曖昧なことば
幸福感の遺伝の研究は、調査対象が多いとはいえ、基本的にアンケートに基づいたものだし、「幸福感」という言葉の定義や、もっと遡ると「内向性」「外向性」「神経症傾向」という言葉も、その意味するものが何なのかは、今ひとつどうなんでしょうって感じがする。
もちろんこれらの性質は、ある公式の質問用紙に基づいて、たくさんの質問に答えることで浮かび上がってくるもので、「何か」を測っている事は間違いない。でも、ある研究で定義された「幸福感」や「内向性」「外向性」「神経症傾向」などの言葉は、別の研究で使われるそれらの言葉と、100パーセント同じものかというと、その保証はない。
つーか、現実問題として、100パーセント同じなんて事はほとんどありそうにないことだ。
ぼくが大学の頃、論理学の教科書に、3段論法を成立させるためにしちゃいけないことの例文として、こんなのがあった。
神は光である。
光はエーテルの振動である。
従って、神はエーテルの振動である。
これってヘンだよね。だって、光はエーテルの振動じゃないもの……ってそっちかよ!
そうじゃなくて、これは一つめの文が意味する「光」と二つめの文が意味する「光」が、言葉は同じでも、指し示している内容が全く違うので、三段論法は成り立たないという例ってわけだ。
これと同じようなことが、上記のような研究で、程度の問題はあるにしても、起きているんじゃないかって気がする。
もちろん、ある言葉を共有しなければ、知識を深めるということも不可能なので、とりあえずそれで進むしか方法はないのだけれど。ただ、その当てにならない言葉の共有によってたくさんの知識が積み上げられたあとで、改めてその曖昧な言葉の意味を再検討すると、全く新しいパラダイムを切り開いたりできちゃったりして。
なんかわけのわからん抽象的な話で申し訳ないけど、まあ、このことに関しては、またあとで触れることになると思いますので、徐々にわかっていただけるかも知れません。
最終更新時間 2006年10月28日 11:07
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