好奇心の遺伝子?
幸福感の遺伝の話では、あの実験で使われた幸福感って言葉が意味するものは、本当はどうなのよっていう曖昧さが残ったわけだけど、性格の遺伝に関しては、すでに、もっと物質ベース、つまり遺伝子や、脳神経の受容体分子のレベルで明らかになってきているものもある。
それは「好奇心」の遺伝子とかいわれたりすることもあるんだけど、学問的には「新奇探索傾向」「新奇探求行動」とかの言葉で訳されている、ノベルティ・シーキング(Novelty Seeklng)という性格だ。
ノベルティ・シーキングは、字面からすると、新しい物好きみたいな感じで、確かにそういう性質ではある。でも、同時にそれは、無鉄砲さという側面もある。
なんか、新しい物好きと無鉄砲さにどんな関係があるのか、直感的にはわかりにくいかも知れないけど、まあ、今まで誰も見たことのないような新しいことを求めるというのは、ある意味危険を冒すことも厭わないということで、だから無鉄砲さとも関係するって感じかな。
ノベルティ・シーキング傾向の強い人は、危険なスポーツをしたがるし、非常に速いスピードを出す乗り物が好きだったりする。また、ギャンブルやたばこ、ドラッグにはまりやすかったり、戦争に真っ先に志願する人もこの傾向が強い。また、外向性とも相関していて、一目置かれたいとか、リーダーシップを取りたいという傾向もある。
あと、なんでも平等視する人が多く、エリートは嫌いらしい。まあ、自分がリーダーシップを取りたいタイプなんだから、自分より上に立つ人がいることはあまり心地よくはないのだろうし、だから平等が好きなんだろうね。自分が上の立場になったとき、下のものに対しても平等であるべきと思うかどうかはわからない。
それと、環境問題に関心の高い人も多いようだ。
職業的には、レーサーとか警官、マスコミ、外科医、ベンチャー起業家とかに、この傾向の強い人が多い。
まあ、このノベルティ・シーキングという性格も、ある質問用紙でアンケートを行って、その程度を測るものではあるんだけどね。
で、このノベルティ・シーキングという性格が、神経伝達物質のドーパミンを受け取るレセプターのうち、D4というタイプのものの遺伝的な違いと相関しているという研究が、1996年にイスラエルとアメリカの研究者によって発表されている。
(Dopamine D4 receptor (D4DR) exon III polymorphism associated with the human personality trait of Novelty Seeking.:Ebstein RP, Novick O, Umansky R )
脳の中の神経細胞は、細胞内は電気で信号が伝わるんだけど、細胞と細胞のつなぎ目であるシナプスのところは、神経伝達物質という分子を使って信号を伝えている。
この神経細胞には色々な種類があるんだけど、一つの神経細胞は一種類の神経伝達物質しか出す事ができない。
で、神経伝達物質のほとんどは、アミノ酸だ。
中でも、興奮性の神経細胞(つながる下流の細胞を興奮させる細胞)の神経伝達物質はグルタミン酸で、抑制性の神経細胞(つながる細胞下流の細胞の興奮を抑える細胞)の神経伝達物質はGABA(ガンマアミノ酪酸)が主。
グルタミン酸は、みなさん御存知、味の素のアレだ。
一方、GABAは、最近はチョコレートとかヨーグルトとか、これを入れた商品をたくさん見かけるようになったので、言葉として知っている人も多いと思う。
GABAは薬として投与すれば、てんかん発作とかを抑えたりするし、食品に添加されるのは、たぶんリラックス効果があるというイメージなんだろう。血圧を下げるという話もあるしね。でも、まあ、食べることで何か効き目があるかというと、それは限りなく怪しげだけどね。
神経伝達物質にはこのほかに、モノアミン系というのがあって、それを使っている神経細胞の数は、グルタミン酸やGABAを使う神経細胞の数の1000分の1くらいしかない。それは一つには、この神経伝達物質を使う神経が、脳の中の特定の場所にしかないことと関係しているのだろうけど、ところが、そんなマイナーなモノアミン系の神経伝達物質が、人の心の状態に大きな影響を与えていることがわかっている。たとえばセロトニンは脅迫障害や鬱病と密接な関わりがあるし、ドーパミンは意欲とか、常習行動とか、妄想と関係がある。
