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2006/05/31

科学の楽しみ方・ボルバキア=性を操る準オルガネラ

 科学は色々考えていくのが楽しいという例のもうひとつとして、やっぱりmixi内で書いたボルバキアの話をご紹介。

・雌にする病原体またはオルガネラ

 ネイチャーのハイライトに「ボルバキアにぴったりのすみか」という記事が掲載された。

(読むには登録が必要)

 ボルバキアは節足動物に広く見つかる、細胞内寄生生物だそうで、卵子を介して子どもに感染する。しかし、精子には侵入できない。つまりミトコンドリアと同じ性質をもっている。

 で、このボルバキアは、本来雄になるはずの子を雌に変えたり、雌が雄なしで雌しか生まないようにしてしまうんだと。

 ボルバキアは種を越えた水平遺伝もする。感染したボルバキアは、卵を形成する胚腺の幹細胞に侵入し、その幹細胞から卵が作られるときそちらに移っていくらしい。

 進化的にも生態学的にも凄く面白い。

 遺伝子を組み換えたボルバキアは、カの体内でマラリア原虫成熟を阻止するので、マラリア防除の手段になるかもと書かれているけど、水平遺伝するような遺伝子組換え生物を使っちゃイカンだろう。


 ……という日記を書いたんだけど、ボルバキアってどんなものかよく知らないので、とりあえずグーグルで調べてみることにした。

 そして、昆虫の性を操るバクテリア

をみてさらに驚く。
ボルバキアは全昆虫類の7割に感染しているそうだ。
まあ、それはいい。

すごいのは、ここから。
 ボルバキアに感染するファージ(ウイルスのこと)がいて、普段はこのファージの遺伝子は、ボルバキアのゲノムの中に組み込まれておとなしくしている。
 しかし、水平遺伝で、それまでとは別の宿主に感染すると、内在していたファージ遺伝子が活性化して、他のボルバキアに感染できるファージを作りはじめる。

 その結果、異種宿主に侵入したボルバキア間で、遺伝子情報の交換が行われるのだそうだ。その結果、素早く進化が起こって、新しい宿主に適応したボルバキアが生まれるわけね。

 すげー。なんか微妙に入れ子構造になっている感じだし。

 と書いたところ、

S.MATSU さんが

ボルバキアのグーグル検索2番目ですが
世界初、微生物から多細胞生物へのゲノム水平転移を確認 -生物進化論などへ影響か

 これもすげえ。こんなことが実際に起きているのか!種と種の間は、遺伝子断片的にはつーつーなのか?

と紹介してくれた。

 ゲノムプロジェクトで、ヒトのゲノムの中にも、細菌由来の配列がいくつも見つかっている事は知っていたけど、細菌の遺伝情報が、多細胞生物のゲノムに組み込まれているのを、はじめて見つけたのが日本の研究だったとは知らなかった。

 問題は、いったいどんなメカニズムで、細菌の遺伝子断片が、多細胞生物のゲノムの中に紛れ込めるのかということだ。これについては、まだ今のところ手がかりはないと思う。


 ボルバキアのあり方は、進化的に見ると、ミトコンドリアみたいに、完全なオルガネラ(細胞内小器官)になりかけている途上の姿にもみえる。
 でも、長い進化の歴史を経て未だに完全なオルガネラになっていないと言うことは、完全なオルガネラにならないことに、何か意味があるような気もしますな。

と書き込んだら、こんどは、こ・ばやしさんが、

ミトコンドリアや葉緑体の様に宿主ヘのメリットがあるのかどうかが気になりますね。遺伝子の水平移動装置としてといっても、宿主ヘの影響は少なそうだし。

と書いてくれたので、

まあ空想ですが

ボルバキアは虫たちを雌化=単為生殖化する。
単為生殖になった虫たちは、身近に雄を見つけられない劣悪な環境でも増殖して、棲める環境を広げる。
新しい環境で仲間が増えたとき、何らかの理由でボルバキアが排除されると、有性生殖が再開されて、寄生生物への耐性が増す。
ムシたちがさらに新天地を求めるか、環境が再び劣化すると、ボルバキアを持った個体が復活する。
最初に戻る

と言うようなことが起きていれば、ボルバキアが虫たち一般に広く分布している理由が説明できるかもしれません。

なんとなく、微生物のプラスミドにも似ているなあ。

さらに、ボルバキアは通常、単為生殖で増えているのですが、水平遺伝で異種生物の体内に侵入したとき、ファージの助けをかりて有性生殖を行うわけで、それが入れ子というかメタと言うか超寄生なわけですね。
 こちらは環境が厳しいほうが、有性生殖をやるわけですが。

 と、考えてみる。

 性の進化では、雌だけで増えられる単為生殖のほうが、雄雌必要な有性生殖よりも有利なはずなのに、なぜか自然界には有性生殖を行う生物が少なくないという疑問がある。
 で、これの一応の回答は、上の、過酷な環境では素早く増えられる単為生殖が有利だけど、環境が安定なときは、遺伝的なバリエーションがあったほうが、寄生生物に対する耐性が増すので有性生殖を行ったほうが有利だというものだった。
 でも、さらに過酷な環境でいつ死んでもおかしくないくらいだと、デタラメでも良いから遺伝子交換(有性生殖)を行って、バリエーションを作ったほうが、生命の連続性を保つには良いのかもしれない。
 そういえば、哺乳類でも放射線を浴びたり強いストレスにさらされると、ゲノムに含まれるウイルス由来などの動く遺伝子が、活性化するらしいし……。

 と、こんな感じで空想していくわけね。楽しそうでしょ?

