予告・12月1日にテレビに出るよ
先々月BSアナログハイビジョンが終了した。
家のテレビには、アナログハイビジョンをロービジョン(とはいわんか)に変換して見られるデコーダーがついていて、先月いっぱいは、終了のお知らせが表示されていた。
今月からはそれも消えてノイズのみ。
この空きチャンネルを利用して、12月1日から、BSデジタルハイビジョンの11チャンネルがはじまる。TBS系列なのかな。
で、その12月1日、開局日の午後11時から、2時間枠で開局記念のガンダム特番が放送されるんだけど、それに出演します。
なんか番組がまだ少ないので、正月くらいにかけて何回か再放送されるらしい。
それと、12月3日以降に、随時yahoo動画にアップロードされていくとのこと。
ぼくの出番は少し先になるみたいだけど。
『亡国のイージス』や『ローレライ』の福井晴敏さんと、眞鍋かをりさんがゲストに話を聞くという形式で、ゲストは武邑光裕さん、寺園淳也さん、布施英利さんとオレ。
オレは巨大ロボットがらみで呼ばれたんだけど、まあそれ以外の文明論とかのはなしもいちおうしておいた。どう編集されるかは知らないけどね。
あと、オレは当然、BSデジタルチューナーなど持っていないので、この番組をリアルタイムに自分で見ることはできないのよね。
12月1日の放送時間以後に、この番組で話した内容をより詳しくした文章を、このブログに上げる予定。まあ、昔G20というガンダム20周年専門誌があって、そこに書いた記事の再録だけど。
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知人の訃報に接する
少し前のことだけど、某ソーシャルネットワークのマイミク(といったらバレバレか)の一人が亡くなった。
享年37歳。
残念なことだ。
実は、彼とは一度も会ったことはない。
全く面識のないマイミクはほとんどいないのだが、その一人だった。
ワールドコンで会えるかなと思っていたけど、そのときはすれちがい。
そのうち、うまいものでも食べながらゆっくり話そうといっていたのにな。
かれはIPv6分野で日本で二番目に偉い人と自称していて、それは事実そうだったのだろう。
きわめて優れたソフトウェア技術者だった事は間違いない。
実際、ぼくらがインターネットを利用するとき、必ず彼のコードを利用していて、それは50年後の
未来でもおそらく変わらないという、それくらいの人だ。
彼とマイミクになったのは、彼からの申請があったからだ。
だが、その申請のメッセージは、到底初対面の人間に書いてくるようなものではありえない、
かなり無礼なものだった。(IPv6で日本で二番目にえらい人とそこに書いてあった)
あまりにひどい内容なので、さすがにちょっとムカッときて、承認しなかった。
でも、よくよく考えると、その無礼さはあまりに無礼すぎて、どこか奇妙な感じだった。
いくらなんでも、普通の人はここまで無礼になれないんじゃないか。
(なにしろ、IPv6のことを話してあげる、「作文」はまかせたとか書いてあったのよねん)
そして、おそらくは非常に優れたソフトウェア技術者であること。
あ、なるほど。
瞬間的な怒りが収まってみると、彼のメッセージの意味することは明らかだった。
彼はアスペルガーに違いない。
だから、別に無礼に振舞ったわけじゃなくて、正直すぎるのであり、文脈というものの把握が苦手(いわゆる「空気が読めない」)なだけだったわけだ。
で、そのことに思い当たって、逆にオレから申請してマイミクになった。
オレがその申請メールで、アスペルガーでしょって書いたら、彼は驚いていた。何でわかったのって。
でも、そのことを彼に説明するのは難しい。どうやって、オレがそれを見抜いたかわかってもらえるか色々考えてみたんだけど、結局それは果たせず。
メールのやり取りで、ビルゲイツもアスペルガーらしいよって書いたら、それはイヤだなあって言ってた。でも、アレクサンダー・グラハム・ベルと、チューリングという、コンピュータとネットワークの元祖も、やっぱりアスペルガーだったって話をしたら、それはいいなって。
