愛主義(注1)を否定して、真空、無重量の宇宙空間こそが、人類の子孫たちの未来の住処であるとしたことだった。

ただ、この脱・惑星偏愛主義のアイデアそのものは、彼の独創だったわけではない。

 たとえば、プリンストン大学でのオニールの同僚でもあったフリーマン・ダイソンは、後にダイソン球殻と呼ばれるようになった、巨大な宇宙生命圏をイメージしている。

 ダイソンは1923年のイギリス生まれの数理物理学者で、アカデミックな業績としては1965年のノーベル賞となった、朝永振一郎、ファインマン、シューウィンガーによる量子電気力学を、数学的に仕上げたことで有名だ。また、破壊されても自動停止する安全な原子炉トリガ(TRIGA )の開発や、「1970年までに土星へ」というスローガンのもとに行われた、核爆発推進方式の宇宙船オリオン号の設計でも決定的な貢献を果たした。

 彼は1959年に、アメリカの科学誌サイエンスに、"Search for Artificial Stellar Sources of Infrared Radiation" と題する論文を発表している。
 当時、地球外文明探査(SETI:Search for ExtraTerrestrial Intelligence)が、現実の科学として始まろうとしていた。(注2)

 SETIのベースにあるのは、異星に文明があれば、彼らも仲間を求めて通信を試みるだろうという発想だ。従って、適切な天体にアンテナ(電波望遠鏡)を向ければ、異星人のメッセージを受信できるかもしれない。しかし、天空に無数に存在する星々を闇雲にあたっても、その電波をキャッチすることは困難だ。そこでダイソンは、どういう種類の天体を探すべきかの指針を示したのだ。

 ダイソンは、文明が発達すれば、それは一個の恒星のエネルギー全てを利用するようになると考えた。たとえば、太陽を地球軌道ほどの大きさの球殻ですっぽりと包み込み、一個の恒星の全エネルギーを利用しつくす文明が、きっと存在するに違いない。

 その恒星は、球殻に覆われているから可視光で見ることは難しい。しかし、熱力学の第二法則によって、恒星エネルギーの大半を廃熱として放出し、それは赤外線源として検出できるはずだ。このとき放射される赤外線は、生命圏が液体の水を含む生物に適する環境なら、主に波長10ミクロンの帯域で観測されるだろう。

 従って、天文学者はまず全天の赤外線源の一覧を作り、その表にある天体を光学望遠鏡と電波望遠鏡で注意深く観測すべきだと提案したのだ。

 我々の太陽系でこれを作るとするなら、木星を分解することで、地球軌道を包み込む厚さ2~3メートルの球殻を作ることができる。この、半径1天文単位のダイソン球殻の表面積は、2.72×10の17乗平方キロメートルで、地球の表面積のざっと6億倍だ。

 ただし、このダイソン球殻の内部は無重量の空間なので、球殻の表面に住むことは考えにくい。(注3)それではダイソンは、このような恒星エネルギー全てを利用する文明の姿を、どのようなものと考えたのだろうか。

 ダイソンは、オニールのコロニーの事を、「地球上の野生と宇宙の野生の、どちらからも隔離されて衛生的で過保護な生活を営める、ブリキとガラスで作られた缶詰」という。そしてその世界が「時の経つにつれて、ハックスレーの『すばらしい新世界』のようにならなければ幸いである」と、いささか批判的に評価している。

 彼が考える人類の子孫たちの姿は、自らの肉体を改造し、宇宙という野生に適応した存在だ。ずっしりした産業的ハードウェアに依存せず、宇宙空間で自由に育つ植物を利用して、彗星を乗り物に、星々の彼方まで播種する……。

 もし、そんな文明がこの銀河にまだ存在しないのなら、我々自身がやがてそれを創造するだろうという。宇宙は、地上とは全く異なった環境であり、人類の子孫がその環境に適応し、増殖し、無数の種に分化していくのは、進化の必然のはずだ。

 この、宇宙の野生に適応した人類の子孫という発想も、実はダイソンが最初ではない。彼自身、オラフ・ステープルトンの「スターメイカー」(1937年)からヒントを得たといっているし、さらに以前にこの種の考えを持っていた人もいる。

 コンスタンチン・エドアルドビッチ・ツィオルコフスキー(1857~1935)は、宇宙旅行を世界で初めて現実科学の俎上に乗せた、ロシアにおけるロケットの父だ。彼は1918年に発表した科学小説の『地球の外で』の中で、スペースコロニーのルーツというべき、地球の静止軌道付近で遠心力による人工重力をもった宇宙植民地を描いている。

 そして1895年の『地球と宇宙の夢』の中で、真空に適応し、ガラスの皮膚と、葉緑体を含んだグリーンの翼を備え、小惑星帯などの星間空間を漂う不老不死の存在を描いた。彼らは作中「あちこちの惑星では、たいていは水棲動物が最初に現れ、その次に空気を吸う動物がでてきて、最後に真空動物が現れるのさ」と語っている。

 また、英国の物理学者J・D・バナールは『宇宙・肉体・悪魔』(1929年)の中で、直径16キロで人口2~3万人規模の、球殻型のスペースコロニーについて言及している。

 これは回転しておらず、人工重力はない。球殻外側の層は透明で、その内部には葉緑体のような組織が網目状に張り巡らされ、太陽のエネルギーから炭化水素を合成する。その内側には、水や固体酸素、炭化水素などの貯蔵層、物質代謝を司る制御層があって、その内側に人々の生活領域がある。

 面白いのは、このコロニーが成長と増殖を行うことだ。古くなれば、内部に新たな球殻を作って脱皮したり、新しい部屋をラセン形に継ぎ足して成長する。あるいは、細胞分裂するように、球体の外にもうひとつの球体をつくって分離することも考えられる。

 コロニーの数が増えて資源の奪い合いが生じると、あるコロニーは太陽系を脱出し、数千年の時間をかけて別の星系へと移動する。まるでコロニー自身が、宇宙で繁殖し、増殖する巨大な生命体のようだ。

 このような宇宙に適応した文明、生命には、限界がない。

 1964年に、ロシアの天文学者、ニコライ・S・カルダシェフは、宇宙に知的生命体の文明が存在するなら、それは三つの型に分類できるとした。

 第一型の文明とは、一個の惑星の資源の全てを支配するレベルのもので、利用可能なエネルギーの量は4×10の12乗ワット程度になる。現在の地球文明は、あと一息でこのレベルに到達する段階といっていいだろう。

