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2006/04/30

遺伝子の謎

 5月の7日に、SF乱学講座でちょいと喋るので、その前振りを少しだけ紹介する。


 2003年4月14日、ヒトゲノム計画(1991年開始)の完了が宣言された。
 この、ヒトゲノム計画の最も重要な発見を一つだけあげろといわれたら、それは結局、「我々はまだ、決定的に重要な何かを見落としている」という事実だろう。

 2004年10月、国際ヒトゲノムコンソーシアムは、ゲノムの中の遺伝子(=蛋白質に翻訳される部分)は、全体のたった2%で、2万2千個しかないことを明らかにした。

 つまりDNA の98%が、ジャンク(クズ)だというのだ。プロジェクト以前は、遺伝子数は10万と予想されていただけに、この少なさは想像を越えていた。

 なにしろ2万2千といえば、線虫(C.elegans )の遺伝子数1万9千と大差ないのだ。

 でも、線虫の細胞はたった1000個で、DNA の塩基対数も1億(100Mb)だ。
 対してヒトは、100 兆の細胞と30億塩基対(3000Mb)のDNAを持っている。
 遺伝子に大差はないのに、こんなに大きな違いが生じるのは、一体どういうわけだろう。

 今生きている生物は、進化論的には全く同じ歳月を生き延びてきている。
 だから、もしゲノムの量が時間とともに規則的に増加するものだとすると、あらゆる生物のゲノムのサイズはほぼ同じになるはずだ。でも、実際にはそうではない。
 これはつまり、急速にDNA の量を増やした生物と、そうでない生物がいるということだ。

 様々な生物のゲノムサイズを比較すると、複雑な生物ほど、大きなゲノムを持っているわけではない。実際、両生類や硬骨魚類の中には、ほ乳類の何十倍ものゲノムサイズを持つものがいるし、昆虫のなかにもゲノムサイズがほ乳類の数倍のものがいる。

 また、C値パラドックスという現象がある。ごく近縁の種類生物なのに、DNAの量が極端に違うものがいることだ。図をみるとわかると思うけど、たとえば両生類のDNAの量は、ほ乳類の数分の1のものから数十倍のものまで存在する。

 むしろこの図を見て感じるのは、ほ乳類のDNAの量は、非常に狭い範囲にしか分布していないということだ。

 DNAの分布の広さは、ひょっとすると進化の可能性の大きさを意味するのかもしれない。つまり、この分布の大きさは、大きな環境の変化が起きたとき、新しい種を生み出す原動力になるのかもしれない。

 そう考えると、人間を含むほ乳類は、環境の変動に弱く、絶滅しやすい生き物なのかもしれない。あるいは、逆に数多くの大量絶滅を生き延びた体験を持つ生物ほど、DNAの分布の幅を広げているのかもしれない。

 2005年、理化学研究所の林崎良英さんを中心とする国際研究グループは、マウスやヒトの細胞内で作られるmRNAの大規模な分析(トランスクリプトーム分析)を行うことで、「RNA 新大陸」を発見したと発表した。

 その要点は3つある。一つは、マウスやヒトではゲノムの7割が、RNA に転写されていたことだ。つまりゲノムの7割は活動しているわけだ。

 これは国際ヒトゲノムコンソーシアムの発表とは矛盾している。しかも、国際ヒトゲノムコンソーシアムは2%なのに、こちらは70%だから、その開きは大きい。

 なぜこんなことが起きたのかというと、国際ヒトゲノムコンソーシアムの2%という値は、ゲノム配列の中から、遺伝子らしい配列を持つものを、コンピュータで探したものだからだ。つまり、遺伝子らしさの定義が不完全であれば、正しい結果は得られない。

 一方、トランスクリプトーム解析は、細胞内で現実にDNA からRNA にコピーされたものを手当たり次第にかき集める方法なので、こちらのほうがより真実に近い。

 次に、そのRNA のうち53%は、蛋白質を作っていなかった。これはRNA の役割の過半が、蛋白質を作ること以外だということを示している。こういう蛋白を作らないRNA をncRNA(ノンコーディングRNA)と呼ぶ。