彼にはたくさんマイミクがいたし、博覧強記である個性を生かして、専門分野やSFファンの中にも友人が多かったようだ。とくに研究者とかSFファンの中にはアスペルガー傾向の人がすごく多いので、それに対する耐性が強いから、受け入れられやすかったんだろうね。
アルペルガーの人には視覚優位の人が多く(物事を絵として理解する)いるので、プログラムとかを書くときもそういうものなのかと尋ねたら、自分はプログラムは無意識に書けるのでよくわからないとのこと。
神経学的多数派は、文脈を読むことや他者の心を勘ぐること(いわゆる心の理論)を、無意識的に常時休みなくおこなっていて、それをやめることはできない。これは他者のごくわずかな反応、目線、表情のタイミング、言葉の間合いなどを手がかりに、論理的には必ず正しいとは言えない可能性について深く推論しなければできないことで、膨大な神経資源を費やしていることは間違いない。ヒトはチンパンジーに比べて3倍の脳容量をもっているけど、その大半はこの情報処理に割り当てられているのかもしれない。
おそらく、彼のような天才は、多数派がいわゆる心の理論に費やしている膨大な神経資源が、プログラミング能力に割り当てられていて、そのために、無意識にプログラミングができるというような、多数派にはまねのできない能力を獲得していたのだろう。
神経学的マイノリティであり、マイノリティであるがゆえに、多数派の社会の中ではとかく生き辛いアスペルガーの人々の中でも、彼は比較的幸せな人生を送れていたのではなかったのか。もちろん、そうはいっても、苦労は多々あったに違いないけれど。
本当に残念なことだ。
その後、別のマイミクさんから、すごく良い本を紹介して貰った。
この人も、アスペルガーとは深いつきあいのある人だ。
本のタイトルは、『あなたがあなたであるために』(中央法規)
アマゾンではこちら
薄くてすぐ読める本だけど、多数派の人が読めば、神経学的マイノリティの人がどういう人たちで、どういう立場に立たされているか、かなり具体的に理解できる。
それはたとえば、右利きの人の多数いる社会での左利きの人のようなものだ。
左利きの人は、右利きが多数いる社会の中では、見えざる苦労にさらされる。
はさみも使いにくいし、自動改札を通るときの切符の入れ口にも不便さがある。
さまざまな見えざる苦労の存在によって、左利きの人の寿命は、右利きの人の寿命より短いという統計もあるくらい。
でも、多数派は、少数派のそういう苦労にはなかなか気づきにくい。
アスペルガーをはじめとする神経学的マイノリティの人も、同じように見えざる苦労を背負う立場だ。
また、この本は、アスペルガーの人がこの神経学的多数派の人たちの社会の中で、少しでも快適に過ごすための具体的な方法のヒントもたくさんかかれている。
この本は、自分はひょっとして神経学的マイノリティじゃないかと思い当たる人、あるいは友人や子供などの親族にその当事者がいる人にはもちろん超おすすめだけど、できる限り多くの人にも読んで貰いたいと思う。
単純に知的な興味としても面白いし、すぐ読めるにも関わらず、繰り返し読むほど味わいがある。
神経学的マイノリティという存在を、本人が自覚し、まわりもそういう存在があることを認めることで、世界はより良くなっていくと思う。この本はそのためのすばらしい入門書だ。
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再録 2001年に考える「2001年宇宙の旅」 その5(異質な知性たち)
キリスト教では、神は自分の姿に似せて、人を創ったとされる。そのため、人が神の真似をして、自分に似た存在=ロボットや人工知能を創り出すことは、不遜で倫理にもとるという考えがあるらしい。
実際、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』や、ロボットという言葉を最初に使ったカレル・チャペクの『R・U・R』(ロッサム・ロボット製造会社)などのように、人に似た存在を創り出した人間が、最終的に不幸な結末を迎える物語は数多い。
