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2006/12/31

ショック・ウェーブを乗り切れ!!・ログイン84年6月号掲載

 もう23年前に書いたコラムで、さすがに今読み返すとちょっと恥ずかしい。
 まあ、情報の過多が、おたく的人間と薄っぺらな人間の乖離を引き起こし、膨大な情報に圧倒された人々は、情報の簡便な切断・より分け装置、たとえば宗教とか単純すぎる物語を求めるようになるという話は、それなりに意味があったと思う。オウム真理教とかは、この文脈で出てきた物なんじゃないかな。

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 私は悟った。開眼した。この世の神秘をすべて知った。月が丸く輝いている、ああその日、お釈迦様はお悟りになったあ……。というほどでもないけれど、最近各地でヒン発する怪奇現象をもののみごとに説明する理論を、我輩は手に入れたのであった。これを応用すれば、ロリコンの台頭など、近ごろシン刻な社会問題とされているものを、たちどころに理路整然と、きゃんぺきにわかっちゃえるのである。
 では、その理論とは何か。結論から先にいうと、今の世の中は情報が多すぎるのだ……。あ、こら。誰だそこでずっこけたやつは。なに、月並みだって? まあまあ、一見月並みにみえるようなものの中にも、実は恐るべき真実があるものなのだよ。まずはとくとごろうじろ。
 情報化社会、といわれるようになってから何年たったのか、あんまり昔すぎてもう忘れたけれど、最近は特にこの傾向が強まっているような気がする。
 雑誌や出版物は増加の一途をたどり、テレビの放送時間がのび、チャンネルが増え、我々が入手できる情報は増える一方だ。その結果、困ったことが起きてくる。
 例えば、原田知世についての情報を、いっぱしのマニア面できるくらいに集めることを考えてみよう。そのうってつけのケースとして、某とりみき(仮名)のコレクションを参考にしてみる。
 まず、知世は月平均30の雑誌に登場する。これをすべて集める。次に週平均2回はテレビ番組に出るので、必ずビデオにとる。何時のどのチャンネルに出るかはまったく不明なので、これには強力な友情のネットワークが必要だ。もちろん知世のCMもすべてのバージョンで持っていなければならない。さらに、ラジオのレギュラーがあるので、これを録音する。この他、知世グッズ、レコード、ビデオディスク、ポスター、書店でくばるチラシ、etc.しかし、これらはあくまで基本のファンのコレクションで、この上に、生写真、生撮りビデオ、知世が自分で書いた似顔絵付きのサイン、対談したときのテープ、”時をかける少女”の小道具、エキストラとして自ら出演するなどの、他人にはマネのできないものをたくさん持っていなければ、とてもマニアとはいえない。これだけのものを集めるのに、某とり・みき(仮名)は、人生の八割を費やしているという(本人談)。
 一方、しばらく前までのアイドルファンはこうじゃなかった。多くの人は、山口百恵のファンであると同時に、桜田淳子、森昌子、大場久美子(わお!)のファンでもあったし、さらにその上アイドル以外のことに興味を持つこともできたのだ。
 昔は、同時に多くの人のファンであり得たのに、現在は知世マニアであるだけで人生の八割を消費してしまう。この差はいったいどこから生まれたのだろうか。
 この原因が、私のサトリによれば、情報が多すぎるためなのだ。つまり、誰でもたやすく手に入れられる情報の量が増えたために、知世ファンとして基本的に知っておかねばならない”常識”のレベルが、極端にハネ上がってしまったのだ。そのため、誰でも知っている情報を越えて、知世ファンとしてのオリジナリティを出そうとすると、その人は必然的にマニア化する運命にある。
 これは他にも、学問の世界なんかでもいえることだ。ひとつの分野について知ることが多すぎて、他の分野を理解するだけの余裕がなくなってしまい、専門ばか=マニアになる人が多くなってきている。
 わかりやすいように、知識レベルをタテ軸に、知識のジャンルをヨコ軸にとったグラフを考えてみよう。昔の人は、多くのジャンルについて一通りのことを知ることができたので、グラフは綺麗な正規分布を示したことだろう。ところが現在は、限られたジャンルに深い知識しかもてないから、鋭いピークをもつグラフになる。
 誤解しないでほしいのは、昔の人が今より頭が良かったのではないことだ。全知識量では、今の人も昔の人もまったく変わらない。あもA’もその囲む面積は同じなのだ。つまり、グラフはジャンル方向にはやせているが、知識レベル方向には高くなっている。