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科学の楽しみ方・外骨格

 科学はなかなか楽しいものなんだけど、興味のない人にそれを説明するのはちょっと難しい。いちばん障害になっているのは、たぶん科学が権威的なものと思われている事にあるのだろう。権威的なものが楽しいわけないもんね。

 で、そういうわけで、ぼくはこの気の抜けたような文体を選択したわけだ。こういう文体だと説得力を持たせるのにちょっと苦労したり、最初に本(オールザット・ウルトラ科学)を出したとき、小隅黎さんに内容は面白いけど文体がなあ……みたいなことをいわれちゃったりもしたんだけど、まあ、これがわたしのいきるみち。

 科学というのも、エンターテインメントの一種で、スポーツやアートとかと基本的には同じものだろうと思う。つまりプロからアマチュアまでのひろがりがあって、自分でそれをプレイして楽しむ人もいれば、人のプレイを見て面白いと思う人もいる。

 しかし科学はあまりに権威的なので、アマチュアでありながら、自分でプレイしてみたいと思う人の数は少ない。似たようなことをする人はいるけど、多くの場合、その目的が科学の権威を身にまといたいと言うことだけだったりするので、僕の思う、科学の楽しみ方とは少し違うみたいだ。

 では科学の楽しみとはなんなのか。
 まず第一は、自分にはありえない発想の源ということだ。

 普通、人は、思春期を迎える頃には、世界のほぼ全てを解った気になる。これはどんな謙虚な人でもそうだろう。限られた能力しか持たない人間は、そうならなければ複雑な世界をリアルタイムで生き抜いていけないのだ。

 たとえば、納豆なんか人間の食い物じゃねーとかね。
 しかし、世界は変わっていくのだ。30歳とかを過ぎて嗅覚が鈍ると、意外とこれが食べられて、かなり美味しいものだと感じられるようになったりする。
 でも、世界を解った気になったままだと、そういう新たな世界に巡り会えない。新たな世界に巡り会うには、解った気になっていた自分の認識を揺るがす何かが必要なのだ。

 科学はまさにそういうもので、およそ人間の思弁だけからは決して発想されないようなことを見せてくれる。

 それははじめ、へー、そうなんだという新鮮な驚きではじまって、そうだとするとこれもこう考えられるかもというふうに展開していく。色々思いを巡らせるうちに、世界の枠組みが少しずつ変えられていって、そこんところが面白いんだよね。

 とはいえ、こんな抽象的なことを言っても、いまいちピンとはこないよね。
 そこで具体的な例として、最近mixi内で話しあったことを紹介してみよう。

 事の発端は、草場さんの5月20日の日記「内骨格と外骨格」だ。

 草場さんのコラムはどれも面白いので、mixiが読める人は、是非読んでみることをおすすめしたい。

 草場さんはこの日記の中で、

 昆虫は外骨格の代表選手だが、確かに大きさに限界がある。外骨格のため、成長に際しては脱皮を余儀なくされ、複雑な気管で呼吸するので、脱皮に失敗しやすい。私は子供の頃、脱皮に失敗して途中で死んだ蝉を見て、とても衝撃を受けたのを今でもはっきり覚えている。

 と書いていた。そこで、

 昆虫のサイズが脱皮と関係していると言う話は、『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)にもありましたが、そうだとするとなぜ古代には、もっと大きな昆虫がいたのでしょうね。湿度が高かったのかな?

 と、書き込んだ。この問題、実は昔も疑問に思ったのだけど、しばらく忘れていたんだよね。

 すると草場さんは、

 酸素の補給は気管からの拡散でなされます。……拡散を大きくするのは、高温・高酸素濃度だから、そのせいかも知れません。高湿度も助けになりそうです。現在でもどちらかと言うと熱帯に大型の昆虫がいるようです。

 と書かれたので、

 おお、そうですね。熱帯に大型の昆虫がいるということは、高温多湿が効いているのかな。だとすると、酸素濃度はあまり関係ないかも。

 気管は循環系なしに、各細胞までパイプでダイレクトに酸素を供給する仕組みですよね。で、その内側は外皮と同じクチクラで内張りされていて、この部分が脱げなくて、昆虫はしばしば脱皮に失敗する。

 なぜクチクラで内張りされているかというと、水分蒸発を防ぐためです。小型昆虫は体積の割に表面積が大きいので、クチクラの外骨格にしないと、あっという間に乾燥してしまう。気管もクチクラで内張りして、末端で細胞に隣接するところだけ解放する構造になっている。

 でも、これをそのままに、体を大きくすると、気管の樹状構造の枝分かれが多くなって、脱皮の成功確率が低くなりそうです。大きく、かつ脱皮可能にするには、気管のクチクラの内張を、適当な枝分かれのところまでで止めないとダメそう。

 でも、クチクラの内張を止めると、そこから膨大な水分が蒸発して、昆虫はあっという間に乾燥してしまいます。

 高温多湿だと、酸素の拡散速度が上がると同時に、水分の蒸発も少ないので、気管のクチクラの内張が不要になりそうです。

 この仮説を証明するには、まず熱帯の大型昆虫の気管は、クチクラの内張が末端より手前で無くなっているかどうかを調べることと、古代の湿度がどの程度だったかって事くらいかな。

