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2005/12/10

今日は父の命日なのです(その1)

 ぼくは宗教を全く信じていない。
 主義主張とかで激しく信じないというのではなく、まあ淡々と、そういう超自然はないよなあと感じるんだよね。
 なので、他の人が宗教やオカルトを信じていても(一緒にしちゃまずいか(^_^;))、それがその人の心の真実なら尊重している。もちろん、社会的に迷惑なものの場合は、それはちょっと……と言わせて貰いますが。
 当然ながら、宗教的儀式にはあまり熱意が持てない。お仏壇にお祈りしたり、お墓参りとかも、母におつきあいでする感じ。
 人は死ねば、無に帰るのです。
 でも、その人の事は、おりにふれて思い出す。
 ぼくの父は、6年前の今日、亡くなりました。

以下、SFマガジン 2000年1月号 掲載を若干改稿

 昨年(1999年)の暮れ、82歳で父が逝った。
 直接の死因は肺炎の悪化によるものだけど、その肺炎は肺癌の摘出部に端を発するものだった。しかし、本当の意味で父の死を早めたのは、せん妄症状だったのではないかと思う。
 父が肺癌だとわかったのは、去年の春先だった。右肺腺癌で、手術前の見立てではステージがIIまたはIIIA(ローマ数字です)という。肺癌は通常、肋骨などに邪魔されて発見し難いため、気づいた時にはあちこちに転移していて、手術できないことの方が多いのだが、ステージIIIAはぎりぎりいけるというレベルだ。
 そこで、書籍や資料を片っ端から読みあさり、友人の医師に相談したり、インターネットのセカンドオピニオンをしてくれるサイトで、複数の専門医に相談したりして、最も妥当と思われる治療方法を、ぼくの責任で決断した。それにしても、インターネットの存在は、本当にありがたいものだ。実は、ぼくの古い友人も、ほぼ同時期に父上がうちと同じ病気を抱えていたそうだが、やはりインターネット上での相談で大いに助けられたという。その父上も、うちの父の10日ほどあとに亡くなられたのだが。
 治療には、色々な選択肢があって、何を目差すかが重要だ。ぼくの目標は、これからの父のクォリティ・オブ・ライフを最善にすることだった。
 父は年の割には若く(外見は60代くらい)て丈夫だったものの、調べたところでは通常80代の患者に肺癌の手術を行うことはないらしい。術後の肉体的ダメージは大きいから、仮に手術しても自由に動けなくなったり、寿命が変わらなければ、やらない方がマシなのだ。
 父の場合は、手術をしなければ1年は持たないという話だった。しかし、手術が成功すれば3年は確実に生きられるという。また、体力も、発作性の心房細動はあるものの、肺活量など十分手術に耐えられるという判定だった。
 そこで父に告知して、手術をすることを選んだ。告知前の父は、自分の病状をずいぶん不安に感じていたと思う。「俺はガンなんだろう」と言いながら、食い入るように母の顔を見つめ、表情の変化を読みとろうとするあの必死の目つきが、今でも忘れられない。でも、告知をし、疑問に感ずることの全てを丁寧に解説したことで、ようやく落ち着きを取り戻してくれた。手術にはかなり前向きで、術後の肺活量の不足を補うための呼吸訓練など、熱心にやっていたものだ。
 そして、手術。
 しかし、残念ながらあけてビックリ玉手箱だった。原発部位の右肺上葉の大きな塊は取れたものの、それとは別に縦隔リンパ節にあった一部が肺動脈にがっちり食い込んでいたのだ。
 縦隔リンパに異常がありそうなことは、事前のCTでもわかっていたけれど、気配程度のものなので、あっても取れるだろうというのが、執刀医の判断だった。しかし、術中に外に出てきた執刀医は、これを無理して取ると、片肺を全部ダメにしてしまうかもしれないという。
 父の年で片肺になるというのは、呼吸器をつけ、自由にベッドを離れて動けなくなるということだ。そんなことなら最初から手術は選択しなかったわけで、結局、ガンの一部は残すことにした。もちろん、本人には手術は成功、完全に取れたということにして、用心のために放射線をかけると偽って治療を継続した。
 それにしても、合点がいかないのは、手術後、主治医から何度か制ガン剤を使った方がいいかもというニュアンスの言葉を聞かされたことだ。肺腺癌に対しては制ガン剤が効く科学的なデータはないようだし、制ガン剤は体に大きなダメージを与える。だから、術前からその選択肢はないと言ってあったのに。こういう医者の心理ってのは何なんだろう。効かないだろうけど、用心のためと思うのだろうか。まあ、保険点数を稼ぎたいってことは、ないと思うけど。しかし、少なくともそれは、ぼくが願うクォリティ・オブ・ライフの高い余生という観点とは、違うところで行動しているようだった。でも、医者から制ガン剤もといわれて、それを断るのは、かなりの決断力を要する話だった。たいていは、たぶん受け入れて制ガン剤をやっちゃうんだろうなあ。
 放射線は体に負担がほとんどないので、徐々に体力が戻ってくると、本人は退屈で早く退院したくてしようがない。ただ、こちらとしては、ガンが急に壊死して肺動脈が破れれば即死だから、ヒヤヒヤしてはいたんだけど。
 術後、執刀医には、余命は3ヶ月か6ヶ月か、もって1年といわれた。しかし、5週間の放射線治療が終わる頃には、わりと元気で、ぼく自身は案外長生きできるかもと思い始めていた。腫瘍マーカーの値も下がっているし、余命1年と言われて、10年生きる人もいるもんね。
 もう少し元気になったら、父の故郷の函館にいっしょに行こうと約束して、東京に戻ったのが夏の終わりだった。
 しかし、退院して一月少々経った深夜、母から電話がかかってきて、父の様子がおかしいという。心臓が苦しいから救急車を呼んでくれといっているというのだ。
 すぐに病院に連れて行くようにいって、連絡を待っていると、救急病棟に入院させたけれど、軽い心房細動の発作で、とくに心配はいらないと知らせがあった。まあしかし、いずれにせよ、その翌日には実家に様子を見に帰る予定だったので、一日繰り上げて名古屋に向かった。
 病院に行って驚いたのは、父が不精髭を生やしていた事だ。おしゃれな父の、そんな顔なんて見たことがない。どこかうつろで、まるでぼくのことがわからないようなのだ。前は、帰省すれば嬉しそう笑ってくれたのに……。救急担当の医師に状況を聞くと、彼はどうやら父が惚けていると思っているらしい。そんなバカな。ほんの数日前にも電話で普通に会話していたのに、惚けているわけがない。でも、夜中にうろつき回って、色々とおかしな事をするから、夜は病棟で付き添ってくれという。実際、しばらく様子を見ていると、明らかに何かおかしいのだ。
 検査の結果、心臓はともかく、軽い肺炎があることがわかって、しばらく入院することとなった。思えば、それから3ヶ月、本当に色々なことがあったと思う。
 とくに最後の2ヶ月余りは、月曜日から金曜日までの毎日、最低20時間は病院で、アルジャーノン化した父ととことんつきあった。それは、肉体的にはものすごくヘビーで、出口の見えない辛い日々ではあったのだけれど、充実して濃密な生を生きられた時間でもあった。今にして思えば、面白かったとさえ感じる。普通の親子なら触れることがないだろう、人間の心の情けなく悲しいところから、気高く愛情深いところまで、その複雑さの全てを父は見せてくれたのだ。あの体験は、ぼくにとって生涯の宝物だ。(続く)

最終更新時間 2005年12月10日 17:19

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