 こんな変化が起きたのは、人間の情報処理能力が昔も今も変わらぬ有限の一定の値なのに、一つのジャンルについて知るべきことが増えすぎた結果なのだ。
 さて、もう一度グラフを見てみよう。ABおよびA’B’の二つのグラフがあるけれど、これは嗜好のちがう二人の人間をあらわしている。そして、二つのグラフが重なった斜線の部分が、共通の知識というわけだ。
 昔は、二人の共通の知識は、レベルも高く裾野も広かった。従って昔の人の会話は、多くのジャンルについて、どうしてそうなるのかという内容レベルまでたちいった、奥の深いコミュニケーションになっていたわけだ。
 ところが現在では、ジャンル方向は昔より広いものの、知識レベルに関しては低いレベル=カタログレベルしか共有していない。そのため、二人の会話は単なる知識の羅列程度の、あまり実りのない表面的なものにならざるを得なくなる。
 もちろん、ほとんど同じものに興味を持つマニア同士ならば、昔以上に高いレベルで会話できることも確かだ。そのためマニア同士が群れ集う傾向がますます強くなる。そしてマニアというのは他の人には理解できないような隠語を使うのが常だから、外から見ると何を話しているのかさっぱりわからない奇怪な集団が増えたという感じがするわけだ。
 どうですか。ここまでくると、最近あちこちで目にする、ワケノワカラン言葉を喋る、妙に暗そうな少年たちの群れ(たとえばハッカー、ロリコン、SFファンetc)が増えている原因がわかったでしょう。あれは別に彼らが好きでやっているのではないのです。
 ようするに、今を生きている人は自分の意志にかかわりなく、多かれ少なかれマニア化していく運命にあるのだ。そして、多くの人がそれをうすうす自覚しながらも、世間全体がそうなっているとは信じていないところに、現代の病理があるのよ。
 この理論を応用すると、なぜ雑誌がここ数年つまらなくしかもあまり売れないのか、とか、くだらないミリオンセラーが続出するのか、という怪奇現象もカンタンに説明できる。
 雑誌の送り手にしてみれば、少しでも多くの人に読んでもらおうとして、もりだくさんの内容にしようとするわけだ。ところが、読者はすでにマニア化しているから、雑誌の中の情報のほとんどがカタログレベルのつまらないものとしか思えない。また、多少つっこみのある記事があっても、自分と興味の範囲が異なると、理解できなくなる。
 まれに自分の好みと一致することがあっても、それは大満足というにはほど遠く、雑誌全体から受ける印象は水っぽくてつまらないものということになる。またある程度個性を打ち出した雑誌では、それをおもしろいと思うマニアの数が限られるので、一定数は確実に売れるが、それ以上は絶対売れないという現象も起きるわけね。
 多くの人は、マニア化して視野が狭くなるのをうすうす恐れていて、他のジャンルでもおもしろいものがあれば知りたいと考えている。しかし、こんなに多量のメディアがあっては、その中から自分の判断で適当なものを見つけることは不可能だ。そこで、ちょっとしたうわさや、人気の気配だけで、多くの人がひとつのものに飛びつくことになる。これがミリオンセラーの続出の原因だ。
 しかし、飛びついてみたものの、その本の内容はやはりカタログレベルか、自分の嗜好からかけ離れていて、つまらないものに過ぎないわけだ。この傾向は、万物のファッショ化と極めて近いところにありそうで、なんかうすら寒い感じがするよね。
 また、情報過多に耐えきれない人は、自ら情報を選択することを諦めて、既存の、何か情報を切る装置を求めるようになる。たとえば、新興宗教、自然食運動、反原発、一杯のかけそば現象、etc.は、いずれもそうした情報をカットする装置として働くから、最近になって無気味なほどの広がりを見せているわけだ。しかし、情報選択の基準のほとんどを他者に依存する人が多い社会というのは考えただけでも恐ろしい不健全さをもっている。まかり間違えば、あっというまにファシズムに走る可能性だってあるからだ。
 それと、他のジャンルのことを知らなくなると、直感とか霊感といわれる能力が弱くなってくるのではないかという気もする。人は何か難問にぶつかったとき、ほとんど根拠はないけれど、だいたいこんなものだろうと直感的に解ることがよくある。これは何らかの形で、他のジャンルの知識から類推しているのだろうけど、その能力が弱くなってしまう可能性があるわけだ。
 このように、僕たちが否応もなく情報の洪水に飲み込まれていく現象は、このままどうすることもできないのだろうか。
 情報化社会というのは、別の言葉でいえば人間の知覚が拡大された社会のことだ。我々は、テレビやラジオ、電話など様々なメディアを通じて、一瞬にして世界の情報を手にすることができるようになっている。