 古代の酸素濃度は色々調べられていますが、湿度についてはどうなんでしょうね。

 と返事を書き込んだ。

 すると、草場さんは

 古生代や中生代の湿度は、植生などで分かりそうですが、どうなんでしょうね。
 酸素分圧が高ければ、気管の細かさが省略できそうです。石炭紀の植物を見ていると、酸素がたくさんありそうな気がしてきますが、そんなことはないのでしょうか。

 と、僕とはちょっと違った切り口で書き込み。

これに対して、yaojiさんという方が、

>古生代や中生代
シダ植物(古生代に栄えた)精子による生殖→高湿度。から裸子植物(中生代に栄えた)、被子植物(新生代に栄える)へと、次第に乾燥に強くなっているので、(地球上はともかく)植物とともに生きた動物も、次第に乾燥に適応していると言えますね。

 という、これもまたひとつ視点の違う情報を提供してくれました。

 で、ぼくは

 植物の陸上進出に伴って酸素はどんどん増え、石炭紀の末には酸素濃度が35%になっていたようです。で、続く二畳紀末には15%に激減。そこからまた増えて今とおなじ20%前後になったとのこと。
 植物の陸での繁茂は高濃度の酸素と湿度をもたらして、昆虫類の大成功につながったけど、やがて昆虫が植物を食べる速度が早くなりすぎ、植物が減りはじめ、酸素が減り湿度が減って、大型昆虫が滅んでいった……てな感じでしょうか。

 と、書いたところ、こんどはゆたかさんという方が、

 激減したのはあのペルム紀末の大量絶滅(95%の種が絶滅!)の時のようです。……昆虫に限らず、ここを乗り越えられたのは低酸素環境に適応できた種だけのようですね。

 と書き込み。

 ……あー、楽しい。こんな感じで、次々世界を広げてゆけるのが、科学の楽しみ方の一つなんだよね。

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テレビ視聴はこれからどうなるんだろう

 DVDレコーダー、またはハードディスク・レコーダーはテレビの視聴スタイルを大きく変える装置だ。いったんこれを使い始めると、iEPG(電子番組表)が非常に便利で、テレビをリアルタイムで見ることが減り、暇なときにザッピングしつつ見るようになる。
 また、貯めておくだけで満足して結局見ない場合も多くて、そのへんは書籍の積ん読とかなり似ている。

 以前は、時とともに流れ去っていくメディアだったテレビが、蓄積していつでも見られるメディアに変わったわけだ。

 この種の装置の最近の製品情報についてはあまり知らないのだけど、早い時期から非常にはっきりした哲学を持って作られていたのが、東芝のRDシリーズとソニーのコクーンだった。

 RDシリーズは、開発の中心人物がアニメおたくで、スカイパーフェクテレビのアニメ専門チャンネル、アニマックスで放送される番組を、いかに完璧に録画し、便利に保存できるかを目的に開発されたものだった。

 おたくにもいろいろなタイプがいるけど、この人は典型的なビブリオグラファーでシリーズものを完全にそろえてファイルし、きれいに背表紙をつけて並べるようなことが喜びというような感じ。

 実際、RDシリーズは、ほんの少しのストレスもなく、素直に美しくライブラリが作れるように、心血が注がれている。

 たとえば、この種の装置として先駆的に取り入れたiEPGも、好きな番組を選ぶためというより、録画したタイトルに情報を付加したり、ライブラリ化するのに便利という点に重点を置いていた。

 また、DVDフォーマットにも強いこだわりがある。
 記録型DVDの規格には、種類によって素人には思いもよらない制限事項が多い。たとえばDVD-Video規格では、録画した番組から、CMだけをカットしようとしても、CMの頭と尻が必ず残ってしまう。また、音声多重の番組は録画できないし、コピーワンスの番組も録画できない。DVDフォーマットには様々な種類があるので、たいていの人はそんな制約があることを知らなくて、問題が起きてはじめてがっかりすることになる。

 RDでは、それを未然に防ぐため、原則としてケース入りのDVD-RAMを使ったDVD-VR規格を利用する。この規格は、それまでのDVDプレイヤーでは再生できないことが多かったし、今でもDVD-RAMはどちらかというとマイナーな媒体なのだが、現実問題として、個人がエアチェックしたテレビ番組をライブラリで一元管理する場合、それは余り問題にならない。また、ホームビデオなどで撮影した映像を友人に渡したいときには、互換性の高いDVD-Rフォーマットを利用することもできる。

 また、30分番組1クール分を一枚のDVD-RAMにぴったり納める圧縮モードとか、BSやCS放送、かつてVHSテープに録画しておいたコンテンツなどを一枚のDVD-RAMにまとめるとき、音声レベルがまちまちで音割れやノイズが発生することがあるので、それを防ぐための録音入力レベルの調整機能をつけたりと、ビブリオマニアにとってかゆいところに手が届く機能も多数用意された。


 一方コクーンは全く発想が違う。
 コクーンにはDVDはついておらず、ビブリオグラファー的楽しみは眼中にないという明確な意志を示した製品だった。まあ、普通の人がそういう哲学につきあういわれはないし、市販やレンタルのDVDを再生したい人は多いので、今ではスゴ録がメインの製品になっているわけだけど。

