自閉者のこころの世界
自閉者の著した自伝は、異星人とのコミュニケーションに興味がある人なら、絶対に読んで損はない。
たとえば、大人になってからアスペルガーと診断された翻訳家、ニキ・リンコさんの『俺ルール!』(花風社)などの著作や、動物行動学者で、火星の人類学者とも呼ばれるテンプル・グランディンの『我、自閉症に生まれて』(学習研究社)や『動物感覚』(NHK出版)などはどれも非常に面白い。
たとえばニキ・リンコさんは、A=Bは理解できてもB=Aは理解しにくいという。
これは、イルカやチンパンジーの認知世界と似ている。
彼らも、後ろ向きの推論が難しいのだ。
具体的にはどうなるのか。
植物には、水が必要だ。それは理解できる。そして水やりの当番を任されたとする。
自閉者はまじめなので、きちんと毎日水やりをする。しかし、土砂降りの雨の中でも、水をあげてしまうのだ。水をあげるのは、植物が必要としているからだという、後ろ向きの推論が難しくて、雨が降っていれば水をやらなくても良いとは思いつけない。
それで先生に怒鳴られてしまう。
この怒鳴られたというのも、自閉者独特の解釈だろう。雨の日にずぶ濡れで植木に水やりをする子を、意味もなく怒鳴りつける教師なんて、存在するわけがない。おそらく教師は、風邪などを引くことを心配し、なぜこんな無駄なことをするのかも理解できなくて、若干のいらだちを交えて注意したのだろう。
その意味、先生の情緒の動きは、定型発達の人なら直感的に理解できるはずだ。しかし、自閉者にはそれがわからず、意味もなく怒鳴られたと解釈されてしまったように思う。
で、怒鳴られた結果、ニキさんは、雨の日は水をやらなくていいというルールを覚えたという。
そして、次に雨が降りはじめると、ああ、今日は水をやらなくて良いのねと思って、室内にある植木にも水をやらずに帰ってしまう。サボりだといわれてしかられる……。
(実際には、こういった定型の人には想像しにくい考え方というのは、後ろ向きの推論が難しいということだけでは成立しないと思うけど、それについてはちょっと長くなるので、また別のコラムで触れることにする。)
また、アスペルガーの動物行動学者、火星の人類学者こと、テンプル・グランディンは、定型の人には不可能なレベルで、動物の心理を読むことができる。
彼女は家畜の心理の専門家で、今ではアメリカの大手ファーストフードチェーン、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどの食肉工場の大半が、彼女の設計によるものだという。
彼女は人道的なと畜という考え方で、工場を設計する。
ここで、定型発達の人は、と畜が人道的?と奇妙な感じを抱くと思うけど、そういうある意味「奇妙な」発想ができるのは、彼女がアスペルガーであるためだ。
動物たちは、定型の人間には感じ取れない、見えているようでも無意識にスルーしてしまう様々な刺激に敏感に反応して、おびえて立ちすくんだり暴れてしまう。従来は、そのような家畜を、棒で殴ったりして暴力的にコントロールしようとしていたわけだけど、効率は悪く、行為としても、とても人道的とは言えない代物だった。
しかし、テンプル・グランディンは、家畜たちと同じように周りの刺激を感じ取ることが出来、家畜たちの不安を理解できるので、そのようなものを感じず、安心してと畜場までいけるように工場を設計できる。
家畜たちに必要以上の不安や暴力を与えない。それが彼女の言う、人道的ということだ。そして、彼女の設計した工場によって、結果として生産効率も上がるわけで、ビジネスとしても優れた設計といえる。
家畜は最初からと畜され人に食べられる存在なのだから、このような「人道的」な工場の設計は、論理的に考えて、家畜たちの不幸を最小に抑えるものということができる。そこに論理の間違いはない。
でも、多くの定型の人は、情緒的な反応として、そうはいっても何か奇妙な、心理的な煮えきらなさというか、わだかまりのようなものを感じてしまうんじゃないかな。そして、そのようなわだかまりを感じてしまうがゆえに、テンプル・グランディンのように発想し、効率の良い工場を設計することも難しい。
