内向・外向、そして心理療法
内向、外向という概念は、もともとあのC・G・ユングが言い出したものだ。いわゆる深層心理学みたいな分野は、19世紀の終わり頃に、フロイトやユングやアドラーたちによって築かれていったんだけど、この三人はひととき、一緒に活動をしていたことがあったんだよね。まあ、最終的に喧嘩別れして、別の学派を作っていったわけだけど。
で、ユングは、内にこもるタイプのフロイトと、社交性豊かなアドラーを見比べて、人には内向と外向という性質があるんだといったわけだ。で、ユングはどちらかというと、たぶん内向の人だったんじゃないかな。
で、この三人は、自分の学派を作るにあたって、それぞれ別のタイプのフィクションを採用したのだった。それをぼく流の言葉で表現すると、フロイトはハードSFであり、ユングはファンタジーであり、アドラーはリアリズムだ。
深層心理学というか臨床心理学は、もともとはキリスト教の神様からリアリティが失われたことで、できてきた分野だろう。
神様にリアリティのあった時代は、カソリックだと告解、告白、悔改みたいなことをして、神様に向かって己の罪を打ち明けることで、心の平安を得ることができた。
でも、神様にリアリティがなくなってくると、告解という行為が持っていた癒しの力にも説得力が無くなってしまう。そこで、神に変わるリアリティをもった心の救い手として、心理療法が現れてきたわけだ。
フロイトはよく、無意識というものにはじめて気づいた人みたいにいわれることがあるけど、実際には、無意識という概念はフロイト以前から徐々に形成されてきたものだ。ただ、フロイトが画期的だったのは、無意識をメカニカルに説明したことだった。
フロイトの学説というと、人はみな、メチャクチャエッチな気持ち(リビドー)を持っているんだけど、それはいけないことなので、超自我っつーのが抑圧していて、でもその抑えが効かなくて……みたいな話なので、エッチ方面の話が大事だと思われがちな気がする。
でも、この学説のキモは、心の中にはすごい心的エネルギーというものがあって、それがぐーっと押さえつけられて、変なほうに噴出しちゃったりすると、ヒステリーとかの異常な行動が現れるんだよ~みたいな、力学っぽい説明をしたってことなのね。
彼らが生きたのは、産業革命というか劇的な工業化が急速に進んでいた時代で、テクノロジーの強大な力が至る所で示されていた。だから、この説明には非常に説得力があったわけだ。まさに、かつての神様に匹敵するほどに。
実際この影響は今でもあって、たとえば、怒りのエネルギーが噴出するとか、ストレスがたまるとか、まるで本当の事みたいな感じで僕たちはこの表現を口にする。でも、よくよく考えてみると、噴出したり、たまったりするものというのは、現実には存在しない。これはあくまで、フィクションというか文学的表現なんだよね。
一方、ユングは何にリアリティを求めたのかというと、それは神秘の世界だ。集団的無意識とかシャドーとかシンクロニシティとか、なんかもう神がかった別世界みたいな話。
でも、工業化に伴って、牧歌的な田園風景みたいなのがどんどん失われつつあったこの時代、心の奥底ではみんなつながっているんだよ~みたいな、ファンタスティックなものがこの世にはあるよね~という物語に、リアリティを感じる人たちもたくさんいたわけだ。
そしてもうひとりのアドラーは、心に深層なんてないと主張した。ヘンテコな心の奥底の仕組みみたいなものを仮定しないという意味で、リアリズムなわけね。
アドラーは、日本ではフロイト、ユングに比べてマイナーだと思うけど、劣等感という言葉を作った人だ。この劣等感とは、あるべき理想の自分の姿と、現実の自分の姿との差のことを言う。そして、その差があることは不快なので、人は劣等感を補償する方向に行動すると考えた。また、アドラーは自分の心理学を個人心理学と呼んだけど、内容的には社会性とかコミュニティの重要性を非常に重視したものだ。
カウンセリングの方式も、フロイトやユングは密室で一対一でカウンセリングをする告解っぽいやり方だったのに対して、アドラーはオープン・カウンセリングといって、たくさんの聴衆のいる前での悩み相談という形を編み出した。
聴衆の前で、内面の秘密なんて喋れるのかよとか思うかも知れないけど、本人が話してまずいと思うことは話さなくてもちゃんと効果のあるアドバイスはできるし、カウンセリングが行われているときの聴衆の反応は、相談者(クライエント)にもいい影響を与える。