 そして、三つ目に重要なこととして、RNA の72%は、DNA の二重鎖の両方からコピーされていて、そのことが発生・分化から、様々な病気まで、生命活動に大きく影響している事が確かめられた。

 二重鎖の塩基はAとG、TとC(RNA の場合はAとU)が1対1対応していて、片方のコピーをセンスとすると、もう片方はアンチセンスになる。

 この両方が同時に読まれると、RNA は二重鎖になって、蛋白質を作れない。(蛋白質を作るには一本鎖である必要がある)だから、センスとアンチセンスの割合が変化すれば、目的の蛋白質の生産量が制御されるはずだ。

 また、蛋白質を作らないncRNAでもセンス・アンチセンスペアが作られているから、この現象は蛋白質の量の制御だけでなく、もっと別の機能もありそうだ。

 これらの結果は、細胞内にある全てのRNA を調べきったものではなくて、まだ全体の数分の1程度を調べただけだ。つまり、これらの現象の割合は、実際はもっと大きい可能性が高い。


C値パラドックス.jpg

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2006/04/01

西洋の科学はなぜうまくいったのだろうか

 以前、原罪という奇妙な考えはなぜ生まれたのかでも少し触れたけど、ユダヤ教は「絶対的な価値観」という概念を発明したのではないかと思う。

 ユダヤ教では、十戒の逸話に象徴されるように、神との間に契約関係をむすぶ。これは、人間が決めるルールを超越した、客観的なルールというか、正義って物があるということを主張しているわけだ。

 出エジプトを決行する時に、多数の部族をまとめる必要があったモーゼは、部族ごとの価値観の違いによる対立に、ほとほと困り果てていたのだろう。そこで、その解決手段として編み出したのが、唯一絶対神から十戒という成文法を授かったという神話だった。

 この十戒は、部族ごとのローカルな価値を超越した、唯一神による絶対的な価値観で、全ての部族が従わざるを得ないものだった。

 しかもそれは、ある日突然現れる。つまり、普通に生活しているだけでは容易には気づけない、隠されたこの世の真実があるのだということも意味している。

 これは実は、現代科学の根幹に関わる発明品でもあったろう。

 科学の起源というと、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった、古代ギリシアの哲学者たちを思い出すのが、まあ普通の考え方だろう。確かに彼らは論理的な推論などの、今の科学が備える基本的な要素のいくつかを編み出した。

 しかし、彼らは学派を形成して、自分たちの哲学は、門外不出としていたのだそうだ。
 つまり、その世界観は仲間うちだけのローカルなものだった。
 
 もちろん、彼らは自分たちの学説がローカルなものと、自覚はしていなかっただろう。 自分の学派の哲学が、世界の真実にいちばん近いと、誇りを持って考えていたに違いない。

 つまり、他学派の哲学は参考にすべき点はあるにしても、より深い認識を持つのは自分たちだと、お互いに考えていたと思う。

 このとき、学派間の関係は水平的なわけで、それはモーゼを悩ませた諸部族の対立関係と何ら変わるところがない。

 また、こういう形での自然理解は、世界中のあらゆる場所、あらゆる時代の人々が、同じようにしていた事だと思う。

 ところが、モーゼの法はそれまでの部族内部の価値観に対して、メタレベルで優位にたつものだった。なにしろ、それは唯一絶対神の言葉なのだし、誰もがはっきり解るように10箇条の条文になっている。

 つまり、それまで漠然と信じられていた諸部族の内部価値は、より上位の価値観によって再評価される必要があるといったのが、モーゼの画期的なところだったわけだ。

 ところで、現代の科学は、時空を越えて通用する法則がある事に、基本的な信頼感がある。これは強烈な確信で、それが疑える事に、ほとんど気がつかないほどだ。だけど、それには実は論理的な根拠はない。ただそう信じているだけだ。

