セイケツなお話
昔、ログインに連載しているコラムをまとめて、『オールザット・ウルトラ科学』という本を出した。
で、そのとき知り合いの中でいちばんウケたのが、以下に紹介する「セイケツなお話」。
初出は1988年2月のことで、当時の世相を反映していて、今では何のこっちゃという部分もないではないけどね。
ちなみに、ログインにコラムの連載をはじめたのは84年2月号からで、今も連載は続いてます。
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どうもぼくは小さい頃から、普通の人なら気にも止めないごく些細なことが、どうしても追求せずにはおれない、すごい疑問に思えてならないことがあるんだよね。
たとえば、「キレイ」と「キタナイ」、「清潔」と「不潔」っていうのは、よく考えると何が何だか分からなくなっちゃうような気がする。それに気がついたのは、ぼくの10数年来の友人の医者と、こんな話をしたことがきっかけだ。
「この世には、うんこをした後でも手を洗わないヤツがいるよね。あれにはちょっとガマンできないなあ。とくに、それが、わりと可愛い女の子だったりすると、ナサケなくなっちゃうね」
なんて感じに、ぼくが話を振ると、
「げ、そんな娘いるのかよ。ひどいなあ……まあ、男でも、小便をした後で手を洗わない不潔なやつもいるからな」
と、彼もうなずく。
でも、これを聞いて、ぼくは唸ったね。さすがに医者だけあって、衛生観念が発達している。なかなかの、ケッペキ主義者だなあ、と。
これに比べると、ぼくなんか相当いい加減だ。なにしろ、冬とか水が冷たそうな季節になると、小便のあとの手洗いをサボっちゃうことがあるもんね。
そこで、
「え、そう?ぼくもおしっこの後は、手を洗わないことあるけど……」
と、答えると、くだんの医者はまるで、金曜日の夜に、下北沢の電柱脇に吐かれたゲロでも見るような目でぼくを見ながら
「げ、おまえはなんというキタナイやつなんだ!」
あまりにもキタナイ感じでいわれたんで、なんか心外だなあって気がしながら、
「ええ、そうか?そんなに、キタナイか?」
「当り前だろ、あの小便というのは、アサガオ(注:男子用の便器のことね)で反射して、かなりたくさん自分にかかってるんだぞ」
「そんなこと知っているよ」
「知っててやってるの?汚いなあ」
「冬なんかわりと分かりやすいよね。綿だとすぐ染みちゃってわからないけど、毛のズボンだと、事後、全面に細かい水滴が付着しておるもんなあ」
「ううう、キタナイ」
「でも、手にはかからないもん」
「そんな保証はないだろ」
「手にかかれば、ヒヤヒヤっと感じるよ」
「そうか?」
「だって、ズボンをはかずにおしっこすると、太股とかスネとか、ヒヤヒヤ感じるもん。だから、手にかかったってわかるはずだ。それに、重力が働いているから、手より下にいくことは理論的にも明らかである」
「なにが明らかなんだよ。細かいキリ状のモノが漂ってくるかもしれんじゃないか。ううむ、それにしてもズボンをはかずにおしっこをするというのは、どういう状況なんだ」
「まあ、いいじゃないの」
「それでも、おしっこのあと手を洗わないのは不潔だ」
「洗ったって、洗わなくたって、自分にかかる飛沫の量は、あまりかわらないよ」
「それでも、そんなやつは嫌いだ」
「だいたい、水道水に含まれる細菌の量は、おしっこに含まれる量より遥かに多いじゃない。水道水を膀胱に入れると、膀胱炎になることがあるといったのは、たしかおまえだったと思うけど」
「それはそうだけど」
「じゃあ、水道水で手を洗うより、おしっこで手を洗ったほうがキレイじゃないの」
「そんじゃ、おまえ、そうするか?」
「さすがに、それはしないけどね」
「みろ、やっぱりキタナイじゃないか。おまえは、不潔だ」
やっぱし、医者のように清潔観念を骨のズイまで染みとおらせた人間には、たとえ含有する細菌の量が少なくても、そういうキタナイ真似はできないらしい。そこで、
「しかし、なんだね。そんなに潔癖主義じゃあ、うかうか外出先でトイレに入れないね」
「そうでもないけど」
