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2006/03/31

理系と文系

 この世には、理系と文系って分け方がある。
 あれって、いったい何なんだろう。

 理系と文系が、異質の文化をもった人間集団だということをいいだしたのは、イギリスのC・P・スノウっていう、小説家であり評論家でもある人だった。

 この人は、もともとケンブリッジ大学の物理出身で、労働省に務めていた時に、第二次世界大戦中に研究面で功労のあった科学者に、イギリス帝国勲章を授与するためのリストを作る仕事をしていた。

 つまり理系出身で、たくさんの理系の研究者たちに会い、インタビューしてきた人なわけね。そして、その後文筆家になって、文学関係者たちとたくさんの交流を持つようにもなった。

 スノウはその経験から、文学関係者と理系研究者は、どちらも知的活動としては非常に質の高いことをやっているのに、互いに互いの事をゼンゼン知らなくて、理解さえしようとしていないことに気がついた。そこでこの問題を『二つの文化』と題して、エンカウンターという雑誌に1956年に発表したんだよね。

 スノウは、非科学者は科学者の事を「人間の条件に気づかない浅薄な楽天主義者」だと信じているという。

 一方、科学者は文学的知識人を「先見の明がなくて、自分たちの同胞に無関心で、深い意味で反知性的で、芸術や思想を実存哲学のきっかけだけに限ろうとしている」人間というふうに感じているという。

 そして、こんな相互の誤解があるから、理系と文系という二つの文化の衝突から素晴らしいものが生れるということがないし、それが教育システム全般に悪影響を与えているということをいったわけだ。

 うーん。これはまあ、当時のイギリス社会の様子を反映したもので、今の日本には必ずしも当てはまらないような気もする。理系と文系って、別に対立なんかしていないよね。

 まあ、しかし、理系的なセンス、文系的なセンスというものは、何となくあるような気はする。もっともそれは、いわゆる大学カリキュラムの分類で言う理系・文系とは余り関係なくて、理系出身者なのに理系的センスを感じない人もいるし、文系出身でも理系的センスを感じる人も少なくない。

 で、ぼくの個人的な感覚なんだけど、理系的センスの人と文系的センスの人とでは、知識の取扱いかたってのが違っているような気がするんだよね。

 ぼくが理系的センスを感じる人の中には、幼い頃に、自分の記憶力に自信を持っていなかった人ってのがわりと多い。今現在、客観的に見ると、決して記憶力が悪いようにはみえないんだけど、本人の主観では記憶力が悪いと思い込んでいるんだよね。

 そのためか、覚えるのは嫌いなんだけど、覚えるのを最小限にするための努力は惜しまないって感じになっている。

 あは。実は、ぼくもそういう人間なわけだ。

 ぼくは本当に記憶力に自信がなくて、幼い頃、この世でいちばん嫌なカードゲームは神経衰弱だった。あんなもの覚えられるわけないじゃないか、なんてね。

 それから、これまでの人生で、最初に鮮烈な危機感を感じたのは、掛け算の九九を暗記するときだった。そういうことをしなきゃいけないと先生にいわれたとき、げろん、こんなたくさんのものを暗記するなんて不可能だよ~なんて、絶望的に思ったわけ。

 そこでワタシも考えた。暗記することはすごく嫌でも、いろいろ考えたり、工夫するのは全く苦にならないしね。

 九九でまず、非常にラッキーなことは、一の段は覚えなくていいってことだ。だからここはまず無視。

 それから、残りもナナメ半分だけ覚えておけばいい。だから、結局、半分しか覚えなかった。
 そのせいで、いまだに「しひち(四七)にじゅうはち」(ひちというのは、東京弁の「しち」のこと。えでっけはしとひの区別がつかないのだ)は、ぱっといえるけど、逆は駄目。「えーと、ひちし~」といいながら頭の中で「しひち」に変換してからやっと「にじゅうはち」になる。

 そういえばぼくは右手はすぐわかるけど、左手は右手の反対としか覚えていなかった。

 大人になってから、それだとちょっと不便な事があるなと思って、意識的に左手はこちらと覚え直して、今ではほとんど直感的に左もわかるようになっている。でも、複数の事を同時にやろうとしたり、咄嗟に左右の判断を求められる状況になると、今でも混乱しやすい事は変わらない。

 これも右さえ覚えておけば、左はそれじゃない方だという、記憶の節約をやったからじゃないかと思う。そうしてみると、こういう傾向って、物心がつく前からあったみたいだな。

 今の受験数学は暗記物なんだそうだけど、だとしたらぼくなんか絶対に数学を好きにはならなかったろう。ぼくが数学や物理を好きだったのは、暗記する量が少なくてすむからだった。だいたい公式を暗記するなんてことははなから無理とあきらめてて、それよりもっと簡単なところから公式を導くようなことばかりやっていた。まあ、そのうち公式レベルの事は覚えちゃうんだけどね。

 こういうクセのせいで、ぼくの知識は大半が互いに有機的にむすびついていて、ある部分の情報が欠けていても、自分でそれが何かわかる事が多い。ある問題について概ね知っていれば、それ以上の知識を仕入れなくても、いろいろ解ってしまう部分ってあるんだよね。
 それにその知識と相容れない、胡散臭いものってのもすぐにわかる。

 理系的なセンスの持ち主の人と話していると、みんなそんな感じで、誰の話をきいても、その枠組みさえ判っちゃえばスンナリわかる事がほとんどだ。

 一方、博覧強記といわれる文系の人の知識の収集のしかたっていうのは、どうも僕の目から見ると、首尾一貫していないような感じがする。

 そんだけものを知っているのに、どうしてその知識とは整合性のとれない話まで信じこんでしまうのか、なんだか不思議に感じる事が少なくないんだよね。

 ようするにオモシロイと思ったものを、どんどん手当たりしだいに集めちゃう感じがするんだなあ。

 若い頃は、ぼくも、そういうキタナイ知識の集め方は好きになれないと感じていた。

 でも、考えてみると、すんなり首尾一貫した知識の収集だけっていうのも、面白味に欠けるんだよね。

 一部を見ただけで全体が判ったりするのはそれなりに便利なことだけど、それはある枠組みからはみ出せないって事だもの。
 
 それよりも、ワケノワカンものがグワァっと混じっていたほうが、幻惑的で面白かったりするんだよなあ。

 ところで、科学ニュースあらかるとの、 IQの得点は脳の構造を反映している
 によると、IQの高い子供達は、脳の発達に独特のパターンがあるらしい。

 それは、幼い頃は、記憶などの機能を制御する大脳皮質の厚さが、よりIQの低い子供達のグループよりも薄いのに、ローティーンの間に急速に厚みを増して19才までに全ての子供がほぼ等しい厚さの大脳皮質を持つようになるということ。

