法則定律性と個性記述性
19世紀のドイツの哲学者、ウィンデルバントは、法則定立的(Ideographic)と個性記述的(Nomothetic)という二つの対立するカテゴリーを考え出した。
これはビミョーに、理科と文科というカテゴリー分けと関係しているような気がする。
科学の一つの目的は、世界をいかに単純に理解するかってことにある。
自然は、たいていそのままでは、複雑に入り組んでいて、未来の予測もままならない。
でも、ある法則を見つけだすと、その複雑さが一気に消え失せて、非常に見通し良く、多くのものを説明できるようになる。
たとえばニュートン力学は、なんだか気まぐれに進んだり戻ったりする惑星の動きや、ものを投げたり落としたりしたときの動きの全てを、メチャメチャ単純な法則で記述できる。
一見、同じ現象だとは思えない天体の動きと、この手に握った石が飛んでいく動きとが、同じ法則で記述できてるなんて、ものすごい快感だよね。
しかも、その法則を使えば、投げた石がいつ何処に着地するか、あの天体が100 万年後に空のどの位置に見えるかといった未来予測までできちゃうのだ。
こういう科学の、物事を単純化しようとする特性は、もともとは人間というか、動物の本能に根ざして発生したものだろう。
生物は、進化の中である程度複雑になったとき、餌をとったり敵から逃れたりするために、未来予測の能力を身につけた。たとえば、鋭い爪と牙を持った大きな動物が、自分めがけて猛ダッシュしてくるのが見えたとき、ぼんやりじっとしたままでいた動物は、たぶん長生きはできなかったはずだ。
それが目に入ったら、自分は攻撃を受けるだろうと未来予測して、応戦体制を整えたり、素早く逃げ出したりしたもののほうが、生きのびる確率は高かったに違いない。
または木の上で、枝を掴んでいる手を離すと下に落ちてしまうだろうという未来予測ができないと、その動物は樹上で生きのびられない。しかもそのとき、この木の上で成り立つことは、別の木の上でも成り立つという、ある普遍的な法則も身につけている必要がある。そういう法則を理解していないと、あの木で起きたことが、この木でも起きるかどうかわからないもんね。
つまり、物事を単純化しようとする嗜好と、未来予測は密接に関係していて、それは動物が子孫を残していくためには不可欠な性質だったわけだ。
科学は、その生物としての本能的な傾向を、もっとも洗練した形にしたものと言っていいと思う。しかし、それ以外にも、人間はいろいろな形で、世界を法則として見ようとしている。つまり法則定律的な姿勢は、人間の本能的な必然なのだ。
しかし、この法則定立的な姿勢は、人間を対象につきつめていくと、どうしても人間疎外の方向に、向かわざるを得ない。
人間疎外というのは、ようするに人間を人間として扱わないことだ。つまり、ある特定の人に、お前は法則だといえば、これは人間疎外になる。
たとえば、女性の就職は、男性よりも難しいらしい。なぜなら、女性は仕事を結婚までの腰掛けにしか使わないから。
しかし、これは、やる気のある女性にとって、全く心外な話だろう。
どうしてこれが腹立たしいのかというと、「女性は結婚したら退職する」というのは法則であって、今ここで就職しようとしている、その本人を見ているわけじゃないからだ。本人の個性に相対せずに、普遍的な法則で測ることは疎外だ。だからから頭にくる。
ぼくはたまに、あなたB型でしょうと言われたりすることがあるけど、そのとき思うのは「血液型なんかで呼ぶな。オレは自由な人間だ!」ということだ。同様に、だから韓国人は~というようなレイシズムも、法則定律性による疎外なんだよね。
文学というか、まあ芸術文学の基本姿勢は、法則定立性とは正反対の方向を向いている。つまり、法則からは目を背けて、ある一人の人間の個性にフォーカスをあてた、個性記述性が根本にある。
私小説というやつは、日本のSF作家たちに昔からかなり批判されてきたものだけど、これは確実に個性記述性の一つの現れだ。
私小説を読んで感じるのは、しょーもないことをゴタゴタ考えこねくり回しおって、アホか……というようなことなんだけど、これはようするに作中に描かれた個性と、読み手である自分の性格があっていないというだけのことだ。
つまり見方を変えれば、しょーもないやつと思えるほど、作中人物の個性にフォーカスが当たっている。逆に、その作中人物と性格が会うと、その人物に惚れ込んでしまったりする訳ね。
でも、こういう個性記述的な作品は、人間を離れた世界を描く事は難しいし、普遍性もあまりない。もちろん優れた作品なら、そこに描かれた人間性から、人間の普遍的な性質を感じ取る事はできるけれど、それは作品の中に描かれているというより、読み手の中にあるものが引きだされるという感じがする。
個性記述性は、他者と密接に関わるとき、わき出るように発現するものだ。自分の親、兄弟、子、恋人、親しい仲間たちとつきあうとき、人は本能的に、その相手のありのままの個性を受け止めようとする。こういった親しい人たちをイメージするとき、何かの法則で記述しようと思うことはほとんどない。たとえば母親のことを思うとき、母は女だからこう行動するはずなどとは決して考えず、母は自分が知っているあの性格だからこう振る舞うだろうと考えるはずだ。