 続く第二型の文明とは、一個の恒星の資源を支配するレベルで、ダイソン球殻に象徴される文明だ。そこで利用されるエネルギーは、4×10の26乗ワットのオーダーになる。

 そして第三型の文明は、一個の銀河系の資源を支配する文明で、利用可能なエネルギーは2.4×10の37乗ワットになる。

 第一型と第二型、第二型と第三型の間の力の差は、1兆~100 兆倍程度もあるが、これも子が孫を産み、孫が曾孫を産む指数関数的な成長の前には、ごく小さな差に過ぎない。たとえば、年率1%ので成長する社会ならば、3000年ほどでこの程度の変化は起きるのだ。

 恒星間の距離は、人間による植民にとって絶望的に遠い。しかし、社会の寿命は、個人の寿命によって限られない。我々が宇宙旅行を光速の1%で行うにしても、一千万年以下で銀河の端から端まで植民することができる。

 そして、ひとたび第二型の文明を乗り越えはじめた生物は、想像しうるあらゆる自然的、人工的な破局によっても絶滅することはない。

 かつて人類の祖先は、豊饒で過酷なアフリカの熱帯雨林で育まれ、進化を遂げてきた。宇宙はそれと同じく、無尽蔵の太陽エネルギーという豊饒さと、真空、無重量、放射線という過酷さを備えた、新しい世界なのだ。その環境の中で、我々の子孫たちは永遠に進化を続けていくに違いない。

注1:他の天体の惑星上にドーム都市などを建設して、そこに移民しようとする発想:SF作家アイザック・アシモフによる

注2:世界初のSETIプロジェクトであるオズマ計画は、1960年にフランク・ドレークによって開始された。

注3:ダイソン球殻を構成する材料をニュートロニュームのような超高密度物質で作ったとしても、ガウスの法則によって球殻内面は無重量になる。回転させて人工重力を作る場合は、赤道部分が谷で極が山になってしまう。そこで、SF作家のラリィ・ニーヴィンは、ダイソン球殻の赤道部分だけを切り出したリング・ワールドを考えている

最終更新時間 00:06 | コメント (0) | トラックバック

人類の未来

 ガンダムって所詮アニメだし、ああいう宇宙移民の話も、SFというか、遠い未来の夢に過ぎないよな……と、まあ、たいてい普通の人はそう思っていると思う。

 でも、本当にそうなんだろうか。

 今、全地球的に起きている問題の数々=地球環境破壊や、多くの生物種の絶滅、エネルギー資源問題、ゴミ問題などなどは、つまるところ文明が進んだ結果、人間が簡単には死ななくなったことに原因がある。

 文明の進歩は、莫大な食料生産を可能にし、かつては助からなかった病気の多くを、とるに足らないものに変えてしまった。そのうえ今の文明は、人の死は悲しく良くない事だから、なるべく避けようと考える。

 その結果、人口はどんどん増えて、そのぶんエネルギーを大量に使い、大量の廃棄物を出すようになった。今後さらに、発展途上国を中心に人口は爆発的に増え、しかも彼らが先進国なみの生活を願えば、資源・エネルギーは枯渇し、汚染はローカルにも地球規模にも、深刻化することは明らかだ。この大きな流れの前では、新エネルギー開発や省エネルギーなんてのは、たいして力を持たない。破局までの時間を、ほんの少し先延ばしするだけの、延命措置にしかならないだろう。

 使える資源・エネルギーが減り、温暖化や汚染で気候が変化すれば、食料生産はたぶん大幅に低下する。そうなれば国家間の血みどろの紛争が始まる。この流れを看過していては、文明の崩壊は避けられない。

 今のようなつまらん文明なんて滅んでもいいじゃないの、とか思う人もいるかもしれないけど、ぼくはそうは思わない。そういうふうに思う人は、単にまわりが見えていないか、想像力が足りないだけだと思う。

 早い話、ぼくたちは、身の回りにある、ありとあらゆるものを、自分の力だけで作ることはできない。パソコンのような複雑な機械や巨大な建築物はもちろんそうだし、身近な生活に関わる日々の食事から衣服まで、どれ一つとしてできやしない。もちろんパーツ(部品や食材)を集めて作ることはできるかもしれないけど、そのパーツを原料から作ったり、適切な場所に運んだり、パーツを組み立てる工具を作ったりといったことは、すべて他の人に依存している。

 ぼくたちが、当たり前にやっていることのほとんどすべては、実は膨大な人たちの知性と、営みの集積で始めて可能になるものばかりだ。つまり文明は、1人1人の人間の積み上げたものであると同時に、1個の人間を遥かに越えたコトを可能にしている。それはとても貴重なものだし、簡単に壊しちゃえといえるようなシロモノでは絶対にない。それはこれからもずっと、守り育てていくべきものだと思う。

 もし仮に、今後、世界大戦のようなものが起きたとしても、種としての人類が滅びることはないだろう。でも、今と同じレベルの文明は二度と再び築くことはできない。なぜなら、簡単に採取して安価に使えた化石燃料は、すでに取りつくされているからだ。

 今では、ある程度以上の文明レベルがないと、化石燃料も手に入れられない。つまり、今の文明の破綻は、リセット、再起動が効かない壊れかたになってしまう可能性が大きい。

 じゃあ、どうしたらいいのだろう。

 答えは簡単だ。現代の文明を、破壊することなく維持し、発展させていくには、人類は宇宙に進出する他ない。それがただ一つの現実的な選択で、これができなければ、膨大な数の人の死を伴う、文明の破壊がいつか必ず起きてしまう。宇宙はもはや、夢であってはならないのだ。

 ファーストガンダムは、「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって……」という出だしではじまっていた。でも、増えすぎた人口を宇宙に移民させる事、それ自体は、たぶん地球の問題を解決することには直結しない。

地球上で増え続ける人口を、外に出す事で平衡を保とうとしても、それは無理というものだ。人口の増加のペースを越える勢いで、地上の人間を宇宙に運ぶ事は、おそらく軌道エレベータのような理想のテクノロジーを使っても困難だろう。