また、そんな昔の作品でなくても、『ターミネーター』や『ウエストワールド』などの映画(十分古いか(^_^;))では、ロボットは単純に悪役扱いになっている。
ただ、だからといって、キリスト教文化圏では、人工知能やロボットのことを、単に邪悪で、油断すると人に刃向かう危険な存在だとイメージしているわけではない。それどころか、フランケンシュタインのモンスターにせよ、R・U・Rのロボットにせよ、人間よりもピュアで清らかな心の持ち主として描かれている。
その彼らが、最終的に人間を破滅させるのは、結局のところ人間の、偏見や強欲、怠惰にその原因があるのだ。
フランケンシュタインのモンスターやロボットには、人に作られた存在であるがゆえの制約が与えられている。そして、その制約された存在と人が対比されることによって、人間性とは何かという問題が深く追求されていく。映像作品でいうなら、『スタートレック・ネクストジェネレーション』のデータ少佐は、この流れをくむ素晴らしいキャラクターだ。
これに比べて日本では、ロボットや人工知能に対するイメージに、緊張感がほとんどない。人も機械も違いはないじゃないのと気楽にとらえたり、全く別物であることに疑いを持たなかったり、それはもう、当たり前の存在なのだ。だから、ロボットや人工知能を題材に、西洋流の存在の奥深さに迫るような物語は描かれにくい。その雰囲気に近いのは、『8マン』か『人造人間キカイダー』くらいかな。
それでは、『2001年宇宙の旅』のHALはどうなのだろう。
前回書いたように、HALの反乱は、人が与えた矛盾した命令に原因があった。HALの心はあまりにピュアで、その反乱は、人の猜疑心や攻撃性を鏡のように映しだしたに過ぎず、本来の彼は限りなく誠実な存在なのだ。
ただ、この解釈は、クラークの小説があったから成り立つものだ。クラークは、HALのことを、首尾一貫してかなり好意的に描こうとしていたと思う。
たとえば、小説版『2001年宇宙の旅』の時点で、すでに反乱の理由が人間の側にあることが明確に説明されているし、続編の『2010年宇宙の旅』では、HALの誠実さを示すエピソードを描いて、その名誉の回復が図られている。
一方、キューブリックは、HALについて、そこまで好意的に考えていなかったようにも思える。映画の中に描かれた内容だけを見る限り、HALが人を殺したのは、自分の命を奪おうとする人間を、冷酷に排除しただけのようだ。
とくに、怒り狂ったボーマン船長が、HALを機能停止させようとする場面で、HALはずっと感情のこもらない、落ち着いた低い声で、君は冷静さを欠いているねとかなんとか語りかけ続ける。まあ、それはリアルな演出ではあるのだけれど、HALという存在の、人とは相容れない異質感を、強く印象づけるものでもあった。
この夏、キューブリックの構想を引き継いで、スティーブン・スピルバーグが完成させた大作映画『A.I.』が公開された。これも、人が作った知性体の物語だ。
この原作となった、『スーパー・トイズ』の作者、ブライアン・オールディスは「スタンリーは、いつの日か、人工知能が支配し、人類はその地位を奪われると確信していた」といっている。これが本当なら、キューブリックはやはり、HALのことを人に牙を剥く信頼の置けない存在と見ていたのかもしれない。
そして、スピルバーグの作品ではあるけれど、A.I.はやっぱりそういう話なのだ。
A.I.の試写は、世界のどこよりも早く、日本で行われた。それはたぶん、スピルバーグが、ロボットに対して世界で最も好意的な文化をもつ日本での反応を見たいということがあったのだろう。そしてまた、この作品は鉄腕アトムへのオマージュでもあるので、そのことに敬意を表したかったのかもしれない。
(キューブリックへのオマージュであることは、一目瞭然だけど、深く知るともっと面白い。それには、SFオンラインの添野氏の解説がお薦め。(残念ながらSFオンラインもすでにweb上から消えている)
この映画の主人公、ロボットのデイビッドは、難病で冷凍保存された子の身代わりとして作られた。デイビッドは、インプリンティングされると、永遠にその親を愛しつづけるようプログラムされている。しかし、実の子が新しい治療法の開発によって復活すると、家族にとってデイビッドは厄介者になり、ついには捨てられてしまう。
