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2005/12/31

エヴァンゲリオンについて(その4)

SFマガジン1997年10月号掲載を若干改稿

 さて、長らく続けてきたエヴァンゲリオンねただけど、劇場版もできたことだし、そろそろケリをつけてしまいたい。
 劇場版『エヴァンゲリオンAir/まごころを、君に』は、結局、テレビシリーズで物議をかもしだした最終二話の作り直しというか、別バージョンというか、パラレルワールドの話ということで完結した。ぼくの感想としては、20年後くらいにもう一回、全編をリメイクすると、いいんじゃないかって感じかな。
 前にもいったけれど、テレビシリーズの最終2話は、問題集の後ろのページを見て、答えを書いちゃったような感じがある。作者本人が本当にはフに落ちていないままに「正解」を描いてしまったために、嘘っぽい、薄っぺらな感じがどうしようもなくつきまとうんだよね。
 人類補完計画の発動によって、一時、すべての人々の心は一つになり、お互いが相手をどう見ていたかを体験する。まあ、グループ系というか、ある種のカウンセリングでやっているようなことなんだけど、それを経て、シンジは世界が信頼に値するものであることを知る。おめでとう。これが、テレビシリーズのオチだったわけだ。
 でも、そんなチョロいやり方で、解脱なんてできるわけねえだろ!テレビシリーズのラストに不満を感じた人たちの中には、そういう思いがあったんじゃないかと思うんだよね。
 対して映画版は、安易に問題が解決したふうにして終わるのを止めて、あくまで無間地獄の中に踏み留まった。そういう意味では、嘘はなくなったわけだ。
 人はやはり、互いに分断されて生きるべきだと自ら選んだくせに、おそらく新生人類のアダムとイブであろう二人は、目覚めと同時に早速激しく傷つけあう。
 まあ、作品で描かれていた苦悩の正体が「信頼の欠如」から「女の子にフられてとても悲しい」ということに変質しちゃったということはいいとして、で、嘘が無くなったから良いかっつうと、そうともいえないんだよなあ。
 日本のSF界では、黎明期(でもないのかな)に私小説批判というのがあって、自分の心の傷を見せびらかして、こんなに傷ついているんだというのをぐだぐだぐだぐだ書いたものなんぞアホくさい、いっそエンターティメントに徹するのが正しいのだという了解があった。
 それは、SF作家の心の健全さの現れだったと思う。親しくもない赤の他人の歪んだ世界観をねちねち聞かされても、このアホンダラとしか思わんもんね。
 しかし、そのしょーもない私小説というものが、一時期日本の文学を支配した事もあったわけで、エヴァブームというのは、そういう日本の土着文化の、アニメにおけるあらわれといえるかもしれない……いやはやちょっとシニカルになってしまいました。
 それにしても、どうしてこうなんだろうなあと思うんだよね。
 日本のアニメは、今やその表現技術において、世界最高水準の創造性を発揮できるところにきていると思う。エヴァもそうだし、それから押井守監督作品もすごい。劇場版パトレイバー1・2は、どちらも最高の作品だと思う。
 ただ、これも人の心の描写という点では、ガタっとレベルが落ちてしまう。(『甲殻機動隊』は、以前よりは世をすねた感じが薄らいでいるので、ひょっとすると変わりつつあるのかも。)
 庵野作品も、押井作品も、あらわれかたは違うものの、他者に対する信頼感の欠けた人しか出てこないんだよね。そういう人「も」出てくるというのならわかるけど、すべての人、主人公でも、頼りになるはずの人でもそうなんだから。
 あれだけ素晴らしい表現技法がありながら、心の描写は、硬直して殺伐とした空疎なものだ。ガフの部屋は空っぽだったのよ。なんだかんだいっても、甘やかされたお子様の精神性としか思えない。そんなのにどんなにきれいに飾りつけしようと、やっぱ空しいんだわ。
 そういう意味では、成熟した人格を描ける宮崎駿監督の『もののけ姫』には期待していたんだけど、力みすぎで空振りしている感じだし。この作品、セル枚数も史上最高だそうだし、宮崎駿最後の大作という事で、入魂の作品なんだろうけど、でもなあ……ジェットコースター・ムービーとしては見られるとは思うけれど、後半はやっぱり破綻しているよね。
 もののけ姫は、マンガ版の『風の谷のナウシカ』でやれて、アニメ版でできなかったことをやりたかったのだと思う。
 マンガ版ナウシカは、日本のSFの中でも最高傑作の一つだと思うんだけど、それは作品世界をSF的なグローバルな視点から構成しつつ、すべての登場人物に複雑な心を与える事に成功しているからだ。
 気高く強くピュアな心のナウシカが、人類の恐るべき秘密を知ることで、あえて心を汚がし、人々を欺いて生きる道を選んだり、いじましい保身と権力欲しかなさそうなクシャナの兄たちでさえ、芸術に対して深い感受性を示したりする。
 どの人物も、ありがちなカタ、ドグマに填めて見ることはできない。誰もが、純粋さや気高さと同時に、狡猾で醜悪な部分をあわせ持っていて、そういう人の心の複雑さに丁寧に対決しているところが、マンガ版の真骨頂だと思う。
 でも、もののけではそれが未消化で、たぶんナウシカのクシャナに相当するエボシ御前も書き込み不足に終わっている。まあ、成功したのはトキ(甲六の妻)と犬神のモロの君くらいかなあ。やっぱし、二時間程度の短い時間では、ああいうものは描ききれないんだろうね。
 まあ、それにしても、宮崎作品で描かれる絶対値の大きな苦しみにくらべると、シンジの悩みは、なんてトホホなのとか思っちゃう。
 現代日本というのは、あらゆる危険があらかた取り除かれて、しょぼくれた悩みしか残されていない。それだけに、小さいことを大袈裟にとらえてしまう。たとえば、電磁波が危ないなんてふざけるなって感じ。昔はサイクロトロンの研究者がキンタマに放射線をあてて精力絶倫じゃあとかいってたんだぞ。(まあこれはこれでメチャクチャだとは思うけどね)
 ただ、小さな悩みしかないけど、それが、メチャクチャつらいことには変わりない。それが小さな事だとわかっているから、余計つらいということがある。
 オーソン・スコット・カードは、真の人間性は大きな苦しみと対峙しなければ現れないといっているけど、そういうものかもしれない。大きな絶望に立ち向かう人の姿は美しいけど、ちっぽけな悩みでくじけそうになってしまうのは、カッチョ悪いだけだもんね。まあ、それこそが人なんだけど。エヴァが多くの人の共感を呼んだ背景には、そういう大儀なき時代の空しさもあるんじゃないかなあ。