 つまり、地上の問題を解決するには、結局のところ、きつい制約と厳密な管理が必要になる。エネルギー資源の使用量や出産の制限、居住地の限定なども避けられないだろう。

 では、宇宙移民をすることの意味とは、いったい何だろうか。
 それは、未来への選択肢の提示だ。

 宇宙は、真空、無重量、高レベルの放射線など、苛酷で厳しい自然に満ちている。反面、太陽などからくる無尽蔵のエネルギーや、小惑星などから採掘できる莫大な資源がある。

 地上で制約の多い安全な暮らしを選ぶか、宇宙で厳しく豊かな未来を生きるか、それを選べるということが重要なのだ。選択肢のない制約は、決して長続きしない。もし仮に、宇宙に進出することなく、制約だけに未来を託すとしたら、そんなものはいつか破綻する。非常によく保てたとしても、せいぜい数百年だろうし、それがほころび始めたら、あとはもう破局しかない。だけど、選択肢がある場合は、地上の制約は受け入れやすい。それが嫌なものは、宇宙に出ればいいのだから。

 そしてひとたび、人類の子孫たちが宇宙に基盤を築けば、彼らは地上人の制約から解き放たれる。宇宙で生まれ育ったものにとっては、そこが自分たちの自然であり、彼らは人類の遺伝子と文明を受け継いだ人類の子らではあっても、もはや人類そのものではない。地上では赦されなかった遺伝子改造も容認されるようになるだろうし、宇宙環境に適応した生命体として進化を続けていくはずだ。

 ガンダムの世界が描いたのは、所詮はごく狭い範囲、地球と月の軌道の内側の範囲でしかない。しかし、人類の子孫たちの活動範囲は、すぐに太陽系全域から、他の星系へと広がり、やがては銀河全体に広がっていくだろう。その文明は、超新星の爆発を始めとする、いかなる災害によっても決して滅ぶことはない。この宇宙は、我々の子孫たちによって、満たされていくことになるだろう。

最終更新時間 00:04 | コメント (0) | トラックバック

象徴兵器・コロニー落とし

 いやあ、ついにやってまいりましたね。あの1999年7の月が。ひょっとすると、もう世界は滅びてて、このコラムを読んでくれる人もいないかも。うーん、そんなわけないか。

 それにしても、今どき世界を滅ぼそうとしても、そうは簡単にはいきませんな。ソ連が崩壊する以前なら、世界全面核戦争なんてシナリオがあり得たんだけど、今ではそれはちょっと無理。もちろん、核兵器が使用される可能性はあるものの、昔みたいに地球を2000回も焼き払える核の撃ち合いなんて、事実上あり得なくなっている。熱狂的な滅亡ファンの人には、ちょっとガッカリかもしれない。

 まあ、あえてあげるなら、地球に小天体が衝突するというのが、今のところ世界を滅ぼすいちばんリアリティのある話になる。

 今からおよそ6500万年前、直径10キロほどの小天体がユカタン半島付近に衝突し、それがきっかけで、恐竜は絶滅への道を歩むことになった。それと同じ事が、我々人類に起きても、基本的に不思議じゃない。

 ただ、直径が1キロ以上もあって地球に接近してくるような天体は、ほぼ軌道がわかっているし、衝突するとしても突然やってくることはない。何十年か前には、軌道から予測できるので、本気で世界が協力すれば、こういう天体の衝突は防げるだろう。

 もっとも、直径数十メートル以下の天体だと小さくて見つけにくいから、場合によっては発見から数日で地球に衝突ということもある。ちなみに1908年にシベリアのツングースカ隕石は、直径100 キロの森林をなぎ倒しているけれど、この大きさがほぼ60メートルだ。破壊力はTNT 火薬20メガトンほどで、日本に落ちた原爆の1000倍にあたるから、当たり所によっては被害は大きいだろう。

 ところでガンダムワールドでは、これとよく似た恐ろしい事件が何度も起きている。そう、あのコロニー落としだ。

 最初のコロニー落としは、ジオン公国が独立を目指したブリティッシュ作戦で、この時は、地球連邦政府の軍事的拠点であったジャブロー(南アメリカ大陸)の破壊を狙って、サイド2のコロニーの1基が落とされた。ただ、途中で崩壊したコロニーは数個の塊となって落下し、これによってオーストラリア大陸の3分の1、北米アメリカ大陸の4分の1が潰滅したという。この時の戦闘で、全宇宙の人口の半分にあたる50億が死んだというけど、うーん、そんなすごい戦争ってあり得るのかね。ちなみに、第二次世界大戦の死者は、およそ6000万人で、これは当時の人口の3パーセント未満だった。

 このほか、0083で1個、ZZで1個落とされ、さらに逆シャアではフィフスムーンという小振りの天体が落とされている。より大きなアクシズの落下は回避されたけれど、こんなにバカスカ色々落として、良く地球は無事にすんでいるね。……というわけで、実際コロニー落としの破壊力はどれくらいにか、ちょっと計算してみよう。

 これは、コロニーが地球に衝突するときの運動エネルギーを計算すればいい。つまり、衝突するコロニーの質量に、衝突速度の自乗をかけて、2で割れば導ける。

 まず島3号タイプのコロニーは、質量が3000万トン、つまり、3×10の10乗キログラムくらいだ。次に衝突速度はどれくらいかというと、最低でも第一宇宙速度の秒速7.9 キロメートルより大きく、最大でも第2宇宙速度の秒速11.2キロメートル未満になる。

 そこで、秒速11.2キロでの運動エネルギーを計算してやると1.88×10の18乗ジュール、つまり4.5 ×10の17乗カロリーになる。これを爆弾の爆発力に換算すると、TNT 1メガトンが4×10の15乗カロリーなので、112.5 メガトンってところだ。

 これはツングースカ隕石よりもエネルギー規模が大きいから、当たり所によって、世界にそこそこのダメージを与えるかもしれない。

 ただ、コロニーは直径5キロ、長さ30キロのドラム缶みたいなものだから、こういうスカスカのものがぶつかった時、どんなことが起きるかは、ちょっと解らない。大きさ的には直径でさえ富士山よりデカいけど、壁の厚みは10メートルくらいだろうから、案外、大気の上の方で燃え尽きてしまう可能性もある。
(直径10メートルの天体なら、秒速20キロでも大気で燃え尽きて地上に影響はない)また、広い範囲の大気で燃えるとしたら、エネルギー密度も小さくなる可能性もある。もちろん、これだけのエネルギーが大気中に放出されるんだから、地球の大気のダイナミズムになにがしかの影響を与えて、気象がしばらくヘンになるというようなことはあるかもしれないけれど、直接的に地上が爆破されるほどではないかもしれない。また、この程度のエネルギーでは、核の冬にはならないしね。

