心の理論、オカルト、そして自閉症
「心の理論」は、人以外の動物にもあるのだろうか。これについては、ヒトに匹敵する能力をもつ動物はどうやらいないようだ。
実際、アメリカの動物心理学者プレマックは、進化の隣人であるチンパンジーでさえ、心の理論の能力はヒトよりかなり劣るとしている。
プレマックは、サラというチンパンジーとともに、霊長類の言語学習の研究を長年してきた人で、心の理論という概念の提唱者でもある。
ただ、屋外で自然のチンパンジーを観察している研究者たちは、かなり高度な心の理論があると主張していて、意見が分かれているようだ。
この違いは、実験室環境の中で人との関係だけで育ったサラとは違って、屋外のチンパンジーは、遙かに豊かな人生経験を送っており、心理的に鍛えられ成長しているからなのかも知れない。
「心の理論」とは、自分以外の対象に心を感じて、その動きをシミュレーションする能力といって良いだろう。これがあるから、ぼくたちは他人の気持ちを思いやることができるし、ドラマなどを見て感動することもできる。
また、他人にウソをついてだましたり、自分がだまされているのを見抜くことができる。
さらにいえば、人はこれを、他の人だけでなく、他の動物や、物体に対してもやっている。というより、やってしまう。やらざるを得ない。
たとえば、朝、カラスがゴミ集積所に集まっているのを見たら、誰でもそれは、カラスが腹を空かせてゴミを漁りにきたのだろうと考えるだろう。つまり、ぼくたちは、カラスの心を推測しているわけだ。
しかし、客観的に考えると、カラスがそう考えているかどうかはわからないし、そもそもカラスに心が存在しているかどうかの保証すらない。なにしろ、誰もカラスと話したことがあるわけではないもんね。
それでもぼくたちは、カラスには心があると感じて、たぶんこうしたいと思っているのだろうと、ごく自然に推定してしまう。(哲学的に考えれば、自分以外の他人にだって、心があるかどうか保証できないしね)
あるいは、お好み焼きを焼くときに、熱い鉄板のうえにかつお節をまくと、うねうねと踊っているように見える。かつお節は、意志を持たない物体にすぎないから、踊るわけはないのだけれど、踊っているように感じてしまう。
また、松井が外角高めの球をガツンと叩いたら、アナウンサーは「ボールは外野スタンドに向かってぐんぐん伸びています」……というような実況をするだろう。この「ボールが~に向かう」というのも、無生物であるはずのボールに、意志があるかのような表現になっている。
本来は意志などあるはずない無生物に対して、それを感じて、~しようとしている、~したがっているというのは、客観的事実ではあり得ない。
でも、言葉で何かを描写するとき、そうならないように表現するのはほとんど不可能で、あえてやろうとすると、すごく不自然になってしまう。かつお節は鉄板の熱による上昇気流でゆすられているとか、打球はホームランの軌道を移動中とか、客観的には正確かもしれないけれど、妙に回りくどくて気分の出ない表現にならざるを得ない。
人は、なにものに対しても、心の存在を仮定せずにはいられない動物なのだ。
さらにいうと、国や政府、民族、会社のような組織にも、人は心の存在を仮定してしまう。政府の思わく、民族性、会社の風土など、あたかもある意志を持っているかのごとく考えてしまいがちだ。でも、現実には、そこには人間と同等の意志は存在しない。(と、言ってもなかなか納得できない人が多いかもしれない。事ほど左様に、人間は心の理論に囚われている)
また、ラマルクの進化論のように、~したいからこう進化したという考え方も、存在しない心を仮定してしまう、人間の性がもたらす間違いだ。
つまり、心の理論はオカルトの温床でもある。
人の心の持つすばらしさとおろかさの、どちらにも根元的に関わっているのが、この心の理論といえるだろう。
ところで、もしこの心の理論が正常に発達しない場合があるとしたら、いったいどうなるのだろうか。
普通、子供は4歳くらいから心の理論が発達してくるのだけれど、自閉症児にはそれがないらしい。
自閉症は、今も十分に解明された病気とはいえない。
ただし、親の育て方が悪いとか、本人の努力不足でなるわけではなく、脳機能に先天的な違いがあると考えられている。
自閉症児は、目も耳も正常なのに、言葉を理解するのが非常に苦手だ。一体どうしてそうなのだろう。
自閉症児は知能が低いことが多いけれど、知能が低いだけでは自閉症児のようにはならない。
耳に障害のある子供は、言葉は聞こえないけれど、身振りなど、自分でできる方法でコミュニケーションを取ろうとしはじめる。