 なぜ、こんな確信が生まれたのだろうか。それは、ユダヤ教による絶対的な価値観の発明によるのではないだろうか。

 こういう絶対的な価値観への信頼感が背後になければ、現代につながる科学的な発見の多くは成り立たなかった。

 たとえば、ニュートン力学を知っている人なら、高いところから物を落としたとき、重い物も軽い物も、同時に地上に落ちる事を知っている。でも、これは経験的には決してわからないことだ。

 なぜなら、重い石は軽い羽より、明らかに早く落ちるからだ。その自然の姿を、いくらありのままに観察しても、力学の法則は決して見えてこない。

 それにも関わらず、力学の法則が発見できたのは、ありのままの自然を、見かけ上そうなっているだけだと信じ、それを越えた普遍的な法則があると、根拠なしに信じる必要がある。ヨーロッパだけに現代の自然科学に連なる動きが出たのは、それがあったのではないだろうか。

 ユダヤ教に発する、「絶対的な価値観というものが存在する」という認識がなかった他の文化圏では、素朴な世界認識を越える法則について思いを馳せることは、できたとしても例外的で、かなり難しかったに違いない。

 たとえば和時計というものがある。これは、西洋から伝わった機械式の時計をベースに、日本で独自に発展を遂げたものだ。これは、なかなか凄いテクノロジーだったりする。

 日本への機械時計の伝来は、1551年にフランシスコ・ザビエルによって行われた。
 その後、キリスト教の広がりとともに、たくさんの時計が持ちこまれて、それを修理したり、真似して作る職人も増えていった。そして、1639年の鎖国の完成によって、時計技術もヨーロッパとの交流がなくなり、お互いに別々の発展を遂げていくことになる。

 西洋の場合、機械時計の発明によって、時間を等分する定時法が採用されていった。つまり、ぼくたちが今使っている時間の刻みかたと、基本的に同じやり方だ。

 ところが、日本では、日の出、日の入りを基準として、それを均等に分割して時を数える不定時法が採用されていた。つまり、一時の長さは、春分の日か秋分の日以外は、昼と夜で違っているし、その長さは毎日変化していたわけだ。そのうえ、場所によっても違ってしまう。そこで和時計は、日本独自の工夫によって、一時の長さが毎日変化したり、場所による補正ができるように作られていた。

 現代人の感覚からすると、これは奇妙なやり方だと感じるかもしれない。毎日時間長さが違うんじゃ、ややこしくてしょうがないもんね。だけど、これだと、何時(なんどき)といえば、一年中どの季節でも、太陽がだいたいどのあたりにあるか解ることになる。ところが定時法では、夕方6時といっても、夏ならまだ明るいし、冬なら真っ暗で一定しない。

 和時計が刻んだ時間は、季節の変化に連動する相対的なものだった。実はこれは世界的には普遍的な感覚で、古代ギリシアから中世ヨーロッパまで、この不定時法が用いられていた。これにたいして、西洋の時間は、時計が発明された14世紀以降、定時法という絶対的な時間尺度の採用へと動いていった。

 西洋の機械製作技術は、当時の日本に比べて決して劣っていたはずはないのに、なぜ和時計のようなしくみを編み出さず、時法を変える方向に進んだのだろうか。

 それはやっぱり、季節や場所の変化にとらわれない、絶対的な時間の刻みがあるという感覚を、受け入れやすい素地があったからだと思う。

 現代科学が、ほかの文化圏にも存在した科学的な行為と決定的に違うのは、基礎科学に対する基本的な信頼感だ。基礎科学とは、要するに全く何の役にも立たないことが確実にわかっているか、役に立つ当てのない科学のことをいう。こういうものをやることを、ユダヤ・キリスト教文化圏から出てきた科学は寛容に受け止め、奨励さえされるわけだけれど、その感覚はほかの文化圏には存在しなかった。

 たとえば日本でも、昔から専門家は基礎の大切さを訴えてはいるけど、一般大衆には今でもそういう感覚はまあ存在しない。だから、基礎をやっている研究者に取材にいくと、新聞社の記者はすぐに何の役に立つんですかって聞くんですよね~とぼやかれたりする。
 それでも日本はまだ基礎科学にお金がつく方だと思うけど、中国や韓国は今でもほとんど基礎科学に関心を持っているように見えない。基本的に何らかの役に立つ分野にだけ、力が注がれているように思える。