 こうしてみると、コロニー落としって、苦労の割に破壊力に乏しい攻撃法じゃないかと思う。それなのに、なぜ宇宙世紀の人々は、これをそれほど畏れるのだろうか。

 これは現代の核兵器に対する感じかたに近いのかもしれない。核兵器は恐ろしい。が、それはある意味で象徴的な恐ろしさだ。現代の核兵器は、大きいもので1メガトンくらいだけど、これだって使い道がほとんどないので、いまではサブキロトン級のものが大半だ。(大きいと、重くてミサイルの命中精度が落ち威力が無駄になる)単純に破壊力でいうなら、気化爆弾のほうが大きかったりする。でも、「核」という言葉がつくと、破壊力の絶対値よりも、遙かに大きな意味がそこに現れる。それと同じで、コロニー落としも、使用されてはならない象徴兵器なんだろう。

 ただし、逆シャアのアクシズ落としは、それとは意味が違う。何しろアクシズは、内部までミがみっしりつまった小惑星だから、めちゃくちゃ重いはず。大きさを知らないので何ともいえないけれど、直径1キロとすると10万メガトン級にはなる。これだと1~5年間は世界平均気温は0度以下になるし、人類が滅ばなくても地上文明は壊滅するだろう。
 つまり、シャアの小惑星落としは、ホントにホントの危険な攻撃だったわけだ。

最終更新時間 00:03 | コメント (1) | トラックバック

連邦軍と未来の戦争

 地球連邦とは、一体どういう存在なのだろうか。

 初期のガンダム・ワールドの中で、それはひとつの大きな勢力を担うものとして登場はする。しかし、その実体については、余り詳しく描写されたことがない。

 地球連邦というからには、現代の国家という区分けを越えた、全地球的な組織であるのだろう。また、一年戦争以前は、スペースコロニー群のすべてが、基本的に連邦という組織に属していたことは間違いないようだ。

 このことから、おそらく、地球上だけで人類が生存を続けていくのが困難になった時代に、宇宙への移民を推進するため、全世界的な協力体制が必要となって誕生したのが、この連邦という組織だと推測できる。

 しかし、高い志で誕生した組織も、一世代、二世代と経るうちに腐敗が進み、スペースノイドからひたすら搾取を続ける、硬直した官僚システムに堕してしまった。実際、1000年後のターンAガンダムの世界からみたガンダムは、体制側に与してスペースノイドの独立を阻んできた、悪魔のようなマシンと認識されているわけだ。

 この圧政に対抗するため、ジオン・ズム・ダイクンはスペースノイドの独立を試み、後のザビ家による一年戦争へとつながっていく。とくに、初期のブリティッシュ作戦は、連邦側に壊滅的なダメージを与え、それによって連邦組織も寸断されたのだろう。一年戦争以降の連邦は、その後の急場しのぎで再構成された不完全なものだったと考えられる。

 連邦とジオン皇国を比較すると、ジオンは軍事国家で、その姿は第二次世界大戦当時のドイツをベースにしているようだ。ジオン軍を概観すると、非常に規律正しく、ある美意識が背後を貫いているように見える。また、戦士たちには、何のために戦っているのかという自覚があって、人間的にしっかりした人物が多く見受けられる。もちろん、一年戦争発端の、ジオン側住人の動機が圧政からの独立運動だから、これは当然かも知れないが。

 ところが連邦軍には、あちこちに、当事者感覚のない、無能な官僚のような上官がいる。どうして俺が戦わなくちゃいけないんだとか、できれば危険は避けたいとか、戦いに対して前向きの意志の感じられない人間が多い。

 また、上官の命令を無視してもほとんど咎められないような、現代の感覚からすれば不思議なことが頻繁に起きる。これは軍事組織を描いたものとしては、ほかに例のないくらいユニークな姿だ。とくにホワイトベースは、身内みたいなメンバーだけで行動しているせいもあるだろうが、それにしても軍隊の規律というようなものが、全く感じられない。

 もちろん、これは70年代終わり頃の若者と親や教師との関係を象徴させたものだから、こうなっているのではあるのだけれど。

 しかし、その点を除いても、ひょっとすると、未来の軍事組織がこんな感じになっていく可能性は、あるのではないかと思う。

 豊田有恒のSF小説に『ぼくのスペースオペラ』(早川文庫JA『両面宿儺』収録)という中編がある。これは後に、『スペースオペラ大戦争』(新潮文庫)という長編にもされているんだけど、その基本のアイデアが、未来戦争のひとつのカタチを予言しているようで、なかなか面白い。

 プロットを紹介すると、舞台は31世紀の未来世界。平和なこの時代に、突如、宇宙から昆虫型の侵略者が襲来する。彼らの文明は人類と同等で、軍事テクノロジーもほぼ互角といったところだ。ところが、人類は文明の高度化にともなって、戦争をする意欲を完全に失っており、連戦連敗。ついに存亡に危機にさらされる。困った未来人たちは、過去から歴史上の偉大な戦士たちを招聘して、その侵略に対抗しようとした。もちろん、それで歴史が変化しないように、過去の戦士たちは、いずれも歴史上の死の瞬間に転送される。

 主人公はこの計画で、何かの手違いで未来に呼ばれてしまった、20世紀のしがないライターだ。一見、何の役にもたちそうにない彼だが、やがて未来を救う重要な役割を担うことになる。歴史世界から未来に呼ばれた戦士たちは、はっきりいって野蛮人ばかりで、軟弱な未来人の言うことなんか聞いてくれない。そこを主人公が、歴史の知識を利用してうまくリードしていく。たとえば、神に敵の心臓を供物として捧げる信仰を持つ部族には、ここが敵の心臓だと教えて、戦闘の意欲を持たせてやるわけだ。

 未来の戦争は文明人同士の戦争なので、武器もレーザー光線みたく、敵をシャッと一瞬に蒸発させてしまう。血の一滴も流れない、とても清潔な戦いだ。主人公の目から見て、その戦争はまるでゲームみたいに軟弱なものだった。(そうか、『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモトヨーコ』はこれがもとネタかな)