しかし、自閉症児の場合は、自らコミュニケーションをとろうとすることがない。自閉症児は、知能が低いから言葉がわからないのではなく、コミュニケーションをしようとしないので、結果として知能が低くなっているようだ。
自閉症児は、健常な4歳児ならできる誤信課題(他人が間違ったことを信じているとき、どう行動するかを言い当てるテスト)に正解できない事が多い。自閉症児は、自分が信じていることと、他人の信じていることの区別が非常に苦手なのだ。
つまり、心の理論が発達しないことと、コミュニケーションがうまくできないことの間には、密接な関わりがあるらしい。
正常な子供は、誤診課題が可能になる以前から、色々な方法でお母さんとコミュニケーションをとろうする。
たとえば、生後10ヶ月くらいから、離れたものを指さす行動が現れる。
この、離れたものに対する指さしは、人間にしかない行動だ。
しかも赤ちゃんは、指を指した後、確認するかのように、母親を見つめる。
人に近い心の世界を持つチンパンジーは、赤ちゃんの時だけ、ものを直接指で触るように指す時期があるのだけれど、離れたものを指す事はないし、大人になるとこの行動自体しなくなる。また、視線を合わせる事もない。
あかちゃんが遠くのおもちゃを指さすと、母親はその意図を察してそれを取ってあげたりする。
つまり、人間だけが、ものを介して他者と関わることができるわけだ。
また、人間は、その視線で、何に興味があるか理解する能力がある。
人間の目は、白目と黒目がはっきりしていて、離れたところからでも、どこを見ているかが解る。一方、チンパンジーは黒目が非常に大きく、白目に当たる部分も茶褐色で、視線はほとんど解らない。
これによって、人間は注意の共有(ジョイント・アテンション)をする事ができる。
幼児は、ねがえりができたとき、チラっと親を見る。つかまりだちができた、チラッと親を見る。積み木が高く積み上げられた、やったあと自分で喜ぶだけでなく、チラと親を見る。という事をやっている。
このとき親は、上手にできたねーとか、喜んで反応を返すわけだ。
このようなやりとりが、やがてコミュニケーションへと発達し、心の理論につながっていくのではないかと考えられている。
一方、自閉症児は、視線が合わないなど、発達の初期から、これらの事ができないようだ。つまり、コミュニケーション能力や心の理論は、普通なら、視線の共有などの小さなステップを徐々に上るように発達していくものなのに、自閉症児ではその初期の過程が巧く働かないため、コミュニケーション能力が未熟に留まってしまうようだ。
ただ、自閉症児については、最近では応用行動分析という方法を用いた訓練で、高い確率で、半数以上の子供が、普通の学校に通えるくらいになれるらしい。
これは、主に、動作のまねを行う訓練だ。
具体的には、たとえば両手で頭を触っている姿とかを、真似させるようにする。
ところが自閉症児は、はじめのうち、典型的には、相手の頭を触ろうとしてしまう。
これは、実はチンパンジーも同じことをするのだ。
しかし、訓練を続けていくうちに、自閉症児もやがて自分の頭に手がおけるようになる。
さらに、同じ口の形をしてもらう、同じ発声をしてもらう……というように訓練を進めていく事で、普通と変わりないレベルにまでコミュニケーション能力を発達させられるケースがあるようだ。
最終更新時間 19:38 | コメント (3) | トラックバック
心の理論
3歳くらいまでの子どもは、ウソをつくのがあまりうまくない。たとえば、おやつの時間が決められていて、でも、それ以外の時にお菓子が食べたくなっちゃったとき。こっそりお菓子の置いてある棚のそばまで行ったのは良いけれど、後ろを向いているお母さんにむかって、「絶対こっち見ちゃダメだよ」なんて言ってしまったりする。
ちょっぴり可愛らしいエピソードだけど、幼い子供にはこういうところがある。
この子は、見つからないようにとは考えられたのだけど、見ちゃダメといったら、親がどう思うかまでは思い至らなかったわけだ。でも、どうして、そんな簡単なことが解らないのだろうか。
この謎に迫るための、面白い実験がある。それは誤信課題といって、他の人が思い違いをしているかどうかを理解できるか否か、調べるテストだ。
それはたとえば、子供にこんな質問をする。
1.太郎くんは、後で食べようとチョコを赤い箱にしまって外に出かけました。
2.太郎くんがいない間に、お母さんは赤い箱からチョコを出して、緑の箱にしまいました。
3.そのあと、太郎くんが外から帰ってきました。
4.さて、太郎くんはチョコがどの箱に入っていると思っていますか
正解はもちろん、赤い箱だ。
ところが、3歳までの子供の多くは、緑の箱と答えてしまう。
