Gliese 581 c の姿を想像してみる
実はGliese 581 cとそっくりな星が、以前に想像されていた。
これは、NHKの地球ドラマチック、『E.T.の住む星』第一回、「惑星オーレリア」』だ。
もとのナショナル・ジオグラフィック・チャンネルのページはこちら。
このオーレリアは、赤色矮星近傍の星で、大きさは地球とほぼ同じと設定されていて、たくさんの生命がひしめいている。赤色矮星のハビタブルゾーンは、太陽のごく近くなので、この星も潮汐固定で自転と公転が同期している。まあ、生命に関しては全くの空想といっていいけど、天体の設定についてはなかなかいいかんじだ。
たとえば、オーレリアには、太陽直下の位置に大きな渦巻きがあるけど、他には台風のような渦巻き雲はみあたらない。
台風のような雲がないのは、自転と公転が一致しているからだ。台風はコリオリの力で渦を巻いた雲なので、コリオリの力がほとんど存在しないオーレリアには、渦巻き雲はあまりできない。ただ、太陽直下の場所は、常時強く暖められているから、そこが海なら猛烈な勢いで蒸発が起きて、それが渦を巻く。
渦を巻く理由は、風呂にためた水を流すときに渦を巻くのと同じだ。つまりコリオリの力とは全く関係がない。流れは渦を巻いたほうがスムーズに流れるので、最初に小さなきっかけによって渦を巻き始める。コリオリの力によらない渦なので、北半球なら左まきみたいな決まった方向はなくて、どちら巻きの渦かはそこに行ってみなければわからない。
おそらくGliese 581 cも同じようになっているだろう。
それから、Gliese 581 cが太陽に対して、秤動しているとすると、いちばん暖められる部分が回転して動くので、巨大台風がぐるぐる同じ場所を巡っていくのかもしれない。そしてあるきっかけで、突然渦の巻く無機が逆転するというようなこともあり得るだろう。
赤色矮星は、生命にとって不安な要素がひとつある。それは、比較的不安定で、しばしば小爆発=フレアを起こすことだ。その結果、太陽風=生命にとって有害な放射線や、強烈な紫外線が放出される。つまり、たとえ生命が産まれたとしても、直ちに殺菌されてしまうかもしれない。
さらにオーレリアの設定では、潮汐固定された結果、プレートテクトニクスも停止しているとされていて、その結果地磁気が存在しない。そのため、この惑星の生物は頻繁に強烈な紫外線や放射線にさらされるため、それに対する防御メカニズムを進化させている。
はたして、Gliese 581 cもそんな惑星なのだろうか。
潮汐力の影響で、プレートテクトニクスが停止するというのは、オレ的には疑問だと思う。確かに自転は公転と同期するけど、惑星内部まで同期するとは限らない。多少なりとも秤動があれば、潮汐力は惑星の内部を揉むようにしてエネルギーを供給し続ける。
太陽系なら、木星の衛星イオのように、中心部が加熱されていて、マントルやコアの流動性も保たれているだろう。その結果、地下では対流が生じていて、その対流がダイナモを駆動し、地磁気ができるのではないかと思う。ただ、南極や北極がどちらにできるのか、それはどの程度安定してるのかについては、なんともいえないけど。ひょっとすると、磁極の位置がかなり頻繁に移動するようなこともあるかもしれない。
地磁気があれば、太陽風の影響はかなり少なくなるので、地上に生命が上陸することは余り難しくないだろう。ただ、紫外線はかなり強烈なはずで、地上に出た生命にはその対策が要求される。
この星が、地球と同じように表面の大半を海が覆った惑星だとしよう。
海があれば、太陽直下は場合によっては沸騰するくらい熱く、夜側は永久凍結しているかもしれない。その場合、温度差が極端なので、昼側と夜側の間で、ものすごい勢いの大気や海の流れができているかもしれない。
夜側のどこかでは、常に膨大な量の雪が降り積もり、惑星を円環状に取り巻く長大な氷河ができているかも。その重みが、大陸の沈降を促すようなこともあるかもしれない。