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閑話休題・サイコパスについて

SFマガジン1997年9月号掲載を若干改稿

 今回は、エヴァの話を少し離れて、例の酒鬼薔薇について話したい。あの酒鬼薔薇という人は、いわゆるサイコパスであることは、ほぼ間違いない。
 そう判断する理由は、彼の弁護士が、少年のこころがよくわからないといっていることにある。常識で考えると、人を殺すような犯罪を犯した人には、それ相応の大きな感情の動きがあるはずだ。ところがこのケースの場合、彼はごく普通に睡眠を取り、普通に食事をし、淡々と犯罪事実を認め、学校にも先生にも恨みはないともいっているらしい。こういう平然とした態度、正常と思われる感情の動きが全く見られないところに、彼の異常さがはっきり現れている。
 この事件に関しては、何度となく動機がわからないといわれているけれど、それは当前のことだと思う。なぜなら、ぼくたちが動機として納得するのは、怒りや恐れ、執着心や復讐心といった感情の動きだからだ。しかし彼には、病的というか、生物学的な理由でそれがない(乏しい)。そういう意味じゃあ、一般的な犯罪の枠組みで動機を探っても結論は出ないわけで、これはやっぱり精神医療の問題として扱うべきことだと思う。
 また、この事件をきっかけに、学校の問題や社会の問題の話ももりあがっているけど、それもこの事件とは、ほとんど関係がないだろう。(戦略的に、これを問題提起の枕として活用している宮台真司氏のような人もいて、それはそれで面白い話ではあるんだけどね)なぜなら、この種の快楽殺人は、病んだ現代社会とか、破壊されたコミュニティ特有の現象ではないからだ。
 たとえば『古事記』の中に、ヤマトタケルの若いころ(オウスノミコトのころ)のエピソードで、兄殺しをきっかけにしたクマソ征伐やらの話がある。まあ、単に敵を倒すということだけなら、ありふれた武勇伝(でもないか)なんだけど、この話のミソは、オウスノミコトが兄を殺してもあまりにも平然としていたため、父である天皇が、息子の死を願ったってところにある。古事記という書物に、あえてそういう記述があるというのは、このオウスノミコトの異様さがきわだっていた証拠だろう。
 また、同種の人間は、歴史をふりかえるとあちこちで見つけることができる。三国志なんてそのての宝庫だし、チンギス=ハンとか、織田信長とか、あるいはヒットラーなんかもこのタイプだったかもしれない。
 これらの人に共通するのは、「平然と」なにかができることと、意志強固でいったん決断すると決してそれを曲げないこと、そしてある種、強烈に人を魅了する才能を持っていることだ。
 つまりこれは、ある種の感情障害ではないかと思う。平然と何かができるってことは、感情的なわだかまりがないというこだし、意志強固なのは他者の感情に共感しないことと関係している。
 ただこれは感情が皆無ということでは無い。(感情が完全に欠如すると、もっと歴然とした障害になる。その種の人は物事の優先順位の判断が全くできず、とるに足らないことと重要なことの区別がつかず、選択ができない。そのため通常の社会生活は困難になる)短期の、反射的な感情はあるんだけど、それが持続しないというか、感情に関する記憶が保持されない感じじゃないかと思うんだよね。
 実際、快楽殺人というけれど、その種の犯罪レポートをみる限り、快楽なんてどこにあるのかという感じさえする。なんか、自分の決めたなにかをテキパキやるって感じで、異様な快楽にうちふるえるって感じではないんだよね。たとえば映画『セブン』の猟奇殺人犯は、その辺の感じがよく出ていると思う。
 ただ、こういう種類の脳機能の異常を抱えた人が、必ず猟奇殺人者になるわけじゃない。実際これは、異常というう言葉がふさわしいかどうか迷うくらい微妙な違いなので、素因としてはこういうものを持ちながら、社会の中で巧くやっていっている人はかなりいると思う。(そういう人が、ある日突然殺人者になるわけでもない。ある素因を持っていても、育ちによって違う個性の人間に育つわけだから、素因があることイコール危険ということにはならない。念のため。)
 たとえば、『平気でうそをつく人たち』(草思社)のなかに、邪悪と呼ばれるタイプの人が出てくる。著者のスコット・ペックは、キリスト教倫理観と精神療法を結びつけようとしていて、ぼくの目からは違和感のあるところも多いんだけど、この本の中に出てくるボビーの両親やロジャーの両親、それからシャーリーンなんてのは、共通の素因の持ち主の、社会に適応した形じゃないかと思うんだよね。(まあ、基本的にみんな、かなりイヤーンな人たちではあるけれど)
 ボビーやロジャーの両親というのは、子供が重大な心理的な問題をかかえているのに、その子供の感情に全く無関心で、結局は自分のしたい方針をつらぬこうとする。著者のペックは、この無関心さに愕然とし、ほとんど反射的ともいえる嫌悪感を覚えたと告白している。実はこういうケースってよくあるようで、優秀な臨床心理家の自伝などを読むと、同じような邪悪な人と出会って猛烈な嫌悪感を感じたり、手酷いダメージを受けたという経験談がほとんど必ずあるんだよね。
 こういうイヤンな人たちは、有能で社会的な地位も高く、平均以上に良い人に見えることが多い。異様な感じがするのは、ある程度以上親密になったときだけなんだよね。つまり言葉を変えれば、世渡りに関しては並以上の能力があるわけ。
 考えてみると、この種の、感情に対する盲目性を持った人なら、揺るぎない決断力で、困難な仕事も平然と実行できるリーダーになる可能性もある。そういう人と親密につきあわなければいけない人にとっては大変だろうけど、社会的には有用な人材といえるかもしれない。
 また、感情に対して共感しないがゆえに、感情というもののメカニズムを分析的に理解して、その操作法を習得しやすいんじゃないかとも思う。サイコパスの中には、他人を操ることに長けている人が多いけど、このあたりに秘密があるような気がする。
 また、お釈迦さまというのも、実はこういう素因を持った人だったのかもしれない。お釈迦さまは、仏陀(平気で嘘がつける人)か天輪聖王(平気で人殺しができる人)になると予言されたという話があるけど、これはひょっとすると、両者は本質的に共通した部分があるということを見抜いた伝説なんじゃないかという気がする。
 酒鬼薔薇みたいなケースがでてしまうのは不幸な事なんだけど、人間という種が健全であるためには、こういう平均から外れた人が出てくるのも、ある意味しかたのないことなのかもしれない。

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エヴァンゲリオンについて(その3)