 こういう傾向があるのは、やっぱり、隠された世界の真実があるというような感覚が、文化的に存在していないからじゃやないだろうか。

 そして、基礎科学の蓄積は、短期的には何の役にも立たないかもしれないけれど、長期的に見ると畑を耕すような効果を現して、予想もしないところで役に立つ技術の基盤を固める働きをしている。これが、ユダヤ・キリスト教文化圏を発端とする現代科学の成功につながってきたのだろう。

 ただ、こういう絶対的な価値観というアイデアの発明によって成立した現代の自然科学も、最近は少しづつ新しい動きが出始めているような気がする。

 それはポストモダンのような、無茶な相対化を目指そうというものではなくて、これまで見過ごされがちだった、個性記述的なところも見て行こうという動きだ。

 たとえば、生物学の分野では、普遍法則の追求だけでは限度があるの当然で、個性の記述が求められ始めていると思う。また、この個性記述への指向は、もっと大きな時代的な雰囲気から出てきているような気もするんだよね。

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自然の認識

 以下は、SFマガジン1999年2月、3月号をベースに再構成したものです。

 人間の思考というか、認知には独特の偏りがある。
 そのため、自然のありのままの姿だとばかり思っていた事が、実は人間の思考の癖の反映に過ぎないことがある。

 たとえば、物理学では「自然は単純さを好む」とよくいわれる。
 まあ、複雑系ブーム以降、あまりいわれなくなったかもしれないけれど、それでもこの信念は、今も自然科学の根底に、強烈にあることは間違いない。

 たとえば、超統一理論。
 この理論では、現在の宇宙には基本力が四つあるけれど、宇宙開闢当時はそれが一つしかなかったことを証明しようとしている。

 でも、冷静に考えてみると、この統一という方向性は、今、非常に不利な状況にある。
 大統一理論でさえ、陽子が崩壊しなくて理論にパッチを当てなければならなかったわけだし、超統一理論やM理論にいたっては実験的検証はまず不可能だ。
 
 そういう意味じゃ、これは自然科学の範疇を外れかけているといってもいい。しかし、それでも一般的には、これが物理の根本テーマの一つという認識は変わらない。

 なぜなら、力が一つに統一されうるというアイデアが、シンプルでとても魅力的だからだ。

 でも、これは根拠のない信念にすぎない。自然が単純さを好むのではなくて、単純さを好んでいるのは、人間のほうだ。

 それから、人間はものごとを分類して理解しようとする。
 なぜ、分類する必要があるのだろうか。
 その答えは明白で、分類して整理しないと、複雑なものを理解できないからだ。つまり分類という行為は、人間の都合なのだ。

 ところがこの分類を、客観的事実と感じてしまうことがある。

 たとえば種の概念。

 人と犬と猫が違う動物だということは、誰もが明白な事実と思っている。生命は、種という単位で分節された存在というわけだ。

 しかし、生物界を精密にみると、どんな方法で種を定義しても、必ず例外がみつかる。

 それは、種という概念が、結局は人間の都合で思い描かれたものにすぎないからだ。つまり、生命が種という単位で別れているのは、自然のありのままの姿ではなくて、人間がそう解釈しているからなのだ。

 ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、たとえば一本の木を、人は幹と枝と葉に分ける。でも、それは自然がそうだから、そう思うのではない。人には、自然がそう見えてしまう、思考の癖があるにすぎない。

 これらはおそらく、人間が一度に扱える情報の数が、7±2程度でしかないことに由来するのだろう。そのため人間は、情報をチャンクという纏まり(区切り)にして操作している。一つのチャンクは、やはり7±2個ほどのチャンクが入れられるので、チャンクを入れ子構造にすることで、人は複雑な事でも考えられるわけだ。つまり、人間の情報処理の性質上、何かを認識するには必然的に分類が行われるのだし、単純な結論が導かれた時、それが自然の真実だと納得しやすいのだ。