しかし、生命が発生できるか否かは、惑星が誕生したごく初期の条件に、結構大きく左右されるはずだ。とくに大きいのは、水が豊富にあって、炭酸ガスが充分そこに溶けられるかどうかだ。炭酸ガスは温室効果をもたらすので、惑星になったとき、大気中に余りたくさん残存していると、金星のような灼熱地獄になってしまう。そうなっては、すくなくとも地球で馴染み深い生命の発生は難しいだろう。
ただ、初期の大気中の炭酸ガスが余り多くなく、惑星が余り加熱されなければ、比較的速く生命は産まれて、光合成やそれ以外の手段を使って、炭酸ガスを固定するようになるはずだ。つまり、生命が発生することで、惑星の環境は安定していく。
赤色矮星は、赤い色の星なので、赤外線など波長の長い光の成分が多く、光合成生物は誕生しないのではないかと思う人もいるかも知れない。
ところが、京大の三室守教授のグループが、赤外線で光合成する藍藻を発見し、そのメカニズムも解明していたりする。
ようするに、生命は、いったん誕生してしまえば、環境にあるものは何でも使って生き延びようとするわけだ。
常に雨が降り続ける場所や、激しい海流があるとすれば、大陸があった場合、その浸食はかなり速いだろう。つまり、大量のミネラル分が、海水中にどんどん溶け出していく。その結果、海は栄養塩の豊かな環境になる。
まあ、塩分のとけ出しがあまりに多くて、地球の海より何倍も塩辛い海になる可能性もあるけど。雨の余り降らない地域の海岸には、塩がどんどん析出して奇観を形作るかも知れない。
これらの想像は、自転と公転が同期しているから、昼と夜の温度差が激しく、ある場所はほとんどいつも同じ気候、天気になるんじゃないかという推測に基づいていいる。
この場合、昼と夜の境目のあたりが、いちばん温暖な環境になるだろう。
でも、そうならない可能性もある。
実は、金星ではスーパーローテーションという不思議な現象が知られている。
金星もほとんど自転していないけれど、上層大気では秒速100キロ、自転速度の40倍の速度の風が吹いている。
これは、普通の熱対流では説明できない現象だ。
じゃあ原因は何かというと、それはまだわかっていない。ただ、土星の衛星タイタンでも同じような現象が見つかっているので、自転の遅い天体では普遍的に起きることなのかも知れないとは言われているようだ。
だとすると、Gliese 581 cにも大気のスーパーローテーションが起きていて、惑星のほとんどがわりと平均的な気温(15度前後)になっているのかも知れない。ただその場合でも、太陽直下はかなり暑く、夜側の極は地球ではあり得ないくらいに寒くなっているはずだ。
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ハビタブルゾーンに惑星発見!
ハビタブルゾーンに惑星発見
■人間も住める惑星?20光年先に発見…1年は13日(読売新聞 - 04月25日 16:31)
など、新聞各紙で紹介されていた。
たった20光年という我々の太陽系のご近所さんの太陽の、生命が存在できる環境=ハビタブルゾーンに、地球に近い惑星があるなんて、わあ、夢がひろがりんぐ。
ESO発表はこちら
論文はこちら
新聞へのリンクはやがて切れてしまうので、日本語で読める記事としては、
科学ニュースあらかるとの「スーパー・アース」が見つかった」
と、関連記事の「太陽系の外で岩石を主体とする惑星が見つかりました」
が参考になると思う。
この惑星、Gliese 581 cの母星は、赤色矮星で、これは宇宙では、ぼくたちの太陽より遙かにたくさんあるタイプの星だ。まあ、ざっと恒星の7割くらいはこのタイプの星だと言われている。たとえば、太陽系からいちばん近い恒星として知られる、プロキシマ・ケンタウリという星も、このタイプの星なわけね。
直径がぼくたちの太陽の3分の1以下で、非常に軽いので寿命も長い。我々の太陽の寿命は100億年で、今はそのちょうど真ん中くらいだけど、赤色矮星は1000億年くらいの寿命がある。
1990年代の半ばから、我々の太陽系の外に、系外惑星がたくさん見つかりはじめていて、今では200個を越えたようだ。