単純な法則では記述しきれない、膨大な量の相手に対する知識を無意識のうちに収集して、どうすれば相手は喜ぶだろう、どうすれば自分の望みを聞いてもらえるだろう、どうすれば相手のためになるだろう、などと言ったことを、ついつい考えてしまう。その個性を見つけ出すことは、一つの喜びでもある。
進化心理学では、人間の大脳の機能の大半は、自然科学的な法則の理解のためではなく、霊長類特有の複雑な社会の中で、いかに生き延びるかを目的に発達したと考えられている。
人は、ある立場に置かれた人がどう感じるか、感情移入して理解できる。これは複雑な社会に適応するべく,人がとりわけ高度に発達させた能力らしい。そしてそれこそ、個性記述性そのものだ。
この個性記述のベースになっているのは、いわゆる「心の理論」に違いなく、これはあらゆる人間らしさの源泉ともいえるものだ。この能力があるから、人は物語やスポーツ観戦を楽しむことができるのだし、同時に心のないものにも心を見いだして、オカルトや迷妄の温床ともなる。
法則定律性も個性記述性も、ともに人間の生物としての必要と本能に根ざしたものといえる。だから人間は、法則を見いだしたときも、個性を発見したときも、ともに快感を感じることができる。
一方で、法則定律性は阻害という副作用を生みがちだし、個性記述性は迷信に填る危険性と裏腹だ。
自分の中には、そういう相反する性質があるという自覚を持つことが、ものごとを正しく見ていくには必要なんじゃないかなあ。
ちなみにSFは、根底にある種の普遍的な法則があると感じさせないと、面白いとは思えない表現形態だと思う。その法則として、伝統的には科学の法則を使うわけだけど、それ以外にも、作品世界独特の法則を創り出しているケースもある。何か非常にスジの通った法則の存在というか、ある種、人間というものを越えた普遍的法則性がどこかにないと、SFらしさが出てこない。また、そういうものが破綻していると、SFファンはその作品をできが悪いと感じるはずだ。
一方でSFは文学の一形態だから、個性記述的な表現も可能なはずだ。何となく、そういう方向を目指す作家の数は少ないような気もしないではないけどね。
こうしてみると、SFは本質的に反対の方向性を持った、法則定立性と個性記述性のどちらも内包できる表現形態なのだろう。SFでは、このどちらにも偏る事なく、ぎりぎりまでお互いを格闘させるとき、本当に感動的な作品が産まれるんじゃないだろうか。
最終更新時間 2006年04月01日 01:22
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「しかも、その法則を使えば、投げた石がいつ何処に着地するか、あの天体が100 万年後に空のどの位置に見えるかといった未来予測までできちゃうのだ。」
【鹿野さんの文を引用】
たしかに、あの「ラプラス」でなくても、それは、すごく魅力的ですよね。
「法則定律性と個性記述性」なんて、難しいテーマに戻ってきたけれど
「これらはおそらく、人間が一度に扱える情報の数が、7±2程度でしかないことに由来するのだろう。そのため人間は、情報をチャンクという纏まり(区切り)にして操作している。一つのチャンクは、やはり7±2個ほどのチャンクが入れられるので、チャンクを入れ子構造にすることで、人は複雑な事でも考えられるわけだ。」【鹿野さん文を引用】
などと、ワケのわからん論理で、きっと、お酒を飲む、おネエちゃんがいる場で煙に巻くのが、鹿野さんの常套句なんだろうと思いますよ。
けっきょく、人間の脳の海馬に送られる一時記憶は「携帯の番号(8ケタの数字+α)」くらい……というか、7桁が限度だと言われている(そこは根性と思い込みだ^^;)。
しかし、物事を擬人化すると分かった気になるというのは、まさしく、そのとおりだ。
自然は単純さを好む、ではなく、人間が単純化を好むというのも、鹿野さんのロジックだ。
「それと同じで、人類はつねに社会を持つ生き物として存在し、生存に欠かせない情報もそこで伝達される状態が長く続いたから、遺伝子からは、それらの情報が消える事ができたのだ。これは逆にいうと、人間という生き物と社会性とは、本質的に切り離して考えられないということを意味している。」
【鹿野さんの文の引用】
この「ブログ」で感じるのは、最後の2行で、じつは、すごく大胆なことを言っていまんせん?
私は、遺伝子の情報から、「それら」の情報が消えることはないと思うのですが……。
投稿者 ガスコン : 2006年04月20日 00:33
すみません。「いいちこ」で酔っ払って、何を言っているのか、わからなくなりました。
「こうしてみると、SFは本質的に反対の方向性を持った、法則定立性と個性記述性のどちらも内包できる表現形態なのだろう。SFでは、このどちらにも偏る事なく、ぎりぎりまでお互いを格闘させるとき、本当に感動的な作品が産まれるんじゃないだろうか。」
この見解には、もちろん、賛同の意を表します。
投稿者 ガスコン : 2006年04月20日 01:05