このギャップが、定型発達の人と、自閉者との違いのひとつなんだよね。
家畜の心については非常に深い洞察ができる彼女も、しかし、人の心については謎が多いそうだ。
「火星の人類学者」というのは、彼女自身は火星人で、火星からやってきて人間を人類学者として観察しているんだけど、奥が深くてよく解らんという比喩のことで、これは脳科学者のオリバー・サックスによる命名だ。
ただ、客観的に見ると、彼女も、年を経るほど、他者の心への理解は深まっているように思える。何しろ彼女は、今では多くの公演をこなし、聴衆を笑わせることもできるのだ。
これは、大人になってからでも外国語が学べるのと同じことだろう。
テンプル・グランディンのもつ心の理論は、日本人が流ちょうな英語の発音ができないのと同じような感じで、「ネイティブな発音」ではない事は間違いないだろうけど、必要十分なコミュニケーションが可能なレベルにまで成長しているし、これからも成長を続けるだろう。
思い返してみると、スタトレのデータは、理想の環境で療育された自閉者そのものだ。そして兄のローアは、理解されない環境で育ったため不幸にも二次障害に陥ってしまった姿にも見える。
様々な個性と文化を受容し、その成長の美しさを見せてくれる。スタトレの良さは、そういうところにもあるのだと思うんだな。
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スタトレを不朽の名作にしたマイノリティ・自閉者たち
スタトレを代表するキャラクターといえば、スポックとデータの二人が思い浮かぶ。実際、スタトレのシリーズがこれほど成功し、永い期間にわたってたくさんの人々に受け入れられてきたのは、この二人のキャラクターの力が大きかったといっても良いんじゃないかと思う。
それから、この二人ほど成功したとはいえないけれど、スタトレのシリーズでは同じ系譜に属するキャラクターとして、DS9のオドー、ボイジャーのセブン・オブ・ナイン、エンタープライズのトゥポルがいる。
彼らの特徴は、いずれも感情の理解、表現にハンディキャップを抱えながら、普通の人間をはるかに上回る能力を持っていることだ。
それは何かというと、高機能自閉症やアスペルガー症候群などを含む、自閉者たちのメタファーなんだよね。
ここで自閉症といわないのは、それは広い意味での個性であり文化だと思うからだ。
もちろん、「自閉症」という診断名は、そういう性質を持った子供たちを早い段階で見つけて、適切な療育を施すために必要なものだ。そして、早い段階から療育を施した子ほど、多数の定型者が暮らすこの社会=自閉者にとっては異文化の社会の中で、生き抜くすべを身に着けやすい。
つまり、診断名は適切な環境を整える道具として有効だけど、そういうものに過ぎないともいえる。「症」という言葉を見ると、何となく治療を必要とする病気のような感じがしちゃうけど、実際にはこれは病気ではないし、治療すべきものでもない。
ただ、かなり個性としてはきつくて、何の訓練も施されないで育つと、この社会の中ではコミュニケーションがうまく成立せず、非常に生きにくくなる可能性が高い。そこで、自閉者の性質にあった特別なプログラムで、この社会に適合できるような訓練を施すというのが療育という概念だ。
「自閉症スペクトラム」とか、「自閉者とそのいとこ」なんて言葉があって、一口に自閉者といっても、そこには大きな広がりがある。そしてその裾野は、間違いなく定型発達した、「普通の人」たちの中にも広がっている。
たとえば自閉者の中には、言語による思考が苦手で、視覚情報に基づいて考える人が少なくない。ただ、そのものの見方は、「普通の人」=多数派には極めて珍しいものなので、時代を劇的に変える画期的な洞察につながることも少なくない。たとえば、コンピュータの基本原理を考えた、アラン・チューリングは、まず確実に自閉者だったろう。また、ネットワークのさきがけといえる電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルもそうだった。
実際問題、学者やおたくの中には、かなりの数の境界領域の人や、診断はされていないけど自閉者である人がいるのは確実だ。