 つうことは、IQの高い子供は、幼い頃は記憶が苦手で、19才頃にやっと他の人と同じ程度に追いつくって事じゃまいか。記憶力が弱いので、それを補うため法則やパターンを見抜く能力を発達させ、それがまさにそういった性質のパズルを解かせるIQテストを得意にさせるんではないか、とまあもっともらしい説明に過ぎませんけどね。

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2006/03/01

奇遇だねえ(計算しましょ・その4)

 この世の中、全くありそうにない偶然の出来事に出会って、本当にびっくりさせられることがある。そういう経験をすると、なんか神秘的な力でも働いているんじゃないかと思ったりするよね。
 ひょっとして、これは運命の出会いなんじゃないか。それとも、奇跡か超能力かなって。

 でも、本当にそうなんだろうか。
 実は、滅多になさそうな出来事に思えるのに、よくよく考えてみると、案外そうでもなかったりするってことがある。

 ある集まり……学校のクラスメイトとか、クラブの部員とか、パーティのメンバー……とかががあったとしよう。まあ、人数は20数人以上といったところかな。

 そんな時、このグループの中に、誕生日が同じ人が混ざっている確率は、だいたいどれくらいのものだろうか。

 まあ、こりゃあ、あまり大きいわけがないよね。これまでの人生経験からして、誕生日が同じ人と出会うなんてことは、そう滅多にあることじゃなかったと思う。だから、その集まりの中に、誕生日が同じ人が二人以上いるとしたら、それはよっぽどの偶然のなせる技だろう。へえ、AさんとBさんは同じ誕生日なの!?そりゃあすごい奇遇だよねぇ。

 ……この話はわりと有名で、色々なところで紹介されているものだから、知っている人も多いかな。

 本当はこの現象、それほど珍しいことじゃないんだよね。

 と、いうよりも23人以上のグループなら、その中に同じ誕生日の人が一組は混ざっている確率の方が、全然いないケースよりも高くなる。

 ただ、こういわれても、なかなか納得はしにくいよね。そこでちょっと詳しくみてみよう。

 もちろん、誰かと出会った時に、その人と自分の誕生日が同じである確率は、一年が365日だから、365分の1=0.27パーセントにすぎない。

 ところが、そのグループの中には自分と誰か以外にも、他の人どうしで同じ誕生日になる可能性もある。そういう組合わせの数は、集まっている人の数をm人だとすると、m人の中から2人を選びだす組合わせの数

mC2 =m × (m-1)/(2×1)

 になるわけだ。
 だから例えば、グループのメンバーが全部で40人だとすると、この組合わせの数は(40×39)÷(2×1)で、780通りになる。

 これだけたくさんの組み合わせかたがあるんだから、その中に同じ誕生日の人が一組くらい混ざっていても不思議じゃないって感じがしないかな。
 え、まだ、納得できない?

 それじゃあ、実際に誕生日が同じ人がいる確率はどれくらいか、正確に計算してみることにしよう。

 あるグループの中に、誕生日が同じ日の人がいる確率を正確に求めるには、そういう人が全然いない場合の確率を求めて、それを全事象1から引くという方法で求められる。

 何故こういうやり方をするかというと、同じ誕生日の人が3人以上いるケースもあるからだ。つまり、3人が同じ場合の確率、4人が同じ場合の確率、というふうに足しあわせていくのは面倒くさいから、全然一致しない確率を求めて1から引くわけね。

 それじゃあ、集まりの中に誰一人同じ誕生日の人がいない確率は、どうやって求めたらいいのだろうか。

 話を簡単にするために、1から365までの数字が書かれたルーレットがあるとしよう。
 ここで、Aさんの誕生日にあたるルーレットのマス目を、赤く塗り潰しておく。たとえば、Aさんが1月1日生まれだったら、1のマス目を塗るわけね。そして、Bと書いたボールを放り込んでくるくるッと回してやる。

 この時、Bのボールが赤いマス目に入る確率は、当然365分の1だよね。これはつまり、AさんとBさんの誕生日が一致している確率ってことになる。 と、いうことは、この二人の誕生日が一致しない確率は364/365だ。

 で、まあBのボールが、Aさんの誕生日を表す赤いマス目以外のところに入ったとしよう。それは、Bさんの誕生日にあたるマス目で、今度はそのマス目も赤く塗り潰す。
 次に、Cと書いたボールをこのルーレットに放り込んで、このボールが赤いマス目に入らない確率を求める。

 これも簡単で、363/365だよね。これはCさんの誕生日が、AさんともBさんとも一致していない確率だ。

 以下、これを集まりの人の数だけ繰り返す。すると、その集まりで誰一人同じ誕生日の人がいない確率は、それを全部かけたものになるはずだ。
 式で書くと、

 364/365 × 363/365 × 362/365 ×  ……

 そして、この値を1から引けば、そのグループの中で誕生日が同じ人がいる確率が出るっていうわけ。

 その値は、さっきと同じ40人のグループだと、ほぼ90パーセントになる。つまり、これくらいの人数のグループなら、誕生日が同じ人が一組もいないほうが不思議なわけだ。

 また、この確率は、グループの人数が23人のところで0.504……となって、二分の一より少し大きくなる。

 つまり、23人のグループがあったら、50パーセントの確率で、その中には同じ誕生日の人がいるってわけだ。

 もう一つ、良く知られた奇遇話がある。

 初対面の人と話していて、その人の間に共通の知人がいたりすると、たいていはびっくりするよね。

 たとえば東京から北海道へ旅行に出かけて、旅先で知り合った人と、どういうわけか意気投合して話が盛り上がっちゃったとしよう。

 その人が九州出身だとわかって、「そういえば、私の高校の時のクラスメイトの各務原牛子さんってのが、今は九州へ嫁いでいったと聞いたけど、彼女は元気にしているかなあ」とかなんとかふとつぶやいたと思いねえ。
 するとその人、「名古屋出身の、旧姓各務原さんとといえば、そりゃああなた、私の妻の大の親友ですよ」
 どしぇえ。これはスゴイ。なんて奇遇なんだ。世間ってのは狭いよねえ。