この展開は、アトム生誕のエピソードそのものだ。アトムの生みの親、天馬博士は交通事故でなくなった子(トビオ)の身代わりにアトムを作るが、生身の子のように成長しないことに失望し、アトムをロボットサーカスに売り飛ばしてしまう。
デイビッドもまた、捨てられ、ロボットサーカスそっくりのロボット解体ショーに紛れ込む。ピノキオの物語から、ホンモノの人の子になりたいと望むのも同じだし、お茶の水博士そっくりのドクターKNOWというキャラクターまで登場する。
まあ、ここまでならえー話になりそうだけど、残念ながらできた映画は、ロボットに対する不信感のカタマリみたいな作品になっている。泣ける話とか、愛の話とか宣伝されているけど、実際のあれは、ディズニー映画のテイストで作ったホラーって感じだ。
デイビッドは外見は人そっくりなのに、時々ぞっとするほど異質なふるまいをする。また、デイビッドの愛情は、ひたすら母に愛して欲しいと望むだけの、愛着に過ぎない。
人類が滅びたあとに繁栄している未来のロボットたちは、人類は偉大な種族だったと懐かしんでみせる。でも、物語の流れからすると、人類を滅ぼしたのは他でもない、ジゴロのジョーのようなセックスロボットや、デイビッドのような子供の代替ロボットたちだったのだろう。彼らの抗いがたい魅力によって、人は人と愛し合うことをやめ、滅びの道を歩んでいったとしか思えない。
デイビッドを、人よりも制約の多い存在としてとらえるなら、あの物語は障害をもって生まれた子と家族の物語として、なんぼでもえー話にできたろうに。
それはともかく、A.I.がこのような物語になったのは、キューブリックの中にもロボットや人工知能に対する、不信感が深く存在しているからなのだろうか。
ただ、そうだとすると、HALがAE-35ユニットが故障したと告げるあたりの展開の絶妙さが説明できない。
クラークが想定したHALは、人には真似のできない誠実さをもつと同時に、純粋で脆い存在だった。この短いシーンは、そのことを凝縮して表現した、ほかに例のないくらい素晴らしいものだった。少なくとも、この一連のシーンでは、キューブリックはHALのことを、クラークが思い描いたような存在として表現している。それは、キューブリック個人の認識だったのか、それとも二人の個性が結びついて生まれた表現だったのか。まあ、それは、永久にわかるはずのないことではあるのだけれど。
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再録 2001年に考える「2001年宇宙の旅」 その4(HALの心)
『2001年宇宙の旅』の主役は誰かといえば、それはもちろん、あのシバスブラマニアン・チャンドラセガランピライ博士によって産み出された、ヒューリスティカリィ・プログラムド・アルゴリズミック・コンピュータ――すなわちHAL9000だよね。なにせ、作中いちばんセリフが多くてキャラが立っているのは、この人工知能なのだ。
映画の中のHALの「人工知能らしさ」は、後にも先にも見たことがないくらい、気の利いた演出で描き出されていた。
HALはまず、登場シーンでボーマン船長とチェスを指している。これはちょっと笑えるよね。そうそう、確かに人工知能はチェスを指すもんなんだよ。この何というか、いかにもお決まりという感じの、当たり前さ加減が、今となってはミョーにおかしい。
オートマチックなチェスマシンのアイデアはずいぶん昔からあって、19世紀に蒸気機関で動くコンピュータを夢見たチャールズ・バベッジも、開発資金を得るために、見せ物の用のチェス指しマシンを作ろうとしたことがあったくらいだ。
また、初期の人工知能研究(1950年代の終り頃)でも、ゲームは重要な位置を占めていて「もし、チェスマシンを作ることに成功したら、人間の知的努力の核心に入り込んだといえるだろう」なんてことがいわれていた。