 前回は、エヴァンゲリオンの登場人物たちには、どこかしら神経症的なところがあるって話をした。今回は、それについて、もうちょっと違った角度から考察してみたい。
 前回もふれたように、神経症ってのは、ある無意識的な目的を達成するために、奇妙な症状を使うようになった状態というか、そういうコミュニケーション構造のことをいう。
 これは実は、たいていの人がそういうものだと思っている、原因論的な解釈とは、だいぶ違った定義なんだよね。
 ふつう、誰かが病気だとしたら、その病気の原因は、その人の中にあると考える。で、その原因を取り除けば、病気は治るはずって思うだろう。でも、ここでコミュニケーション構造という言葉をわざわざ使っているのは、病気なのは、一見患者にみえる、その人だけの問題じゃないってことを意味しているんだよね。
 つまり、神経症が成立するには、みなし患者がある奇妙な行動をとり、それに対してまわりが反応を返す、フィードバックループが必要だってことだ。
 たとえば、太宰治なんてのは、たびたび心中とか自殺未遂とかをしたわけだけど、ここで重要なポイントは、そのことをまわりに向かってアピールしたってことにある。本当に死にたいんなら、ひっそりと死んでいけばいいんだけど、そうじゃなくて、世間を騒がすようにするわけ。で、実際、世間は騒ぐ。それによって、太宰は自分が無意識的(でないかもしれないけど)に求めていたもの、たとえば世間の関心をひきたいという欲求を満たしていたわけだ。まあ、最後には本当に死んでしまったわけですが。
 こういうフィードバックループがある限り、症状はいつまでも続く。それが病気の正体ってわけだ。実際、病気が生じている時の、みなし患者と相手役とのコミュニケーションを観察すると、その症状をめぐること以外ほとんどなくて、他愛のない雑談とか、世間話が全くなくなっていたりする。そういうおそろしく質の悪いコミュニケーションが、病気の実体なんだよね。
 この考え方の良いところは、みなし患者の病的行動について、原因を探らなくても治療ができるってことだ。原因を探る方法、たとえば精神分析的に、その患者の過去のトラウマとかなんとかを探る方法だと、結局よくわからなかったり、過去のことで、今さらどうしようもなかったりすることが多い。でも、コミュニケーションの構造が病んでいるんなら、それは今起きていることだし、病気を使わなくてもすむコミュニケーションを新しく創って、そちらを豊かにすれば、病気なんて存在しなくなるってわけ。
 ところで、そういう神経症のみなし患者ってのは、端からみると、なんだかわけのわからない、強いこだわりを持った人に見えるんだよね。エヴァの主人公たち、とくにシンジとアスカだけど、この二人は自分の存在の根拠について、ものすごく強いこだわりをもって思い悩んでいる。もちろん、自分の存在については誰もが多少は悩む事なのだけれど、たいていは、あそこまで深刻にはならない。あの柔軟性を欠いた思考というのが、いかにも神経症っぽいんだよね。
 それにしても、彼らはどうしてあそこまで、つまんないことにこだわるんだろう。その理由は、ようするに誰に対しても、無条件に信頼するだけの勇気がないってことにある。無条件の信頼というのは、まあ、ようするに何の根拠もなく信じることだ。だから、信頼は決して裏切られることはない。仮に、自分の期待とは違う反応が返ってきたとしても、それはたぶんなにかの間違いか一時的な気の迷いにすぎなくて、いつかは期待に応えてくれるんだろうなあとか、ま、色々あるんだからしょうがないかとか思ってしまう。ようするにバカですな。でも、こういうバカになりきるというのは、ある意味で、凄い勇気のいることなわけだ。
 でも、シンジやアスカには、その感覚はない。彼らにあるのは、取り引きの感覚だけなんだよね。取り引きというのは、ある条件を達成したときだけOKで、それができなければ駄目っていう関係だ。でも、世界と自分との関わりの全てがそれだとすると、殺伐としちゃうよね。なにしろ、何か条件を満たさなければ、生きることさえできないんだから。
 もちろん、良い仕事をして、人から評価されることは嬉しいことだし、おそらくこれは人間が群れを作る動物(狼とおなじ、社会組織をもつサル)として進化してきたことからくる、本能的な感覚なんじゃないかとおもう。
 でも、それと、こういう条件が達成された時「だけ」、自分の存在が赦されるという思い込みとは、ゼンゼン次元が違っている。
 シンジは、みんなを守らなきゃとか、お父さんに誉めてもらえるとか、自分が存在してもいい根拠を色々思いつく。アスカも同じで、誰よりも優れている時だけ、存在が赦されると思い込んでいる。だけど、それは結局、取り引き的な関係の枠内でしかない。
 形は変っても、本質は同じことのくり返し。輪廻の輪っかの内側なんだよね。エヴァンゲリオンのメインテーマってのは、たぶんこれで、他者を信頼するだけの勇気がないから、寂しい苦しいってことだ。
 この苦しみから逃れるには、バカになる勇気を持つことしかない。で、たいていの場合、こういう信頼感って親子関係とか、若い頃の仲間なんかの間で、いつの間にか芽生えるものなんだよね。まあ、アスカやシンジに関していえば、親がけっこうキている人なんで、その関係では勇気が育成されなかったつうことはいえるんだけどさ。でも、原因がわかっても、苦しさは少しも軽減されないのよね。
 彼らの救いのキーは、無条件の仲間意識を示してくれていたトウジとかヒカリとの関係のはずなんだけど、どういうわけか彼らは突然消えてしまう。シンジはトウジともう一度出会うべきだったと思うんだけど、そういうエピソードは描かれず、最後にはサイコセラピーの真似事みたいなことで話が終わってしまう。
 まあ、おそらくそういう閉塞感から、どうやったら抜けられるか、結局、庵野監督には、自分なりの解答が見つからなかったんじゃないかという気がする。それで、問題集の答えを先に見て、それを書いちゃったみたいな感じがするんだな。
 そりゃあ間違いじゃないけど、何か違う。厚みがなくて、嘘っぽい後味が残ってしまう。
 この種の答は、個別に見つけ出すしかなくて、それを描ききれれば、文学になると思うんだけど、残念ながらそこまではいけてない感じ。
 最終二話については、サッパリわからんという批判が多いのは、結局そういうところに原因があるんじゃないかと思うんだな。

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エヴァンゲリオンについて(その2)