 こんなことがあれば、誰だってそう思うんじゃないかな。
 でも、これって案外そうでもなかったりする。

 初対面の人が、知りあいの知りあいの知りあいである確率というのは、実は想像以上に高いんだよね。

 まず、お互いに相手と初対面の二人、甲さんと乙さんが、共通の知りあいを持っている確率は、いったいどれくらいになるか計算してみよう。

 この計算をするには、最初に、普通の人はどれくらいの数の知りあいがいるかを仮定しないといけない。

 これは、とりあえず1000人としよう。
 こういうと、たいていの人は、自分はそんなにたくさん知りあいはいないよって思うかもしれない。でも、この1000人はしょっちゅう会っている人じゃなくて、これまで生きてきた中で、ほんの少し知っている程度の人、たとえば小学校の同級生で名前はかろうじて覚えているけど喋った記憶もないような人でもいい。だとすると、この数は決して多くはないんじゃないだろうか。

 と、いうわけで、1億人の日本の人口の中に、甲さんの知りあいが1000人、乙さんの知りあいが1000人いると仮定しよう。

 この、二組の1000人のうち、一人でも重なっていれば、甲さんと乙さんは共通の友人を持つことになる。もちろん、二人重なっていても、三人重なっていても良いんだけどね。そうなる確率っていったいどれくらいだろうか。

 この問題を考えるために、ちょっとしたモデルを想定する。つまり、一億個のボールが入った大きな箱を考えるわけ。そして、その中のほとんどすべてのボール白なんだけど、1000個だけ赤い色のボールが混ざっているとする。この赤いボールは、甲さんの友達を表している。そしてもちろん、残りの9999万9千個は白玉のわけだ。

 このとき、甲さんの1000人の知人の中に、乙さんの知人がいる確率は、乙さんが1000回箱の中に手を突っ込んでボールを取り出した時、その中に赤い色のボールが1個でも混じっている時の確率と同じになるはずだ。

 この確率はどうやって求めるのかというと、乙さんが取り出す玉がすべて白かった時の確率を、全事象1から引けばいい。ようするに、乙さんが甲さんの友達を一人も知らない確率を、1から引くわけね。

 1000個の赤いボールを含んだ一億個のボールの入った箱から、乙が玉を一つ取り出した時、それが白いボールである確率は、

99,999,000
--------------- =0.99999
100,000,000

 になる。

 そして、乙さんは1000回ボールを取り出すわけだから、これを1000乗したものが、取り出したボールがすべてが白である確率になる。

 0.99999の1000乗≒ 0.990

 つまり、99パーセントの確率で、乙さんは甲さんの知りあいを一人も知らないってことになるわけだ。

 これは、乙さんが甲さんの知りあいを、一人でも知っている確率が、1パーセントしかないということだ。

 これはつまり、初対面の人が100 人いとしたら、そのうち共通の知人を持っているのは1人くらいということだ。言葉を変えると、たまたま出会った相手が、友達の友達というケースは、100回に一回しかない。

 こりゃあかなり希な話で、本当に奇遇だねってことになる。

 じゃあ、もう少し範囲を広げて、初対面の人が、自分の知りあいの知りあいの、これまた知りあいって場合はどうだろうか。
 これは、いちばん最初にあげた例と同じケースだから、それほど遠い知りあいって感じはしないよね。

 これを計算するには、さっきと同じように、箱の中に1000個の赤いボールと、9999万9000個の白いボールが入っているとする。

 これも、さっきと同じ甲さんの1000人の知りあいを表すわけね。

 そして今度の場合は、この箱の中から、乙さんの1000人の知りあいが、それぞれ1000回づつボールを取り出していくと考える。

 まず、乙さんの最初の知りあい乙壱さんが1000個のボールを取り出す。このとき、乙壱さんが取り出したボールが全て白である確率、つまり甲さんの知りあいを一人も知らない確率は、さっきの計算と同じで0.99になる。

 以下、乙弐さん、乙参さんとボールを取っていって、乙千さんまで同じことをするわけだけど、このときの確率はすべて同じ0.99になる。

 だから、乙さんの1000人の知人が1000個づつ白いボールを取る確率は、つまり乙さんの知人の1000人全てが甲さんの知人1000人のうちの一人も知らない確率は、0.99の1000乗で、およそ0.000043になる。

 これが甲さんと乙さんの知りあいの間に知りあい関係が全く存在しない確率だから、一人でも知りあい関係がある確率は、これを全事象1から引けば良い。つまり、

 1 - 0.000043 = 0.999957

 というわけで、なんと99.99パーセントの確率で、そういう知人関係があるってことになる。

 この計算は、一人当たりの知人の数を300人とかなり少なめに見積もっても、初対面の人が知りあいの知りあいの知りあいである確率は23.7パーセントもある。

 つまり、4回に一回くらいはそういう事があるわけだ、そういう意味じゃ本当に世間は狭いんだよね。

 でも、この計算結果からすると、世間というのは、もう、とてつもなく狭いもので、あう人あう人すべてが何等かの関係がなければ不思議だってことになる。でも、いくら何でもそんな事はあり得ない。

 アメリカの社会心理学者スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)は、カンザス州とネブラスカ州の住人の中から無作為に抽出した300人に手紙を渡して、直接面識のないマサチューセッツ州ボストンの受取人まで届けるよう依頼するという実験を行った。
 このとき、受取人の正確な住所は教えず、郵便ではなく親しい知人経由で転送するように頼んで、何人の仲介者が必要かを調べたんだよね。

 その結果は、1967年に『The small world problem』という論文によって発表されたんだけど、それによると6人の知人の連鎖を介せば、世界中のどんな人にもたどり着けると結論付けられている。これは6次の隔たり(Six Degrees of Separation )と呼ばれる現象だ。