しかし、それらは全て、ホットジュピターやエキセントリック・プラネットという、我々の太陽系の姿からは想像を絶する、変わった星ばっかだった。
だけど、Gliese 581 cは初の地球に近いタイプの系外惑星で、その意味は大きい。
たぶん、これは太陽系近くにある、質量の小さな赤色矮星だから見つけられたんだろうね。また、今後はこういうタイプの星を狙って探す人が増えるだろうから、もっと近くに、同じような条件の星が見つかる可能性もある。
このGliese 581 cは、公転周期13日で、半径は地球の約1.5倍、重さは約5倍だという。
と、いうことは表面重力は2.22gくらい。
公転周期が短いので、恒星からの潮汐力によって、公転と自転が同期しているはず。
つまり、一年=一日で、恒星に常に同じ面を向けている。
ハビタブルゾーンにあるということは、物理的必然によって液体の水が豊富に存在する可能性も高い。これだけ大きな星なら、火星みたいに大気が逃げちゃうこともない。
と、いうか、これまでの惑星形成理論では、重さが地球の3倍以上あると、周りのガスをどんどん引き込んで木星型惑星になってしまうとされていた。しかし、この星はそうなっていないわけで、これは何か特殊な事情があったのか、それとも理論が間違っているのか、これから議論がされると思う。
そして、液体の水がある天体なら、まず確実に生命の発生があるだろう。
赤色矮星は、宇宙では我々の太陽系の太陽みたいな星より圧倒的に多いので、宇宙の生命にとって、こういう景色こそいちばん馴染み深いものなのかもしれない。
生命が本当に存在するかどうかは、遊離酸素=気体の酸素があるか否かで知ることができる。酸素は反応性の高い元素なので、普通は酸化物の形でしか存在しない。でも、生命がいて、光合成が行われていれば、遊離酸素が増えてくる。逆に言えば、遊離酸素は光合成生命の存在の証ってわけだ。
ただ、残念ながら、今の観測手段では、それをみつけるのはまだ難しい。
アメリカやヨーロッパでは、系外惑星惑星に遊離酸素を見つけるためのプロジェクトがあったんだけど、今のところ予算不足で止まってしまっている。でも、この惑星の発見を契機に、新しい動きが出てくるかも。オラ、わくわくしてきたぞ。
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道徳教育は必要か
ちかごろ、安部内閣の教育再生会議から出てきた、道徳を授業に組み込むことに関する是非をめぐって議論が色々行われている。
で、国家がこれが正しい道徳と決めて採点するのってどうなのよてなことも言われたりする。
まあ、それはそうなんだけど、どうなんだろう。
今の小学校の授業に道徳という科目があるかどうか知らないけど、ぼくの子供の頃はあった。
でも、基本的にそんなの知ってるよって話ばっかで、何の感銘も受けず、なんか空想の世界で遊んだり他のことしてたと思う。
当時は試験はなかったと思うけど、仮に試験があったとしても、だから何って感じじゃないかなあ。こういうことって期待される答えは簡単なので、高得点するのはチョロいだろうし。まあ、そもそも小学生の頃って、親ががみがみ言わない限り、成績とか試験とかあんまり気にしないしね。
試験や成績というものを、子供が大人と同じ感覚で理解していると思うと大間違いで、ぼくなんかぼんやりした子供だったからよけいそうなんだろうけど、小学校の頃は学期末になると必ず試験があるという意識もなかったし、来週からテストだよと言われても、試験勉強とかするという概念すらなかった。
そういうことをある程度意識するようになったのは、中学生以降のこと。何人かの友人にそういう話をしたら、みんな、そういえば自分も小学生の頃は定期テストという考えはなかったなと意見が一致した。
親はたぶんカリカリするんだろうけど、子供はわりとポケっとしてるんじゃないかな。
こういうと今の子は違うとか言う人も多いだろうけど、たぶん余り変わってない。
それは、子供には発達段階というものがあるからだ。