 しかし、野蛮人たちの戦いかたは、血と肉片の飛び散る、おぞましいものだった。そして、文明度の高い昆虫型宇宙人は、そのあまりの恐ろしさに圧倒されて、敗北していく。

 この作品の話はコミカル・タッチなんだけど、おぞましい戦い方は相手を圧倒するということと、未来の戦争は非常に清潔だということは、この小説の優れた洞察だと思う。

 実際、たとえばアレクサンダー大王やチンギス・ハンがあれほどの世界制覇をなしとげたのは、ところどころで常識を越えた殺戮を行なったからだ。たとえば、チンギス・ハンは、町を襲って住人を全て虐殺し、そのしゃれこうべで山を作ったという。

 こういう話が噂として伝わると、それが力を持ち始める。こいつらは正気じゃない、まともにやり合ったら命がない、と敵に思わせることができれば、戦わずして勝てたり、戦いを有利にすすめることができるのだ。

 大阪にある国立民族博物館で、古代の武器の展示を見たことがある。そこには、先がふくらんで、不規則にイボイボのついた木製の棍棒や、刀身に動物の歯を植え込んで、鋸みたいになった木製の剣などが展示されていた。

 この武器は、合理的に判断すると、殺傷能力はほとんどない。でも、その武器はものすごく恐ろしげに見えて、こんなんで殴られて頭が変なカタチにへこんじゃったら嫌だなあとか、この剣で切られたら傷がギザギザになって痛いだろうなあとか、とにかく、これを持った人とは争いたくないと感じさせる、すごい迫力を放っていた。

 戦いは人と人が対決する限り、その心理が非常に大きな力を持つ。ある種の物語が、客観的な尺度で測った力の大きさ越える力を、発揮させるのだ。
 ガンダムワールドにおいて、ガンダムはいつも、天才的なニュータイプのパイロットが駆る、圧倒的なモビルスーツだった。

 その姿は、ちょうど戦国武将や、第一次大戦初期の、エースパイロットに近い。彼らは、敵に対しては、とてもかなわないと思わせ、味方に対しては、一緒に行動すれば必ず生きのびられると安心させる、物語を持っている。だから、彼らは白いモビルスーツ、赤いモビルスーツといった、はっきりと存在をアピールできる機体に乗っていたわけだ。

 でも、こういう物語性は、冷徹に戦力を計算する近代戦争には、あまりなじまない。実際、ファースト・ガンダムの中でも、ホワイトベースはおとりだと言われていた。この時代の戦争においても、エースパイロットが活躍できるような場面は、巨大な戦争の流れの中の、ほんの傍流にすぎなかったのだろう。

 第一次世界大戦の後半または第二次世界大戦以降、戦争は非常に科学的に、合理的に考えられるようになった。いかに効率良く、こちらの損害を最小限に抑えながら、相手の兵力を奪うかを、計算するようになった。

 たとえば、対人地雷なんていうのは、その合理性を追求した武器のひとつといえる。対人地雷は、100円以下の非常に低コストで作ることができ、それを踏んだ人の手足を吹き飛ばして重傷を負わせるが、命は奪わない。なぜなら、重傷者が生きている限り、その世話をするために何人かが必要になるので、その部隊の行動力や戦力を効果的に引き下げることができるからだ。しかし、殺してしまっては、その犠牲者を放置して部隊が進行できるため、戦力の削減効率は相対的に劣ることになる。冷酷だが合理的、それが近代戦争のひとつの方向性だ。

 しかし、ここに非人道的な兵器という考え方がある。実際、対人地雷は非人道的な兵器として、いろいろな困難はあるものの廃止の方向に向かいつつある。

 戦争なんてそもそも非人道的なものだから、そんなのナンセンスと思う人もいるだろう。

 しかし、今や戦争は、ただの人の殺しあいではない。国家間の利害を調整するための、最も過激な方法であって、最終目標は相手の破滅ではない。戦争が終わった後の、相手のことも大いに意識する必要がある。だから、戦争といえども無法であってはならず、過剰に被害を大きくしないようにする必然性がでてくる。そのキーワードが、人道的か否かということだ。

 これはとても文明的な思考で、ぼくのスペースオペラで、未来人が文明化によって戦争意欲をなくすという洞察が、具体的にはこういうカタチで進みつつあるのだと思う。戦争というものに対するイメージが、徐々に変わり、しだいに安全に、誰も傷つかないものになっていく。

 実際、80年代、90年代のアメリカの戦争のやり方は、可能な限り自国の兵士を安全に、傷を負わせないように、努力が払われているように見える。その理由は、議会が一人の死者、一人の捕虜の存在にも強く反応して、戦争継続に異を唱えるからだ。そして軍事テクノロジー開発の基本姿勢も、この方向に向いていると思う。ステルス機や、赤外線暗視装置のように、敵には見えず、味方が一方的に攻撃できる装備や、TMDのようなミサイル防衛システムなどは、その具現化した例だ。

 また80年代のドラマ、スタートレック・ネクストジェネレーションでは、戦艦であるエンタープライズ号で、全ての乗組員が、豪華な個室を持ち、ゆったりと自分の趣味を楽しむことができる。ネクストジェネレーションの連邦は、純粋な軍事組織ではないけれど、これはつまり、軍艦であっても、やがては居住性や快適性が、大きな問題になることを予見しているのではないだろうか。

 それは今の感覚からすると、非常に軟弱で軍隊らしくない。この上なく安全で、快適な環境の軍隊。そこからは、軍人であるにもかかわらず、平和ぼけして軟弱で、爪のささくれでも泣き言をいうような人間が、生まれてきても不思議はないだろう。

 そういえばJCOの臨界事故だって、システム的には、これ以上ないくらい安全に設計されていた。そのシステムを使う限り、臨界は原理的に起きないから、放射線の警報装置も設置されていないし、監視用のテレビカメラさえなかったわけだ。その安全性に身をまかせきりにして、いつしか当事者感覚を失った作業員たちが、常識では考えられないような違法な操作を行い、事故につながった。

 技術によって安全を確保するのは、今の世界の趨勢だ。ぼくたちは、すべて技術という殻につつまれて、従来不可能だったことを可能にする巨大な力を手に入れ、同時に、安全性も確保されるようになっている。つまり、目に見えないモビルスーツに包まれている。

