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2006/04/01

自然の認識

 以下は、SFマガジン1999年2月、3月号をベースに再構成したものです。

 人間の思考というか、認知には独特の偏りがある。
 そのため、自然のありのままの姿だとばかり思っていた事が、実は人間の思考の癖の反映に過ぎないことがある。

 たとえば、物理学では「自然は単純さを好む」とよくいわれる。
 まあ、複雑系ブーム以降、あまりいわれなくなったかもしれないけれど、それでもこの信念は、今も自然科学の根底に、強烈にあることは間違いない。

 たとえば、超統一理論。
 この理論では、現在の宇宙には基本力が四つあるけれど、宇宙開闢当時はそれが一つしかなかったことを証明しようとしている。

 でも、冷静に考えてみると、この統一という方向性は、今、非常に不利な状況にある。
 大統一理論でさえ、陽子が崩壊しなくて理論にパッチを当てなければならなかったわけだし、超統一理論やM理論にいたっては実験的検証はまず不可能だ。
 
 そういう意味じゃ、これは自然科学の範疇を外れかけているといってもいい。しかし、それでも一般的には、これが物理の根本テーマの一つという認識は変わらない。

 なぜなら、力が一つに統一されうるというアイデアが、シンプルでとても魅力的だからだ。

 でも、これは根拠のない信念にすぎない。自然が単純さを好むのではなくて、単純さを好んでいるのは、人間のほうだ。

 それから、人間はものごとを分類して理解しようとする。
 なぜ、分類する必要があるのだろうか。
 その答えは明白で、分類して整理しないと、複雑なものを理解できないからだ。つまり分類という行為は、人間の都合なのだ。

 ところがこの分類を、客観的事実と感じてしまうことがある。

 たとえば種の概念。

 人と犬と猫が違う動物だということは、誰もが明白な事実と思っている。生命は、種という単位で分節された存在というわけだ。

 しかし、生物界を精密にみると、どんな方法で種を定義しても、必ず例外がみつかる。

 それは、種という概念が、結局は人間の都合で思い描かれたものにすぎないからだ。つまり、生命が種という単位で別れているのは、自然のありのままの姿ではなくて、人間がそう解釈しているからなのだ。

 ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、たとえば一本の木を、人は幹と枝と葉に分ける。でも、それは自然がそうだから、そう思うのではない。人には、自然がそう見えてしまう、思考の癖があるにすぎない。

 これらはおそらく、人間が一度に扱える情報の数が、7±2程度でしかないことに由来するのだろう。そのため人間は、情報をチャンクという纏まり(区切り)にして操作している。一つのチャンクは、やはり7±2個ほどのチャンクが入れられるので、チャンクを入れ子構造にすることで、人は複雑な事でも考えられるわけだ。つまり、人間の情報処理の性質上、何かを認識するには必然的に分類が行われるのだし、単純な結論が導かれた時、それが自然の真実だと納得しやすいのだ。

 また、これとは別に、人間の認知能力には、物事を擬人化すると、わかった気になりやすいという性質もある。科学ライターをやっていると度々経験することだけど、事実をそのまま話すと抽象的で理解されないことでも、擬人化した例え話にすると、ナルホドと納得してくれることが多い。以前紹介した4枚のカードの話は、その一例だ。

 実をいえば、自然は単純さを好むという言葉も、擬人化の例なのだ。自然に意識や意図なんてないのに、好むなんていっているわけだもんね。

 これはおそらく、人間の心の進化に原因があるのだろう。

 進化心理学によれば、人間の知性は社会性に対応するように、進化してきたという。群を作る霊長類は、極めて強靭な種族で、外敵を畏れる必要は余りない。それよりも、グループ内で自分がどんな地位を占めるかのほうが、生存にとって深刻な問題になる。そういう淘汰圧が連続的にかかることで、人間の知能は進化してきた。そのため、人間の認知は、社会性や対人関係に関して、非常に敏感にできている。あるときある状況で、誰かが何をどう感じるかを理解できる、洞察力をもっている。はやい話、誰かがウソをついているのを見破ったり、様々なドラマで感動できるのも、この種の感情移入の能力があるからだ。

 そして人間は、この洞察力を援用して、自然科学の法則なども理解している。

 つまり、人間の認知は、物理を理解するように進化したわけではない。
 そのため、抽象的な物と物との関係は理解しにくいのに、それを擬人化するとわかりやすくなるのだろう。

 しかし、擬人化は大きな罠だ。たとえば「利己的な遺伝子」という、ドーキンスの秀逸なコピーがあるけど、これも擬人化の一つの例だ。

 利己的な遺伝子の意味は、つまり「増えやすい性質を持った遺伝子は、増えやすい」ということにすぎない。ドーキンスは、その増えやすい性質を、利己的と命名したわけだ。
 しかし、起きている事は、水が低きに流れるとことと全く同じで、そこには意志も意図もないのだ。