 コクーン最大のウリは、使うほど、持ち主の好みを覚えて、勝手に録画予約してくれる「おすすめアルゴリズム」だった。今ではこれは「おまかせ・まる録」機能として、スゴ録にも受け継がれている。

 この機能は非常にすばらしい。ある雑誌の記事用にしばらく試用させてもらったのだけど、本当に欲しいと思わせる機能だった。

 ただし、それは自分の好み通りの番組を、正確に録ってくれるからじゃない。

 おすすめで録画されるタイトルは、見たいものも多いけど、自分の意志ではまず録画しないものも少なからず含まれる。ところが、それを試しに見てみると、結構楽しめたりすることがある。食わず嫌いだった番組に、意外な面白さを発見できるのだ。

 自分の好みと違うものをリストアップすることが多いのに批判的な人も多いのだけど、これはあまり一致してしまっては面白くないと思う。
 世の中、効率の良さとかとことん徹底的に追求する傾向が強いけど、それは程度問題であって、あまりやりすぎるとかえって世界を狭くしたり、好ましくない副作用が目立つようになると思うんだけど、まあ、その話はまたいずれしよう。

 で、コクーンを使い始めると、すぐにテレビの視聴スタイルが変わりはじめる。最初に録画したい番組をある程度設定したら、あとは毎日番組表を見ると言うことも少なくなり、
撮り貯めた番組は、週末など暇なときにザッピングして、面白そうなのだけを選んで見るようになる。

 以前のテープ媒体は、せっかく録画しても、ラベルを書くのを怠けたりすると、どのカセットに何を入れたかわからなくなったり、頭出しにも猛烈に時間がかかるので、結局見ないことが多かった。
 しかし、コクーンはタイトル一覧で選んで、ザッピングから本格視聴まで瞬時に切り換えられるので、ふと気がつくと、自分ってこんなにテレビ好きだったのかと思うくらい、たくさんの番組を見るようになっている。

 まあ、僕はビブリオグラファーではないので、こういうもので十分なわけだ。

 こういう商品づくりは、いにしえのソニーらしさの残り香だなあと思っていたのだけど、後に、この機能はTiVoからヒントを得ていることを知った。

 DVRの“事実上の標準”になるか――全米を虜にした「TiVo」の秘密

 TiVoは視聴した番組に番組に対して、サムズアップ(親指を上に向ける)ボタンかサムズダウン(親指を下に向ける)ボタンを押すことで評価し、その評価がネットで集計されて、同じ傾向を持った人が見ている番組を録画するようになる。アマゾンのおすすめとおなじような仕組みを持っているわけだ。

 それにしてもTiVoはなぜ日本に進出しないんだろうね。日本市場にあまり興味がないのか、それとも何か障壁があるのか。独自の番組評価システムは、視聴率とはまた別の評価システムにもなりそうなのに。


 さて、それでぼくは、こういう製品を使っているかというと、未だ持ってはいない。
 と、いうのも、市販の製品が安くなる前に、パソコンでハードディスク・レコーディングをはじめてしまったからだ。市販品のほうが簡単便利に違いないだろうけど、同じことはほぼできるし、パソコンのほうが便利なこともあるので、あえてそういうハードを買うところまではいっていないのだ。

 そしてテレビ視聴に関して、今いちばんあって欲しいのは、友達やネットであれは面白かったと評判になった番組を、見られるようにする装置なんだよね。

 これは全ての番組がネットのオンデマンドで配信され、後からでも少額を支払えば見られるようになれば、できる話ではある。ドラマの新シリーズなど、こういう仕組みを作ったほうが、リアルタイムのTV放送の視聴率も上がるような気がするのだけど、現状ではそういう世界がやってくることはなかなか難しそうだ。

 しかし、今やハードディスクの価格が低下して、全チャンネルの全番組を24時間録画し続けることも、不可能ではなくなってきた。

 何も操作しなくても、全てのチャンネルが録画されていて、録画ファイルとiEPGが関連づけられていれば、簡単な検索をするだけで、過去に放送された好きな番組を見ることができるわけだ。

 画質にはあまりこだわらないことにして、すべての番組を蓄積し、容量が一杯になったら古い物や、一度も見ていない番組、取っておきたいという印のないものから順次消していていったり、ハードディスク自体を取り替えられると良いだろう。おまかせまる録のような仕組みで、取っておきたいファイルに印がつけられるとさらに良い。

 今、DVD-RAMの価格は、約10ギガバイトの容量で安いものなら600円ほど。つまり250ギガバイトで1万5千円だ。
 一方、250ギガバイトのハードディスクは、今では1万円を切っているので、USB接続のハードディスク・ケース(安いので2000円くらい)を足しても、ビットあたりの価格はDVD-RAMより安くなっている。

 そのため、ぼくはもはや、録画した番組をDVDに焼くことはせず、外付けハードディスクに記録して、それがいっぱいになったら別のハードディスクに変えるようになっている。インデックスも、DIRコマンドをリダイレクトしてテキストにすればできてしまうし、1つのハードディスクで25枚のDVD-RAM分だから、保存スペースもかなり小さくできるしね。