 自動車のエアバッグは、運転者の安全性を高めるための装備だ。しかし、これによってかえって無謀運転が増え、結果として、悲惨な事故はそれほど減っていない。しかし、エアバッグの代わりに、槍でも飛び出すようにしたら、誰も無謀運転はしないだろう。

 おそらく連邦は、地球の長い歴史と文化の積み重ねを背景に、圧倒的に行き届いたテクノロジーを備えるようになったのだろう。その安全このうえないシステムに包まれて、力は強大だが、精神的には軟弱な人々が生まれたのではないだろうか。そしてその軟弱な人々と、開拓者であるタフなスペースノイドたちとの精神的なすれ違いが、一年戦争の悲劇へとつながっていったのかも知れない。

最終更新時間 00:02 | コメント (0) | トラックバック

ガンダム世界の巨大モビルスーツ

 ターンAガンダムは、地味だけどわりと面白いよね。

 それにしても、これは0079より1000年以上未来の話らしいけど、スペース・コロニーの住人は、いったいどこへ行っちゃったんだろう。

 理論的には、スペース・コロニーに人類が住むようになったら、より広い宇宙に拡大していくことはあっても、コロニーを捨てるようなことはないはずなんだけどなあ。

 テクノロジーもいったん途切れているみたいだし、コロニー落としでもやりすぎたんだろうか。それとも多くの人々は、他の太陽系を目指して出て行ったのかな。

 まあ、それはともかく、ターンAのモビルスーツたちは、これまでのモビルスーツとはひと味違ったところがあるよね。シド・ミードのデザインってこともあるけど、こりゃあ面白いなって思うのは、みんな移動するときに、小走りにになっているってことだ。キビキビしていて、とてもよろしい。

 いやしかし、実はあれは、ひょっとすると、ちゃんと意味のあることかも知れない。

 近頃は、ホンダのヒューマノイド「P3」が、ニューヨークあたりの地下鉄の駅から歩いて出てくるご時世だから、ロボットが歩くことくらい、もう解決済みの問題と思われているかも知れない。

 でも、歩くというのは相当奥が深い問題で、見かけ上歩いているというだけでは、まだまだ入り口に過ぎないんだよね。

 たとえばP2が歩くところをそばで見るとわかるけど、足裏にゴムのショックアブソーバーがついているにもかかわらず、ドシンドシンとものすごい足音を立てていることがわかる。これは体重が130キロもあることも原因だけど、でも人間なら、もっと重い相撲取りだって、全く足音がしないように歩くことができるのだ。つまり、歩くことの中には、まだ工学的に十分に解明されていない、たくさんの内容が含まれているわけ。

そういうものを解明できるまでは、本当の意味で歩くメカができたとはいえないんだよね。

 さて、そのうえで、ガンダムのような巨大なモビルスーツが歩くっていうのは、さらに難しい問題がある。

 人間の普通の歩きかたは、専門用語で動歩行という。つまり、体の重心から下ろした垂線が、地面についている足の範囲から出る状態のある歩行だ。

これに対して、歩くロボットのおもちゃなんかは、重心からの垂線がいつも足裏の範囲に収まっていて外に出ることのない静歩行という。

動歩行は、ちょうど自転車と同じで、動いているときは安定しているけど、動きの途中で突然動きが止まると、そのままばたんと倒れてしまう動的な安定性を持った動きだ。そしてこれは、重力のエネルギーをうまく移動エネルギーに変換できるので、静歩行に比べて遙かに省エネになる。

 そこで、人間の歩き方を観察すると、体の重心が前方に倒れていっては起き上がり、倒れていっては起き上がりということをくり返していることがわかる。

この動きを、地面が後ろに動いていて、足の裏が同じ場所に下ろされていると考えると、メトロノームの動きというか、逆立ちした振り子のように見えてくる。つまり動歩行は、体の重心と足裏を結んだ倒立振子で近似できる運動なんだよね。

そのため、重心から足の裏までの長さが等しい歩行動物や歩行機械は、同じ性質をもっていると考えることができる。

 それで、この地球上に存在した最大の2足歩行動物は何かというと、それはあのティラノサウルスだ。

ティラノサウルスは身長は5~6メートルだけど、歩くときの姿勢や股関節の位置から推定すると、重心は地面から4メートルほどのところにある。

つまり、地球上でも、足の長さが4メートルの動歩行メカは作れるだろうってことだ。

そういえばターンAにはティラノっぽい走り方をするメカも出てきたよね。ただ、ガンダムの場合は、ファーストでも人間の10倍くらい(18メートル)もある。当然、足の長さも9メートルはあるから、それだけでも相当難しそうだ。

 このガンダムが歩けたとして、どれくらいの速度になるのだろう。
 動歩行のように、重力が重要な働きをする運動の場合、無次元速度という係数が同じ値になる動物や機械は、動力学的に全く同じ運動とみなすことができる。この無次元速度というのは、ようするに船などを作る時に、模型で流れの抵抗の様子などを見るシミュレーションで使われるものだ。

 CGがなかった頃の特撮では、ミニチュアの船をプールに浮かべても、船に見合う大きさのさざ波は、動きが速すぎてリアリティがでない。そこで、スローモーションで見せると、本物の感じに近くなるってテクニックがあったけど、これは実は、無次元速度をあわせているということなんだよね。

 この無次元速度を歩行動物やロボットに適用すると、

           歩行速度
 無次元速度= -----------------------
 √脚の長さ×重力加速度

 という式であらわされる。つまり、足の長さがn倍の時、移動速度は√n倍になる。

 人間がかなり早足で歩くときの速度を、時速7.2キロ(秒速2メートル)くらい、脚の長さを0.9メートルくらいとすると、無次元速度は0.7前後の値だ。実は人間を含む哺乳類や鳥類では、歩くときの無次元速度はだいたい0.7以下で、それ以上になると走っている状態(両足が地面についていない瞬間がある)ことがわかっている。

 つまり、身長が人間の10倍あるガンダムなら、歩行速度の最大値は、時速23キロくらいで、これ以上は走る状態になるわけだ。

 また、歩行周期も√n倍になるので、一歩の周期は3倍くらいで、その動きは遠目にスローモーションのように見えるだろう。

 逆にいうと、ガンダムのような巨大な2足歩行メカが、人間と同じペースで動いているように見える時は、歩くことは不可能で、自然に走る状態になる。つまり、ターンAの小走りは、理論的にはとても正しい動き方なんだよね。


 この無次元速度とは、歩行速度を、脚の長さに重力加速度をかけたものの平方根で、割ったものだ。そのため、足の長さがn倍のものなら、移動速度は√n倍になる。

最終更新時間 00:01 | コメント (0) | トラックバック

ニュータイプとは何者か

前に予告したとおり、本日午後11時からBSデジタル11チャンネルで、ガンダム特番が放送される。
で、それに出演したので、そこでしゃべっている事の元ねたというか、詳細版をアップします。

と、いっても、これは1998年からアスキーから出版された、「G20」というガンダム20周年記念雑誌に連載していたものを、少し修正したもの。

つまり、もう10年近く前に書いたもので、ターンAの話とかJOCの話とか当時の世相に関係した話もでてきたりする。でも、本質的なことについては、今でも古くはなっていないと思うんだけどな。

--------------------------------------------------------------------

 ニュータイプとは、いったい何者なのだろうか?

