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2006/06/10

身体の未来・進化の繭(前編)

 1998年3月に、トレヴィルという出版社から『身体の未来』という本が出版された。
 結局、この出版社は無くなっちゃったんだけど、以下に、この本に収録した「進化の繭・テクノロジーの皮膜」を再録する。
 8年前に書いたものだけど、そんなに古くはなっていないはず。

 アスリートたちの肉体は,とても美しい。あの無駄のない筋肉,流れるようなライン,その力強く,かつ滑らかな動きは,芸術的な感動さえ呼び起こす。
 それにしても,我々は何故,あの姿を美しいと感じるのだろうか。あの美の中に含まれる意味とはいったいなんだろうか。
 世界選手権やオリンピックなどの競技会において,世界記録は年々更新されていく。
 たゆまざる努力。人間の限界への挑戦。新記録は,その証しであることは間違いない。 しかし,改めて考えてみると,この記録の伸びには,少し不思議な点がある。
 イギリスの科学雑誌,natureの1992年1月2日号に,「女性が男性を追い越すのはいつか?」と題された論文が掲載されている。
 これは,カリフォルニア大学ロサンゼルス校の,B.J.Whipp とS.A.Wardによる分析で,ここ100 年あまりの,トラック競技の記録の推移に基づく議論だ。それによると,トラック競技の成績は,どの種目も,過去100 年以上にわたって順調に向上してきたという。しかもその伸びは,滞ったり,緩やかになることもなく,一貫して同じペースで続いている。さらにそれは,女子のほうが,男子の倍以上のペースで速い。このことから,論文では,1998年までに女子マラソンの記録は男子マラソンの記録に追いつき,200 ,400 ,800 ,1500メートルなどでも,来世紀の半ばまでには,女子の記録と男子の記録は,ほぼ同じレベルで並ぶと予想している。
 さて,この予想通り,来年の時点で男女のマラソン記録が並ぶかというと,それは少々難しいかもしれない。
 女子マラソンは当初,非常に成績の伸びが速いことで注目されたことは事実だ。しかし,ここしばらく,記録は停滞ぎみになっている。現在の世界最高記録は,ノルウェーのクリスチャンセン選手が1985年に作った2時間21分6秒で,以来いまだに破られていない。(男子はエチオピアのデンシモ選手が88年に達成した2時間6分50秒)もちろん,突然に新記録が誕生することもありえるが,こればかりは,予想しようのない問題ではある。
 そのことはともかく,この100 年間にわたる,滞ることのない記録の向上という現象は,考えてみると不思議なことではないだろうか。人間の能力なんて,所詮はこの手,この足,この体に規定されるものなのだから,どこまでも記録が向上しつづけるはずはないのだ。
 100 年前の人間と今の人間とを比べると,自動車などの交通機関が発達していなかったぶん,昔の人の方が,肉体を使うことに習熟していたように思える。それなのになぜ,現代人の方が優れた成績を残せるのだろうか。
 その理由はもちろん,いくつもの要素が関っていることは間違いない。しかし,つきつめていくと,それは結局,科学・技術の進歩に負うところが大きそうだ。たとえば,ここ200 年の間に,農業や土木などの技術の進歩によって,安定した食料供給が可能になり,栄養状態は大幅に改善されている。これによって,体格も大きく変化してきた。
 最近の日本の10代の子供たちを見ると,30年前よりは明らかに身長が高くなり,とくに手足が長くなっていることがわかる。体形的にみると,かつての胴長短足から,欧米人のイメージに近付いてきているようだ。
 実はこの傾向は,日本に限ったことではなく,ここ200 年あまり,世界中の民族で起きてきたことなのだ。
 長寿で有名な北欧の人々は,世界でも最も平均身長が高い人たちでもある。これはもちろん,人種的な問題もあるだろうが,体格の向上が,世界で最も早い時期から始まった地域であるという点も見逃せない。
 北欧の人々が,長寿でかつ身長が高いのは,栄養状態の改善が,他の地域に比べて比較的早かったせいだ。そして,その傾向はしだいにヨーロッパ,アメリカへと広がり,最近になって日本に到達したとみることができる。
 実際,日本の戦後,とくにここ30年あまりの栄養状態の改善は,目覚ましいものがある。
 たとえば,1964年の東京オリンピックの時には,特別強化手当てとして,日本代表選手1人あたり,卵10個と牛乳1リットルが支給されたという。つまり,今ではちょっと想像もつかないが,牛乳や卵が,極めて貴重な栄養源だったわけだ。