そして、ノベルティ・シーキングに関係するのも、このドーパミンだ。
ドーパミンは神経の末端から放出され、接続する次の神経細胞にあるレセプターにくっつく。このドーパミン用のレセプターは、人の脳ではD1~D5まで5種類ある。同じ物質が結合するレセプターが何種類もあるのは不思議な感じだけど、それぞれどうやら別の働きがあるらしい。
たとえば、統合失調症の薬は、このD2とD5に結合すると、統合失調症に特有の妄想を抑えることがわかっている。
一方、ノベルティ・シーキングの強さは、D4レセプターの個人差で違ってくるというのが、上の論文の内容だ。
D4レセプターを作る遺伝子は、いくつかの領域に分断されて存在しているんだけど、それの前から3番目の領域に含まれている、ある配列の繰り返し回数が、人によって違っていた。今のところ知られている範囲では、この繰り返しが、2回、4回、7回の人がいて、この繰り返し回数が多いほど、ノベルティ・シーキングの傾向が強いのだ。
そして日本人でもこの繰り返しを調べられているんだけど、その結果日本人には7回繰り返しの人が、おそらく全くいないことが明らかになっている。つまり、日本人はどちらかというと、ノベルティ・シーキングの傾向が弱い可能性がある。
あと、この繰り返し回数は動物でも調べられていて、たとえば岐阜大農学部生物資源生産学科の村山美穂助手の研究グループは、犬のD4レセプターの遺伝子を調べたところ、一般的におとなしい性格といわれるゴールデンレトリバーでは、繰り返し配列が短く、活発だといわれる柴犬では長いことが明らかになっている。
ちなみに、この繰り返し回数が多いレセプターほど、ドーパミンの感度が悪くて、たくさんドーパミンを受け取らないと、働かない。つまりたくさん刺激を受けるまで働かないので、強い刺激を求めがちな、ノベルティ・シーキングと関わっているのではないかともいわれている。
ただ、これももちろん完璧にこれだけで説明できたって話でもない。なんだか怪しげなところも多々あるしね。たとえば、3種類の長さしかないからといって、人のノベルティ・シーキングの程度を3種類に分類できるかというと、そんなことはあり得ない。
こういう性格に関係するのは、おそらく数十、数百の遺伝子が関連していて、たとえD4レセプターの繰り返し配列が短くても、別の遺伝的要素がノベルティ・シーキングを高める可能性はあるだろう。それに、環境要因によって現れが変わってくるということもあり得る。
とはいえ、ヒルマン監督が洞察した日本人の性格というのは、このノベルティ・シーキング傾向の低さの現れという感じがしないでもない。
あと、エクストリーム・スポーツとか、外人が編み出す競技の中には、ちょっと日本人の感受性ではあり得ないくらい危険なものを、平気でやる人が多い気もする。
スケボーとかでやってるみたいな、U型の溝を使って自動車がぶっ飛んでます。
しかも、自動車が空中にあるとき、ドライバーがドアを開いて、
外に出てきてる((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
こういうコトできる人は、なんかもうD4の繰り返し配列がすげえ長そう。
7回繰り返しどころか、20回繰り返しでも良さそうな感じだけどね。
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内向・外向、そして心理療法
内向、外向という概念は、もともとあのC・G・ユングが言い出したものだ。いわゆる深層心理学みたいな分野は、19世紀の終わり頃に、フロイトやユングやアドラーたちによって築かれていったんだけど、この三人はひととき、一緒に活動をしていたことがあったんだよね。まあ、最終的に喧嘩別れして、別の学派を作っていったわけだけど。
で、ユングは、内にこもるタイプのフロイトと、社交性豊かなアドラーを見比べて、人には内向と外向という性質があるんだといったわけだ。で、ユングはどちらかというと、たぶん内向の人だったんじゃないかな。
で、この三人は、自分の学派を作るにあたって、それぞれ別のタイプのフィクションを採用したのだった。それをぼく流の言葉で表現すると、フロイトはハードSFであり、ユングはファンタジーであり、アドラーはリアリズムだ。
深層心理学というか臨床心理学は、もともとはキリスト教の神様からリアリティが失われたことで、できてきた分野だろう。