 ファースト・ガンダムの中でのそれは、古くからある、ありきたりの超能力者――念動力者や、超感覚能力者とは、違うものとして描かれていた。

 ニュータイプの存在を、世界に向かって最初に説いたのは、ジオン・ダイクンだったという。彼は、「ニュータイプは宇宙世紀に適応した人の革新であって、人は現在以上に認識力が拡大し、よりわかりあえるようになる」と主張した。その「人の革新」とは、一体どんなものなのだろうか。

 ニュータイプとして覚醒したアムロは、エルメスのビットの動きを「みえる……みえるぞ!」と予測して攻撃したり、相手の意図を感じて背後からの攻撃をかわすようになっていく。飛びぬけたカンの良さと先読みの能力が、アムロを伝説のエースパイロットにしていったわけだ。

 また、アムロとララアは、戦いの中のほんの短い交流で、お互いを深く理解しあうようになる。それぞれがどんなしがらみを持ち、どんな思いで戦っているのかが、一瞬の交感で明らかになったのだ。

 そして同じ現象が、アムロとシャアの最後の白兵戦でも起きている。ただ、すべての事情を了解しあえたからといって、争いをやめられるわけではないところをみると、業の深さにおいて、ニュータイプもオールドタイプも、大差ないようではあるのだけれど。

 これらの現象は、相手の心を、あたかも自分のものであるかのように共感し、感じ取る能力の現れだったのではないだろうか

 この能力を一言でいうなら、優れた洞察力というのがふさわしい。洞察力とは、少ない手がかりから、物事の全体像を正確につかんだり、他者の心に深く共感できる能力のことをいう。そして、もしニュータイプが洞察力に優れた新人類だとすると、これは現実の進化論の延長上に、面白い解釈ができるだろう。

 さて、その前に確認しておかなければならないことがある。それは、進化とは一体何かということだ。なぜ、今さらそんなことをいうのかと思われるかもしれないが、実は進化という現象は、多くの人に誤って理解されているのが現状なのだ。

 進化とは、生物がより優れたものに変化することだ……こういって疑問を感じる人は、ほとんどいないだろう。ところが、これは進化ではないのだ。これは進化と進歩を混同した、完全な誤解にすぎない。

 進化とは、ただ、長い時間とともに生物が変化することをいう。そこには、より良くとかより悪くという価値観はない。現代の分子生物学や、集団遺伝学を加えた進化論(総合説)では、進化の定義は「遺伝する変化」といった程度のものでしかないのだ。

 この他にも、進化を巡っては誤解がたくさんある。たとえば、生物の世界は最適者生存、弱肉強食だといわれる。下手をすると、進化論が専門と自称する学者まで、そう思っていて困るのだが、これはダーウィン進化論の考えではない。弱肉強食の思想は、古くからヨーロッパの土着文化としてあったもので、実は進化論とは無関係なものなのだ。

 ダーウィンの真の独創性は、自然界を精密に観察した結果、その古い考え方は正しくないことに気がついたことだった。

 ダーウィンの進化論では、生物は自然淘汰で進化するという。これはつまり、生物は自然に添う形に変化するということだ。自分をとりまく環境が変わると、それに収まりの良いものが選ばれて、生物は変わっていく。つまり、生物の変化は受動的なものなのだ。これは、いわゆる弱肉強食の競争原理とは、全く違った性質といえる。

 これに対して、ラマルクの進化論は、生物はこうなりたいと望むものに変化すると考えた。キリンは高いところの草を食べたいから首が伸びたというように、進化を能動的なものと思っていたわけだ。

 また、最適者生存という言葉は、個人主義の思想を提唱した社会学者のハーバート・スペンサーによるもので、正確にはダーウィンの言葉ではない。さらに、ダーウィンもスペンサーも、どちらの思想もいいかげんにしか理解せず、古臭い考えを権威づけるためだけに、その名を利用する者が現れた。

 これを社会ダーウィニズムといって、彼らは、生物が進化する原因は最適者生存といわれる闘争だから、人間社会においても闘争は不可避で有益であると主張した。そして、アメリカの大資本家たちが、これを労働者を搾取するための論理として利用したため、進化論とはそういうものだという誤った認識が普及してしまったのだ。

 さて、それではこの前提にたって、人類の進化とニュータイプについて、あらためて考察してみよう。まず人類が属する霊長類が、他の動物と際だってちがう点は何だろうか。

 それは、脳が非常に大きいということだ。

 霊長類は、他の一般的な哺乳類と比べて、体重比で平均2倍の脳を持っている。なかでも大型類人猿(ホミノイド)の脳は巨大で、たとえばチンパンジーの脳重は、同じ体重の哺乳類の平均に比べて5倍もある。そしてヒトの場合は、その値が11倍にもなるのだ。

 しかも、脳重量の増加ペースは、一般の進化速度に比べてかなり速いほうだ。実際、現世人類の脳は、300万年前のアウストラロピテクスに比べて、3倍になっている。

 一方、人間の脳は、成人で体重の2パーセントほどの重さがある。ところがこの脳の消費エネルギーは、摂取したエネルギーの20パーセントにも達するのだ。たった2パーセントの部分が、全体の20パーセントのエネルギーを消費しているわけだから、脳とは恐ろしく燃費の悪い臓器といっていいだろう。