 エヴァンゲリオンが多くの人の関心を引きつけた理由のひとつは、すかしたことばでいえばメタフィクションだからという話を、前回はした。
 ようするに、あの世界は近未来ではなくて、現代のうつし絵なんだよね。
 でも、それ以上にエヴァがヒットした理由は、あの独特の心理描写にあったことは間違いないだろう。
 ときどき、エヴァンゲリオンのことを分裂病的だって表現する人もいるみたいだけど、そりゃあ俗流の誤ったいいかたじゃないかと思う。まあ、古臭いクレッチマーの体形と性格分類の話を中途半端に思い出すと、そんな言葉も出てくるのかもしれないけれどさ。
 ただ、エヴァンゲリオンに登場する主要なキャラクターは、全員、神経症的ではあるんだよね。
 さて、それで、この神経症っていうのはいったい何なのかというと、極端ないい方をすれば、甘やかされて育った人間が使う、奇妙なコミュニケーションの方法なんだよね。ようするに、ある無意識的な目的を達成するために、色々な形で、症状を使うようになっちゃった状態のわけだ。
 と、いっても、あまりピンとこない人が多いと思うので、少し分かりやすい例をあげてみよう。
 たとえば、普通の人でも、幼いころなら、泣き叫んだりして感情を爆発させれば、あるていど自分の要求を通すことができる。実際、言葉が喋れない頃なんてのは、他のコミュニケーションの取り方はないわけだしね。
 ところが、このやり方を、言葉をちゃんと操れるようになってからとか、大人になってまで使おうとすると、問題がでてくる。大の大人がギャーギャー騒ぐのはみっとも良いものじゃないし、まあ状況しだいということもあるけれど、大局的にみて、感情にまかせたコミュニケーションは、自分の利益を少なくすることのほうが多い。
 だから、たいていの人は、長ずるに従って、もっと別の、適切なコミュニケーション・スキルを身につけていく。
 たとえば、自分の要求を伝えるときでも、相手の立場を理解しながら、両者にとって最適な解答を見つけられるようにしたり、自分にとっても、まわりにとっても破壊的にならないようにしつつ、自分の行動の責任は、自分が引き受けるようになるとかね。
 そして、こういうコミュニケーション・スキルを身につけられるように援助することが、甘やかさない育て方だ。
 ところが、色々な要因で、こういった適切なコミュニケーション・スキルが、うまく育たないことがあるんだよね。
 たとえば、親の仕事が忙しくて、子供が正常な範囲内のいかなる方法を使っても、自分に関心を向けさせることができないような場合。この時、子供は、非常に強烈に親の関心をひきつける、奇妙で病的な手段を編み出してしまうことがある。それが神経症ってわけだ。
 神経症の症状は多彩で、拒食症とか、脅迫神経症とか、かなり強烈なことをやらかすので、これの前には、親はまず無関心ではいられない。つまり、この症状は、自分の欲求を満たす絶大な効果をもっている。そのため、適切なコミュニケーション・スキルを身につけなくても、当座の欲求を満たせる事が多いんだよね。それはつまり、未熟で甘やかされたパーソナリティってことだ。
 人間は誰でも、幼いときから色々な経験を経て、自分なりのコミュニケーション・スキルを身につける。そのなかでも、とりわけ無責任で病的なものが神経症なんだよね。(ただし、神経症の人に、あんたは無責任だと責めたところで症状が消えるわけじゃない。)
 また、幼いときは良かったコミュニケーション・スキルが、大人では必ずしも適切ではないという事もある。
 たとえば、すごくきちんと物事をやり遂げようとすること、なんてのも、問題になることがある。こういう性格の持ち主は、すごく有能で、まわりからの評価も高いのが普通だけど、年を取るとそのやり方に限界がきちゃうことがあるんだよね。
 すべてを完璧にやるのは、周りから賞賛されることだし、とくに子供の頃は、自分の関る世界が単純なので、そうすることは、あまり難しいことじゃない。
 ところが、大人になり、さらに年を重ねると、関る問題が複雑化して、全てに対処することが不可能になったり、体力的に対応しきれなくなってくる。
 まあ、本人がそれに応じて、完全主義をあきらめていければいいんだけど、その手の人は、なかなかそうはいかないんだよね(ちなみに、完全主義者は自分のことを完全主義者と自覚していないことが圧倒的に多い。このタイプの人は、いつも、自分がやったことに対して、不十分だとか、もっとできるはずとか思っていて、自分は完全主義からは程遠いと感じている。でも、その強い思いが、自分を完全主義者にしているんだよね。)
 こういう性格の人は、状況が自分の能力を越えると、大病にかかったり、大事故にあったり、鬱病になったりする。
 ここでちょっと余談だけど、先日、ある女優さんが自殺しちゃったけど、どうもその親しい関係者が、彼女に抗鬱剤を減らすように薦めていたらしい。薬に頼っちゃいかんとかね。しかし、こりゃあ、完全な考え違いによる悲劇だよ。
 鬱病というのは、こころの病気というよりも、脳という内臓の病気と考えたほうがいい。気分の浮き沈みを電球の明るさにたとえると、鬱病はバッテリーが切れかけて、電球が暗くなっているような感じだ。このとき、抗鬱剤は、補助バッテリーの役割を果たして、メインバッテリーの充電を助けるようなものなんだよね。あるいは、骨が折れているときのギプスのようなものといってもいいかもしれない。だから、それをけちると、いつまでも病気が直らなかったり、かえって悪化する恐れがある。抗鬱剤は、医師がもう止めてもいいというまでは、きちんと定められた量を飲まないといけないんだよね。
 神経症的コミュニケーションの特徴は、自分の行動の責任が、自分にはないと主張することにある。たとえば、こうなったのは、病気のせいだとか、病気でさえなければ、これができるとかいうのが典型で、結局それを選んだのは自分だとは認めようとしない。なにか、逆らうことのできない強大な力のせいで、そうせざるを得なかったという形に持っていこうとする。それは、全くの欺瞞なんだけどね。そして、こういう種類のせりふが、エヴァンゲリオンのなかでは、しばしば登場する。と、いうか、ストレスのかかる局面では、ほとんどこういう甘ったれた反応に終始しているような印象があるんだよね。(続く)

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エヴァンゲリオンについて(その1)