 6次の隔たりというのは、上でした計算よりも遠いけど、まあ基本的には同じことを意味しているといっていい。

 この研究は、社会学や数学の分野でいろいろ再検討されたんだけど、まあ、何となくビミョーって感じだったようだ。実際、この実験のデータを再検討した人がいて、実際に目当ての受取人に届いたのは29%にすぎず、その中には6人よりも多くの仲介者が存在したケースもあったことが判明している。

 ところが、1996年にコーネル大学のダンカン・ワッツによって、このスモール・ワールド問題が再び大きくクローズアップされるようになった。

 ダンカン・ワッツは、コオロギの鳴き声が伝達していくパターンを研究していて、それと映画俳優の共演者ネットワークや、送電線網、線虫の神経網など、さまざまなネットワークにおいて共通する性質があることを見いだした。そして、これがスモール・ワールドだと指摘したんだよね。

 スモールワールドの特徴は3つある。

 たとえば一人の人をノード、人と人との繋がりをリンクと呼ぶとすると、

 1.全リンク数が、全ノード数の数倍程度しかない。
   つまり、ネットワークはスカスカになっている。

 2。それなのに、任意の2つのノードは、全ノード数に比べて極端に少ない回数、リンクをたどるだけでつながれる。つまりノード間距離が短い。

 3.高度にクラスター化している。

 人がN人いるとき、全ての人が1対1で知り合うためには、N(N-1)/2通りのリンクが必要になる。でも、実際には、一人の人が全ての人と知りあいと言う事はあり得なくて、その集団の一部の人とだけ知りあいになっている。もちろん、知りあいが凄く多い人もいれば、ごく少ない人もいるけど、その「関係=リンク」の全ての数を足しあわせても、集団のメンバー数の数倍程度しかないというのが、上の1の意味だ。

 また、AさんとBさんが直接知り合いの時、ノード間距離を1とし、AさんとBさんが知りあい、BさんとCさんが知り合いで、AさんとCさんは知り合いでない時、AさんとCさんのノード間距離は2というふうに数えるとしよう。このノード間距離の数が、集団のメンバーの数に比べて極端に少ないというのが2の意味だ。
 たとえばインターネット上には、10億以上のウエッブ・ページ(ノード)があるけど、ハイパーリンクを20回ほどたどるだけで、そのほとんど全てにたどりつける事が解っている。つまり、10億のノードに対して、20しかリンクを必要としない。

 そして3は、たとえば知人ネットワークでは、自分の友人2人がいると、その友人どうしも友人であることが多いということだ。つまり、あるノードにリンクしているノード同士の大半が、リンクし合っているという性質で、これをネットワークはクラスター化しているという。

 これらの性質は、およそネットワークと考える物のほとんど全てに見いだせることがわかってきている。たとえば、2003年に流行したSARSが、これほど急速に世界中に広まった原因はスモールワールドにあるとか。

 スモールワールドは、3の性質のように、リンクを非常にたくさん持つ少数のノードと、リンクの数が少ない多数のノードで成り立っている。人間関係のネットワークでも、メチャクチャ顔の広い人と、知り合いの少ない人がいるけど、それと同じってわけだ。

 ソーシャル・ネットワーク・サービスの最大手mixiで、そのネットワーク構造を視角化してくれるmixiGraphというソフトがあるんだけど、これでネットワークの構造を眺めると、確かに対人関係のネットワークがクラスタ化している事がよくわかる。

 また、インターネットもクラスタ化している事が解っているんだけど、これはちょっとした問題にもなっている。インターネットはそもそも、中央制御されるものを作らない事で、核戦争などが起きても、通信は何らかの形で確保できる事を狙って作られた物だ。つまり、ある経路が壊されても、別の道をたどることで情報を伝達できるわけね。
 ところが、インターネットのノードも極度にクラスタ化しているので、そういう場所を狙って破壊すると、比較的簡単にネットを機能できなくすることが可能かも知れないといわれている。

 それとこれはぼくの直感だけど、神経回路網がスモールワールドだとすると、神経回路と同じ性質を持った回路網をLSI上に実現するのは、それほど難しい事ではないのかも知れないという感じがする。トランジスタ同士を、N(N-1)/2通りの配線で結ぶのはNの数が多いと実現不可能だけど、スモールワールドで十分なら、そんな配線はいらないもんね。

 なんか話がずれちゃいましたけど、上の奇遇な出会いの確率計算ではもっと頻繁にあって良いはずの出会いが稀なのは、こういうネットワーク構造にも原因があるのかも知れない。

 それともう一つ重要なのは、ようするに総ての人は、知人についてそれほど詳しくはないからと言う事があるんじゃないかと思う。

 たとえば、ある人に1000人の知人がいるとしよう。それは良いんだけど、しかしその1000人の知人について、その人がどれくらい詳しいかというと、ほとんどの人はそれほど詳しくはないと思うんだよね。とくに、その1000人の知人がそれぞれ持っている1000人の知人について、すべて熟知している人なんて絶対にいないでしょ。

 でも、これを知っていないと、初対面に出会った人どうしで、確実にお互いの関係をたどる事なんてできないんだよね。

 つまり、友達の友達は友達の友達だということは、計算の上ではほとんど確実なんだけど、それがどういう関係なのか明らかにできるのは、神様かなにか、すべての人の関係を知っているものでないと無理なんだよね。

 そういう意味では、こういう出会いは、出会い自体が奇跡なんじゃなくて、お互いの関係を探し当てる事ができたということが、奇跡ということがいえる。

 つまり、人と人との出会いは決して奇跡じゃないけど、そこに何か意味を見つけていく事こそが、奇跡だってことなんじゃないかな。

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科学は迷信を覆せるのだろうか(計算しましょ・その3)

 いわゆる非科学的なモロモロのできごとについて、今の人は以前より、ずいぶん信じやすくなっているらしい。ようするに、心霊現象とか、超能力とか、UFOなんて類のことを、そういうことはあっても不思議はないなあとか、あるに違いないよと思う人の割合が、昔よりも増えているってわけだ。