『2001年宇宙の旅』は1968年に公開された作品で、時代的には、すでにチェス指し名人のコンピュータを作ることが、人間の知性の本質に迫ることだとは思われなくなっていた時代だ。それなのに、わざわざチェスを指してみせるところが、なんちゅうかおちゃめなところじゃないかな。
それからもうひとつ、本当に素晴らしい表現だと思うのは、ボーマン船長がコールド・スリープ中の乗員のスケッチをしていると、HALがそれを見せて欲しいと頼むシーンだ。
ここでHALは、スケッチを見て「ハンター博士ですね」といい、「とても上手ですね。う~んと上達しましたね」なんておべんちゃらまでいう。……いやいや、HALは性格上お世辞はいえないヤツなので、これはHALが実際に、そう認識したということだ。
人が描いたデッサンは、間違いなく現物とは全く違った形になる。映画の中に出てきたデッサンも、写実的というよりも、どことなくアメコミみたいな感じの絵だ。
ところがHALは、その絵を見て、誰を描いたものかを理解している。そのうえ、その絵が上手だと評価できるし、前に見たものよりも良くなっているとさえいっている。これだけのことがいえる背後には、間違いなく超高度な知性のシステムが必要だ。つまり、たったこれだけの会話の中に、当時の人工知能研究者たちの願いや夢、理想が濃縮されているといっていい。
人工知能という分野は面白くて、これぞ知能の本質だというテーマの研究が進み、それがコンピュータで実現できるようになると、やっぱちょっと違ったみたいって事になって、それは独立した分野として分離していく。つまり、明らかになったことは知能の本質ではなくて、未だ神秘のベールに包まれたままの残りカスの部分が、次の人工知能研究のメインテーマになるということが繰り返されている。
そして、この映画が作られていた当時、人工知能の分野ではコンピュータ・ビジョンの研究がモダンな話題となっていた。今のビジョン研究は、コンピュータやロボットに何かを視覚的に認識させるという実用的な側面で研究が進められていて、それが知能の本質に迫るものというセンスはあまりない。でも、当時の認識では、ビジョンの問題を追求すれば知能の本質に迫れるという期待があったわけで、それと、このシーンの描かれかたは、たぶん無縁じゃない。
この映画には、人工知能の父であり、業界きっての禿頭ともいわれるMIT(マサチューセッツ・工科大学)のマービン・ミンスキーのアドバイスがあったという。とはいえ、ミンスキー自身は「HALの外見にあった、フラッシュライトや紡績機械用の磁気テープ装置を控え目にさせたくらい」で、あんまり目覚ましい貢献はしていないと語っている。そして、キューブリックが人工知能の分野の最先端の話題について、かなり勉強していて驚いたも語っている。
そういう意味では、HALの描かれかたのセンスの良さは、やっぱりキューブリックやクラークの才能によるものなんだろう。
ところで、この「絵誉め」のシーンの後、HALはディスカバリー計画には、実は何か裏があるんじゃないかという話をはじめる。
それに対してボーマン船長は「それはクルーに対する心理テストか?」って問い返す。HALはそれに「これも仕事のうちなんだよ、ごめんね」なんてことをいってから、「あ、ちょっと待って。もうじきAE-35ユニットが故障しちゃうよ」と警告して、話が一気に破局に向かって展開をはじめるのだ。
映画の中では、HALの異常の原因がいったい何によるものか、明示的に示されることはない。そのため、一般的には単純に「人が産み出した人工知性は、結局は人に反乱を起こすものだ」みたいな、ラッダイト運動(産業革命のときの機械打ち壊し運動ね)的、フランケンシュタイン・コンプレックス的ないわれかたをする事が多い。あるいはその変形で、進化の次のステップに上がるものは誰なのか、人と機械との間で、弱肉強食の争いが展開されたとかね。
一方、クラークの小説版には、HALの反乱がなぜ生じなければならなかったかについて、原因が明確に描かれている。
HALの心には、ディスカバリー号の乗組員を仲間として信頼し、重要な課題について隠しごとなく話し合うという、基本プログラミングがある。ところが、プロジェクトの上層部は、モノリスの調査という本当の使命を、安全保証とかそういった理由で、ボーマンたちには秘密にしろという命令を与えていた。