SFマガジン 97年6月号掲載

 前回からアニメの話を始めておるわけですけど、こうなるとやっぱし、今話題の『エヴァンゲリオン』について、触れないわけにはいかないよね。まあ、この作品については、すでにたくさんの人が色々なことを語っているから、いまさらぼくが新しくつけくわえることもなさそう(というか、怠け者の僕としては、たくさんの人が注目しているところは、なるべく避けて通りたいんだよね。大変だから。それより、人のあまり着目しないところに話題を見つけるほうが、楽でよろしい)なんだけど、まあ、取り敢えず色々考えてしまったので、それを少しまとめておこうかと思う。
 エヴァには、興味深い要素がたくさんあるんだけど、従来のアニメファンの枠を越えて多くの人の興味をかきたてた理由の一つは、やっぱり作品世界が、メタレベルで現実社会の写し絵になっているからじゃないだろうか。なんというか、エヴァンゲリオンが描く世界は、現代の日本社会が持つ「雰囲気」を、そのまま備えている感じがある。
 たとえば、たかだか10数年前に、セカンドインパクトで壊滅的な打撃を受けたはずなのに、生活は基本的に豊かで何不自由なく、辛い思いを経てきたという感じがまるでない。
 これは、今の豊かな日本人、とくに40歳代半ば以下くらいの人に、太平洋戦争と焼け跡からの復興の苦労の実感がなくて、現代の物質文明を当り前のものとして受け入れているのと同じ雰囲気だ。
 ただ、それは幸せに満ちた世界かというと、もちろんそういうわけではない。
 第一話で、シンジがエヴァに乗せられるところ、あれは現代人の置かれている状況そのものといえる。シンジはこのとき、ほとんど無理矢理に、得体の知れないメカニズムの中に放り込まれ、恐ろしい相手と戦わされる。
 こういう、自分の判断とは無関係に、あるシステムに組み込まれ、なんだかわけのわからない目的に向かって駆り立てられていく感じは、今の日本の中にある受験のシステムとか、会社組織ではお馴染みのものだろう。
 エヴァの世界では、使徒という敵からの防衛が大きな目的となっている。でも、使徒とは何で、どうして攻めてくるのか、ほとんど誰も知らされていない。
 これは現実の日常が、競争社会という言葉で現わされるように、何か非常に競合的であったり、何者かと戦っているらしいんだけど、それがどういう目的をもったどんな相手なのか、良くわからないことと似ている。
 そのうえ、使徒との戦いには、いと高き志というものがない。頑張って戦うぞぉっていうような、やる気がモリモリ湧いてくるような理想の裏付けがまったくなくて、攻められるから戦っているにすぎない、奇妙に受動的なところがある。(使徒は敵ではあるけど、悪者ではない。悪者なら、それをやっつけるのは正当で、それが理想になり得るけど、その程度の単純な動機づけすらない)
 こういう志の欠如というのは、戦後の日本に蔓延している、日本固有の、重大な問題だと思う。
 日本では太平洋戦争以降、志を持つことが、失敗につながったり、悪いことであったりするということが、社会的にくり返し示されてきた。
 たとえば、日本人は総体として、以前は信仰心の篤い人々だったと思う。まあ、俗流には、日本人は昔から宗教的にいいかげんだったといわれることがあるけど、それは事実じゃない。
 もちろん、神仏の混交みたいな外来宗教の土着化があったことは間違いないけれど、それは信仰心の薄さということとは関係ない話だ。日本人は昔から信仰心が薄かったと思うのは、単に現代の自分がそうだからそう感じるだけで、かつての日本人の信じる心には、今のようないいかげんさはなかった。
 はやい話、国家神道はかなり強烈に日本人の心を支配していたわけで、今からみるとあんなバカげたファンタジーにのめりこんでいたのは、日本人の信仰心の篤さの何よりの証拠だろう。
 ところが、敗戦によって、突然、天皇が神から人に変ってしまったことで、宗教的信仰心に決定的な疑いが生じてしまった。また、鬼畜米英といっていた悪人たちが、突然民主主義をもたらしてくれた良い人になってしまったり、大東亜共栄圏という理想が、侵略の口実だったりと、イデオロギー的なものに対する非常に大きな不信感も持ったと思う。
 さらに、それに追い打ちをかけるように、学生運動などのイデオロギーに基づく運動はことごとく間違っており、しかもそれは、赤軍派の内ゲバ事件みたいなことにつながる、とても醜悪なものなのだというイメージが定着してしまった。
 宗教心やイデオロギーなどの、現実を離れたファンタジーは、結局は嘘で、それを信じると痛い目をみるのだということを、日本人はくり返し学んできたんだよね。ここまで徹底的にファンタジーが否定されては、程度の低いプラグマティズムというか、拝金主義が蔓延してしまうのも無理はないわけだ。
 そして、そういう雰囲気の時代があまり長く続いているので、今じゃ、志を持つとはどういうことかとか、なにが信じるにたるファンタジーなのかという判別能力すら薄らいでいる。だから、オウムみたいに品質の悪い超ダサダサのファンタジーでも魅力を感じる人が出てきたり、青島幸男を都知事にしちゃったりという、わけのわからないことが起きるわけだ。でも、これも失敗だったわけで、我々の社会からは、ますます夢もチボーも無くなってきちゃっているのよねん。
 でも、この種のファンタジーは、人間が健康に生きていくためには、必ず必要になるものだ。
 人は、いつも一定の安定した精神のレベルを保っていられるわけじゃなくて、迷いが生じたり、落ち込んだりすることがある。そういうときに参照すると救いになる超越的なものとして、宗教心や理想ってなものがある。だけど、今の日本人は熱ものに懲りていて、そういうものを、素直に持つことはできない。
 エヴァンゲリオンの世界では、主要キャラ以外のネルフ関係者は、みんな恐ろしいものと戦っているはずなのに、どうもその実感がなさそうだ。何だか勤勉で、たぶん有能な人達ではあるんだけど、自分の意志みたいなものはあまりなくて、システムにスポッとはまり込んで、歯車としての機能を上手に果たしているだけって感じがある。これって、日本のような、理想の欠如した社会に適応した人間の、ふるまいそのものじゃないだろうか。

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リアル表現の東西

 宮崎駿論を紹介したついでに、これまで書いてきたアニメ関係の内容も、まとめて紹介しておこうと思う。
 なんか、今年の後半は、昔書いたものの再録が多くて申し訳ないけど、どれもまあそれなりに面白いと思うんだけどどうでしょう。いちおうこういう考え方がぼくの基本にはあるということを知って頂いて、来年は、もうちょっとオリジナルの内容を書いていこうかと思っています。