「だって、外のトイレって、石鹸とか置いてないことがよくあるじゃない」
「それがどうかしたの」
「だって、ウンコしたあと、石鹸で手を洗わないといやでしょ」
「俺は、いつも石鹸は使わないけど」
これを聞いて、ぼくは驚いたね。ぼくの清潔観念からすると、ウンコをしたあと、石鹸で手を洗わないというのは、相当にキタナイことなのだ。ほとんど、ユルセナイといってもいい。
「いつもだって? げげ、なんというキタナイやつなんだ」
「どうして? ちゃんと、洗っているからいいじゃない」
「でも、石鹸をつかわないんだろ」
「そう。おしっこしたときと、同じように洗ってるよ」
「ひいい。キタナイよお。側によるな。エンガチョだ。キッタだ」
「どうしてだよお。洗ってるから、いいじゃないか」
「よくない。流水で3分間洗っても、大腸菌は半分くらい残ってるんだぞ。小学校でも保健の授業で習うじゃないか」
「それはそうだけど、でも、その量は空気中から体に付着するバクテリアの量より少ないと思うけど」
「そういえば、そんな気もするな……でも、それじゃ、ウンコして、手洗ったあと、すぐにその手をなめられるか?」
「うん」
「うう、やっぱりすぐはキタナイ気がする」
「じゃあ、なにか。時間がたてばいいっていうの」
「まあ、そうかな」
「でも、時間がたつほど、手は汚れていくんだから、それは非論理的だ」
「う~。たしかに、そういわれるとそうだなあ……そういえば、手ってなめるといろんな味がするもんなあ。やっぱ、いろんなものが付着しているんだよなあ」
とまあ、こんな感じで、お互いに清潔感に、これほど食い違いがあるということを確認しあったわけだ。(念のためにいっておくけど、この友人も、患者を見る前にはちゃんと石鹸で手を洗うそうです)
それと、今ではぼくもうんこした後に、石鹸で手を洗わない人を見ても、あまりキタナイとは思わないようにしている。そのへん、ぼくはわりと融通のきく性格なんだよね。とはいえ、自分では必ず石鹸で洗ってるから、本質的には変わっていないんだけど。
まあ、一般的には、身についた清潔観念っていうのは、なかなか変わらないことが多いよね。結婚なんかして、育ちの全く違う人と生活し始めると、まず最初に衝突するのが、こういう観念の差だからなあ。
しかし、こういうことから考えてみると、結局、トイレにいった後に手を洗うというのは、衛生観念とはあまり関係のないことなんだっていうことがわかってくる。と、いうか、衛生観念と、「キレイ」「キタナイ」というのは、実は全く関係のないことみたいなんだよね。
なにしろ、たしかに両者はけっこう多くの部分で重なってはいるんだけど、もともとは別の枠組みから出てきた考え方だったはずだからね。
衛生学というのは、西欧医学の枠組みから出てきた考えで、外科手術なんかと密接だったんじゃないかな。外科手術をする場合は、ほんとうに細菌の量を少なくするような処置をして置かないと、患者の傷口がすぐ化膿しちゃったりするから、かなり厳密なものが必要だったわけだ。
現に、今の手術は、何人かのチームでやるわけだけど、誰はさわってもいいけど、誰はだめ、といった衛生度のカーストが決っているんだよね。手術中に、結構手が足りなくなることがあるんだそうだけど、その場合もカーストの下位にに属する人は手伝っちゃいけないんで、非常に苦労することがあるんだそうだ。
いっぽう、トイレのときに手を洗うというのは、西欧医学と関係なく、日本でも古くから行なわれてきた。厠にはちゃんと手水鉢というのがあって、この水を柄杓ですくって手を洗ったわけだ。でも、これって用足しをした後じゃなくて、する前に手を洗っていたんだよね。つまり、トイレに入る前だけに手を洗って、あとは知らん顔……
しかし、それじゃあ、いったいどうしてトイレのときに手を洗うのか。
これはようするに「ケガレ」を払う、一種の儀式をしているわけなんだよね。そして、それは、今も昔も心情的には全く変わっていないような気がする。
おしっこした後で手を洗う人を観察していると、たいていの場合は手を洗うというよりも、手を水にふれさせるだけで終わっているケースが多い。指先をちょいちょいと水につけて、それですましているという人はずいぶんいるようだ。こういうのって、いかにも儀式という感じがするでしょ。