 社会がこういうふうになってくると、怪しげな宗教なんかに惑わされる人が増えて、たいへんよろしくない。そこで、正しい科学教育をしなくちゃって話になったりするわけだけど……しかし、まあ、どうなんでしょうかね。

 オカルト話を信じる人が増えているというのは、まあそうなのかなあ。
 確かに、テレビとかでは、そういう話を結構やっているもんね。
 ただ、それと迷信に惑わされるかどうかとは、あまり関係はないような気もするんだなあ。

 実際、そういうオカルト系番組は、どう見てもそりゃあこじつけでしょとか思わせるものがたくさんあるし、だから番組内容も半分くらいはお笑いのノリがある。この手の番組がたくさんあっても、それが原因で超常現象をシリアスに信じてしまう人が続出するとは、あまり思えないんだよね。

 ようするに、まともな神経の持ち主なら、そういうアヤシゲな話題とだって、上手につきあっていると思う。

 だいたい人間というのは、迷信とかジンクスといったものをごく自然に信じるもので、それ自体は少しも悪いことではない。

 たとえば、子供の頃なんか、横断歩道の白いところだけ踏んで歩くと良いことがあるとか、自分でなにかルールを決めてやったりしたよね。
 あるいはスポーツ選手なんかも、調子の良かった時にたまたましていた何かを、次の時もゲンをかついでやったりするという話をよく聞く。

 こういうことをやっている時は、そんなことは本当はないよなあとかうすうす思いながらも、でもちょっと本当かもとか思っていて、どこかゴッコ遊びっぽい感覚がある。そして、こういうジンクス遊びって、退屈な時間を紛らわせたり、なにかの不安を取り除いたりして、たぶん心の平安を保つのに、ある程度プラスに働いているんだろう。

 もちろん、これが極端になりすぎて、絶対に白いところを踏まないと、一歩も前に進めないとかになっちゃうと、そいつはちょっと問題かもしれない。そういうふうになっちゃう人は、たぶん医学の助けが必要だろうね。

 オカルトを信じ込んで、被害を被るところまでいっちゃう人というのは、科学知識が足りないんじゃなくて、これに近い、極端なケースのような気がする。

 だいたい、迷信を信じるか信じないか、冷静な冴えた考え方ができるかどうかというのは、正しい科学的知識を持っていることとは、あまり関係がないと思う。

 実際、今に比べると科学的知識なんてほとんどないに等しい江戸時代でも、占いとか魑魅魍魎といった迷信を信じるのはアホンダラじゃあ、もっと現実を見つめなさいといったようなことを書いている人がいたりするくらいだ。君子は怪力乱神を語らずっつーわけね。

 だから迷信にのめりこんで、身を持ち崩すとこまでいってしまうのは、その人に何か、そうしないといけなくなるような、別の動機があるんじゃないかと思う。

 たとえば宗教に填まって、受験に成功するために毎日8時間以上もお祈りしちゃう人がいたとしよう。8時間仏壇の前で念仏を唱えるだけの根性があるなら、その時間だけ勉強した方が絶対受験に受かる確率は高いと思うんだけど、そういう人は、どう説得しても絶対に耳を貸さない。

 何故かというと、その人がそうしないのは、なにかの事情があって、本当は勉強するのだけは嫌なのか、あるいは受験そのものが嫌だからだ。

 それだけ長時間お祈りすると、結果として何が起きるのか。
 それは、ようするに勉強する時間がなくなるってことだ。
 そうだとしたら、この人は勉強はしたくないんだけど、したくないとはいわずに、勉強をしないことの言い訳としてお祈りをしていると解釈できる。

 もちろん、それを意識的にやっているわけじゃないし、それをダイレクトに指摘したからといって念仏が収まりはしないだろうけど、結局はそういうことなんだよね。だから、そういう人は何かの理由で勉強をする必要がなくなれば、仏壇を拝むのもやめてしまうかもしれない。

 ようするにあれだ。小さい頃なんか、学校や幼稚園に行きたくないと、本当にお腹が痛くなっちゃったりするでしょ。でも、行かなくて良いことになると、突然元気になったりする。

 仮病じゃなくて本当に病気っぽいんだけど、その症状は行きたくないという目的を達成するために、作り出されていただけなんだよね。それと同じで、だから、こういうふうに迷信に填まる人は、いくら拝んでも無駄という科学的な知識を与えても、改まることはないだろう。


 でも、それはそれとして、超常現象というのは本当に無いものなのかというと、それは微妙なんだよね。

 超能力とかあるといいよなあって気持ちは、ぼくも昔から持っていて、思春期のころには、なんとはなしにそんなことを試してみたりしたことはある。

 たとえば日曜日とかの、ゆっくり遅くまで寝ていられる時なんか、ベッドに寝っ転がって、蛍光燈からぶら下がっているスイッチの紐を見ながら、あれがちょっと動かないかなあとか思ったりね。

 もちろん、いくらやっても動かないんで、ちょっと息を吹きかけてみたりして。で、これはすごく弱くやっただけだから、息のせいで動いたんじゃないんだとか思ったりして。

 まあ、これもごっこ遊びみたいなもので、それほど本気で信じていたわけじゃない。

 ただ、そういう過去があるから、念力というのもあってもいいかもしれないというくらいには思えたりはする。でも、それが今の物理法則と矛盾するってことになると、ちょっと信じ難いんだよね。

 今の物理学は、ものすごく完成度が高いので、これが基本的なところで間違っている可能性は無い。

 今、世の中にあるすべての機械や道具類は、極端にいえば物理法則に基づいて設計されている。だから、物理法則が間違っているなら、この世にあるすべての機械がまともに動くわけがない。

 たとえばもし仮に量子論が間違っていれば、トランジスタの動作は予測できず、パソコンなんか作れないわけで、こうしてネットで文章を読む事も不可能なわけだ。いくらなんでも、そりゃあないよね。

 だから、既知の物理法則と矛盾する超常現象というのは、説得力がない。たとえば、念力があるとしても、既知の物理法則と矛盾するとは思えないんだよね。

 そこで、ちょっと既知の物理法則と矛盾しない形で念力を考えてみよう。
 念力とは、ようするに手などの目に見える物理的な方法にたよらずに、念の力で物を動かしたりする能力のわけね。
 それで念力の発生源は、たぶん脳だとされている。