 この擬人化によって、本来は抽象的で無味乾燥な統計数学の結果(集団遺伝学)を、生き生きと理解することができるようになった。

 ところが、利己的という言葉はあまりにショッキングなので、これを聞いた人が妄想大爆発状態になってしまうという副作用もある。そして、その妄想を根拠に、利己的な遺伝子なんてことをいう学問はダメだとかいいはじめたりする。なかには、人間の利己主義と完全に混同している人もいたりして。

 自然のありのままの姿だと思っている事が、その実、人間の認知の癖の反映に過ぎない例は他にもたくさんある。たとえば、たいていの人は、鏡に写った映像を見ると、右左が入れ代わっているように感じると思う。

 でも、本当に起きている事は、それじゃない。鏡映変換は、数学的には3次元軸のうち、一つの軸について符合を反対にすることをいう。つまり、鏡に写った像は、上下、または前後が入れ代わったといっても良いはずなのだ。

 ところが、たいていの人は鏡をみて、上下が逆さまになって写っているとは感じない。つまり、数学が語る内容と、人間が感じる感覚にはズレがあるわけだ。

 鏡に写った自分の像をみて、左右が反対と思うのは、自分のイメージを頭の中で横向きに180度回転させて、鏡の像と重ね合わせているからだろう。人間は左右対称に近い形をしているから、こうすると、自分のイメージと鏡に写った像が、ぴったり重なるように感じられる。そのうえで自分のイメージの右手を上げると、鏡のほうは反対の手をあげるから、左右が入れ代わったと思うわけだ。

 でも、これとは違った考え方もできる。たとえば自分のイメージを、鏡と平行する水平軸の回りに、鉄棒で前回りするように180度回転させてみるのだ。
 そうやって思い描いたイメージは、もちろん鏡像とは上下が逆さまになっている。でも、左右は反対になっていない。つまり鏡は、自分の姿を上下を逆さまに写しているわけだ。こういう考え方は、理解することはできても、ナルホドと腑に落ちる感覚を持つのは難しい。左右の入れかえも上下の入れかえも、数学的には同じことなのに、感覚的な納得のしやすさには偏りがある。つまり、これは人間の思考の癖の一つというわけだ。

 ところで、科学の還元主義については、昔から繰り返し批判がされてきた。自然は本来、ひとまとまりの物なのだから、それをバラバラに分解する要素還元法では、見失ってしまうものがある。

 これは一理あるのだけれど、だからといって、それをやめることはできない。科学というものの見方は、巨大で複雑なあまり、ぼんやりとしか感じられない自然を、一寸刻みに分解し、比較的単純な細部を見る事で、精密に理解しようとするやりかたなのだ。だから、還元主義的でない科学なんてのは、矛盾した言葉遊びにすぎない。

 しかし、どんな要素に還元するかについては、まだ多くの可能性がありえる。これまでの要素還元は、人間の思考の癖に基づいて、人間がなんとなく腑に落ちるものに分解することが多かったように思う。生物を種というカテゴリーに分けて考えたりするのは、その例の一つだ。でも、そうじゃないやり方もありえる。

 人間は本能が壊れた動物だと、かつて岸田秀はいった。この本能という言葉の使い方は、今からするとかなり古臭くて間違っているけど、まあ、それは本論ではないから良いとしよう。いずれにせよ、人間の遺伝子には、直立二足歩行のやり方や、セックスのしかた、細細した子育ての方法の情報は入っていない。そのため、それらのやり方は、社会的に学習する必要がある。

 岸田はこの事を、本能が壊れていると表現し、人の世に起きるさまざまな問題の根はそこにあるといったわけだ。

 この分析は面白いけれど、これは人間を、個を基本として、それがたまたま集まったものを社会と見たところから出てきた考え方だ。セパレートされた現代人の感覚では、そういう感じ方は受け入れやすいものだとは思う。でも、本当にそうだろうか。

 進化では、なくてもいいものが、いつの間にか消失してしまうことがある。典型的なのが、暗闇で生きる生き物から目が無くなるという進化だ。

 それと同じで、人類の祖先にあたる動物も、遠い昔にはセックスや子育ての方法などが、遺伝子に組み込まれていたはずだ。しかし、あるときからそれは失われた。それは、これらの情報を、遺伝子に組み込む必要がなくなったからだ。