子供は、大人と同じ時代を生きているので、大人と同じ情報にさらされている。だから、大人の目から見ると、自分の子供の頃にはこんな考え持たなかった、今の子供は凄いとか思うことが結構ある。
でも、まあ、それは表面的なものなんだよね。使う言葉は凄くて、もっともらしいことも言うかも知れないけれど、理解に深みはない。大人たちが長年かけて、たくさんの失敗や試行錯誤を経て体にしみつけてきた知恵を、言葉という記号で簡潔に表した、その記号を喋ることはできるけど、ただそれだけなのね。
だから、子供の言うことは、しょせん子供の言うことだ。もちろん、頭ごなしに子供扱いする必要はないし、真剣に話を聞いてあげるのは良いことだけど、額面通り受け止めてしまうとすると、それはちょっと違うと思う。
まあ、道徳を子供に教えることそれ自体は、悪いことではないとは思う。
子供は実際にはかなり素直なので、大人の言うことを聞くといば聞く。
ウソをつくなと言えば、ウソはついちゃいけないなと大半の子供は思うはずだ。
でも、その大人が喋った言葉、たとえばウソとは何かということについて、大人と同じレベルで理解しているかというと、むしろそういうことは稀だ。
たとえばいじめはダメだよと言葉で教えても、そんなことみんな知っていて、ダメだよねって思っている。子供に、いじめは良いと思うって聞けば、ダメだよって答える。
でも、実際には結構いじめみたいなことをやってしまう。それはいじめって何か、実はあんまりよく解っていないからだ。
決して、ものすごく腹黒くて、大人にはウソをつきながら邪悪な快感に浸っているわけじゃないのだ。
大人がイメージするような理解は、子供にはない。こういう事をしても、これはいじめじゃないから良いよねとか思っている。バナナがおやつに含まれるか否かは、とても難しい問題なのだ。
だから、道徳で座学でいじめはダメと教えてもほとんど意味はない。
それは、オカルトと同じで、大人の心の平安のためのものにしかならないだろう。
まあ、でも、やるとするなら、ロールプレイなら、多少は意味があるのかな。
つまり、全ての子供に、お芝居で、いじめられる側といじめる側の役をやらせる。
で、それについて、色々話し合う。
ただ、これは全体をコントロールする教師の技がかなり必要とされるし、カウンセリング的な技能をきっちり身につけておかないと、逆に教室内にいじめを発生させてしまう可能性もなきにしもあらずなので、扱いが難しいとは思うけどね。
最終更新時間 08:35 | コメント (2) | トラックバック
オカルトは大人の心の平安のためにある
教育、それも年の若い子供への教育には、ある程度のオカルトというか、非理性的なものの混入は避けられないところがあると思う。
で、水伝を小学生の授業に使うのは、全く良いこととは思えないけど、でも、敢えて、使うとするなら、「きれいな言葉を使うと水の結晶もきれいになるって話があるんだよー」という話をした後で、いっしょに「いや、でも、ことばをかけたって結晶はきれいになったりするわけ無いけどね」という話をしとけば良いと思う。
……と、いう話を友人たちにしたら、「自然科学の真理は教育の必要より優先するべき。教育の任務のひとつは、自然科学の真理を伝えることであって、それに反するようなことは、あとで打ち消しても混乱するのではないか」とか、「『ことばをかけたって結晶はきれいになったりするわけ無い』は、天下りに言うだけでは、『きれいな言葉を使うと水の結晶もきれいになる』と同じで、オカルトを疑う心は育てられない」という反論をもらった。
これは言葉の上では、たしかにそうだと思う。
一方で、これは言葉の上での論理的な整合性にこだわりすぎているって感じもする。
でも、人間というのは、そんな風に世界を理解していかないだろうと、ぼくは思うんだよね。それと、子供はそれほど、大人の言うことを真に受けたりしないしね。
世間でよくある教育論議は、子供は大人の言うことを聞くものだ、子供は大人によって自在にしつけることが可能だという、誤った観念にとらわれている気がするんだよなあ。