しかし、4歳になると、大半の子供が赤い箱と、正解を答えられるようになる。
これは一体どういうことだろうか。発達心理学では、これは幼い子どもにはまだ「心の理論」が成立していないと考える。
「心の理論」とは、他人の立場になって考えることができる能力のことだ。
たとえば、いつも挨拶をしてくれる人が、今日に限ってぷいと横を向いたりしたら、あなたはいったいどう考えるだろうか。ひょっとしたら、こちらに気がつかなかったのかなとか、何か考え事をしていたのかなとか、あるいはあの人は今日は怒っているのかなというように、その人が行った行為の原因を、その人の心の動きを推測することで、理解しようとするはずだ。
これが「心の理論」で、普通の人がごく自然に身につけている素朴な心理学といってもいい。
誤信課題ができなかった3歳の子どもは、「心の理論」が未発達なので、太郎くんがどう思っているかという心を仮定して、彼の立場では赤い箱の中にチョコがあると思うはずだということが理解できなかった。誰かの気持ちになって、その人がどう思うかを推定できなかったわけだ。
人は誰でも、自分の心の中に「自然の理論」を持っている。たとえば坂道でコーラの缶を落とすと転がって行っちゃうとか、自動車がまっすぐ近づいてきたら、避けなければぶつかるとか、日常身の回りで起きるいろいろな出来事を予測をすることができる。
これは、全ての動物が持つ心の機能だ。
なぜなら、どんな生き物も、次に何が起きるかがある程度予測ができなければ、事故にあったり捕食者に捕まったり、餌を取り逃したりして、とてもじゃないけれど生きていけないからだ。つまり「自然の理論」とは、自分を取り巻く自然環境について、どう働きかければどうなるかを予測するための理論だ。
一方、「心の理論」とは、自分を取り巻く人々について、こんな時、他人はどう思い、どう行動するのかという予測をするための理論だ。この能力があるから、人間は政治的な権謀術数ができるのだし、物語を読んだときに、その登場人物たちの気持ちになって感動を味わえたりもできる。
自然現象の多くは、ある法則に基づいてほとんどいつも同じ事が起きるので、予測は比較的簡単だ。しかし、心のある存在の行動の予測はそれに比べてうんと難しい。
そのため、人間の大脳皮質が、他の動物に比べてこれほど大きいのは、その難しい心の理論を実現するためではないかという説もある。
精神的に成熟した人間は、相手の気持ちになってものが考えられる。
その能力は、3歳と4歳の境目あたりで一つの飛躍があるというのが、誤信課題が示している内容だ。
でも、この心の理論は、それで完成というわけではないだろう。人の心に対する理解は、年を経て経験を積むほどつむほど豊かになっていく。
実際、ぼくも中学生の頃より、20代、30代……と年をとるほど理解が増していると感じている。とくに恋愛とか失恋とか、他者と非常に密接に関わったり、対人関係上の手痛い失敗をす経験をすることで、その能力は増強されるようだ。
恋をすると、心の中に相手の心のシミュレーション・モデルができて、暇さえあれば(暇が無くても)こうしたらあの人は喜ぶだろうとかいうことを、アレコレ考えてしまうはずだ。そのとき、心の理論は少し成長している。あるいは悲しい別れがあった時、自分の何が悪かったのかを深く考える時、心の理論は成長する。
心の理論という言葉は、かなりざっくりした概念で、生物学でいえば「遺伝子」とか「生命」などのようなものだ。つまり、DNAのような、物理的な実体に与えられた言葉ではない。
おそらく、脳の中には「心の理論回路」というような、誰にでも共通する明確な構造は存在しなくて、複数の脳機能のユニットの働きの総体として、それは実現されるのだろう。
そしてそれは、「高速おつり計算」の場合と同じように、外から見る限り同じことをやっているように見えても、人によって全く違ったメカニズムで、ほぼ同等のことを実現している可能性も少なくない。そういう事が、人を見る目の個性の差となって現れてくるのかも知れない。
最終更新時間 19:38 | コメント (0) | トラックバック
4枚のカード
ちょっと、パズルを解いてみて欲しい。
片方の面には数字、もう一方の面にはアルファベットが印刷されたカードがあるとしよう。そして、今、「A」「K」「5」「8」と書かれた4枚のカードが配られた。
さて、この4枚のカードにおいて、「カードの片面に母音(A、E、I、U、Oのどれか)が書いてあれば、その裏に書かれた数字は必ず偶数である」というルールが成り立っているかどうかを確かめるには、最低限、どのカードを裏返せばいいだろうか?