 もちろん、セックスのしかたや子育ての方法は、次世代を残すのに欠かせない情報なので、それ自体が不要になったはずはない。ただ、人類に関しては、それを遺伝子に書き込まなくても、確実に次世代にも伝承されるような仕組みができている。それがつまり社会性だ。

 これを、子育てやセックスの仕方の本能が壊れかけたから、社会を作るようになったと考える人もいるかもしれない。でも、それはない。なぜなら、それでは本末転倒だからだ。

 たとえば、目のない生き物は、目を作る遺伝子が失われたから、暗闇に棲むようになったわけじゃない。光のある世界で目がなくなる突然変異が起きた場合、その個体は生存上不利で、次世代を残すのは難しい。目のない生き物が成功するには、まず光がない環境が存在して、目があろうがなかろうが違いがないという条件がなければならないわけだ。

 それと同じで、人類はつねに社会を持つ生き物として存在し、生存に欠かせない情報もそこで伝達される状態が長く続いたから、遺伝子からは、それらの情報が消える事ができたのだ。これは逆にいうと、人間という生き物と社会性とは、本質的に切り離して考えられないということを意味している。

 社会性昆虫は、たとえばハキリアリがキノコを栽培するように、とても一匹の虫の単純な神経回路で可能と思えない、高度に知的な振る舞いをする。でも、巣全体を一個の生き物と考えると、個々のアリを細胞、アリの社会を回路網と見なすことで、それだけの知能を説明できるかもしれない。

 それと同じで、人間も個人の能力を遥かに越えたものを、無数に作り出している。このパソコンも、あの橋も、およそ身の回りにあるほとんど全てのものは、一人の人間には作ることはもちろん、理解しつくす事もできない。これらは社会というネットワークが作り出した、人知を越えたモノなのだ。

 つまり、社会は一つの超生命体であって、人間はそれを構成する細胞と見ることができる。この観点は、生物を種という分節で分ける、人間の認知の癖に基づく要素還元とは違う方法で、生命のあり方を探る方法になるかもしれない。

最終更新時間 2006年04月01日 01:39

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「たとえば、目のない生き物は、目を作る遺伝子が失われたから、暗闇に棲むようになったわけじゃない。光のある世界で目がなくなる突然変異が起きた場合、その個体は生存上不利で、次世代を残すのは難しい。目のない生き物が成功するには、まず光がない環境が存在して、目があろうがなかろうが違いがないという条件がなければならないわけだ。」
【鹿野さんの文を引用】

 なんか、この文を読んで、ロイス・マクマスター・ビジョルドの「自由軌道」という、SF小説を思い浮かべてしまいました。「自由落下軌道」…つまり、「無重力」の環境では、足は必要なく、4つの腕を持つ子供たち(クァディー)が働く宇宙ステーションに、地球から「レオ」という溶接のエンジニアが赴任することから物語が始まります。

 なぜ、こんな話をするかと言うと、「レオ」は溶接技師としてだけでなく、いろいろなことを「クァディー」たちに教えます。その中で私が強く印象に残っているのは、不正確かもしれませんが、「なにか自分では、対応できない問題にぶちあったったときは、それを、自分が理解できる、対応できるレベルまで、細かく分解して考えることだ」(※たぶん、不正確:こんなとき「Google」の全文検索があったら、いいのに……><;)
でも、すごくエンジニアとしての説得力を持っています。(作者のお父さんが溶接技師だったらしい)

 言い回しはともかく、ここに西洋文明の「要素還元主義」が現れています。複雑な事象も、その因果法則を突き詰めていけば、物事を単純化していけば、ひとつの「事実:原因」にたどりつくと……。

 今でも、正直なところ一般的問題は、この方法で解決できると思っています。というか、そうするしかない。
 なにか、問題があったとき、それを一発で解決できる解答があれば、非常にスッキリしますよね。それは、「科学なのか……それとも、宗教なのか」

 鹿野さんの考察は、「たとえばハキリアリがキノコを栽培するように、とても一匹の虫の単純な神経回路で可能と思えない」、「一人の人間には作ることはもちろん、理解しつくす事もできない。これらは社会というネットワークが作り出した、人知を越えたモノなのだ」というところまで、到達したようだ。それは、ひとつひとつの脳の神経細胞、ニューロンが興奮して、それを伝達するシナプスのネットワークが……、その、結びつきの強さによる淘汰……、それが「ハキリアリ」のように地球規模での意思決定をする……(ちょっと、飛躍しすぎ……っていうか意味不明w)。

 すこし冷静になって、西洋の要素還元主義、一元論に対して、東洋の「すべてを包括した悟り」という概念をどう捉えるのか、鹿野さんの「くねくね」な話を聞きたいですね(欲張り)。

投稿者 ガスコン : 2006年04月20日 00:29

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