「閻魔様に舌を抜かれる」と言われたって、子供はそれを心の底から信じて、震え上がるから従っているわけじゃない。
もちろん、子供には色々な個性があるから、そういうケースがあって不思議はないし、そういうことをいわれて本当に怖かったと、子供時代を思い出す人もいるだろう。でも、たとえそうだとしても、実際は、それが決定的な要因ではなかったと思うんだよね。
ほとんどの場合、非常に幼い子の場合でも、お話だけでは、閻魔様って本当にいるのかいないのか、怖いのか怖くないのか、よくわからないんじゃないかと思う。少なくとも、大人の期待するような形ではわかっていない。だけど、まあウソをつくのはあまり良くないみたいだなあ、程度の感じを持つわけね。
つまり、「閻魔様が……」と言う、その物語が、子供にウソをあまりつかなくさせる決定的な要因にはなっていない。
子供は、親、教師、大人のいうことを、てきとーに聞き流しているわけ。てきとーに聞き流しながら、自分に役に立つかもと感じた部分はつまんで取り入れたりはするけど。
現実には、子供は様々な社会的な経験(同年代の友人たちとのつきあいを含む様々な体験)を通して、ウソは原則ついちゃダメなんだなあと言うことを、だんだん理解していく。
一度に完全にわかってしまうなんて事はあり得なくて、そもそもウソとはどういうことかということ自体、ものすごくおぼろげなところから、少しずつ形を為していくようなものだ。実際、ウソとは何かって、本気で考え始めたら、大人だってたぶんよく解らなくなってしまうような深い命題なのよ。
つまり、しつけとは大人だけがするものではなく、その子の社会的体験によってされていくもので、むしろ社会的な体験の効果のほうが大きいだろう。
閻魔様が云々というのは、子供の側にとってはむしろどうでも良いことで、あまり教育効果もないだろう。
では、何故こんな言い回しがあるかというと、そのしつけをしなければいけないと思う大人の側の、心の平安のためにあるんじゃないかと思う。
ウソはダメとか、丁寧な言葉を使えというのは、論理的にきちんと説明すると、非常に手間がかかる。それに、子供の年齢が低い場合、社会性についてもたぶん十分に理解できていないので、ウソをついていると社会的信頼を失って自分が損をするよというような論理的な説明では、理解させられない部分も残ってしまう。
なんの根拠も示さず、とにかくダメというのも良いんだけど、そのやり方は、たぶん現代の大人の側に、よりどころのない心細さを感じさせてしまう。
だから「これこれ」だからウソはダメ。「これこれ」だからきれいな言葉遣いをしようと、何らかの理由付けをしたくなっちゃう。その「これこれ」が閻魔様や水伝ってことだ。
それから、「後で打ち消して混乱する」のは大いに結構なことだと思う。つーか、子供はかなり賢い存在なので決して混乱しないだろうけど、教室は混乱して良いと思う。
授業の場面で、「いやでも、ことばをかけたって結晶はきれいになったりしないけどね」と教師が言えば、子供たちは「なんだー、じゃあきれいな言葉使っても意味ないじゃん」とか、絶対にツッコミを入れるはず。教室が健全に運営されていれば、そうならないほうが不思議だ。
そしたら教師は、それに応じて色々なことが言える。こういうときに、子供たちにどう対応していくかが、教師のアート(技)であって、それを通じて「きれいな言葉を使った方が良いよ」ということと「まあオカルトを信じるとしてもほどほどにね」みたいなことは伝えられるはず。
こういう話をしたら、別の友人が、「科学を装ったオカルト話より、いっそ不条理な怪談の方が子供には効くんじゃないか」って。
そうなんだよね。悪い子はいねが~とか。
人間には個性があるし、その時の気分、状況もいろいろあるので、一つの方法で何かがうまくいくなんてありえない。
ウソついちゃダメということに関しても、社会の中にはそれを促すしかけがいっぱいあって、そういうフックの数々に少しずつ引っかかりながら、だんだん身についていくものだろう。