べつに、それでキレイになるというわけでもないのに、そうせずにはいられないという感じが実によく出ている。
こう考えてみると、ほかにも、「キレイ」「キタナイ」というのが、じつは「ケガレ」のイメージで捉えられていることが、ずいぶんたくさんあるんだよね。
たとえば靴下のクサイのってのはすごく汚い気がするけど、この臭いの主成分のイソ吉草酸を化学合成したものというのは、イメージ的にはあんまり汚いって気がしない。汚いかな?……でもこれは、納豆の匂いの主成分なんだけどね。
夏場の沼なんて、アオミドロが大量に発生して、いかにもキタナイ感じがするけど、あれもよく考えると藻類が大量発生しているだけだもんね。化学工場の廃棄物も、相当臭いし汚いもんだけど、あれも化学物質だと思うと、キタナサのイメージがなんだか曖昧になってしまう。
それじゃあ、いったいどんな要素があればキタナイものになるんだろうか。
まず、すぐに思いつくのは、それに近寄ると自分に害が及ぶものって感じかな。
でも、これでは、毒との区別があまりつかなくなっちゃう。ゴキブリは汚いけど、毒蛇は汚くないもんね。
ほかには、見た目にドロドロゲロゲロしているものとか、臭いものとかもキタナイ。でも、これも無味無臭で、目に見えなくてもキタナイものもある。
たとえば、放射能で汚染されるというのは、ものすごく汚いようなイメージがある。
でも、よく考えてみると、放射線は殺菌にも使えるくらいなんだから、必ずしも汚いわけじゃない。つまり、放射能も、目にはみえないケガレなんだよね。原子力開発に反対する人たちが、あれほど感情的なことが多いのは、実はケガレを嫌っているせいなのかもしれない。
ところで、「キレイ」「キタナイ」というのは、差別なんかをする時にもよく使われる言葉だ。古代ギリシャのバルバロイという言葉も「汚い言葉を話すやつら」という意味だしねえ。
「キレイ」「キタナイ」というケガレのイメージっていうのは、つまるところ自分の容認できるものと、できないものに分けたり、差別のときにもでてくる概念なんだよね。
また、面白いことに、全体主義というのも、徹底的に清潔さを追求するよね。制服とか、調和のとれた行進とか、目が眩むほどキレイだもんね。これもまた、ある種の清潔さを自分たちに与えることで、他者をケガレとして排除しようって感覚があるんだろう。
あいつは汚いから敵だ、というのは実に分かりやすい概念だもんなあ。そうすると、あんまり他人の清潔感というのいは気にしない、気にならない方が、平和なのかもしれない。
そういう意味では、朝シャン以降の不潔嫌悪をする女の子たちっていうのは、ちょっと無気味だよね。最近は男が情けなくて、女の子が強くなったなんていわれるのだけど、こういう状況を見ていると、女性は本当は強くなったのではなくて、ある程度の不潔ささえ容認できないくらい、偏狭になっただけのような気がする。
不潔嫌悪の行き着く先は、個性すら認めないような超均質社会しかない。そう思うと、今のうちに朝シャン少女どもは滅ぼしておいたほうがいいのかもしれないって気もする。
とはいえ、お風呂にちゃんと入って、髪もサッパリしているほうが男にせよ女にせよ、心地好いことは確かなんだけどね。
*追記
医療分野での手洗い励行は、産褥熱の克服のときに編み出されたものだ。
産褥熱とは、女性が出産後にかかる病気で、かつては原因不明で、非常に高い死亡率の恐ろしい疾患だった。
でも、今ではこの病気の理由は明白。実はその頃はまだ感染症という概念がなく、お医者さんがある人の手術をしたあと、手を洗わずに、出産の面倒を見るということが普通に行われていたからだ。つまり、前に診た患者のバイ菌が、産婦の産道にできた傷口とかから侵入して、敗血症になっていたわけね。
しかし、1844年にゼンメルワイスが、産褥熱の発生パターンを詳しく分析して、事前に手を洗えば防げるじゃんということを発見し、そこから手洗いの重要性が認識されるようになったんだよね。