SFマガジン1997年 5月号掲載

 日本のアニメは、マンガと並んで、世界に誇るべき、独創的な表現メディアだ。まあ、独創的といういいかたをすると、そりゃ違う、アニメーションの起源はアメリカじゃないかという意見も出てくるかもしれないけど、映像表現技法から描かれるテーマまで、あらゆるレベルで他にない新しいものを産み出し続けているという点で、アニメは充分に独創的な存在だと思うんだよね。とくに映像表現では、ハリウッド映画なんかとは、目のつけどころがまるで違っている。
 よく、アメリカの映画関係者には、日本のアニメや特撮が好きな人がいて、その影響を受けた作品も多いといわれる。だけど、それはあくまでデザインなどの静的な部分の話で、何に着目して、どういうふうにシーンを表現するかという全体は、日本のアニメとアメリカ映画の間には、大きな文化的違いがあると思う。
 これはやや一面的な見方になるかもしれないけれど、アメリカ映画的な特撮の究極の形は、やっぱりCGを使った、現実のシミュレーション映像だろう。
 たとえば、『アポロ13』のロケット発射時に船体表面からはがれ落ちるドライアイスや、『ツイスター』でバラバラに吹き飛ぶ小屋の破片がみんな計算で創り出されたって聞くと本当にびっくりしちゃうし、『ジュラシックパーク』や『ジュマンジ』などの恐竜や動物のリアリティある表現というのにも、つくづく感心させられる。でも、このCGの使い方は、どれも基本的に一つの哲学に基づいていて、可能性の一部しか表現していない感じがするんだよね。
 つまり、現実に撮影するのが困難なシーンをシミュレーションで創り出し、それを撮影可能な映像と組み合わせることが、リアリティを表現するための最良の方法だと思っているフシがある。
 これに対して、日本のアニメの場合、リアリティの表現に、現実のシミュレーションを使う発想はあまりない。もちろん無くはないんだけど、それよりも、現実には存在しないものを現実的なシーンに組み合わせることで、リアリティを表現しようとする傾向がある。
 たとえば、ルパン三世の『さらば愛しきルパンよ』の中で、ロボットがガラスを割る時に、写りこんでいる光が一瞬ゆらっと揺れるというシーンがある。あるいは、『カリオストロの城』でオートジャイロが始動するとき、プロペラに一筋の煙が吸いこまれてくるっと輪を描くなんてものもある。これらは、印象的でリアリティを感じさせる映像なんだけど、現実には、そんなことが起きたり、見えたりするはずはない。
 また、日本のアニメでは、『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲発射シーン以来、なんか物凄いものをぶっぱなす時は、それなりに手の込んだ手続きが必要だという暗黙の了解がある。メカニカルに何かがガシガシャ動いたり、発射孔にエネルギーの高まりを示す光の収束があったりして、どえらいのが行きまっせという感じがいやがうえにも高まるわけだ。
 こういうのに慣れ親しんでいると、ハリウッド映画の宇宙戦闘シーンなんか、どうも色気がないというか、味気なくてしょうがない。スタートレックの『ファーストコンタクト』に出てくる宇宙戦闘シーンは、今のハリウッド映画の最高水準の特撮合成を使っているのだろうけど、フェーザーはぴろっと出るだけであまり迫力を感じないし、爆発もぼえんと爆ぜて破片が飛び散りましたっつうだけで、だから何なのって感じ。
 これに比べると、『超時空要塞マクロス』に出てきたダイダロス・アタックのシーンで、宇宙船の内部に打ち込まれた無数のミサイルが爆発して、船体外壁がトウモロコシみたいに膨らんで内破するシーンは、一億倍もカッコいい。
 日本のアニメは、目に見えないものを表現するのが巧いといわれる。
 たとえば怒りを表現する時に、ディズニーのアニメーションなら顔の表情や体の動きで、それを正確に表そうとするだろう。しかし、日本のアニメは怒りを感じているキャラクターはあまり変化させずに、周りの草がざわめくというようなやり方で表現したりする。現実には、いくら怒っても、周りの草がざわめきはしないんだけど、それでもそういう表現をしたほうが、現実以上に迫力を持たせられるんだよね。
 こんな具合に、日本の表現者は、ごく当たり前のように、現実の中の小さなすき間に虚構を降り混ぜて、独特のリアリティを産み出そうとする。でも、いったいどうして日本のアニメは、こんな表現を身につけたのだろうか。
 ディズニーのフルアニメは、絵を使って、可能な限り本物の動きと同じものを表現しようとしている。これも、基本的に現実のシミュレーションを、至上のものとする文化の現れだ。
 まあ、その結果、人間の動きや表情が、極端にくねくねして奇妙に見えるんだけどね。普段は無意識のうちに無視していて気がつかないんだけど、人間は本当にいつもくねくね動き続けていて、それを動画という見慣れない表現でなぞると、強調されて奇妙な感じるわけだ。
 ところが、日本のアニメは、フルアニメを作ることができるほど、お金も暇もない。そこでパートアニメという手法に頼らざるを得ず、結果として、ディズニー映画みたいな、シミュレーション志向を採用することはできなくなった。
 まあ、そういう事情が、今のアニメ表現を生み出すきっかけの一つではあったんだろう。でも、それ以上に大きな要素が、日本の文化の中にはあると思う。
 なぜなら、同じようなことが、別のジャンルでも見られるからだ。たとえばポルノなんか、欧米のものはあからさますぎてゲンナリしちゃうけど、日本のものは裏ビデオだって間接的で情感のあるシーンが挿入されている。
 それから、コンピュータのソフトウェでは、アメリカは多くの独創的なジャンルを創り出してているけど、その発想の根幹は、やっぱり現実のシミュレーションにある。たとえば、表計算ソフトは帳簿のシミュレータだったわけだし、RPGもテーブルトークをパソコン上でシミュレーションしようとしたものだ。これは、欧米人が計算機を万能シミュレータとして見ているから、そうなるのかと思っていたけど、実はもっと根の深い、文化的なものの見方の傾向にまで遡ることができるのかもしれない。
 つまり、欧米文化では、それそのものを越えるリアリティにはなかなか思い及ばないのに対して、日本の文化では、ごく自然に、現実以上のそれらしさを求めてる傾向があるんじゃないだろうか。