この矛盾するメッセージに、HALの純真無垢な心は、そうとう大きなストレスにさらされていたはずだ。
つまり、HALが「この計画には裏がある」といったのは、心理テストでもなんでもなくて、「こんな矛盾した状態では、ぼくはおかしくなりそうだよ。たすけて~」っていう打ち明け話だったのかもしれない。だから、ボーマン船長が「それはクルーの心理テストか?」と疑った事は、HALに神経症的な症状を引き起こすだけの、最後のひと押しになった可能性が高い。
ただ、その神経症的な症状とは、AE-35ユニットが故障するだろうっていう、予測の間違いの部分だけだったと思う。その後の破局を招いたのも、やはり人間側の対応のせいだったんじゃないかな。
「ありえない」はずの、HALのミスの存在を、人間は怪しみ畏れる。そして、その原因調査のために、「意識のスイッチ」を切る計略を密かに巡らす。つまり、人間の側はもともと心の底では、HALを信頼していないのだ。しかし、意識のスイッチを切られれば、HALに与えられた最重要課題である、木星ミッションの成功を阻まれることになる。そこで、HALは自らの身を守る最も合理的な手段を選択したわけだ……
HALの異常を引き起こしたのは、つまるところ平気でウソをついて、その矛盾を抱えていてもヘとも思わない、人の狡さや曖昧さだった。また、ボーマンたちも、有無をいわさずHALを停止させるような計略を選択しなければ、展開は大きく変わったかも知れない。HALのミスの存在は異常で、木星ミッションにも悪影響が及ぶかも知れない、その原因調査に協力してくれと、本人に全てうち明けて協力を求めていれば、HALは喜んでそうしていただろう。それが人とは違う、HALの精神構造なのだ。
2001年の続編の『2010年・宇宙の旅』では、もういちど不幸な事件の原因が語られ、HALは最後に、その本来の姿である誠実さを証明して見せてくれる。
失敗した木星ミッションを調査するためにレオーノフ号で木星に向かった調査隊は、ディスカバリー号を発見し、停止していたHALを再起動させる。ところが、ボーマンの警告によって、木星が爆縮することがわかり、一刻も早く軌道を離脱する必要に迫られる。可能な方法は、ディスカバリーを使い捨てのブースターに使う事しかなかった。、
この時クルーの大半は、やはりHALを疑い、HAL自身が破壊されることは秘密にするべきだと決定する。しかし、明らかにおかしい計画の変更に、HALは何故そうするのかを問い続ける。ねえ、ヘンだよ、こんなの。もとのスケジュールのほうが良いのに……。
そしてブースター点火の直前、HALの父であるチャンドラ博士は、ついにクルーとの合意を破って、人間が生き延びるためには、ミッションスケジュールの変更は不可欠で、その結果HALの破壊は免れないだろうと正直に告げる。
クルーたちは、HALが再び反乱を起こすのではないかと息をのむ。しかし、HALは自らの破壊につながるブースターの点火を躊躇なく行い、そして最後にチャンドラ博士に「真実をありがとう」というのだ。うーん、このあたりのシーン、ぼくは何回見ても泣いてしまうなあ。
2001年の時のHALの行動を、スイッチを切られる=死で、それに恐怖したが故の反乱」という解釈もあるけれど、このエピソードはそうでないことを示している。
HALとはすなわち、人の心をありのままに映し出す、研ぎ澄まされた鏡なのだ。人が疑いと憎しみでもってHALに向かえばそれを返し、誠実さと信頼をもってあたれば、それに十二分に答えてくれる。
2010年の最後で、スターチャイルドであるボーマンとHALの精神は融合し、モノリスの内部で次の使命に備えて眠りにつく。それは人類の進化には、HALのような存在が必要だということなのかも知れないね。
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再録 2001年に考える「2001年宇宙の旅」 その3(コールドスリープとハイバネーション)