 まあ、念力の正体が判明していない段階では、本当はこう思うこと自体全く根拠はないんだけど、たいていの人は念力って脳から出ていると思っているんじゃないかな。

 少なくとも、念力の発生源は筋肉なので、筋トレをすると念力が強くなるとか、肝臓が発生源なのでお酒を飲みすぎると念力の調子も悪くなる、なんていう話は聞かないもんね。

 ただし、ドラゴンボールは例外ね。ドラゴンボールは、体を鍛えると超能力が身に付くという、それまでの念力概念を決定的に覆した作品だった。

 そこでだ。仮に、脳から何か目に見えない未知の力が放射されて、その作用で物体が動くのだとしよう。

 これはまあ、そういうことが絶対にないとはいいきれない。

 ただここで、絶対に無視することのできない物理法則がひとつある。それは、作用反作用の法則ってやつだ。

 これは物理学の基本中の基本の一つだから、これが間違っていると考えることは不可能だ。もしこれが間違っているとすると、ぼくたちは歩くことも物を持つ事もできない。つまり、ぼくたちの日常の行動の全てが、この法則をくり返し証明しているんだよね。

 で、その作用反作用の法則とは、物体にある力を加えると、それと同じだけの力が返ってくるというものだ。

 そうすると、たとえば重さが1グラムのものを持ち上げると、脳ミソには1グラムの重さがかかるわけだし、50キロのものを持てば、50キロがかかることになる。

 ところが、脳ミソというのは、まあ固めの豆腐みたいな柔らかな組織で、骨による支えもない。ここに何十キロもの重さが加わったら、脳はたちまち潰れちゃうだろう。つまり、念力というのは仮にあったとしても、たいした力は出せないってことだ。

 まあ、念力のしくみはわからないので、ひょっとすると滑車とか梃子のようなものが超越空間内にあって、それで脳に直接的に加わる力は少なくなると言うような事もあるかも知れない。でもその場合は、重いものを持ち上げるのには、とても長い時間が必要になると言う事になるんじゃないかな。

 結局、念力は仮にあっても、せいぜい脳ミソが潰れないくらいに、軽いものをゆっくり動かすことしかできないってことになる。

 ただし、念力は、脳の表面から放射されると考えて、だから反作用の力は表面に分散されるとすると、けっこう重いものでも持てるかもしれない。

 つまり、脳のしわが多ければ多いほど、重いものを持ち上げられるのかもしれないわけね。

 ……と、いうのはもちろんヨタ話で、そんなわけでぼくは念力というものの存在を、あまり信用していないわけだ。

 でも、超感覚知覚についてはどうだろう。たとえば予知とか、第六感というのは、念力の場合ほどわかりやすい物理の基本法則によって禁止されてはいない。だから、多少はあるかもって可能性は捨てきれない。

 ただ、世間に流布される予言者の言葉とか、ノストラダムスの大予言とかは、メチャクチャ曖昧で何とでも解釈できたり、ありとあらゆることをいっておいて、事件が起きてから、外れていることは無視して当たったことだけ宣伝する類が多いので、あんまり信じる気にはなれないんだよね。そういえば昔、ノストラダムスの予言の中には、ガンダムの世界で起きた全ての事件が予言されていたとする解説本があったなあ。

 ただ、そういう商売がらみじゃないところでも、予知というのは本当に起きていたりする。

 たとえば、ある夜に誰かのとても気がかりな夢をみて、目覚めたその日にその人が亡くなった、なんてことが起きたとしたらどうだろう?きっと、その人が最後に挨拶にきたんだとか、自分には霊感があるんじゃないかとか思うんじゃないだろうか。

 こういう予知夢というか、虫の知らせの話は、けっこうあちこちで耳にする。

 実際、知りあいを数人たどれば、そういう夢を見たことがある人の一人や二人は、まず見つかるんじゃないかな。

 肉親や親友が、最後に夢枕にたって挨拶していったとい経験の持ち主は本当にいて、彼らにはそれが大切な思い出だったりする。そういう人たちは、なにも予知夢を見たといって自慢したいわけじゃないし、それでお金儲けをしようとしているわけでもない。

 ぼくは、そういう人の神秘体験に対して、第三者が単なる気の迷いと決めつけるのは失礼な話だと思う。でも、それじゃあ、そういうオカルトが本当にあると思っているのかというと、これはちょっと微妙なところなんだよね。

 なぜなら、オカルトというものを持ち出してこなくても、そういう予知夢を見ることは、ゼンゼン不思議じゃないからだ。

 これは計算してみれば、すぐに確かめることができることだ。

 そこで、ある人の夢を一生の間に一度だけ見て、しかもその夢を見た日にその人が死んでしまう確率を、ちょっと計算してみよう。

 これを計算するには、まず3つの仮定を前提条件として置がないといといけない。
 まず、第一の仮定は、夢をみる可能性のある人は、だいたい何人くらいいるかってことだ。

 これは、親戚や友人知人など全部ひっくるめて、少なくとも100人くらいはいるよね。
 本当は、テレビのタレントとか、縁の遠い人まで含めちゃうと、もっとうんと数が多くなるとは思うけど、ここはかなり少なめに見積もってこの程度としておこう。

 第二に、その人の夢を、これから50年の間に、一度だけ見ると仮定する。
 これももちろん、何度も見るかもしれないんだけど、このほうが計算が簡単になるので、あえてかなり少なく見積もっておく。

 そして第三に、その知りあいが、これから50年以内に亡くなる確率を4分の1だと仮定する。つまり、知人のうちの4分の1の人が、50年後には死んでしまっているってことだ。