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マンガ版ナウシカ論

 宮崎駿はアニメの人なわけだけど、ぼくは、マンガ版のナウシカがいちばん好きな作品だ。つーわけで、それについて書いたものを紹介しよう。

SFマガジン95年4月掲載を若干改稿

 宮崎駿の漫画、『風の谷のナウシカ』は、雑誌アニメージュで1983年から連載が始まり、95年に単行本として完結した。12年にわたって描き続けられてきた大河ドラマが、ついに完結したことになる。
 それにしても、これはまあ、なんつーか、すっごい感動したなあ。このところ何年も、そういう話を読んでいなかったような気がするけど、SFってのは文明批評のできるジャンルなんだって事を、改めて思い出させてくれた作品だなあって感じなんだよね。
 宮崎駿というと、誰でもやっぱりアニメ(1984年公開)を先に思い描くだろうと思うけど、このマンガ版は、アニメというメディアではちょっと表現しきれない、人間性や人類と文明のかかわりの、重厚な内容が語られている。
 その意味で、アニメ版のナウシカとはまるっきり違う作品なんだよね。
 実をいうと、アニメ版のナウシカとか『天空の城ラピュタ』という作品を、ぼくはあまり買っていなかったりする。
 もちろん、どちらの作品も宮崎アニメらしく、楽しいところは楽しいし、素晴らしい作品だとは思うんだけど、何だか結局のところ、自然がいちばんだから、自然に帰ろうねというようなメッセージしか伝わってこなくて、それはないよな~ってな感じが残ったんだよね。
 たとえばラピュタでは、園丁ロボットやオーニソプターなどの機械類や、どうやらバイオテクノロジーの産物らしい巨大な樹木なんかを見せておいて、それを自然というのは、な~んか釈然としないじゃないですか。自然に帰れといっているその自然は、本当は自然じゃないじゃないのさって、こう突っ込みたくなる。
 自然に帰ろうというのは、ロマンチックで甘美なスローガンだけど、そんな自然なんてものは、はじめっから存在していない。そういう、自然じゃないものを自然と呼ぶ欺瞞に満ちた言葉ってのは、道を誤らせやすく、エフェクティブじゃなくて、ぼくはあまり好きじゃないんだよね。
 現実の世界にも、そんな話はゴマンとあって、いつもヤレヤレって思っていたりする。
 たとえば、無農薬野菜主義とか、味の素は舌がしびれるから使っちゃいけない主義とかね。こういうのは、まともに本当の物事を見ようとしない単なるレッテル張りなんだよね。
 自然農法、無農薬野菜というと、なにがなんでも工学の産物は使っちゃダメみたいな感じになって、作物そのものがもともと持っている毒性より低い毒性しかない農薬や、化学肥料まで嫌う事がある。すると、無農薬なら体に悪くても良い、みたいな話になっちゃって、寄生虫病が復活したりする。味の素も、かつては化学調味料ともいわれて、使うと頭が良くなるからジャンジャンかけようなんて話も合ったくらいだけど、今ではほんの少しでも使ったら、ああもう不味くってダメみたいなことをいう人もいたりする。
 でもなあ、そういうのって、本当に食べ物を食べているんじゃなくて、思想を食べているとしか思えないんだよね。
 時代が移ったことで、何を嫌い、何を受け入れるかのアイテムのセットは変わったけれど、やっていることはまったく同じ。構造的には、一昔のテクノロジー万歳主義と、何一つかわっちゃいない。
 そういう、まったく同じ考え方の輪廻の中にいる限り、早晩、かつての科学万能主義時代に起きたのと同じような、イヤンな問題が持ち上がってくるんじゃないだろうか。
 そういう考え方よりも、たとえ人間が作り出したものだって、社会の中に定着しちゃったら、それは「自然」の一部と考えるほうが適切じゃないか。それが今、環境の中でどんな位置を占めるかだけが重要で、その出身による区別なんかまったく意味がない。
 安全でおいしい食べ物が、多くの人に行き渡るようにしたいというのがたぶん誰もが望む事なのだと思うけど、それだったらそれなりの、今の技術の適切な使い方があるだろう。出身が比較的最近あみ出された技術だから、その方法は汚れているから使わないってのは、疎外的な教条主義に過ぎない。
 漫画版のナウシカの凄いところは、物語の進むすべての段階で、そういう教条主義に陥ることなく、つねに人間疎外的でない道を選ぼうとし続けていくことだ。
 ナウシカの世界では、かつて人間が引き起こした災害によって、地球の大地は激しく汚染されてしまっている。古代人は、それを浄化する生物システムとして、バイオテクノロジーを駆使して腐海の植物群や、王蟲などの蟲たちを創造したわけだ。そして、物語の最後近くで、実は人間そのものも、生物学的に毒に耐えられるように改造されていて、本当に清浄になった環境には、もはや棲めない肉体になっていたことが明らかになる。地球が本当に浄化されきったら、ナウシカ達の種族は、肺から血を吹いて死んでしまうんだよね。
 古代人の地球再生プログラムには、地球が清浄に戻ったとき、人間をもとの環境で生きられる体に戻す技術も組み込まれていた。でも、物語の最後で、ナウシカはその地球と人類の再生プログラムを担ったバイオコンピュータを、その使命を知っていたからこそ殺してしまう。
 生まれ出た生き物は、その出自がたとえなんであろうと、自分たちの意思で生きていく権利がある。それを完全に管理し、ある目的の道具とするのは、それがたとえ良い意図に見えても、超過保護的で人間性を疎外する。ファシズムなんてその典型だし、子供に対する過保護もまったく同じ論理構造を持っている。
 「地獄への道は善意の煉瓦で敷き詰められている」という言葉があるけど、古代人のプログラムは、まさにそういうものだ。ナウシカはそれに対してノーをいったんだよね。その選択は、人々の生活を決して楽にはしないけど、本当の生を生きられるようにした。現代文明も、ナウシカの腐海世界と同じような、人間疎外に関する未解決の課題を抱えていて、それがきっと、この作品をここまで感動的にしているんだろうなあ。

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無意識の描き方

  『ハウルの動く城』は、女性には受けが良く、男性はいまいちと感じるのだそうだ。
 その理由は、男性は論理を重んじ、女性は感性を大切にするから。
 ハウルのストーリーを追っていくと、物語で起きる様々な事柄が、どう考えても論理的につながっていない。たとえばソフィーの魔法って、解けたの?解けてないの?とか、ハウルが心を取り戻したら、戦争が終わるのはなぜかとか。それより何より、ハウルは、髪の毛の色が変わったくらいで、なぜあれほど取り乱すのか。そしてソフィーはなぜ、あんなふうに泣いてしまうのか。もうワケワカランですな。
 でも、女性には、そんなこたあどうでも良いのです。
 好きになる時は好きになるし、泣きたい時には泣けるわけ。感情の動きはとても自然で、素直に共感できる。そのわかりやすさは、他の作品の追随をゆるさないとか。

 なるほどね。そうかもね。

 で、ぼくはどうかというと、この作品もなかなか楽しめたのでした。
 ただ、なんでこれを面白いと感じたかは、まだうまく言葉にできないというか、まあそのうち解るだろうってな感じ。

 そんな中、作家の林譲治さんのハウル論を読んで、こりゃあ面白いなと思ったのでした。
 『林の頁」の2005年12月11日の日記にそれが載っているので、詳しくはそちらを読んで頂くとして、その印象深いところをあげると、

 これは、戦争の話ではなく、戦時体制の話ということと、この世界で描かれる魔法は、日本における科学そのものだということだ。

 後者について、林さんはこう書いている。

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 そういうわけでペンドラゴンに漁船に良い風が吹くようにまじないをしてもらうのも、国王が戦争への協力を命令するのも、科学感に関する限り、規模は違うが同じ事である。誰もどうしてまじないで良い風が吹くかとか,爆弾が命中するかなどには興味が無いのだ。求めるのは実利だけだ。そして真理の探求者ではなく、実利の具現者として魔法学校がある。

 多くの日本人が科学に求めるのは実利であって,そしてそれだけだ。ほとんどの日本人にとって法則や原理や起源そして思想などはどうでもいい。求めているのは役に立つかどうか,それだけ。
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 少し話がそれるけど、これは実は日本に限ったことじゃない。純粋科学というか、基礎科学に対する強い関心は、欧米特有のもので、そうでないところの人にはいまいちピンと来ないのが一般的だと思う。だからたとえば中国では、有人宇宙飛行などはやっても、科学探査のようなことはほとんど行われない。
 世界を上手に操作するための手段の一つとして、技術を求め、その裏付けたる科学を必要とするというのは、どの文化でもあり得る事だけど、原則として実利を伴わない純粋科学への関心というのは、やっぱり不思議な考え方だ。