神様にリアリティのあった時代は、カソリックだと告解、告白、悔改みたいなことをして、神様に向かって己の罪を打ち明けることで、心の平安を得ることができた。
でも、神様にリアリティがなくなってくると、告解という行為が持っていた癒しの力にも説得力が無くなってしまう。そこで、神に変わるリアリティをもった心の救い手として、心理療法が現れてきたわけだ。
フロイトはよく、無意識というものにはじめて気づいた人みたいにいわれることがあるけど、実際には、無意識という概念はフロイト以前から徐々に形成されてきたものだ。ただ、フロイトが画期的だったのは、無意識をメカニカルに説明したことだった。
フロイトの学説というと、人はみな、メチャクチャエッチな気持ち(リビドー)を持っているんだけど、それはいけないことなので、超自我っつーのが抑圧していて、でもその抑えが効かなくて……みたいな話なので、エッチ方面の話が大事だと思われがちな気がする。
でも、この学説のキモは、心の中にはすごい心的エネルギーというものがあって、それがぐーっと押さえつけられて、変なほうに噴出しちゃったりすると、ヒステリーとかの異常な行動が現れるんだよ~みたいな、力学っぽい説明をしたってことなのね。
彼らが生きたのは、産業革命というか劇的な工業化が急速に進んでいた時代で、テクノロジーの強大な力が至る所で示されていた。だから、この説明には非常に説得力があったわけだ。まさに、かつての神様に匹敵するほどに。
実際この影響は今でもあって、たとえば、怒りのエネルギーが噴出するとか、ストレスがたまるとか、まるで本当の事みたいな感じで僕たちはこの表現を口にする。でも、よくよく考えてみると、噴出したり、たまったりするものというのは、現実には存在しない。これはあくまで、フィクションというか文学的表現なんだよね。
一方、ユングは何にリアリティを求めたのかというと、それは神秘の世界だ。集団的無意識とかシャドーとかシンクロニシティとか、なんかもう神がかった別世界みたいな話。
でも、工業化に伴って、牧歌的な田園風景みたいなのがどんどん失われつつあったこの時代、心の奥底ではみんなつながっているんだよ~みたいな、ファンタスティックなものがこの世にはあるよね~という物語に、リアリティを感じる人たちもたくさんいたわけだ。
そしてもうひとりのアドラーは、心に深層なんてないと主張した。ヘンテコな心の奥底の仕組みみたいなものを仮定しないという意味で、リアリズムなわけね。
アドラーは、日本ではフロイト、ユングに比べてマイナーだと思うけど、劣等感という言葉を作った人だ。この劣等感とは、あるべき理想の自分の姿と、現実の自分の姿との差のことを言う。そして、その差があることは不快なので、人は劣等感を補償する方向に行動すると考えた。また、アドラーは自分の心理学を個人心理学と呼んだけど、内容的には社会性とかコミュニティの重要性を非常に重視したものだ。
カウンセリングの方式も、フロイトやユングは密室で一対一でカウンセリングをする告解っぽいやり方だったのに対して、アドラーはオープン・カウンセリングといって、たくさんの聴衆のいる前での悩み相談という形を編み出した。
聴衆の前で、内面の秘密なんて喋れるのかよとか思うかも知れないけど、本人が話してまずいと思うことは話さなくてもちゃんと効果のあるアドバイスはできるし、カウンセリングが行われているときの聴衆の反応は、相談者(クライエント)にもいい影響を与える。
聴衆は悩みを打ち明けるクライエントに共感して、頷いたり、泣いたり、笑ったりするんだけど、それがクライエントの心を支えるんだよね。また、悩みの多くは対人関係に関するもので、カウンセリングのやりとりの中で、こういう場合はこうしたら良いんじゃないのといった提案が行われる。そして、それを見ることで、聴衆も自分が直面している同じような悩みの解決法のヒントが得られたりする。
まあ、今風にいえば、みの・もんたみたいなものかな。ちょっと違うけど。
臨床心理学がやっているのは、実は、病気を治療することじゃない。
ある困難を抱えた人がいたとき、その人が、その困難を受け入れられるようにするための物語をあつらえることが、実際に行われていることだ。そのプロセスで、クライエントの症状が消えていくこともあるし、症状はあっても苦にならなくなったり、むしろその症状こそが選ばれしものの証、みたいなことになったりすることもある。
