理系と文系
この世には、理系と文系って分け方がある。
あれって、いったい何なんだろう。
理系と文系が、異質の文化をもった人間集団だということをいいだしたのは、イギリスのC・P・スノウっていう、小説家であり評論家でもある人だった。
この人は、もともとケンブリッジ大学の物理出身で、労働省に務めていた時に、第二次世界大戦中に研究面で功労のあった科学者に、イギリス帝国勲章を授与するためのリストを作る仕事をしていた。
つまり理系出身で、たくさんの理系の研究者たちに会い、インタビューしてきた人なわけね。そして、その後文筆家になって、文学関係者たちとたくさんの交流を持つようにもなった。
スノウはその経験から、文学関係者と理系研究者は、どちらも知的活動としては非常に質の高いことをやっているのに、互いに互いの事をゼンゼン知らなくて、理解さえしようとしていないことに気がついた。そこでこの問題を『二つの文化』と題して、エンカウンターという雑誌に1956年に発表したんだよね。
スノウは、非科学者は科学者の事を「人間の条件に気づかない浅薄な楽天主義者」だと信じているという。
一方、科学者は文学的知識人を「先見の明がなくて、自分たちの同胞に無関心で、深い意味で反知性的で、芸術や思想を実存哲学のきっかけだけに限ろうとしている」人間というふうに感じているという。
そして、こんな相互の誤解があるから、理系と文系という二つの文化の衝突から素晴らしいものが生れるということがないし、それが教育システム全般に悪影響を与えているということをいったわけだ。
うーん。これはまあ、当時のイギリス社会の様子を反映したもので、今の日本には必ずしも当てはまらないような気もする。理系と文系って、別に対立なんかしていないよね。
まあ、しかし、理系的なセンス、文系的なセンスというものは、何となくあるような気はする。もっともそれは、いわゆる大学カリキュラムの分類で言う理系・文系とは余り関係なくて、理系出身者なのに理系的センスを感じない人もいるし、文系出身でも理系的センスを感じる人も少なくない。
で、ぼくの個人的な感覚なんだけど、理系的センスの人と文系的センスの人とでは、知識の取扱いかたってのが違っているような気がするんだよね。
ぼくが理系的センスを感じる人の中には、幼い頃に、自分の記憶力に自信を持っていなかった人ってのがわりと多い。今現在、客観的に見ると、決して記憶力が悪いようにはみえないんだけど、本人の主観では記憶力が悪いと思い込んでいるんだよね。
そのためか、覚えるのは嫌いなんだけど、覚えるのを最小限にするための努力は惜しまないって感じになっている。
あは。実は、ぼくもそういう人間なわけだ。
ぼくは本当に記憶力に自信がなくて、幼い頃、この世でいちばん嫌なカードゲームは神経衰弱だった。あんなもの覚えられるわけないじゃないか、なんてね。
それから、これまでの人生で、最初に鮮烈な危機感を感じたのは、掛け算の九九を暗記するときだった。そういうことをしなきゃいけないと先生にいわれたとき、げろん、こんなたくさんのものを暗記するなんて不可能だよ~なんて、絶望的に思ったわけ。
そこでワタシも考えた。暗記することはすごく嫌でも、いろいろ考えたり、工夫するのは全く苦にならないしね。
九九でまず、非常にラッキーなことは、一の段は覚えなくていいってことだ。だからここはまず無視。
それから、残りもナナメ半分だけ覚えておけばいい。だから、結局、半分しか覚えなかった。
そのせいで、いまだに「しひち(四七)にじゅうはち」(ひちというのは、東京弁の「しち」のこと。えでっけはしとひの区別がつかないのだ)は、ぱっといえるけど、逆は駄目。「えーと、ひちし~」といいながら頭の中で「しひち」に変換してからやっと「にじゅうはち」になる。
そういえばぼくは右手はすぐわかるけど、左手は右手の反対としか覚えていなかった。
大人になってから、それだとちょっと不便な事があるなと思って、意識的に左手はこちらと覚え直して、今ではほとんど直感的に左もわかるようになっている。でも、複数の事を同時にやろうとしたり、咄嗟に左右の判断を求められる状況になると、今でも混乱しやすい事は変わらない。
これも右さえ覚えておけば、左はそれじゃない方だという、記憶の節約をやったからじゃないかと思う。そうしてみると、こういう傾向って、物心がつく前からあったみたいだな。
今の受験数学は暗記物なんだそうだけど、だとしたらぼくなんか絶対に数学を好きにはならなかったろう。ぼくが数学や物理を好きだったのは、暗記する量が少なくてすむからだった。だいたい公式を暗記するなんてことははなから無理とあきらめてて、それよりもっと簡単なところから公式を導くようなことばかりやっていた。まあ、そのうち公式レベルの事は覚えちゃうんだけどね。
こういうクセのせいで、ぼくの知識は大半が互いに有機的にむすびついていて、ある部分の情報が欠けていても、自分でそれが何かわかる事が多い。ある問題について概ね知っていれば、それ以上の知識を仕入れなくても、いろいろ解ってしまう部分ってあるんだよね。
それにその知識と相容れない、胡散臭いものってのもすぐにわかる。
理系的なセンスの持ち主の人と話していると、みんなそんな感じで、誰の話をきいても、その枠組みさえ判っちゃえばスンナリわかる事がほとんどだ。
一方、博覧強記といわれる文系の人の知識の収集のしかたっていうのは、どうも僕の目から見ると、首尾一貫していないような感じがする。
そんだけものを知っているのに、どうしてその知識とは整合性のとれない話まで信じこんでしまうのか、なんだか不思議に感じる事が少なくないんだよね。
ようするにオモシロイと思ったものを、どんどん手当たりしだいに集めちゃう感じがするんだなあ。
若い頃は、ぼくも、そういうキタナイ知識の集め方は好きになれないと感じていた。
でも、考えてみると、すんなり首尾一貫した知識の収集だけっていうのも、面白味に欠けるんだよね。
一部を見ただけで全体が判ったりするのはそれなりに便利なことだけど、それはある枠組みからはみ出せないって事だもの。
それよりも、ワケノワカンものがグワァっと混じっていたほうが、幻惑的で面白かったりするんだよなあ。
ところで、科学ニュースあらかるとの、 IQの得点は脳の構造を反映している
によると、IQの高い子供達は、脳の発達に独特のパターンがあるらしい。
それは、幼い頃は、記憶などの機能を制御する大脳皮質の厚さが、よりIQの低い子供達のグループよりも薄いのに、ローティーンの間に急速に厚みを増して19才までに全ての子供がほぼ等しい厚さの大脳皮質を持つようになるということ。
つうことは、IQの高い子供は、幼い頃は記憶が苦手で、19才頃にやっと他の人と同じ程度に追いつくって事じゃまいか。記憶力が弱いので、それを補うため法則やパターンを見抜く能力を発達させ、それがまさにそういった性質のパズルを解かせるIQテストを得意にさせるんではないか、とまあもっともらしい説明に過ぎませんけどね。
最終更新時間 2006年03月31日 23:52
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