 録画はDivXとかの効率の良いコーデックを使えば、500メガバイトで1時間番組は充分記録できる。1チャンネルにつき24時間録画で12ギガバイト。10チャンネルを録画するとして一日120ギガバイト。ということは、2週間分の全記録を行うには、250ギガのハードディスクが7個必要になる。さらに10チャンネル分のチューナー&エンコードボードを考えて、今の時点で高く見積もっても、30万円以下で、そういう装置は作れるだろう。

 まあ、2011年以降は、否応なく全チャンネルがハイビジョン化されそうな雲行きなので、こういう装置が大手メーカーの製品として出てくることはないかもしれないけど。

 それにしても、次世代DVDのビット単価は、たぶんハードディスクに勝てない(一時的にリードしてもすぐに逆転される)ので、記録メディアとして成功するのは難しいかもしれない。ハイビジョン画質のソフトを提供するための媒体にしかなれないような気がする。
 
 ぼくは映画を映画館ではなく、テレビで見てもあまり気にはならない(もちろん映画館のほうがより良いことは確かだけど)タチなので、ハイビジョンはまあきれいだけど高い金を出してまで買い換える気にはなれないんだなあ。

 アナログ停波や次世代DVDなどは、あまり欲しくもない製品を選択しなく押しつけられるようで、どうもイヤンな感じ。まあ、我々の人生の目的は経済の活性化だから、それも仕方のないことなのかもしれないけど。

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2006/05/01

再録・メディアはメッセージなんだよほほん

 昔々、僕がまだ物書きを始めるまえ、SFフ科会で柴野拓美(小隅黎)さんが、「何十年も前の若い頃書いたものを読み返すと、今とほとんど同じことを考えていたことがわかって驚く」と言うようなことをおっしゃっていた。

 そのときは、へえ、そんなものなのかな、と思ったものだけど、今ではそれが実感としてよくわかる。もちろん、今では若い頃には不可能だった発想もたくさんできるのだけど、骨格的なところについては、昔も今もあんまり変わらない気がする。