昔読んだSFで、たぶんフレドリック・ブラウンの短編じゃないかと思うけど、こんな話があった。
ある高名な心理学者が、宇宙旅行中、辺境の惑星で遭難した。そこで、救助隊を何回も送ったのだけど、誰も帰ってこない。そこで、さまざまな危機を切り抜けてきた宇宙一のパイロットに、この心理学者の救出が依頼される。
いったいどんな危険が潜んでいるのかと、警戒しながら救出に向かったこのパイロットは、しかし、特に何事もなく、その星に到着する。
そこは空はどんよりと曇り、猛烈な暑さで、水も赤さびた泥水しかない極めて劣悪な環境の惑星だった。
ただ、幸いなことに、目的の心理学者は、すぐに見つかった。
「先生、助けに来ましたよ。さあ、こんなひどい星から、早くおさらばしましょう」
「なに?、あなたは、このすばらしい惑星を、ひどい世界だと感じていらっしゃるのですか。では、少しお話ししましょう……」
これは心理療法の本質をよくとらえていると思う。
その人が信じられる、その人だけの物語を作り上げるのはそう簡単な事じゃないし、カウンセラーの側にもそれを組み立てるためのよりどころが必要だ。その物語は、クライエントが心の底からというか、心の底ではリアリティを感じていないと、何の効果ももたらさない。肝心なのは、カウンセラーがそのよりどころとなるフィクションを、かなり本気で信じている必要があることで、そうであったとき、はじめてカウンセラーとクライエントが協力して作り上げらた物語に、真実味が与えられる。
そういう意味では、占いとかオーラなんちゃらとかも、ちゃんと効き目があるときは、心理療法と本質的には同じ事をやっているんだよね。
とはいえ、カウンセラー側に邪悪な思いが混入すると、これは容易に霊感商法とか洗脳とか、父親に性的虐待を受けたという事実無根な記憶を植え付けられるとか、いろいろイヤンなことが起きてしまうことにもつながるのだけど。
まあ、いずれにせよ、人は本質的にフィクションを必要とする存在なんだろうね。
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曖昧なことば
幸福感の遺伝の研究は、調査対象が多いとはいえ、基本的にアンケートに基づいたものだし、「幸福感」という言葉の定義や、もっと遡ると「内向性」「外向性」「神経症傾向」という言葉も、その意味するものが何なのかは、今ひとつどうなんでしょうって感じがする。
もちろんこれらの性質は、ある公式の質問用紙に基づいて、たくさんの質問に答えることで浮かび上がってくるもので、「何か」を測っている事は間違いない。でも、ある研究で定義された「幸福感」や「内向性」「外向性」「神経症傾向」などの言葉は、別の研究で使われるそれらの言葉と、100パーセント同じものかというと、その保証はない。
つーか、現実問題として、100パーセント同じなんて事はほとんどありそうにないことだ。
ぼくが大学の頃、論理学の教科書に、3段論法を成立させるためにしちゃいけないことの例文として、こんなのがあった。
神は光である。
光はエーテルの振動である。
従って、神はエーテルの振動である。
これってヘンだよね。だって、光はエーテルの振動じゃないもの……ってそっちかよ!
そうじゃなくて、これは一つめの文が意味する「光」と二つめの文が意味する「光」が、言葉は同じでも、指し示している内容が全く違うので、三段論法は成り立たないという例ってわけだ。
これと同じようなことが、上記のような研究で、程度の問題はあるにしても、起きているんじゃないかって気がする。
もちろん、ある言葉を共有しなければ、知識を深めるということも不可能なので、とりあえずそれで進むしか方法はないのだけれど。ただ、その当てにならない言葉の共有によってたくさんの知識が積み上げられたあとで、改めてその曖昧な言葉の意味を再検討すると、全く新しいパラダイムを切り開いたりできちゃったりして。
なんかわけのわからん抽象的な話で申し訳ないけど、まあ、このことに関しては、またあとで触れることになると思いますので、徐々にわかっていただけるかも知れません。
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幸福感は遺伝するか
毎日更新とかいっといて、さっそく間が開いてしまった。オレサマのヘタレぢからの威力を見よ!