聴衆は悩みを打ち明けるクライエントに共感して、頷いたり、泣いたり、笑ったりするんだけど、それがクライエントの心を支えるんだよね。また、悩みの多くは対人関係に関するもので、カウンセリングのやりとりの中で、こういう場合はこうしたら良いんじゃないのといった提案が行われる。そして、それを見ることで、聴衆も自分が直面している同じような悩みの解決法のヒントが得られたりする。
まあ、今風にいえば、みの・もんたみたいなものかな。ちょっと違うけど。
臨床心理学がやっているのは、実は、病気を治療することじゃない。
ある困難を抱えた人がいたとき、その人が、その困難を受け入れられるようにするための物語をあつらえることが、実際に行われていることだ。そのプロセスで、クライエントの症状が消えていくこともあるし、症状はあっても苦にならなくなったり、むしろその症状こそが選ばれしものの証、みたいなことになったりすることもある。
昔読んだSFで、たぶんフレドリック・ブラウンの短編じゃないかと思うけど、こんな話があった。
ある高名な心理学者が、宇宙旅行中、辺境の惑星で遭難した。そこで、救助隊を何回も送ったのだけど、誰も帰ってこない。そこで、さまざまな危機を切り抜けてきた宇宙一のパイロットに、この心理学者の救出が依頼される。
いったいどんな危険が潜んでいるのかと、警戒しながら救出に向かったこのパイロットは、しかし、特に何事もなく、その星に到着する。
そこは空はどんよりと曇り、猛烈な暑さで、水も赤さびた泥水しかない極めて劣悪な環境の惑星だった。
ただ、幸いなことに、目的の心理学者は、すぐに見つかった。
「先生、助けに来ましたよ。さあ、こんなひどい星から、早くおさらばしましょう」
「なに?、あなたは、このすばらしい惑星を、ひどい世界だと感じていらっしゃるのですか。では、少しお話ししましょう……」
これは心理療法の本質をよくとらえていると思う。
その人が信じられる、その人だけの物語を作り上げるのはそう簡単な事じゃないし、カウンセラーの側にもそれを組み立てるためのよりどころが必要だ。その物語は、クライエントが心の底からというか、心の底ではリアリティを感じていないと、何の効果ももたらさない。肝心なのは、カウンセラーがそのよりどころとなるフィクションを、かなり本気で信じている必要があることで、そうであったとき、はじめてカウンセラーとクライエントが協力して作り上げらた物語に、真実味が与えられる。
そういう意味では、占いとかオーラなんちゃらとかも、ちゃんと効き目があるときは、心理療法と本質的には同じ事をやっているんだよね。
とはいえ、カウンセラー側に邪悪な思いが混入すると、これは容易に霊感商法とか洗脳とか、父親に性的虐待を受けたという事実無根な記憶を植え付けられるとか、いろいろイヤンなことが起きてしまうことにもつながるのだけど。
まあ、いずれにせよ、人は本質的にフィクションを必要とする存在なんだろうね。
最終更新時間 2006年10月28日 11:25
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「癒し」という言葉が簡単に使われるようになっている現状を、「現代人の精神性の希薄さ」みたいなステレオタイプな言葉で片づけるつもりはないのだけれど、ちょっと前まで癒されるための労力って言うのは、ものすごいエネルギーが必要だったことだったのではないでしょうか。「癒し」のポピュライズ化・インスタント化って言うのは、詰まるところ「癒し」の行為と言う「非論理的・非パターン的」な物を、ある決まった型にパッケージングする事によって可能になった気がします。その善悪は置いておいて、シンクロニシティとか集団的無意識とか「そうだよね」→「うん、そうだよ」みたいな感覚を論理化する可能性を開く一つのキーが「癒しの簡易化」なのではないでしょうか?「モーツァルトを聴いて癒し効果」とか、そういう特定の意識下でのコンセンサスの合成→受け入れが、個々人の無意識の壁をもし打ち破るようなことがあれば、それは新たな神の出現だ。なんて言う事は飛躍のしすぎでしょうか?論旨が曖昧になってきたような感じもしますが、よく分からないものを、何となく分かったような気分にさせる手法、それこそ現代の麻薬の一つではないでしょうか?勿論、その手法に当てはまらない人間は排除されることになるのでしょうけど・
投稿者 migkiller555 : 2006年11月09日 11:02