 そんなわけで、ログイン88年1月号に書いた、「メディアはメッセージなんだ、よほほ~ん」を再録する。これは単行本の「オールザット・ウルトラ科学」にも載せたものだ。

 今読み返すと、ちょっぴり恥ずかしい気もするのだけど。ただ、これで書いたことは、これからこのブログで書いていきたいこととも、少し関連しているんだよね。


 「メディアはメッセ-ジである」というのは、マクルーハンという人がいっていたコトバらしい。これはいったい何がいいたいのかというと、ようするに、何かを伝えたいと思ったときに、それを伝えるメディアの種類によって、メッセージの内容が変わってしまうっていうようなことなんだそうだ。なんか、伝聞型で煮えきらない書き方だけど、伝聞だし煮えきってないからなんですよ。ごめんなさいね。
 どうしてこんなことをいい始めたのかというと、ぼくが以前から考えていたことを「ああ、それはマクルーハンだね」なんていわれちゃったからなのだった。それで、一応「メディア論」を読んでみたんだけど、ワタシの脳ミソが不足しているせいか、いわんとするところがいま一つ理解できない。
 「メディア論」はすでに現代の古典とさえ呼ばれる名著で、多くの人に感銘を与えたものなんだけど、そういうのを読んでもあんまりよく分からないというのはなんだかとって
も悲しいわ。もっとも、我が敬愛するファインマン先生は、「現代思想家なんぞというボケどもは、単純なとるにたらないことを、ゴタクを並べて複雑に見せようとするタワケどもなんで困る」なんていってくれるので、ぼくも思わず安心してしまうのだった。立ち直りの早いヤツでしょ。
 それでだ、まあ、マクルーハンが何をいっているのかはこちらにおいといてえ、ぼく流の「メディアはメッセージなんだ、よ~ん」というお話を今回はしたいのだった。
 人間ていうのは、いろいろな形で自分を表現して、他人にメッセージを送り出しているよね。でも、そのときの伝達手段=メディアの性質によって、人間の精神状態ってのはずいぶん変わってしまうことがあるようだ。
 人間に備わっているコミニュケーション手段の中で、もっとも基本的で素直なものは、対話だよね。ようするに、面と向かってお話をするってやつだ。
 この場合は、視覚で相手を見ていると同時に、声を聞いている。また、相手が側にいるというライブ感覚もある。場合によっては、ポンなんて肩をたたいたり、そっとだき寄せたり、その他モロモロの肉体的な接触もあるかもしれない。……といったぐあいに、対話は相手に与えあう情報量がもっとも多くなるコミニュケーション手段だ。
 対話の場合は、こういうたくさんの情報を利用して、相手のいわんとするところを理解したり、相手がどんな人間性をもっていて、今はどんな気分なのかといった質感=テクスチャーを感じとったりしているわけだ。
 ここでポイントになるのは、いわんとするメッセージの内容と、テクスチャーとは、あまり切り離して考えてはいけないということなんだよね。
 話の内容とテクスチャーというのは本来独立のもので、内容を正しく理解するには、相手のテクスチャーなんか関係ないような気もするけど、現実はそうじゃなことのほうがはるかに多い。
 たとえば、初対面の人でも、なんとなく気にいらない人間の喋っていることは、ハナから間違っているだろうと思ってまともに聞かないってのがある。これは困ったことだけど、人情なんだよね。逆に印象のいい人の喋ることは、内容もなんとなく正しそうな気がしちゃうのだ。
 あるいは、たとえば、本とかで読んでもなかなか分からないことでも、誰か詳しい人に言葉で説明してもらうと、非常に分かった気になっちゃうことがある。これはべつに説明のうまい人だからってわけじゃなく、活字だけではテクスチャーが不足してどうも納得できなかったというのが真相のようだ。
 そして、このテクスチャーというのはメディアの種類によって、明らかに違ってくるんだよね。たとえば、対話と電話で喋るときと、手紙を交換するときでは、どうもこのテクスチャーに明白な差がでてくるような気がする。面と向かって喋っているときは、温厚な感じなのに文章を見てみると以外と過激だったり、対話では無口でも電話では饒舌になる人ってけっこういるわけだ。
 どうしてそうなるのかというと、一つには、メディアのもっている制限によって、対話の時と他のメディアのときでは違った印象になってしまうことがあるだろう。ちょうど、肉声と、フィルターを通して低音域をカットした声を聞き比べてみると、後者はキンキン声になって別人の声のように感じられるのと同じように、メディアのもつ制限がテクチャーのフィルターになることがある。
 電話じゃ声しか聞こえないとか、手紙じゃ相手と面と向かえない、なんていう制限が、テクスチャーを変えてしまう。そして、テクスチャーの変化はメッセージの内容の変化とも切り離せないから、同じ内容のメッセージでも結果として、メディアによって違った形になって伝わるわけだ。
 でも、これは実はメディアによってテクスチャーが変わるから、話の内容が正確に伝わらなくなる、ということとはちょっと違うようだ。というのも、メディアによって、相手の印象がかわるだけじゃなくて、こちらの精神まで変わってしまうことがあるんだよね。
 たとえば、対話するときと、電話で喋る時を比べてみると、自分の性格がちょっと変わっちゃってるんじゃないか、なんて思うことさえある。こういう経験って長電話が好きな人なら結構あるんじゃないかな。
 全体の傾向としては、電話で喋るときは、面と向かってはあまりいわないような話題を喋ったり、聞いたりすることがあるようだ。というか、対話のときの話題というのは、どちらかというと日常生活にわりと近い部分について話すことが多いのに、電話ではそれとはちょっと違うところにまで、簡単に話題が進むような気がする。たとえば、相手の育った環境とか、昔話とか、理想とか、なんか面と向かうとなんか気恥ずかしくて喋れないことまで話題にできるようだ。なんというか、対話よりけっこう深いところまで、わりと自然に聞いたり喋ったりするんだよね。
 こういう違いがでてくる理由というのは、相手の顔が見えないから、というような単純なものではないような気がする。
 電話の場合は、確かに対話に比べて視覚の情報が無いぶん、表情とか身ぶりといったノンバーバル・コミニュケーションがなくなってしまう。だけど、その代わり音声的なノンバーバル情報をかなり敏感に感じとれる。例えば、言葉の抑揚とか、喋るときの間なんていうのは、対話の時以上によく気がつくようになる。
 つまり、電話というメディアは、対話というメディアよりも、情報量が少ないわけじゃない。もっと、情報の質が変わっているって感じなんだな。
 もちろん単純計算で測るような情報量はたしかに減っているんだろうけど、メディアの変化によって、人間という情報の受け手も変化するので、他のメディアとは別の種類の情報が強調されて得られるようになるわけだ。これは言葉をかえれば、同じものでも別物に見えてくるということになる。
 人間がものを見たり、聞いたり、感じたりするのは、すべて無意識のうちのある前提に基づいている。たとえば、実写映画のリアリティとアニメーションのリアリティっていうのは、かなり違ったところにポイントが出てくるんだよね。
 たとえば、宮崎駿のアニメ『ルパン3世・カリオストロの城』のなかで、ルパンは城の塔から塔へぴょんぴょんと飛んじゃうシーンがあった。あの演出って、ストーリーにユーモラスさを与えることはあっても、作品のリアリティまで失われてしまうことはなかったはずだ。しかし、もしあの映画が実写の作品ならば、きっとリアリティまでぶちこわしにしてしまうに違いない。
 どうして、アニメならばリアリティを保ったまま、あんな表現ができて、実写ではできないのかというと、アニメを見ているものにはあれはウソの世界だということが無意識の前提になっているためなんだよね。つまり、これは現実じゃないから少々のことがおきても不思議じゃない、という感覚があらかじめある。そういうゲタをはいた状態で見ているから、少々変なことがおきても、それがおかしいとはあまり感じないわけだ。
 これは演劇なんかでも同じで、演劇っぽいいい回しや喋りかたなんて、あの劇場という空間でなければ、リアリティなんてかけらもない。ただのマヌケにしかみえないだろうけど、ひとたびあの演劇空間内でああいう演技がされれば、ライブ感覚と相まって、強烈なリアリティをつくり出すことができる。
 ようするに、ぼくたちはあるメディアを使おうとするときに、無意識のうちに、そのメディアの表現を受け入れるに最適な精神状態に変わってしまうのだ。つまり、何かメッセージを伝えるばあい、送り手の精神も、受けての精神も、なんらかの形でメディアの影響をうけ、結果としてメッセージの内容にもなにがしかの影響があるというわけだ。まあ、これは認知科学的な説明をすれば、物事はなんでもスキーマを準備しなければ認識できないので、当然のことなのかもしれないけどね。
 こういうのって、対話と電話だけでなく、もちろんもっといろいろなメディアでそれぞれ変わった特徴がでてくる。たとえば、無線とか市民ラジオっていうのは、声だけを伝達するメディアだけど、電話とはまた違った感触がある。
 無線というのは、無線機のボタンを押しているときは、喋ることができても聞くことができない。逆にボタンを押していないと、聞くことはできても喋ることはできない。だから、こちらが一通り喋ったら、オーバーといって相手に喋る権利をわたすわけだ。
 電話のように、同時にどちらも喋れてどちらも聞けるというのを全二重通信といい、こういう無線タイプのを半二重通信という。まあ、パソ通やってる人なら、先刻承知のことだよね。で、まあ、この半二重というのが、全二重のときとはまた違った精神状態を生み出すみたいなんだよね。
 普通、二人で会話をするときは、片方がひとしきり喋って、それを受けてもう片方が喋って、という具合いに続いていくから、全二重だろうが半二重だろうが変わらないような気がする。ところが、実際にやってみるとそうじゃないんだよね。
 全二重の会話というのは、片方が話しているとき、もう片方はただ聞いているだけかというと、実はそうじゃない。というのは、聞き手は、あいずちとか、表情の変化などで、話し手にかなりのリアクションを返しているんだよね。
 だから、話しているほうも、相手の反応を見ながら、少しずつ話の内容を調節して、相手に受け入れやすいように軌道修正していくことができる。
 ところが、無線のような半二重通信っていうのは、それができないんだよね。
 その結果、話しているほうの感覚としては、どうも独り言をいっているような感じになっちゃうのだ。
 それから、伝言ダイヤルっていうのは、不特定多数を相手に、しかも一定時間のうちに消去されてしまうという特徴をもっているので、そこに参加してくる人たちの精神というのが、結構普通じゃないところがあると思う。その限られた時間のなかで、非日常を楽しもうというような感覚が、無意識にあるような感じだ。そのために、ある人は、このメディアをまるで便所のラクガキみたいな感じで使ってしまうし、あるひとはちょっとしたふれあいの場って感じで使ったりもする。
 このほかにも、一見似たものなのに、実はメディアの性質は違っているので、そこで表現されるものも違ってくるっていうものもある。
 たとえば、映画とテレビっていうのはメディアの性質上、非常に似たところがあるよね。だけど、画面の大きさが違うというハードウェア的な差があるから、表現方法としてはテレビの方が、映画よりもアップが多く使われるようになる。最近の映画は最初からビデオ・リリースを考えて作っているものが多いけど、こういう作品って映画なのにやたらバストアップの絵が多用されることが多くて、映画館でみるとなんだかものすごく疲れてしまうことがある。
 一方、テレビは即時性を兼ね備えたメディアだから、ニュースみたいなものを非常に面白く表現できるという特徴もある。映画とテレビは、ちょうど小説と雑誌のような違いがあるといってもいいかもしれない。
 でも、あれだけ似た性質を持ったメディアなんだから、やろうと思えば、テレビだって映画のような形でドラマを作ったりすることはできるはずだ。ところが、テレビでは映画っぽい形のドラマはあまりつくられない。これって、まあ広い意味でのメディアの制約といえるだろうけど、ハードウェアの制約というよりは、視聴率とか経済原理とか、社会的な要求によるものなんだろうね。
 これからの時代、メディアの種類はどんどん増えていくだろうけど、そういった使用法がまだ確立していないメディアで、人間の精神がどんなふうに影響を受けていくのかって問題はなかなか興味深いものがある。たとえばパソコン通信、ハイビジョン、テレビ電話、あるいは宇宙空間における通信とかでね。