 こんな臓器が急速に進化し、しかもそれを維持しつづけていることに関しては、それなりに納得のいく説明が必要だ。

 一九九〇年代に入って、心理進化学という新しい分野が立ち上がってきた。これは主に、霊長類の心の進化を、生態学的な観察と分析から考えようとする学問だ。

 その文脈の中で、ヒトを含む霊長類の脳が、なぜ大きくなったかを説明する、面白い考え方が出てきている。それが、社会脳仮説(マキャベリ的知能仮説)だ。

 これは、イギリスの心理学者、リチャード・バーンとアンドリュー・ウィッテンによって提唱されたもので、霊長類が大きな脳を持つのは、我々が非常に複雑な社会システムの中で暮らしているからだとする。

 霊長類の色々な種類について、脳の大きさと、生態学的特徴との関係を調べてみると、食物の種類や、どれくらいの範囲を活動するかという遊動パターンなどとは、関係しないことが明らかにされている。では、何が相関するかというと、それは社会集団の大きさだ。

 つまり、霊長類では脳が大きいほど、基本的な社会集団のサイズが大きくなっている。

 霊長類社会の特徴は、複雑な政治的かけひきの存在だ。たとえばサルは派閥を作るのだ。

 ライオンなどの群れを作る動物も、協力関係をつくることがあるが、それは厄介な状況になったときの、一時的な同盟にすぎない。
 ところがサルは、将来の必要を予測して、数ヶ月前から協力関係を設定できる。しかもそれは、自分を助けてくれるか、敵対するかという、詳細な社会的知識に基づいている。

 サルの世界の政治抗争は、まるで人間の縮図で、たとえば派閥抗争で仲間がやられているのを見ても、怖じ気て助けにいけなかったりすると、後からやられた仲間に侘びを入れるのだ。あるいは、不倫関係にあるチンパンジーは、交尾のクライマックスで上げる大きな声を、意図的に抑制したりもする。これらの行動を行うためには、サルたちに、他者の心を推測する能力がなくてはならない。つまり霊長類は、複雑な社会で生き延びるために、洞察力を発達させてきた動物なのだ。

 社会の中で生き延びるのは、いちばんの「悪党」と組むのが適切だ。しかし、どうしたらそれができるかは、かなり熟考を必要とする。これに比べると自然法則は明快で、社会法則を理解するより、単純な情報処理で十分に対応していくことができる。つまり霊長類は、自然現象より遥かに難しい、社会の複雑さに対応するために、脳を増大させてきたのではないか。そして、その傾向の最先端にあるのが、人類ではないか、というわけだ。

 人類の洞察力は、社会集団の中で生き延びるために発達してきた。まあ、先にあげた例は皮肉な感じのするものばかりだが、こういう洞察力があるから人間は相手の気持ちを汲みとったり、共感や同情ということができるわけだ。また、文学や芸術、それにスポーツ観戦などで感動できるのも、人間の優れた洞察力のおかげだろう。人間を、良くも悪くも人間らしく生き生きとさせる能力。それが洞察力なのだ。

 こうしてみると、ニュータイプは、これまで霊長類がたどってきた洞察力の進化の流れを、さらに進めた存在と考えることができそうだ。洞察力に優れた彼らは、たぶん政治に関して、旧人類以上に複雑な駆け引きができるのだろう。つまり、宇宙時代の戦争のきっかけは、そういうニュータイプたちの、駆け引きの中から生じた物なのかもしれない。

 その一方で、ニュータイプは人間以上に、互いを深く理解しあうことができる。たぶんそれは、どちらか片方だけを取り出すことのできない、裏腹の関係にある性質なのだろう。

 ところで、Ζガンダム以降、ニュータイプに対抗する存在として、強化人間が登場する。これは、優生思想のガンダム・ワールド版といっていいだろう。

 優生思想は、民族から遺伝的に劣ったものを取り除き、優れたものを選抜して、人間を改良しようとするものだ。これは、倫理的に問題があるとされている。実際、ナチスはこの考えに基づいて、精神病者や先天障碍をもつ人々を断種殺害し、されにその考えを拡大して、一方的に劣等とみなしたユダヤ人を虐殺していったのだ。

 しかし、倫理には、時空を超える普遍性はない。自分の子供は優秀であって欲しいと願う親の気持ちが悪でないとすれば、いつか我が子の遺伝子改良を望む親が出てくるのは、妨げることができない必然かもしれない。

 しかし、それにも関らず、こういう考え方は、そもそも無意味なものではないかと思う。

 優生学は、動植物の品種改良の成功が基礎になって生れたものだ。たとえば作物の収穫量を多くするとか、特定の病気に強くするとかいった改良は、人類の歴史の中で非常に成功したことだった。この手法を人間自身にも適用して、人の優良品種を作るのは、一見うまくいきそうな感じがある。しかし、この考え方には大きな落とし穴がある。

 品種改良が成功するのは、その目的が明確に設定できるからだ。ところが、人の品種改良には、そういった目的が設定できない。できると思うのは、実は幻想なのだ。

 たとえば、より優れた性質を持たせたいといっても、その優秀性の中身が何かは、決められない。たとえば、仮に頭をよくするとして、その頭の良さとはいったい何なのだろう。

 知能指数なのか、それとも記憶力なのか。

 仮に記憶力だとして、それを飛躍的に高めた結果、嫌な思い出も忘れることができず、気分が落ち込んで自殺しやすい人間になってしまうかもしれない。

 洞察力の優れた人間をかけあわせて、より洞察力のある人を作れたとしても、その人はシャアのようにエキセントリックで、現実と妄想の区別がつかなくなって、自滅しやすい性格になるかもしれない。

 ある性質が優れていると思うその内容は、しょせん、ある時代、ある環境においての、限られた優秀性に過ぎない。

 進化はこれまで、生命のバリエーションを増やす方向に動いてきて、どうやらこれは生命が連綿と続く限り、必ず起きる変化のようだ。つまりこれこそ生そのものの姿で、ニュータイプは、宇宙という新しい環境に添うように多様化していく、人類の子孫たちの先駆けだったのだ。

 一方、優生学に基づく強化人間は、ある時代ある状況で発想された、狭い了見に基づく形に人の未来を押し込めようとする、バリエーションを減らす方向の考え方だ。

 それは間違いなく、進化とは逆むきの行為だったといえるのではないだろうか。

注:今にして思えば、このコラムで使っている「洞察力」とは「心の理論」と言い換えても良いだろう

最終更新時間 00:00 | コメント (0) | トラックバック