 面白いのは,子供時代から栄養状態が良いだけでは,体格の変化はそれほど大きくならないことだ。本当に大きな変化が出るのは,幼い時から充分な栄養で育った者の次の世代からで,これはマウスなどの実験でもそういう結論が出ている。そう思ってみると,現代のティーンエイジャーは,確かに栄耀状態が改善されて代目,3代目にあたる子供達だ。
 こうして身長が高くなり,手足の長さが長くなることは,多くのスポーツ競技にとって,プラスの働きをする。(体操やマラソンは体が小さい方が有利なため,必ずしも全ての競技でプラスというわけではないが)
 肉体のパワーは,もちろん筋肉から発生されるわけだが,この力の強さは,筋肉の断面積に比例し,スピードは筋肉の長さに比例する。つまり,身長が高く,手足が長いほど,スピードは速くなり,それだけ競技能力のポテンシャルが向上するわけだ。
 栄養状態の改善は,基礎的な体力も大きくアップさせる。たとえば,現在も存在するアフリカなどの飢餓地帯では,ロタウィルスなど,日本人の幼児なら単なる下痢ですんでしまう病気が,命に関る重大な問題となる。
 現代の日本では栄養の渦状摂取とか,食品添加物の害などがクローズアップされ,それはたしかに反省すべき点も多いのだが,生命を守るという点では,飽食は,飢餓の恐ろしさを克服する最大の特効薬なのだ。
 ただ,ここ10数年に限っていえば,スポーツサイエンスの進歩と,道具の技術的な改良が,成績の向上を後押しする点で,かなり大きな比重を占めているといっていいだろう。
 オリンピックや世界選手権が近づくと,テレビや雑誌などで,選手用に特別にあつらえた靴などの話題が紹介される。限りなく軽量な靴とか,地面に効率良くエネルギーを伝えられるスパイクピンの配列などといった,最新技術の紹介などを目にした人も多いだろう。
 これらももちろん,競技の成績を引き上げてはいるのだが,それ以上に大きな効果をもたらしたのは,競技用トラックの変化だ。
 現在の陸上競技のトラックは,全天候性トラックといって,かつてのように良く整備された地面ではなく,小さなゴムのチップを固めてシートにしたような材料でできている。これは80年代に開発された材料で,基本的に2つの機能を備えている。
 まず1つは,このトラックの上ならば,固い地面に比べて足に加わる衝撃が減少して,傷害の起きる可能性を抑えられるというものだ。つまり,競技の安全性確保のために,このトラックは役立っている。
 そしてもう1つの機能は,選手の能力を最大限に発揮させることにある。
 このトラックの固さは,ちょうど足のバネの硬さの倍くらいに設定されている。その理由は,この固さが,人間の筋力をもっとも効率よくスピードに変換できるからだ。そのため,理論上,この種のトラックを使うと,硬い地面に比べて3パーセント近く,記録が向上するという。(ただし,そのためには走りかたや,鍛えるべき筋肉の種類を,従来とは変える必要があるが)
 ようするに,競技者を「守る」技術が,成績を大きく引き上げる働きをしているわけだ。
 このようなことは,なにもトップアスリートたちの世界だけに限ったことではない。
 たとえば,アスレチックジムなどに出かけると,非常にたくさんの種類の,筋力トレーニング用マシンが置いてあることに気がつくだろう。しかも,その種類は,年を追うごとに増えていっているように感じられる。
 これを見ると,いったいどうして,あれだけたくさんの種類が必要なのか,不思議に思わないだろうか。
 マシンは何のために存在するのかというと,それは自分が「鍛えたい」と思う筋肉を,「安全」に鍛えるためにある。
 たとえば,人間の腕は,肩に3,ひじに2,手首に2の合計7つの自由度があって,自在にどちらの方向にも動かせる。これが,人間の手の器用さの秘密のひとつなのだが,自由度が高いぶん,故障も生じやすい。
 一方マシンは,関節1つを,ある方向にしか曲げさせないように作られている。つまり,身体を拘束して,その自由度を奪う機能を持っているわけだ。
 これによって,関節は予想外の動きをしなくなる。トレーニング中,大きな負荷がかかったまま,関節がアサッテの方向に曲がって体を痛めるといった心配がなくなるわけだ。
 それに,特定の動きだけをすることで,自分の望みの筋群だけを,効率的に鍛えることができる。その代わり,一つのマシンでは小数の筋群しか鍛えられない。それが,マシンの種類がくさん必要になる秘密だ。
 運動選手の肉体を極限まで高める合理的なトレーニングは,つきつめれば目的の競技に必要な筋群だけを鍛え,それに無関係な筋肉はそぎ落とすところに行きつく。競技に無関係な筋肉は単なるデッドウェイトだし,場合によっては,必要な動きに干渉して,能力を鈍らせることさえあるかもしれない。