じっくり考えて、答えを出してから次を読んで欲しい。
……さて、あなたはどう答えたろうか。
これは認知心理学の分野で有名な「4枚カード問題」と呼ばれるもので、1970年に発表された、イギリスの名門大学生を対象に行った実験では、46%の人が「A」と「8」と回答し、33%の人が「A」だけを選んだ。
だけど、これはどちらも間違いで、正解の「A」と「5」を選んだのは、わずか4%だった。
念のため解説すると、「A」の裏が奇数なら法則が成り立たないし、「5」は奇数だから裏が母音だとダメなので裏返す必要がある。一方「K」は母音じゃないから裏は何でも良いし、「8」の裏が母音でなくてもルールに反しないので、裏返す必要はないわけだ。
いやあ、こういう論理パズルって、なかなか難しいよね。でも、これをもう一つ別のパズルと比較すると、人間の心の不思議さが見えてくる。
今度のカードは、片面に酒を飲む人とお茶を飲む人が描かれている。
また、それぞれの裏にはそれを飲んでいる人の年齢が印刷されている。
さて、ここに、「16歳」「40歳」「お茶を飲む人」「酒を飲む人」の4枚のカードがあるとしよう。このカードが「18歳未満の飲酒は禁止」というルールに違反していないかどうかを調べるには、どのカードを裏返せばいいだろう。
……正解はもちろん、「16歳」と「ウィスキーを飲む人」のカードだ。そしてたぶん、これには大半の人が、楽々正解できたと思う。さっきとは段違いの簡単さだ。
ところが、最初のパズルと後のパズルは、論理的には同じ真偽判定が必要な、同質の問題なのだ。両者の間には、パズルが抽象的な記号で表現されたか、社会的ルールで表現されたかの違いしかない。
つまり人の心には、社会的なルールが守られているか否かを、素早く見抜く能力が備わっているらしい。どうやら人の心は、抽象的な論理処理を行えるように進化したわけではなく、社会の中で上手に暮らせるように進化してきたものといえそうだ。
抽象的で理解の難しい事柄でも、擬人化して説明するととてもわかりやすくなる事が多い。それは、正確な理解ではないけれど、腑に落ちるという感じでわかったりする。
このことからしても、人の心には、複雑な反応を示す他者に、心の存在を仮定する癖がある事が解る。それは人間の心にある「認知の歪み」の一つなのだ。
最終更新時間 19:08 | コメント (1) | トラックバック
高速おつり計算
ポケットの中に、一円玉とか五円玉とかがあるのが嫌だ。じゃらじゃらするし、この二つの硬貨は、自動販売機でも使えない。
10円玉もあまり好きじゃない。硬貨の色は、できれば銀色一色であってほしい。
昔は、1円とか5円のおつりが来る事は滅多になかった。
そのため、たまにそういうおつりをもらうと、コンビニの募金箱に「捨て」ていた。どうせ邪魔なものだし、それでなにがしか社会に貢献できるもんね、と思ったからだ。
ところが、消費税が導入されてからは、買い物をすると、ほとんどいつでも1円玉や5円玉のおつりが来るようになってしまった。それをすべて募金に回すのは、さすがにフトコロ事情的に厳しい。でも、ポケットの中はじゃらじゃらする。ああ、イヤンな感じ。
そこで、いつの間にか身につけたのが、おつりの硬貨の数を最小にする技だ。
たとえばコンビニで927円のものを買ったとしよう。
そのときの手持ちのお金が、1644円だ。
うちわけは、1000円札1枚、500円玉1枚、100円玉1枚、10円玉4枚、1円玉4枚。
すると、ぼくは瞬時に判断して、1032円を出す。
おつりは105円。小銭の数は最小だ。