いやしかし、がんばるよ。(´・ω・`)
ヒルマン監督の成功は、日本人の性格を見抜き、その個性を強調したことにあったのだろう。ウィークネス(弱いところ)を補うというより、ストレングス(強いところ)を伸ばしたって感じかな。
こういう発想も、どちらかというと日本では珍しいような気がする。日本の普通の発想では、弱点を見つけてそれを補強することに眼が行きがちで、弱点なんかとりあえずどうでも良いから、とにかく強みをガンガン伸ばそうとはあまり思わないような……。
しかし、この「日本人の性格」って何なんだろう。
性格や行動の仕方は、親から子へと受け継がれるかといえば、みんな、そりゃあそうだろうねって思うだろう。
性格や行動のしかたが、遺伝的な素因の影響を受けているという考えかたは、ずいぶん昔からある。たとえば進化論で現代生物学の基礎を築いたチャールズ・ダーウィンは、犬や馬などの家畜の精神的な”質”が遺伝することは明らかで、特別なテストの成績や癖だけでなく、知能や勇気、気性などが確かに親から子供へと伝わっているといっていた。
実際、動物の品種改良では、たとえば狩猟犬なら忍耐強い性格のものを選んだり、乳牛なら乳を搾りやすいおとなしい性格のものを選ぶということがされて、人間にとって役に立つ性格の家畜を作ってきた歴史がある。ほとんどの家畜は、野生ではあり得ないくらい大人しくのんびりしていて、人を恐れることは少ない。もちろん、生育環境によっては、そうでなくなることもあるのだけれど、性格が遺伝的な要因と結びついていることは紛れもない事実だ。
当然、あるグループ、たとえば日本人が、遺伝的に特定の性格を持っていても不思議はない。……よね?
そんな観点から、日本人は幸薄いって話がある。
その前提として、幸福感は遺伝するという論文が1996年に発表されている。
これは、「Happiness is a Stochastic Phenomenon」という論文で、David T. Lykken と、Auke Tellegenによって、Psychological Science 誌に掲載されたものだ。
この研究では、数千人に及ぶ、一卵性双生児と二卵性双生児について、それぞれ同居して育った場合と、別居して育った場合について、アンケートを行った。
それによると、幸福感は、二卵性双生児では、同居で育とうが別居で育とうが、ほとんど全く関係がないのに、一卵性双生児では、同居で育とうが別居で育とうが、とてもよく相関しているという。
しかもそれは、当人たちの社会経済的地位や教育の達成度、家計所得、配偶関係、宗教へのコミットメントなどとも、ほとんど関係がない。
つまり、幸せを感じられる性格というのは、生まれや環境にはあまり依存せず、ほとんど生まれつきで決まっているってわけだ。うーん。
それにしても、これって一体どうやって調べたのだろう。
幸せとは、もちろん客観的に評価できるものではなくて、どんなに恵まれた生活をしていても本人がそれを気に入らなければ不幸だし、はた目には厳しい条件で生きていたとしても、幸せを実感している人もいる。
そこでこの研究では、幸福感を「正の情緒」から「負の情緒」を引いたものと考えた。
正の情緒とは、楽しいとか、嬉しいとか、ウキウキしちゃうとかの感じで、負の情緒とは、つらい、悲しい、腹が立つという感じのことだ。誰でも生きていれば色々なできごとがあって、正の情緒も負の情緒も味わう。そこで、1年くらいの長い期間のうち、どちらをより多く感じたかを質問して、幸福感を感じやすいかどうかを判断したわけだ。
一方、いくつかの先行研究で、性格の傾向のうち、外向性の強い人は正の情緒を感じやすく、内向性の強い人は負の情緒を感じやすい事が知られていた。また神経症傾向(情緒の過敏性)の強い人ほど、負の情緒を感じやすい。
つまり、外向性が高く神経症的傾向が低い人ほど幸せで、内向的で神経症的傾向が強い人ほど不幸を感じやすい。そして、この内向・外向性と神経症傾向は遺伝することもわかっている。