 そこで,マシンを使ったトレーニングを行えば,まさにそういった,必要な筋群だけを鍛えることができるわけだ。
 さらにいえば,最近のバイオメカニクス研究の進歩によって,特殊なマシンを使って,筋肉を作る筋繊維の中から,ある速度で収縮するものだけをターゲットにして鍛える,アイソキネティック・トレーニングというものまで生れている。筋群どころか,マイクロレベルでの筋繊維のチューニングまで可能になってきたのが,現代のスポーツ科学なのだ。
 これだけの事がやれるのだから,競技の成績が上がり続けるのは,むしろ当然といっていいだろう。
 ただ,こういったトレーニング法の改善の流れは,人間の運動能力の絶えざる向上ということよりも,もうすこし別のことを意味しているように思えてならない。
 たとえば,最近流行のトレッキングで,舗装されていない高原の道などを歩くと,翌日は決まって筋肉痛におそわれる。それもお尻の付け根とか,ふくらはぎの横など,いつもはあまり経験しないような場所に,痛みが現れることが多い。
 これは,必ずしも運動不足のせいというわけではない。実際,毎日のように,ジョギングなどで体を動かしている人でも,やはり同じようなところに痛みが出ることが多い。
 いつも運動しているのに,筋肉痛になるのは何故なのだろうか。そのわけは,運動の質の違いにある。
 我々が日常歩く舗装道路は,非常に平坦にできている。しかし,トレッキングで歩く自然の道は,小石が落ちていたり,小さな起伏があったりで,意外にデコボコしているものだ。そういう場所を歩くとき,身体は微妙に前後左右に動いて,バランスをとろうとする。
 つまり不整地を歩くときは,舗装された道路を歩くときには使われない筋肉が,歩行を微調整するために使われている。
 しかし,舗装道路でいくらジョギングをしても,そういった微調整用の筋群はほとんど出番がない。そのためその筋群は,結果として運動不足に陥り,トレッキングの翌日の筋肉痛として存在をアピールするわけだ。
 不整地を歩くとき,人間は無意識のうちにたくさんの筋肉を使用する。しかし,舗装道路を歩いたり,陸上競技用のトラックを走るときは,ごく一部の筋肉で充分なのだ。
 つまり,合理的にトレーニングを考えるなら,競技場ではあまり必要のない微調整用の筋群や筋繊維は,鍛える必要はない。同じ量のトレーニングをするなら,全天候型トラックの特性を引きだす筋群,筋繊維に狙いを絞ったほうが,より優れた記録を出せるだろう。
 いろいろな競技のスポーツ選手たちの身体をみると,その肉体のフォルムは,スポーツの種類によって明らかに違っている。
 たとえば100 メートル競技のトップアスリートたちは,人種こそ違え,遠目には同じような身長,同じような腰の位置,同じような足の長さをしていて,非常によく似ている。
 これは明らかに,淘汰の力によるものだ。
 100 メートル走は,あらゆる競技のなかでも,肉体的な条件が,最も限定されるものといえるだろう。完全な無酸素運動で,エネルギー源はグリコーゲンのみ,持久運動に必要な脂肪は一切必要とせず,筋繊維の中でもとくに収縮の速いものだけが必要になる。また,その筋肉の力を効率良く地面に伝えるための,身体の大きさや足の長さ,肉付きのパターンも自ずと決まってくる。つまり,今の全天候性トラックの上では,人間はあの形にならなければ,勝ち抜くことはできないわけだ。
 その肉体を,我々はどういうわけか,美しいと感じている。その美意識は,いつまでも時代を越えて維持されていくのだろうか。
 サラブレッドの走る姿は,優雅でとても美しい。しかし,サラブレッドを農耕馬として使うことはできない。そんなことをしたら,あの細い足は簡単にへし折れてしまうだろう。サラブレッドの美しさは,早く走るためにチューニングされた,繊細で脆弱なフォルムの美しさだ。
 それと同じように,陸上競技の選手たちのフォルムも,たぶんこれからもますます美しく変化し,ますます記録は向上していくだろう。しかし,その選手たちには,たぶんかつてのアフリカの草原のようなところで,ハダシで全力で走りまわるるような能力はない。
 そんなことをしたら,彼らの「ひ弱な」足は,たちまち壊れてしまう。
 競技者は,筋肉の鍛え方から,意識されることのほとんどない地面の具合まで,文明の力によって守られている。守られることによって,予想外の動き,事件に対する準備をする必要が無くなり,そのパワーを記録向上だけに振り向けることができるようになった。