 また、これとは別に、人間の認知能力には、物事を擬人化すると、わかった気になりやすいという性質もある。科学ライターをやっていると度々経験することだけど、事実をそのまま話すと抽象的で理解されないことでも、擬人化した例え話にすると、ナルホドと納得してくれることが多い。以前紹介した4枚のカードの話は、その一例だ。

 実をいえば、自然は単純さを好むという言葉も、擬人化の例なのだ。自然に意識や意図なんてないのに、好むなんていっているわけだもんね。

 これはおそらく、人間の心の進化に原因があるのだろう。

 進化心理学によれば、人間の知性は社会性に対応するように、進化してきたという。群を作る霊長類は、極めて強靭な種族で、外敵を畏れる必要は余りない。それよりも、グループ内で自分がどんな地位を占めるかのほうが、生存にとって深刻な問題になる。そういう淘汰圧が連続的にかかることで、人間の知能は進化してきた。そのため、人間の認知は、社会性や対人関係に関して、非常に敏感にできている。あるときある状況で、誰かが何をどう感じるかを理解できる、洞察力をもっている。はやい話、誰かがウソをついているのを見破ったり、様々なドラマで感動できるのも、この種の感情移入の能力があるからだ。

 そして人間は、この洞察力を援用して、自然科学の法則なども理解している。

 つまり、人間の認知は、物理を理解するように進化したわけではない。
 そのため、抽象的な物と物との関係は理解しにくいのに、それを擬人化するとわかりやすくなるのだろう。

 しかし、擬人化は大きな罠だ。たとえば「利己的な遺伝子」という、ドーキンスの秀逸なコピーがあるけど、これも擬人化の一つの例だ。

 利己的な遺伝子の意味は、つまり「増えやすい性質を持った遺伝子は、増えやすい」ということにすぎない。ドーキンスは、その増えやすい性質を、利己的と命名したわけだ。
 しかし、起きている事は、水が低きに流れるとことと全く同じで、そこには意志も意図もないのだ。

 この擬人化によって、本来は抽象的で無味乾燥な統計数学の結果(集団遺伝学)を、生き生きと理解することができるようになった。

 ところが、利己的という言葉はあまりにショッキングなので、これを聞いた人が妄想大爆発状態になってしまうという副作用もある。そして、その妄想を根拠に、利己的な遺伝子なんてことをいう学問はダメだとかいいはじめたりする。なかには、人間の利己主義と完全に混同している人もいたりして。

 自然のありのままの姿だと思っている事が、その実、人間の認知の癖の反映に過ぎない例は他にもたくさんある。たとえば、たいていの人は、鏡に写った映像を見ると、右左が入れ代わっているように感じると思う。

 でも、本当に起きている事は、それじゃない。鏡映変換は、数学的には3次元軸のうち、一つの軸について符合を反対にすることをいう。つまり、鏡に写った像は、上下、または前後が入れ代わったといっても良いはずなのだ。

 ところが、たいていの人は鏡をみて、上下が逆さまになって写っているとは感じない。つまり、数学が語る内容と、人間が感じる感覚にはズレがあるわけだ。

 鏡に写った自分の像をみて、左右が反対と思うのは、自分のイメージを頭の中で横向きに180度回転させて、鏡の像と重ね合わせているからだろう。人間は左右対称に近い形をしているから、こうすると、自分のイメージと鏡に写った像が、ぴったり重なるように感じられる。そのうえで自分のイメージの右手を上げると、鏡のほうは反対の手をあげるから、左右が入れ代わったと思うわけだ。

 でも、これとは違った考え方もできる。たとえば自分のイメージを、鏡と平行する水平軸の回りに、鉄棒で前回りするように180度回転させてみるのだ。
 そうやって思い描いたイメージは、もちろん鏡像とは上下が逆さまになっている。でも、左右は反対になっていない。つまり鏡は、自分の姿を上下を逆さまに写しているわけだ。こういう考え方は、理解することはできても、ナルホドと腑に落ちる感覚を持つのは難しい。左右の入れかえも上下の入れかえも、数学的には同じことなのに、感覚的な納得のしやすさには偏りがある。つまり、これは人間の思考の癖の一つというわけだ。