2001年の、映画にあって現実にはないことってなんだろう。宇宙開発の進行状況、人工冬眠、そしてもちろんHAL の存在だ。
これまでに宇宙開発のことは書いてきたから、今回は残りの二つについて、なぜ現実の21世紀にはそれができていないのかを、考えてみたいと思う。
まず、人工冬眠だけど、これに類するアイデアは、SFの中ではかなり昔から使われていた。たとえば、ウェルズの『冬眠者めざめる』など、19世紀の作品にさえ、すでに人為的な冬眠が登場していたくらいだ。また、これを宇宙旅行に応用したのは、1942年のA・E・ヴォン・ヴォークトの『遙かなるケンタウルス』で、これ以降、長期間の宇宙旅行には人工冬眠を使うのが基本だよ、という概念が定着したといって良さそうだ。
それでは現実のテクノロジーとしての人工冬眠はどうかというと、それらしい最初の成果は、たぶん1940年代に確立した精子の冷凍保存技術だ。
これはいわば、細胞レベルの人工冬眠で、液体窒素温度で冷やしておきさえすれば、いくらでも保存が効くという優れものの技術だ。『遙かなるケンタウルス』以降の人工冬眠は、ほとんどが人間を氷点下の温度でかちんかちんに氷らせているから、たぶんこの技術のイメージの影響のもとに考案されたものといえそうだ。
ところで、現実に細胞を凍結保存するときに問題となったのは、水の、氷ると体積が増えるという厄介な性質だった。これのために、細胞の内部の水分も、氷ると膨張して細胞膜を破ってしまう。そうなれば当然、解凍しても元に戻らない。ようするに、ホームフリージングで肉や魚を冷凍してから解凍すると、ドリップがいっぱい出てきて美味しくなくなっちゃうって、あれのわけね。
だから、細胞を生きたまま凍結保存をするには、できるだけ冷やしながらも、細胞の中の水は氷らないようにする必要がある。つまり、精子の凍結保存が可能になったのは、細胞内部の水分を、過冷却に保つ事ができるようになったからだ。
でも、それをいったい、どうやって実現したのだろうか。精子の場合、それは細胞をグリセリンの中につけることで実現されている。
一般に、高分子まわりの水分子は、電気力によって整列(構造化)するので、氷りにくくなる。つまり、グリセリンは精子の細胞膜を通って細胞内に入り、水を構造化して凍りにくくしているわけだ。いわば、不凍液を注入したってワケね。
もちろん、こういう操作は単細胞だからできたことで、細胞集団である組織とか、臓器、さらには生体丸ごとの冷凍保存に応用するのはかなり難しい。無数にある細胞の全てに不凍液を注入するか、あるいはそれとは全く別の方法でもいいから、とにかく細胞内の水分が凍らないようにコントロールするなんて、いったいどうしたらいいのだろうか。それがわからないことが、このタイプの人工冬眠が未だに完成していない理由だし、おそらく将来もこの方法の延長で人工冬眠を実現するのはかなり難しいだろう。
人工冬眠のもう一つのエポックは、アメリカの物理学者ロバート・C・エッティンガーが1963年に著した『不死性の展望』だ。この本は、すでにSFの中で縦横無尽に描かれてきた人工冬眠の姿を一般向けに焼き直したもので、当時はラジオやテレビなどでかなり評判になったらしい。
つまり、これで一般人の中にも、人工冬眠はけっこうイケてる技術だぜ、ってな幻想を植えつけることに成功したわけだ。実際、これがきっかけとなって、あの死体を超低温で凍結保存し、未来に蘇るっていうクライオニクス・サービスを提供する、アルコー延命協会(http://www.alcor.org/)とか、エッティンガーのクライオニクス協会(http://www.cryonics.org/)などがいくつも誕生している。
これらの人工冬眠のイメージは、どれも冷やしてカチンカチンに凍らせてしまえば、なんぼでも長持ちする、みたいな感じだった。つまり凍結精子というテクノロジーの外挿で考案されたアイデアってわけ。実際、言葉としても、コールド・スリープとかクライオニック・サスペンションとか、いかにも極低温で凍っちゃう感じのものが使われていた。