後編に続く……

最終更新時間 2006年06月10日 09:14

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文中、マラソンの世界記録について、下記のように述べられておりましたが、現在の世界記録は、大幅に更新されております。

【現在の世界最高記録は,ノルウェーのクリスチャンセン選手が1985年に作った2時間21分6秒で,以来いまだに破られていない。(男子はエチオピアのデンシモ選手が88年に達成した2時間6分50秒)もちろん,突然に~】

8年で、さらに科学的なトレーニング方法が発達したということでしょうか。以下、ご参考下さい。

<男子>
1位:2時間4分55秒 ポール・テルガト(ケニア) ベルリンマラソン 2003年9月28日

2位:2時間4分56秒 サミー・コリル(ケニア) ベルリンマラソン 2003年9月28日

3位:2時間5分38秒 ハーリド・ハヌーシ(アメリカ) ロンドンマラソン 2002年4月14日

4位:2時間5分50秒 エバンス・ルト(ケニア) シカゴマラソン 2003年10月12日

5位:2時間6分05秒 ロナルド・ダコスタ(ブラジル) 1998年9月20日


<女子>
1位:2時間15分25秒 ポーラ・ラドクリフ(イギリス) ロンドンマラソン 2003年4月13日

2位:2時間18分47秒 キャサリン・ヌデレバ(ケニア) シカゴマラソン 2001年10月7日

3位:2時間19分12秒 野口みずき(日本) ベルリンマラソン 2005年9月25日

4位:2時間19分36秒 ディーナ・カスター(アメリカ) ロンドンマラソン 2006年4月23日

5位:2時間19分39秒 孫英傑(中華人民共和国) 北京国際マラソン 2003年10月19日

6位:2時間19分41秒 渋井陽子(日本) ベルリンマラソン 2004年9月26日

7位:2時間19分46秒 高橋尚子(日本) ベルリンマラソン 2001年9月30日

投稿者 マラソンマン : 2006年07月03日 09:50

なつかしいです。リアルタイムで読んでました。「現代の日本では栄養の渦状摂取」というのは、「過剰摂取」の誤変換ですよね?

投稿者 いっけい : 2006年07月27日 01:46

同様に誤変換見つけてしまいました。面白いのは~のところで、「栄耀状態」となっています。

投稿者 いっけい : 2006年09月11日 03:44

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