これらを総合すると、幸福感は遺伝するという結論が導かれるわけだ。
ちなみに日本人は、内向性も神経症傾向も、欧米諸国の人々と比べて高い人が多く、幸福感に乏しい国民らしい……。
いや、でも、この話はどこか変だよね。
日本人って、そんなに幸福を感じられない人が多いのかなあ。
幸福感の遺伝の研究のポイントは、幸福感が正の情緒から負の情緒を引いたものと「定義」した事だ。幸福感というのは人によって違うとらえかたがあるから、それを曖昧にしたまま考察を進めると、結論も曖昧になってしまう。
だから、この研究では、幸福感の意味を限定して、そういう幸福感は遺伝しているといっているわけだ。つまり、研究の対象となった幸福感は、ある調査の中で限定的に定義されたモノであって、ぼくたちが普通に感じている幸福感とは、必ずしも同じではない。
もちろん、「何か」が遺伝的に伝わっているのは間違いないだろう。でも、その「何か」が日常語の「幸福感」という単語に等しいと思うのは、なんか違うと思うんだよね。
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ヒルマン監督の洞察力
体調不良とか色々あって、しばらく更新を休んでしまいました。
お詫びに、今月末まで、なるべく毎日更新しようと思います。
まあ、ヘタレなので続かないかも知れないけど、とりあえずそう宣言しとくよ。
実はぼくは、野球にはほとんど興味がない。
まあ幼い頃から、『黒い秘密兵器』とか『どろんこエース』、『流星球団』などの魔球漫画が好きで片っ端から読んでいたから、ルールはある程度知っていたけど、あれは野球が好きで読んでいたわけではなくて、SFを読む感覚で好きだったのね。
実際の野球をプレイすることや、試合を観戦することには全く興味がなかったし、今でもそれは変わらない。
ところが、先日、10月17日にNHKのクローズアップ現代で放送された「日ハム優勝に秘密あり」を、他のことをしながらチラ見していて、凄く面白い事が語られているなあと思ったのでした。
北海道の日本ハムファイターズは、25年ぶりにリーグ優勝をしたそうだ。(そんなことも知らなかった。それくらい興味ないのね。つーか、北海道にも球団があるんだ!とか思った)しかも、ここ数年どん底状態が続いていたのに、優れた選手を補強したとか目立った事をしたわけでもないのに、突然のぶっちぎりでの優勝だったそうだ。
一体なにが、こんな不思議を可能にしたのだろうか。
それは、結論を先に言うと、ヒルマン監督の優れた洞察力のたまものだ。
ヒルマン監督は、アメリカでは監督としての長い経験と実績を持った人だったらしい。
その彼が日ハムに招かれてまず試みたのは、長打を基本とするアメリカ流のベースボールだった。自分の監督としての能力に、実績もプライドもあった人なのだから、これはまあ当然だよね。
ところが、その方法では全く勝てず、長期低迷状態に入ってしまったそうだ。
それはヒルマン監督にとって、不思議で納得のしがたいことだったろう。
そこでヒルマン監督は考えた。
アメリカ流「ベースボール」は、長打をバリバリ打たせるのが基本だ。
たとえ9回まで3点差で負けていても、満塁ホームランで一発逆転みたいなことよしとするのがアメリカ流。
一方、日本の「野球」は、4点リードしていようが5点リードしていようが、バントを使って1塁ランナーを2塁に進めるような、アメリカ人の感性からすると理解しがたい戦略をとる。
しかし、それは日本人の気質に合っているのではないか。
9回で3点差とかだと、日本人はまあ「終わったな……」とか思って、あきらめムードになる傾向がある。でも、それはベースボールをプレイするアメリカの選手には、ちょっと想像しにくい感受性らしい。
どっちかっつーと、冒険野郎どもが多いアメリカでは、俺様が一発逆転しちゃると、多くの選手が素で思うようだ。まあ、もちろん個性はそれぞれだろうけど、全体の傾向としてはそうらしい。