 これはまあ、ちょっと微妙な仮定かもしれない。ただ、思っている人の齢が今20代以上なら、これは決して、無理のある仮定じゃないと思う。

 さて、この3つの仮定から、予知夢をみる確率を計算してみよう。

 まず知りあいの中の誰か特定の人の夢を、今後50年間の特定の日、例えば今晩見る確率を計算してみよう

 これは夜の数が、一年が365日で50年間だから、(365×50)分の1=18250分の1だ。

 次に、その人が今晩亡くなる確率は、三番目の仮定から、18250分の1×4分の1=73000分の1になる。

 だから、その人の夢を今晩見て、その人が亡くなる確率は、この二つをかけたもので、18250分の1×73000分の1=1,332,250,000分の1になる。

 こりゃあ、確率としてはメチャクチャ小さいよね。とうてい予知夢を偶然に見るなんて事、ありそうにない感じ。

 ただし、仮定1から、知りあいの数は100人いるわけだから、自分の知っている誰か一人が偶然夢を見た日に死んじゃう確率は、この100倍で、13,322,500分の1になる。まあ、100倍したところで、たいして変わりませんけど。

 でも、こんな予知夢を見る可能性がある夜が、今後50年間、毎晩やってくる。

 それで、今後50年間のどれかの夜に予知夢を見る確率を計算してみると、50年間は18580日だから、その答えは0.0014になる。

 つまり、自分が今後50年間の間に予知夢をみる確率は0.14パーセントくらいはあるってことだ。

 これは、思ったほど小さくはないんじゃないかな。もちろん、やっぱり滅多なことじゃ、予知夢は見られないことは、間違いないんだけどね。

 ところで、さっきの13,322,500分の1という数字は、自分が今晩予知夢をみる確率のわけだ。それじゃあ、日本中の人たちすべてを考えると、その中には何人か予知夢を見ている人がいるかもしれない。

 日本の人口は1億3千万人くらいだけど、このうち予知夢を見たぞっていえる年齢の人は、たぶん8000万人くらいはいるだろう。すると、

 13,322,500分の1×8000万=6 になる。

 つまり、毎日日本のどこかで、予知夢を見ている人は6人くらいはいるってわけ。

 これが一年だと、その365倍で2190人もの人が、予知夢を見ている計算になる。

 つまり、日本全国ということで考えれば、予知夢は決して珍しい不思議な現象ではなくて、わりとポピュラーなできごとの一つなんだよね。

 予知というと、なんだか物凄く神秘的で、超常の力でも働かなければ起きないような気が何となくするわけだけど、実際にこういうふうに計算してみると、そうでもないことがわかる。

 ただ、だからといって、親しい人が亡くなった時にその人が夢枕に立ったという思い出を持っている人に、それは確率の問題で神秘的な話じゃないんだよっていうかというと、そんなアホなことは、ぼくはしない。そういうのって、科学的でもなんでもない、単なる嫌がらせだもんね。

 夢枕に大事な人が立ったというのは、その人にとっての心の真実だし、それが良い思い出になっているのなら、それを尊重するのが当然だと思う。金の卵をうむ雌鳥は、解剖しちゃっちゃいけないわけだな。

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6匹のサル

 ダーウィンの番犬と呼ばれた、イギリスの生物学者トマス・ハックスレイだったか、その孫で『すばらしい新世界』を書いた小説家のオルダス・ハックスレイのどちらかだと思うんだけど、

「もし、6匹の猿がタイプライターに向かい、何百万年も何千万年も、でたらめにキーを打ちづづけたとすると、ついには大英博物館の全ての書物を書いてしまうことになるであろう」

 てなことをいったそうだ。(どちらか知っている人がいたら教えてください。なんとなくオルダスが言いそうな言葉なんだけど、昔書いたメモではトマスが言った言葉になっていて良くわからんのだ)

 なるほどねえ、そういうこともあるのかねえ、なんて何となく思っちゃうわけだけど、本当のところはどうなんだろうか。

 そこで、おサルさんがパソコンに向かってランダムにタイプするとどうなるか、実際のところを考えてみよう。

 まず、平均的な文字数を持つ書物としてハムレットを考えると、これにはおよそ10万文字が含まれているんだそうだ。

 この情報量は、1文字が8ビットだから、80万ビット=100キロバイトになる。

 それから、おサルさんの叩くキーボードのキーの種類を、とりあえず256種と仮定しよう。まあ、本当はもっと少ないとは思うけど、とりあえずこれくらいと言う事で。

 そんでまあ、おサルさんがパソコンのキーボードのキーを一回たたくと、それは256種類の記号のうち一つを選択することになる。つまり1つの記号は256分の1の確率で選ばれているわけだ。

 だから、全くランダムにキーを打った場合に、ハムレットという小説が書かれる確率は、
256分の1の10万乗を計算すれば良くて、これは10の-240824乗になる。

 まあ、とにかくとてつもなく小さな確率だということはわかるけど、なんだかピンと来ないよね。

 そこで、とりあえず、世界人口より多い100億匹(10の10乗匹)のおサルさんがたにに協力してもらって、この作業にとりかかってもらうことにしよう。

 このおサルさんたちは、みんなかなりのタイプの達人で、1秒間に10文字のペースでタイプできる。

 そいでもって、宇宙が始まってから現在までの間を少し多めに見積もって、ざっと10の18乗秒の間、不眠不休でこの作業に取り組んでいただく。

 これだけ一生懸命やれば、きっとハムレットの一冊や二冊は書けているに違いない。

 で、この計算は、10 × 10の18乗 × 10の10乗 = 10の29乗になる。


 つまり、おサルさんたちの全仕事量は、10の29乗字というわけ。
 これはかなり膨大な数で、ハムレット並みの長さの本ならば、10の24乗冊分にあたるわけだ。

 ところで、アメリカの国会図書館には、15×10の6乗冊の本があるそうだ。

 つまりこのサル文学は、その10の17乗倍もあることになる。

 もし、これだけのサル文学の本を図書館にしまっておくとすると、アメリカ国会図書館なみの図書館を、全世界の10億の地域に、それぞれ1億件づつ建設する必要がある。

 それで、これがハムレットになっているかどうかの確率はどうだろう。

 その計算は、10の29乗に、10の24万乗分の1をかけてやればいい。
 つまり、23万9971乗分の1ってわけ。あうー。

 あの、おサルさんたちの血の滲むような苦労や、莫大な数の図書館の建設は、いったいなんだったのでありましょうか。全く無意味な行為だったのでありましょうか。

 いやいや、なにもハムレットにこだわることはないじゃないの。こんだけやったんだから、ひょとすると、偶然、別の作品と同じになっちゃっているかも知れない。膨大なサル文学の中には、他ならぬ、いまここで書いている文章と全く同じものができていたって不思議はない。