 ところで、科学の還元主義については、昔から繰り返し批判がされてきた。自然は本来、ひとまとまりの物なのだから、それをバラバラに分解する要素還元法では、見失ってしまうものがある。

 これは一理あるのだけれど、だからといって、それをやめることはできない。科学というものの見方は、巨大で複雑なあまり、ぼんやりとしか感じられない自然を、一寸刻みに分解し、比較的単純な細部を見る事で、精密に理解しようとするやりかたなのだ。だから、還元主義的でない科学なんてのは、矛盾した言葉遊びにすぎない。

 しかし、どんな要素に還元するかについては、まだ多くの可能性がありえる。これまでの要素還元は、人間の思考の癖に基づいて、人間がなんとなく腑に落ちるものに分解することが多かったように思う。生物を種というカテゴリーに分けて考えたりするのは、その例の一つだ。でも、そうじゃないやり方もありえる。

 人間は本能が壊れた動物だと、かつて岸田秀はいった。この本能という言葉の使い方は、今からするとかなり古臭くて間違っているけど、まあ、それは本論ではないから良いとしよう。いずれにせよ、人間の遺伝子には、直立二足歩行のやり方や、セックスのしかた、細細した子育ての方法の情報は入っていない。そのため、それらのやり方は、社会的に学習する必要がある。

 岸田はこの事を、本能が壊れていると表現し、人の世に起きるさまざまな問題の根はそこにあるといったわけだ。

 この分析は面白いけれど、これは人間を、個を基本として、それがたまたま集まったものを社会と見たところから出てきた考え方だ。セパレートされた現代人の感覚では、そういう感じ方は受け入れやすいものだとは思う。でも、本当にそうだろうか。

 進化では、なくてもいいものが、いつの間にか消失してしまうことがある。典型的なのが、暗闇で生きる生き物から目が無くなるという進化だ。

 それと同じで、人類の祖先にあたる動物も、遠い昔にはセックスや子育ての方法などが、遺伝子に組み込まれていたはずだ。しかし、あるときからそれは失われた。それは、これらの情報を、遺伝子に組み込む必要がなくなったからだ。

 もちろん、セックスのしかたや子育ての方法は、次世代を残すのに欠かせない情報なので、それ自体が不要になったはずはない。ただ、人類に関しては、それを遺伝子に書き込まなくても、確実に次世代にも伝承されるような仕組みができている。それがつまり社会性だ。

 これを、子育てやセックスの仕方の本能が壊れかけたから、社会を作るようになったと考える人もいるかもしれない。でも、それはない。なぜなら、それでは本末転倒だからだ。

 たとえば、目のない生き物は、目を作る遺伝子が失われたから、暗闇に棲むようになったわけじゃない。光のある世界で目がなくなる突然変異が起きた場合、その個体は生存上不利で、次世代を残すのは難しい。目のない生き物が成功するには、まず光がない環境が存在して、目があろうがなかろうが違いがないという条件がなければならないわけだ。

 それと同じで、人類はつねに社会を持つ生き物として存在し、生存に欠かせない情報もそこで伝達される状態が長く続いたから、遺伝子からは、それらの情報が消える事ができたのだ。これは逆にいうと、人間という生き物と社会性とは、本質的に切り離して考えられないということを意味している。

 社会性昆虫は、たとえばハキリアリがキノコを栽培するように、とても一匹の虫の単純な神経回路で可能と思えない、高度に知的な振る舞いをする。でも、巣全体を一個の生き物と考えると、個々のアリを細胞、アリの社会を回路網と見なすことで、それだけの知能を説明できるかもしれない。

 それと同じで、人間も個人の能力を遥かに越えたものを、無数に作り出している。このパソコンも、あの橋も、およそ身の回りにあるほとんど全てのものは、一人の人間には作ることはもちろん、理解しつくす事もできない。これらは社会というネットワークが作り出した、人知を越えたモノなのだ。