 ところが目や耳などの知覚がテクノロジーで拡大されても、その知覚から入力される情報をさばく肝心の脳の方は、昔ながらの生身のままだ。進化は人間の脳にこんなに大量の情報を処理できるようにする義理はなかったから、入力と処理能力の間に大きな歪みができてくるのは当然だろう。
 これが、現在の情報が多すぎることの直接の原因なのだ。しかも、この傾向はニューメディア音頭にびって、さらにさらに拡大されていくことは間違いない。
 こんな、高度情報化社会の衝撃波を乗り切るには、やっぱりコンピュータの助けが必要になってくる。拡大されてしまった知覚に対応できるように、情報処理能力をコンピュータで拡大するのだ。もちろんそれは、あらゆる人が使える、パーソナルなレベルで行われなければならない。電話やテレビが誰でも使えるように、拡大された処理能力も、誰もが使えなければ意味がないからだ。
 残念ながら、今のパソコンにはこの大役を務めるだけの機能はない。そのためには、新世代の真の意味でのパーソナル・コンピュータが必要になってくる。
 近未来では、たとえばテレビのチャンネルが100チャンネルを越えるようなことがあるかもしれない。そうなれば番組のプログラムも、新聞のテレビ欄だけでは収まるはずもない。いちばん自然なのはパソコン通信によって、テレビのインデックスを供給することだ。同じように、雑誌や他のあらゆるメディアのインデックスが、通信ネットワークに乗せられると考えられる。
 真のパーソナル・コンピュータの使命は、こういうデータベースを検索して、持主に最も必要と思われる情報のリストを作ることだ。なあんだ、そんなことなら今のコンピュータだってできるじゃないと思うかもしれないけれど、そうではない。
 今のコンピュータでは、まずそのためのプログラムを作らなければならない。これでは万人のものには程遠い。しかも、プログラムを作るには相当な時間がかかるから、でき上がったときには自分の好みとズレのある情報しか探せないプログラムになってしまう可能性が大だ。こうなると、プログラムに自分の嗜好を合わせる、ということさえ起きかねないから、かえって人間の処理能力をせばめる結果になってしまう。
 必要なことは、プログラムしているという感じを与えずに、なんとなく自分の好みを話しておくと、それに見合う情報を提供してくれるシステムだ。このとき、存在する関連情報をすべてずらずらと羅列するのでなく、持主の個性に合わせて、情報を選んで提供してくれないといけない。また、目的とはまったく別だが、興味のありそうな情報も提供してくれるのが望ましい。
 つまり、人間一人一人の個性に合わせて、コンピュータも個性的になる必要があるのだ。
 真のパーソナル・コンピュータは、しばらく使っていると持主の個性を覚えて、それに見合う情報を提供できるように成長しなくてはならない。また、そうでなくては本当の意味での”パーソナル”コンピュータではないだろう。同じ知世の情報を探すにしても、持主の異なるコンピュータだと、まったく別の結果を出すことだってあり得るくらいでないでないとだめなのだ。そのような機械はもちろん、人工知能的なマシンになるのだろう。
 実をいうと、こういう形で社会に人工知能が入り込んでくることには、多少の不安も残るんだよね。コンピュータと人間の知能分担が、人間の多様性を生かすようなうまい形になってくれれば良いけど、そうでないと人間の能力をかえって狭めてしまう可能性もあるからね。
 しかし、社会がこうなってしまっては、わかっちゃいるけどやめられない。ほれ、すいーすいーすーだららった、すらすらすいすいすいー、と衝撃波を乗り切れるといいんだけどねえ。

(このコラムは、今はなき中央公論社の科学誌「自然」1984年4月号に掲載された、住田晴幹氏の「巨大情報システムの中の人間」という文章に触発されて書いたものです。)

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 これを書いたときは、インターネットもグーグルも想像の外だった。
 しかし、今では、情報はさらに過剰になり、情報に対する反情報、情報に対するメタ情報があふれかえって、何が真実で何が真実でないか、ほとんどのことで確証がもてなくなってしまった。

 その過剰さにおなかいっぱいになり、情報を理性的には吟味できず、即時的な情緒、本能、気分に基づいて反射的に反応する感じで社会が動くようになってきたのが今なのだろう。

 東浩紀氏の動物化というキーワードは、そのこともいっているんじゃないかな。
 この過剰な情報の中の人間については、そのうちまた書いてみるかも知れない。


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