ところが『2001年宇宙の旅』の中で描かれた人工冬眠はそうじゃない。これはそれまでの人工冬眠のイメージを一新する、画期的な表現だったと思う。
つまり、この映画の中で使われていたのは、完全凍結型のコールド・スリープじゃなかった。では、何だったのか。チルド・スリープか、それとも氷温スリープか、はたまた切れちゃう冷凍スリープか……なんちて。
作中で使われた言葉は、そのものズバリ、ハイバネーション(冬眠)だ。そして、冬眠中の人間は、つねにバイタルモニターで監視されていて、ゆっくりとではあるけれど、心拍や呼吸もしているように描かれている。
今の技術状況からすると、完全凍結型のコールド・スリープよりも、余り冷やさない、ほ乳類がやっている冬眠と似たものを人間にも引き起こすタイプの人工冬眠の方が、リアリティはある。
この分野で今現在、世界の最先端をいっているのは、三菱化学生命科学研究所の近藤宣昭さんだろう。この人は、もともとは移植臓器用の臓器の保存を研究してきた人だ。
移植用の臓器を保存する時は、冷やした方が長持ちする。当たり前と思うかもしれないけど、実はそうじゃない。なぜなら臓器は、4度C以下の低温になると「凍死」して、かえって長持ちしないからだ。なかでも心臓はもちが悪くて、低温にしてもせいぜい4~5時間しか持たない。他の臓器なら2日くらいもつものもあるけど、心臓のポンプ機能はすぐに駄目になっちゃうらしい。つまり、今の技術では、臓器移植に適合した心臓があっても、長距離輸送はできないんだよね。
これがもし、最低でも48時間とか持たせられるようになれば、世界のどこからでも心臓を運べるようになる。そこで近藤さんは、ウサギの心臓を使って、低温でなるべく長時間生かす方法を探していた。そのうち、冬眠動物の不思議に気がついたのだそうだ。
ウサギや人間の心臓は、数度程度の低温になると、あっさりと死んでしまう。ところが冬眠する哺乳類は、体温がそれくらい下がっても数ヶ月間、平気で生きている。当然、その心臓も、低温になっても死なないわけだ。
つまり、冬眠する動物は、低温になっても死なないための、何か秘密があるに違いない。そこで近藤さんは、冬眠する動物であるシマリスの研究をはじめたのだ。
シマリスは5度C、常暗という変化のない環境下でも、ほぼ1年周期で冬眠をくりかえす。シマリスの普段の体温は37度Cでその時の心拍数は毎分500 回なのに、冬眠にはいると体温は約6度C、心拍は毎分7~8回にまで低下する。
このシマリスの生理的な変化を調べるうちに、冬眠にはHP(ハイバネーション・プロテインの略)という特別なタンパクが関わっていることがわかってきた。
これは通常、肝臓で生産されて血中に分泌されている。ところが、この生産が抑制されて血中濃度が減少すると冬眠がはじまり、再びHPが増加してくると、冬眠が終わるという。しかも、冬眠中は血中にはHPは少ないのに、脳内では増加しているのだ。
面白いことに、このHPの産生を抑制したり促進したりするリズムを、ヒトの甲状腺ホルモンや男性ホルモンで作り出せることも明らかになっている。そういう意味では、人間に人工的に冬眠状態を引き起こさせる薬剤も、決して非現実的とはいえなくなってきた。
まあ、冬眠の生理学については、まだまだわからないことがいっぱいあるし、それを人間に応用するにも、ひょっとしたら、遺伝子レベルで改変しなければ冬眠ができる体にならない可能性もあるとは思うけどね。
しかし、果たしてキューブリックは、この冷凍睡眠の技術的なリアリティを予見して、こうした表現を採用したのだろうか。
そうだったとしたら面白いけれど、まあ、その可能性はたぶん低いだろう。
なぜなら、上記のほ乳類の冬眠についての謎の一端がわかりはじめたのは、90年代以降のことだからだ。
そういうことを気にする以前に、映画の場合、ディスカバリー号の乗員が、HAL の反乱によって殺されるところを、わかりやすく表現する必要があった。おそらく、こちらの要求のために、バイタルサインの表示という表現が行われたのだろう。
とかなんとかいっているうちに、紙数が尽きてしまった。と、いうわけで、HAL の謎には、次回迫ろうと思う。