 つまり、社会は一つの超生命体であって、人間はそれを構成する細胞と見ることができる。この観点は、生物を種という分節で分ける、人間の認知の癖に基づく要素還元とは違う方法で、生命のあり方を探る方法になるかもしれない。

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法則定律性と個性記述性

 19世紀のドイツの哲学者、ウィンデルバントは、法則定立的(Ideographic)と個性記述的(Nomothetic)という二つの対立するカテゴリーを考え出した。

 これはビミョーに、理科と文科というカテゴリー分けと関係しているような気がする。

 科学の一つの目的は、世界をいかに単純に理解するかってことにある。
 自然は、たいていそのままでは、複雑に入り組んでいて、未来の予測もままならない。
 でも、ある法則を見つけだすと、その複雑さが一気に消え失せて、非常に見通し良く、多くのものを説明できるようになる。

 たとえばニュートン力学は、なんだか気まぐれに進んだり戻ったりする惑星の動きや、ものを投げたり落としたりしたときの動きの全てを、メチャメチャ単純な法則で記述できる。
 一見、同じ現象だとは思えない天体の動きと、この手に握った石が飛んでいく動きとが、同じ法則で記述できてるなんて、ものすごい快感だよね。

 しかも、その法則を使えば、投げた石がいつ何処に着地するか、あの天体が100 万年後に空のどの位置に見えるかといった未来予測までできちゃうのだ。

 こういう科学の、物事を単純化しようとする特性は、もともとは人間というか、動物の本能に根ざして発生したものだろう。

 生物は、進化の中である程度複雑になったとき、餌をとったり敵から逃れたりするために、未来予測の能力を身につけた。たとえば、鋭い爪と牙を持った大きな動物が、自分めがけて猛ダッシュしてくるのが見えたとき、ぼんやりじっとしたままでいた動物は、たぶん長生きはできなかったはずだ。

 それが目に入ったら、自分は攻撃を受けるだろうと未来予測して、応戦体制を整えたり、素早く逃げ出したりしたもののほうが、生きのびる確率は高かったに違いない。

 または木の上で、枝を掴んでいる手を離すと下に落ちてしまうだろうという未来予測ができないと、その動物は樹上で生きのびられない。しかもそのとき、この木の上で成り立つことは、別の木の上でも成り立つという、ある普遍的な法則も身につけている必要がある。そういう法則を理解していないと、あの木で起きたことが、この木でも起きるかどうかわからないもんね。

 つまり、物事を単純化しようとする嗜好と、未来予測は密接に関係していて、それは動物が子孫を残していくためには不可欠な性質だったわけだ。

 科学は、その生物としての本能的な傾向を、もっとも洗練した形にしたものと言っていいと思う。しかし、それ以外にも、人間はいろいろな形で、世界を法則として見ようとしている。つまり法則定律的な姿勢は、人間の本能的な必然なのだ。

 しかし、この法則定立的な姿勢は、人間を対象につきつめていくと、どうしても人間疎外の方向に、向かわざるを得ない。

 人間疎外というのは、ようするに人間を人間として扱わないことだ。つまり、ある特定の人に、お前は法則だといえば、これは人間疎外になる。

 たとえば、女性の就職は、男性よりも難しいらしい。なぜなら、女性は仕事を結婚までの腰掛けにしか使わないから。
 しかし、これは、やる気のある女性にとって、全く心外な話だろう。

 どうしてこれが腹立たしいのかというと、「女性は結婚したら退職する」というのは法則であって、今ここで就職しようとしている、その本人を見ているわけじゃないからだ。本人の個性に相対せずに、普遍的な法則で測ることは疎外だ。だからから頭にくる。

 ぼくはたまに、あなたB型でしょうと言われたりすることがあるけど、そのとき思うのは「血液型なんかで呼ぶな。オレは自由な人間だ!」ということだ。同様に、だから韓国人は~というようなレイシズムも、法則定律性による疎外なんだよね。