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思えば遠くにきたものだ

 人類が発明したものの中で、もっとも影響力のあるテクノロジーは何か。
 まあいろいろ意見はあるだろうけど、ここ100年以内なら、それは間違いなく集積技術だ。
 僕個人としては、これは人類史上最大の発明と言っていいとも思う。
 コンピュータではない。
 コンピュータだけなら、実はそれほどたいしたことはなかった。
 たとえコンピュータがあったとしても、1958年に集積回路が発明されなかったら、世界の変化はさほど大きくはならなかったろう。集積回路という発想の発明こそが、世界を本質的に変化させる力を持っていた。

 ムーアの法則によれば、集積技術は情報処理に必要なコストを、15年ごとに千分の一に引き下げてきた。つまり、1958年の集積回路の発明から48年を経た現在、情報処理のコストは往時の10億分の1以下になっている。50年に満たない短時間に、何かの性能が10億倍になることなど、人類史上かつてなかったろう。
 赤ちゃんのハイハイも千倍するとジャンボジェットの速度になる。工学の多くの場面で0.1%、つまり千分の1以下の誤差は無視できる。千倍という変化ですら、これほど大きな差異を生むというのに、その千倍の、さらに千倍の変化が、たった半世紀のうちに達成されたわけだ。

 初期の電子計算機は、たくさんのスイッチ(リレー)や真空管を組み合わせて作られていたけど、やがてその素子は1947年に発明されたトランジスタに変わっていった。なにしろリレーや真空管は壊れやすいので、それを膨大な数必要とする計算機は、ほとんど常に修理し続けなくてはいけない。