つまり、スポックやデータの系譜は、そういう人たちにに対して、特別に訴えかけるキャラクターなのだ。
自閉者は「心の理論」の不全者であるという解釈があって、しばらく前まではぼくもそういうものだと思っていた。心の理論を持たないから、他者の心が理解できず、コミュニケーションがとりにくいというストーリーは、シンプルでとてもわかりやすい。
でも、それは無知による、不正確な認識だった。彼らは実際にはそんな単純なものではなく、もっと豊かな世界を持っている。
確かに、自閉者は、心の理論の発達が、定型発達の人の筋道とは違っている。また、生涯同じようにはならない事が多いだろう。発達もゆっくりなので、幼児期や青少年期には問題が生じやすい。
たとえば、ふくよかな少女を見て「デブだ!」とか言っちゃったりする。そうすると、その女の子や回りの大人は、そんなことを言うもんじゃないと怒るわけだ。
でも、当人にはその意味がわからない。
自閉者であるその子は、デブという事実を口に出しただけで、相手にコミュニケーションを求めていないからだ。それは横断歩道で「信号は赤だ」とつぶやくのと同じこと。
しかし、定型の人には、それは侮辱=コミュニケーションとしか感じられないので、頭ごなしに否定したり、怒りをぶつけてしまう。
また、自閉者は感覚の異常、運動能力の異常も伴っていることが多い。たとえば、雨が当たると痛いという人がいる。どうやら産毛の感覚が過敏で、毛を剃るとあまり感じなくなるという。
逆に、疲れるという感覚がなくて、何日も不眠不休で猛烈に活動したと思ったら、とつぜん動けなくなって数日ベッドの中で過ごさざるを得なくなるという人もいる。定型の人が気がつかない刺激に反応して突然叫んだり、衝動的に叩いたり、疲れを知らず回りを引っ掻き回すので、ものすごく厄介で性格の悪い人間だと思われてしまうこともある。
こういう「見えない障害」を抱えているがゆえに、当人には意味のわからない怒りをぶつけられ続け、強い劣等感にさいなまれたり、自傷行為を行ったり、反発して暴力的になることもある。これを二次障害という。
自閉者の個性は、回りが認め理解すれば、自閉者自身も成長するので、極端な問題にはなりにくい。でも、二次障害が起きてしまうと、それを癒すことはかなり大変だ。
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キャラクタドラマ・スタトレの魅力
世代を超えて続くSFのテレビシリーズといえば、日本ではガンダムが思い浮かぶけど、アメリカにもスタートレックというシリーズがある。
スタートレックは、アメリカで1966年に放映を開始した、邦題『宇宙大作戦』(今デジタルリマスター板がNHKのBS2で放送中)以来、5種類のテレビシリーズ、10本の映画、1本のアニメが作られてきた。
まあ、このブログを読んでくれている人で、スタトレを知らない人は少ないとは思うけど、詳しくはウィキペディアでもご覧ください。
さて、このスタトレなんだけど、ぼくは一応、日本で放映された実写のテレビシリーズ全エピソードと、公開された映画の、合計711本に関しては、少なくとも一回以上は見ている。(アニメは数話しかみてないけど。)
で、ぼくのいちばんのお気に入りは、2シーズン目くらい以降のネクスト・ジェネレーションと、3シーズン目あたりから7シーズン目のはじめころにかけてのDS9だ。
でも、ヴォイジャーは結局最後までほとんど乗れなかったし、エンタープライズに至っては、はじめは期待していたんだけど、結局それまで積み上げられてきた世界をバリバリにぶち壊してふざけんなってかんじ。
宇宙大作戦は、小学校2年のころにはじめて見てから、再放送で繰り返し見てきたので、まあ別格かな。
スタトレの世界の物語数は膨大で、これだけたくさんエピソードがあると、SF的なシチュエーションつーても限界がある。実際、似たような状況の話も少なくない。
それでも、また同じ話かよって感じにはあまりならない。
そのわけは、状況がほとんど同じであっても、登場人物の個性の違いで、全く違ったドラマが展開するからだ。しかもその個性は、所属する種族がもつものと、エピソードの積み重ねで描かれていく個人の歴史が重畳していて、深い味わいを醸し出している。