 文学というか、まあ芸術文学の基本姿勢は、法則定立性とは正反対の方向を向いている。つまり、法則からは目を背けて、ある一人の人間の個性にフォーカスをあてた、個性記述性が根本にある。

 私小説というやつは、日本のSF作家たちに昔からかなり批判されてきたものだけど、これは確実に個性記述性の一つの現れだ。

 私小説を読んで感じるのは、しょーもないことをゴタゴタ考えこねくり回しおって、アホか……というようなことなんだけど、これはようするに作中に描かれた個性と、読み手である自分の性格があっていないというだけのことだ。

 つまり見方を変えれば、しょーもないやつと思えるほど、作中人物の個性にフォーカスが当たっている。逆に、その作中人物と性格が会うと、その人物に惚れ込んでしまったりする訳ね。

 でも、こういう個性記述的な作品は、人間を離れた世界を描く事は難しいし、普遍性もあまりない。もちろん優れた作品なら、そこに描かれた人間性から、人間の普遍的な性質を感じ取る事はできるけれど、それは作品の中に描かれているというより、読み手の中にあるものが引きだされるという感じがする。

 個性記述性は、他者と密接に関わるとき、わき出るように発現するものだ。自分の親、兄弟、子、恋人、親しい仲間たちとつきあうとき、人は本能的に、その相手のありのままの個性を受け止めようとする。こういった親しい人たちをイメージするとき、何かの法則で記述しようと思うことはほとんどない。たとえば母親のことを思うとき、母は女だからこう行動するはずなどとは決して考えず、母は自分が知っているあの性格だからこう振る舞うだろうと考えるはずだ。

 単純な法則では記述しきれない、膨大な量の相手に対する知識を無意識のうちに収集して、どうすれば相手は喜ぶだろう、どうすれば自分の望みを聞いてもらえるだろう、どうすれば相手のためになるだろう、などと言ったことを、ついつい考えてしまう。その個性を見つけ出すことは、一つの喜びでもある。

 進化心理学では、人間の大脳の機能の大半は、自然科学的な法則の理解のためではなく、霊長類特有の複雑な社会の中で、いかに生き延びるかを目的に発達したと考えられている。
 人は、ある立場に置かれた人がどう感じるか、感情移入して理解できる。これは複雑な社会に適応するべく,人がとりわけ高度に発達させた能力らしい。そしてそれこそ、個性記述性そのものだ。
 この個性記述のベースになっているのは、いわゆる「心の理論」に違いなく、これはあらゆる人間らしさの源泉ともいえるものだ。この能力があるから、人は物語やスポーツ観戦を楽しむことができるのだし、同時に心のないものにも心を見いだして、オカルトや迷妄の温床ともなる。

 法則定律性も個性記述性も、ともに人間の生物としての必要と本能に根ざしたものといえる。だから人間は、法則を見いだしたときも、個性を発見したときも、ともに快感を感じることができる。
 一方で、法則定律性は阻害という副作用を生みがちだし、個性記述性は迷信に填る危険性と裏腹だ。

 自分の中には、そういう相反する性質があるという自覚を持つことが、ものごとを正しく見ていくには必要なんじゃないかなあ。


 ちなみにSFは、根底にある種の普遍的な法則があると感じさせないと、面白いとは思えない表現形態だと思う。その法則として、伝統的には科学の法則を使うわけだけど、それ以外にも、作品世界独特の法則を創り出しているケースもある。何か非常にスジの通った法則の存在というか、ある種、人間というものを越えた普遍的法則性がどこかにないと、SFらしさが出てこない。また、そういうものが破綻していると、SFファンはその作品をできが悪いと感じるはずだ。
 一方でSFは文学の一形態だから、個性記述的な表現も可能なはずだ。何となく、そういう方向を目指す作家の数は少ないような気もしないではないけどね。
 こうしてみると、SFは本質的に反対の方向性を持った、法則定立性と個性記述性のどちらも内包できる表現形態なのだろう。SFでは、このどちらにも偏る事なく、ぎりぎりまでお互いを格闘させるとき、本当に感動的な作品が産まれるんじゃないだろうか。

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