こういう派手に突出して目立とうとする行為は、一歩間違えば大失敗につながるわけで、自分を危険にさらすことでもある。でも、そういうリスクに対する耐性が、アメリカのベースボール・プレイヤーにはある。
一方、日本人は、こつこつ堅実に、少しずつでも歩みを進めて、確実に勝利に近づいていくほうが「安心」する。つまり、冒険野郎ではない。言葉を変えると、ビビリというかヘタレというか。
ただし、いったん仕事が与えられると、要求水準を越えるレベルで、完璧にやり遂げる才能がある。(これも、まあ、枠からはみ出ないのが安心という性格の現れで、ビビリの変形ともいえるのだが)
こつこつかせいで、ため込んで、安心安心。それが日本人の感覚にあっている。最近はそうでもないかも知れないけど、貯金大好き日本人ってわけ。
このことに気がついたヒルマン監督は、シーズン前からバントの練習を徹底的に行い、シーズンが始まるとバント策を多用して、去年までリーグ最低だった送りバントの数を、リーグ最多にまで引き上げた。そこまでやるかと言うくらい、バントをやりまくった。
これはある意味で、日本の野球を越えたやり方だった。
ヒルマン監督のもう一つの洞察は、キャッチャーの重要性に気づいたことだ。
アメリカのベースボールでは、キャッチャーは日本ほど重要視されていないらしい。
何しろみんな冒険野郎なのだ。
ピッチャーは皆、オレサマちゃんの投げたいところに投げるべ、というのが基本で、キャッチャーの言うことなんて聴くわけがない。というか、そもそもそういう発想が薄い。
しかし、日本の野球は、キャッチャーを非常に重視する。
キャッチャーは、野球における司令塔とかいって、最も賢い存在であり、野村監督とか古田とか、人心の理解に長けた人っていうエピソードが山のようにある。
日本における優れたキャッチャーは、相手チームのバッターの心理を読みとり、時に意外なつぶやき戦術さえ用いて心理的に攪乱する。さらに、味方のピッチャーの心理を洞察して、逃げに入っているなとか察すると、さっとマウンドまで行き、適切な言葉かけをして心理的に安定させる。
講談社のアフタヌーンで連載されている、ひぐちアサの『おおきく振りかぶって』という漫画がある。女性作家の描く、今までにない野球漫画なので、知っている人も多いと思うけど、これはまさにキャッチャーと監督の洞察力を中心に描かれている作品だ。
この作品の主役チームのピッチャーは、対人恐怖症かと思えるほど自分に自信がなく、また、たいして速い球が投げられるわけでもない。しかし、猛烈に練習をしていて、コントロールは極めて優れている。で、このピッチャーのビビリを癒し、指示通りの場所に投げさせることで、とても勝ち目がないと思われていた強豪を打ち破らせるのが、洞察力に優れたキャッチャーなのだ。
さらに、このチームの女性監督も洞察力に富んだ人物で、選手それぞれの人間関係や心理を細やかに把握して、適切なトレーニングや指示を行っていく。
ぼくは男だから、女だから云々みたいな表現は好きではないし、ほとんどの場合、そういうお話は間違っていると確信しているんだけど、このような作品は、やっぱり男には発想しにくかったような気がする。
ひぐちアサには、野球というゲームについての深い理解がある。そして、そこにさらに、人の心の微妙さを繊細に織り込むことで、今までにない野球漫画を創造した。
野球というゲームに対する理解については、男性作家にも負けない人はいると思う。でも、こういう心の繊細な変化に着目してそれを描くのは、やはり男性より女性のほうが得意のような気がする。
話を元に戻すと、このキャッチャーの重要性に気づいたヒルマン監督は、「抑えのキャッチャー」というものを導入した。抑えのピッチャーとペアで、キャッチャーも変えることで、ピッチャーの心理が安定して、防御率が前年に比べて大きく引き上げられたという。
キャッチャーの重要性は、日本人なら誰でも知っていることだけど、抑えのキャッチャーというところまで発想する人はいなかった。これはもう、ヒルマン監督という異文化出身の人だからこそできた、野球を越えた超野球といえるのかもしれない。