 たとえば極初期のコンピュータであるENIACは1万8千本の真空管を使っていたため、20分に1本の割合で真空管が切れていた。

 それに比べると、トランジスタは滅多に壊れないので、複雑でも毎日きちんと動かすことができた。また、小型だし、発熱が少ないし、消費電力も少なく、動作が速かったりしたし。

 でも、トランジスタを素子=1個の部品とする限り、そこには自ずと限界がある。コンピュータの処理能力を上げるには、膨大な数の部品が必要になるから、それを組み上げる手間やコスト、動作の検証、設置スペースや必要な電力なども、それに比例して増加して、やがて現実的な値段での性能アップが図れなくなってしまう。

 一方、集積回路は、部品を集めて回路を作るという従来の概念を変えて、シリコン基盤上に一度に回路を作ることを可能にした。しかも、それは印刷(フォトリソグラフィー)によって行われる。つまり、印刷を縮小しさえすれば、コストをほとんど変えずに、詰め込む部品を増やしていけるわけだ。

 このアイデアこそが、真の変化をもたらした。

 たとえばトランジスタまでの技術で、どれくらい複雑なものが作れるかというと、たぶんアポロ宇宙船レベルくらいまでなら可能だろう。

 これは、部品点数が数百万点(家電が数千点、自動車が数万点、H2A ロケットで28万点)だから、MPU でいうと、93年に作られた初代ペンティアム(310 万トランジスタ)くらいの規模の機械だ。

 ただし、アポロ計画の予算は300 億ドル、当時のレートで10兆円以上で、そのときの日本の国家予算が7兆円だった。それから推定すると、低く見積もっても、これを1つ作るのに10億ドルくらいはかかるだろう。

 つまり、集積回路が発明されなくても、10億ドルをかけて、初代ペンティアムと同等のコンピュータなら作れたろう。ただ、これだけ高価では、応用分野も需要も限られてしまう。たぶん大国に数台設置するのが精一杯で、応用もほとんど軍事に限られたのんじゃないだろうか。それに何より、性能も今からすると貧弱だ。また、300~400万のトランジスタがあると言うことは、トランジスタの寿命がたとえ1万年だったとしても、毎日1個は故障することになる。

 一方、2006年のプロセス技術なら、2ミリ角に460 万のトランジスタが載せられる。その値段は10円くらい。つまりアポロなみの複雑さが、今や10円で作れるようになっているわけだ。

 その結果、高度な処理を、コンパクトで安価に提供できるようになった。

 あらゆる機械にマイクロプロセッサ(MPU )を組み込み、自動制御することができる。これは最終製品の性能を上げるだけでなく、すべての製造装置の性能も向上させた。その結果、さらに優れたMPU の製作が可能になり、それがまた製造装置の性能を上げると同時に、MPU の応用範囲を広げる、正の循環を産んでいる。この技術は、現代文明の全てに、大きな影響を与えているんだよね。
 

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遺伝子の情報量は少なすぎる

 人間のゲノムの大きさは30億塩基対。
 DNAは、A(アデニン)T(チミン)G(グアニン)C(シトシン)の4種類の記号が30億文字つらなったものだ。

 つまり、その全情報量は、4の30億乗=2の60億乗=60億ビットだ。

 60億ビットとは、つまりたったの750メガバイトに過ぎない。
 2時間の映画が記録できるDVDの記憶容量は4.7ギガバイトだから、その中に6人分の全遺伝情報を書き込める。

 これは我々が、絶望的なほど、何もわかっていないことの決定的な証拠だ。

 我々は、750メガバイトの情報量のプログラムを書くことで、人間と全く同じ複雑さを持つロボットを作ることができるだろうか。

 ありえない。そんなことは、想像を絶している。

 DNAの情報は、メッセンジャーRNAにコピーされ、それが細胞の全活動につながっていく。

 RNA は化学的に不安定なので、そのまま配列を決定するのは難しい。そこで、メッセンジャーRNA の配列に、相補的なDNA を作って(それをcDNAという)、それをカタログ化しているのが「RNA 新大陸」の研究だ。

 このcDNAの平均的なサイズは、3000bp。
 情報量は4の3000乗=2の6000乗=6000ビット=750バイト。
 漢字1文字が2バイトなので、この情報量は400字詰め原稿用紙1枚に満たない。

 一つの細胞内で、このようなRNA分子は900万個くらい存在しているらしい。
 きちんとした資料が見つからなかったのだけど、細胞核の内部を3000bpのRNA 分子でいっぱいに満たしたときの個数を計算すると、だいたいそのオーダーなので、まあまあ正しような気もする。

 このRNA を単機能のロボットだと考えよう。
 そのロボットは、原稿用紙1枚分の情報量で作られている。
 そしてそれが、1000万個ほど活動している。

 これはスウォーム・インテリジェンス(群知能)といえるかもしれない。
 シロアリたちが、牧畜や農耕をするように、我々が文明を作れるように、スウォーム・インテリジェンスは、個体の能力からは想像もつかないほど複雑な存在となり得る。

 しかし、我々は、このようなスウォーム・インテリジェンスを設計する方法について、ほとんど何も知らないに等しい。

 さらに驚くのは、このRNA 分子の寿命は平均で5分ほどしかないことだ。つまり、これらのロボットは、5分以内に仕事を終え、分解されていくのだ。

 エリック・ドレクスラーのいうアセンブラのようなナノマシンを考えている人たちは、この圧倒的な事実に対して、どう感じるのだろうか。

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