 そう、そうかもしれないね。じゃあ、人類がこれまで描いた書物の種類を、まああてずっぽだけどざっと100兆冊、つまり10の14乗冊くらいとしてみようか。
 これは、年間100億冊のペースで1万年分だ。

 そこで、全サル文学が、全人間文学のうちのどれか1冊とでも一致している確率を計算してみよう。するとそれは、……23万9957乗分の1ってことになる。orz

 まあ、ようするにランダムに文字をうつだけでは、意味があるものを作るのは不可能だってことなのだ。

 それなのに、たいていの人は、非常に高い確率で、まともに読むことのできる文章を書くことができる。それは文字、文法、分脈、意味、作者の感性、その他の、低レベルから高レベルまでの様々なルールによって、確率がどんどん絞られていくからなんだろう。

 一つの文章が産み出される事っていうのは、まさに奇跡といって良いんじゃないかな。


 ちなみに6匹のサルのネタもとを探してネットを漁っていたら、この話は『キッテル熱物理学』の4章の演習問題に出てくるという情報を目にした。うおー、キッテル熱物理学と言えば、大学生の頃好きだった教科書の一冊で、今も取ってあるのだ。で、早速書庫を探してみてみたところ、キッテル本ではキーボードのキーの種類は44としてあった。まあ、だからといって結論に大差はないんだけどね。
 また、これと似たテーマで、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』も面白いとか書いてあったりする。うーん、すっかり忘れていたけど、この本からは色々影響を受けていたんだなあ。
 ただ、ネタもとはハックスレイとしか書かれていませんでした。(T_T)

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折り紙と肉宇宙(計算しましょ・その1)

 うおー、2月は28日までしかなかったのだった。(´・ω・`)
 3月に入ってしまいましたが、以下4本の投稿は2月分ということでおながいします……。


 ぼくが大学1年か2年の頃、科学ライターの金子隆一さんに、ちょっと面白い話を教えてもらったんだよね。それは、「1枚の原稿用紙をどんどん折りたたんでいって、100 回折ったら、どれくらいの厚さになるか」っていうクイズだ。ちなみに、この紙は3回折ると、ちょうど1ミリになるとする。

 さて、いったいどれくらいになるのだろう?……たぶん、たいていの人は、その大きさは全く見当がつかないんじゃないだろうか。まあ、こういう質問をするからには、結構大きくなるだろうという予想はできるかもしれないけどね。

 そこで、100メートルくらいとか、1キロくらいとか、まあテキトーな答えをするんじゃないかと思う。

 いちおう理系の端くれのぼくは、なるほど、3回で1ミリなら、2の97乗ミリを計算すれば言い訳ねとすぐに理解したんだけど、でも、実際に計算しないうちは、まあ富士山くらいかなってな感じしかもてなかった。

 しかしその答えは、想像を遙かに越えていた。
 それはなんと、158,456,325,028,528,675,187,087,900,672 ミリなのだ。

 30桁もあるのでなんだかイメージが湧かないと思うけど、これはだいたい170億光年になる。

 ちなみに宇宙の大きさは、たった137億光年しかないので、それを大幅に越えちゃっているわけだ。

 また、この原稿用紙がA4サイズだったとしたら、100回折り畳んだあとの一辺の長さは10の-16乗メートルのオーダーになるので、陽子の大きさ(1.2×10の-15乗メートル)より一桁くらい小さくなっている。

 こんな途方もない事が起きるのは、数の増加のしかたが指数的だからだ。
 指数的に変化するものは、はじめはゆっくり増えているように見えても、時間が経つと急激に増加していく性質があって、それを人は直感的にイメージしにくい。

 サラ金の複利で増える利息もこの原理なので、借金は放置するととんでもない事になっちゃうのだ。

 それから人口の増加も、この指数的に変化する現象の一つだ。

 ついこの間、日本時間の2006年2月26日午前9時19分(アメリカでは25日午後7時19分)に、米商務省センサス局が表示している「世界人口時計」が、65億人を突破したという。

 日本では人口減少が問題になっているけど、世界的には人口はまだまだ増え続けていて、今現在の人口増加率は年1.2%くらいだ。

 このままのペースで人口が増え続けると、今から2397年後にひとつの節目を迎えることになる。

 このとき、人口は1.7×10の22乗人だ。
 で、人間一人あたりの平均の体積を60リットル(平均体重60キロで比重1ね)とすると、その総体積は1×10の24乗リットルになる。
 つまり、ちょうど地球の体積と同じくらいだ。

 さらに人口が増え続けると、今から5861年後、全人類は1.5×10の40乗人に達して、その総体積は9×10の41リットルになる。

 これで、冥王星の平均軌道半径の内側は、人間だけで埋め尽くされる。

 さらにさらに人口が増え続けたとしよう。
 すると今から1万3584年後、人口は遂に1.5×10の80乗人になる。
 その総体積は9.2×10の81乗リットル。

 これは宇宙の半径を137億光年とした時の体積に等しい。

 記念すべき今から1万3584年後、宇宙は人間だけによって隙間なく満たされるわけだ。

 それにしても、たった1万3584年で半径137億光年を埋め尽くすわけだから、その増加していく先端は、いつか光速を越えるはずだ。

 これは今から8084年から8085年後にかけてのどこかで起きる。
 今のままの人口増加ペースを保てば、人類は何もしなくても西暦10091年までに、光速を越えられるのだあ~。


 実はこの肉宇宙の話にはネタもとがあって、それはやっぱり大学生時代に、今はなき、「SFファン科学勉強会」略して「SFフ科会」という集まりで聞いた話なんだよね。
 まあ、細かい内容は覚えていないので、今回はその印象をもとに再計算してみたというわけ。

 このフ科会は大宮伸光さんが代表(だったかな?)で、今のぼくがあるのは、ここでの影響がもの凄く大きい。この場がなければ、ぼくは物書きにはなっていなかったに違いないし、大宮さんと、ここの常連だった草場純さんは、今も、ぼくが最も尊敬する人物なんだよね。

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