TNGの舞台である24世紀は、リベラリストの夢というか、日本国憲法の理念が実現したみたいなユートピアだ。戦争や差別は克服され、貨幣経済もなくなって、人はただ人間性の向上を求めて生きている。とくに、いかなる社会に対してもその正常な発展への介入を認めない「艦隊の誓い」が、この時代の最も重要なルールとなっている。
そしてピカード艦長は、この誓いを忠実に体現しようとする人物だ。しかし、直面する現実は、その理想を素直に実現させてくれない。その葛藤、困難を越えて、いかに理想を貫いていくかという、人間性の光の部分にウエイトをおいているのがTNGの魅力だ。
一方、DS9は人間性の闇の部分の複雑さを丁寧に描いていてすばらしい。
クリンゴンは、攻撃性が高く、プライドを重んじる種族だ。そして地球人に育てられたウォーフは、その生い立ち故に、クリンゴンの伝統と理想を、平凡なクリンゴン人よりもはるかに強烈に体現したいと願っている。その心理的な束縛が視聴者にはよくわかる。
そして、それほど名誉と誇りを重んずるウォーフが、より大きな問題の解決のため、あえて汚名を受けようとしたとき、その心を思ってものすごく感動しちゃうんだよね。
フェレンギはTNGの時と、DS9の時とでは性格が違うけど、DS9では心の底からの拝金主義者で、手段の如何を問わず金を儲けることが善とされる種族として描かれている。
クワークははじめ、その民族性を体現したステレオタイプのキャラクターのようにみえるけど、やがて金にもならないDS9に居続ける、フェレンギ文化の中のはみ出しものだということがわかってくる。そしてDS9の「クワークの結婚」というエピソードでは、クリンゴンの文化とフェレンギの文化について理解していて、その上でクワークの個性を知っていることで、彼がめちゃくちゃカッコよく見えるのだ。
カーデシア人は、謀略や背信を当然と考える、徹底したリアリストたちだ。
中でもデュカットは、異種族に対して冷酷そのものだけど、かつて植民地支配していたベイジョー人との間に娘がいたことを知るや、彼女を溺愛し、ユーモラスな人間味さえかいま見せるようになる。
ところがその溺愛していたはずの娘を、ある事件で失ったことを契機に、真の邪悪な存在へと変貌を遂げていく。
まあ、DS9も最終回に近づくと、これらの複雑なキャラクタの個性は消え失せて、単純なステレオタイプに成り下がってしまうので、見ている側としてはかなりへこむんだけどね。しかし、ある時期の彼らの描写は、SFドラマ史上最も精緻に完成された、芸術と言っていいと思う。
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カフェ・サイファイティーク
知らない人は全く知らないでしょうが、今、パシフィコ横浜で、年に一回たくさんのおたくたちが集まって怪しげなことをやるイベント、SF大会(Nippon2007)が開かれておるのです。
しかも今年は、おそらく二度とそういうことはないと思うけど、世界SF大会も誘致されていて、海外からもたくさんのSFおたくたちが押し寄せて、エライことになっています。
で、その企画のひとつとして、カフェ・サイファイティークというのがあるのね。
白衣+メガネ+理系のハカセたちと、たのしい会話とお茶のひとときをという。
なんというか、素人さんにはおわかりになりませんでしょうね?
で、オレもどういうわけか、ここでハカセやってたりして。ははは……
白衣なんて初めて着たよ。
カフェにはオレとは違って、ハンサムな若いホンモノのハカセとか、知性あふれる女性のハカセ、さらには、すてきなメイドロボの皆さん、愛らしいちびメイドがいて、なかなか和めたり。
いちおうカフェサイ企画は、大会参加者じゃなくても参加オッケーなので、よろしければきてみてね。
メニューの中でもオレのいちおしは、過冷却水マジコール。
水が過冷却状態になっていて、グラスに注ぐとみるみる凍ってシャーベット状になっていきます。
あと、いつになるかは解らないけど、オレの講演も何回かあります。