あるいは、このとき手持ちのお金が1646円で、5円玉と1円玉を持っていたとすると、ぼくは1030円だして、おつりは103円。
手持ちの金額が1040円で、買い物の値段が752円だと、1010円出して、おつりは258円。
こういうと、ああ、暗算が得意なんだね、とか思うかも知れない。
でも、そうじゃないのだ。
ぼくはそろばんはできないし、暗算も面倒なんで、あんまりしたくない。
実際、この時ぼくは、計算らしい事をほとんどしていない。
もっというと、お金を支払う時点で、いったいいくらのおつりが貰えるか意識していないし、いくら払っているかもはっきりわかっていない。
でも、おつりの小銭の数が、最小になる事だけは解っているのだ。
じゃあ何をしているのかというと、これがよく分からない。何しろ無意識にやっている事なので、説明しようとしても、なかなか言葉にならない。
そこで、買い物をする時、自分はどんなことをしているのか、あらためて観察してみることにした。
買い物の値段が927円のとき、まず第一にやっているのは、これを手持ちの硬貨だけで払えるかどうかという判断らしい。
ポケットの中の硬貨を掌の上にのせてパッと見る。このとき、頭の中で硬貨の枚数を数えたりはせず、見た目、映像としてだいたい何枚あるかを把握する。
そして、その硬貨で払いきれないとと解ると、1000円札を出す。
次に、支払金額の10の桁以下の数字をみて、27円なので、30円出せば足りると判断。10円玉を三枚支払う。
最後に、支払金額の1の桁が7円なので、2円を出しておつりを5円玉にする。
こうしてみると、ぼくがやっているのは、数字の大小の比較と、それに基づく条件判断のようだ。そしてこのやり方は、暗算をするより楽であると同時に、より素早く答えを出せるという特徴がある。
実はこれと同じような事は、コンピュータのプログラムでもやられる事がある。
コンピュータが行う計算の基礎は、2進数の足し算だ。そして、この2進数の足し算でANDとかORとかNOTなどの論理演算=条件判断もできる。
そのため、ある数値の組み合わせを入力して、答えを求める方程式で、答えが有限の個数しかない場合、実際にその計算をせずに、答えを数表で持っておいて、入力の条件によって答えの値を参照するというやり方をする事がある。最近はどうか知らないけど、CPUのスピードが遅く、メモリも少なかった大昔は、こういうやり方で計算をスピードアップすると同時にメモリを節約するのが、プログラミングのテクニックとしてあったのだ。
また、これと本質的に同じことを、僕たちは子供のころから普通にやっている。
それは、掛け算の九九だ。
6×7は、本来は6を7回足す計算を意味しているのだけど、僕たちはいちいちそんな計算をせずに、「ろくひちしじゅうに」と覚えている。つまり、かけ算において、6と7という入力があったら、42という値を参照しているわけだ。
この現象の意味は、ある課題の解き方は、一通りではないということだ。
つまり、一見計算の様な事をやっているように見えても、脳は必ずしも計算をしているとは限らないし、そのやり方も色々あるかもしれない。
買い物のとき、貰うおつりの硬貨の数を最小にしようとする人はたくさんいると思うけど、ぼくとはまた違ったやり方でそれを実現している人もいるだろう。
また、映画『レインマン』で有名になった、高機能自閉症の人がよくやるカレンダー計算(日付を言われると曜日を答えられるなど)などは、これと似た方法で答えを見つけだしているのかも知れない。
ある問題の解決法はひとつじゃない。それは脳の情報処理レベルでもそうなわけで、これも個性というものの、一つの現れと言えるだろう。