 欧米が基礎科学を重視するのは、一神教と関係しているという説もあるけど、イスラム教文化圏もやっぱり基礎科学にそれほど強い関心は持っていないみたいなので、それは違うと思う。じゃあなにがそういう考えをもたらしたかというと、ぼくにも答えはないのだけど。だれか、良いアイデアはありませんかね。

 まあ、それはともかく、ハウルの世界は、現代の日本がもつ雰囲気の写し絵であるわけだ。そして、宮崎駿のアニメの見所は、ぼくにとってはいつも、その無意識の描き方なんだよね。


 以下、SFマガジン1999年10月号掲載を若干改稿

 ぼくたちは、なぜ、物語を読むのだろう。それには色々な理由があり得るけれど、そのいちばん根っこにあるのは、心を、今ここでないところに遊ばせたいという事だと思う。
 優れた物語は、小説に限らず、映画でも芝居でもマンガでもアニメでも、今ここでないところに心を誘う表現を持っている。つまり、心の状態を、日常とは違うものに変えてしまう力がある。
 たとえば、川端康成の『雪国』は、次の有名な描写ではじまる。
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
 これを読むと、たったこれだけの短い文章に過ぎないのに、汽車で、真っ暗なトンネルのずいぶんと長い闇の中を通りぬけ、いきなり開けた場所に出た様子が思い浮かぶと思う。そこは夜とはいえ、星明かりが雪の原に照り映えて、一面がおぼろに白んでみえている……。
 こういう情景がありありと浮かんでくる事、それはつまり、この文章を読んだ瞬間に、自分の心が、今こことは別のところに焦点を結ばされたということだ。
 そのとき、読者の心は物語を傍観しているのではなく、その世界の中にいて景色を眺めている。これは凄い事で、こういう力を持った描写ってのは、文学というメディアの能力を最大限に引きだした一つの例といっていいと思う。
 そしてアニメの世界では、この種のとびきり優れた表現が、宮崎駿監督作品の中にある。
 宮崎監督ってのは、日本アニメ界の至宝であることは間違いない。でも、ぼくの感じるところでは、劇場アニメのうち、大作SFファンタジー系の作品は、どれも今一つって感じがするんだよね。
 まあ、宮崎監督ならばという期待が大きいせいもあると思うんだけど、ナウシカはマンガ版に比べて矮小だし、ラピュタはうまくまとまってはいるけど月並みで、もののけはマンガのナウシカで描いたあれをアニメで表現しようとして、とっ散らかったまま終わったみたい。
 でも、『となりのトトロ』と、『魔女の宅急便』のニ作は、文句なしに素晴らしい作品だと思う。少なくとも、これまでああいう描写を試みたアニメって、他にはなかったんじゃないだろうか。
 この二つは、ストーリーという観点からすると、ドラマチックな大事件とかは全く起こらなくて、ホント、ごく当たり前の日常の一断面って感じでしかない。
 なにしろトトロは、「引っ越した田舎から、入院中のお母さんにトウモロコシを届ける話」だし、魔女の宅急便は「魔女修行に出かけた女の子が、初めての町で多くの人の心にふれて、いちどスランプに陥るけど、なんとか立ち直る話」だ。うーん、要約するとホント、何なのこれって感じだよね。
 ただ、このニ作には、見ているものの心を、今ここでない所へと誘う実に巧妙なしかけが、あちこちに仕組まれている。
 スタジオジブリの作品は、新作ができるたびに過去最大のセル枚数とかいう宣伝文句がうたわれるけれど、これはそういうこととはあまり関係ない。
 まあ、心を別の状態に変えるには、ある程度の絵の質感やデテールの精密さも必要だろうから、全く関係ないとは言い切れないけれど、いちばん肝心なのは、何を描こうとしているかということだ。
 たとえば、『魔女の宅急便』の中で、主人公のキキが、はじめての宅急便の注文を受けて、パン屋の離れの二階に息急き切って登っていくシーンがある。
 嬉しくって、大あわてで、勢いよく、トトトトと階段をかけあがって行くんだけど、その途中で、ちょっとつまずいて前のめりに倒れるんだよね。でも、そのとき、手とひざを使って四つ足で歩くようにして、そのまま登っていく。
 これを見た時、ぼくも子供のころあんな風に、階段の途中でつまずいて手足を使って登っていったものだなあって事を思い出した。それも、そういうこともあったなという客観的な回想として思い出したというより、体の感じとして、ああ、ああだったなって感じたように思う。
 つまり、その瞬間、ぼくの心は、あの少女と同じ、子供のころの感覚に誘われていたわけだ。
 あるいは、となりのトトロで、めいちゃんが、子トトロを追いかけて縁の下を覗いたとき、その中には空きカンとラムネの空きビンが落ちていた。
 そうなんだよ!ああいう、縁の下にある風抜きの穴の中を覗くと、絶対に古ぼけた空きカンとか牛乳ビンとかいったものが落ちているんだよね。
 ぼくは昭和三十年代の生まれだけど、名古屋の都心部に住んでいたため、物心ついた頃には、まわりの道は全て舗装されていて、近所ではむき出しの地面なんてほとんど見られなかった。だから、トトロに描かれていたような豊かな自然の中で住んだことは一度もない。せいぜい、親戚のある田舎にいくと、あんな感じの景色だったかなあというくらいかな。それに家の近くには、縁の下が覗けるような家もなかったから、それもきっと田舎での思い出なんだろう。
 そういう意味じゃ、ぼくにとってトトロ的な自然の風景というのはそれほど身近でもないんだけど、でもあの縁の下にラムネのビンを見つけちゃうようなことって、すごくよく判るんだよね。
 あれが思い出させるのは、体が小さくて視点が低かったなってこともあるけど、それよりももっと大きいのは、身の回りの世界を探検して回るのがすごく楽しかったってことだ。
 めいが、低木の茂みの中の自然のトンネルの中を探検したように、ぼくも小学校に上がる前くらいは、ビルとビルとの隙間の、大人じゃ入れないけもの道みたいなところに入っていったり、家と家の間の塀の上なんかを歩いて、どこまで行けるかとか探検したりするのが好きだった。ほとんど、犬とか猫みたいだけど、でもそういう感覚って、幼いころには誰もが持っている気持じゃないだろうか。
 そして、トトロの中には、そういう自分の幼い時代の感覚を呼び覚ますような描写が、あちこちにちりばめられている。それも、子供の頃はああだったなという具合に傍観者的に思い出すんじゃなくて、ありありと当時の自分の目で見ているような感覚を引き出してくれる。
 トトロにせよ魔女宅にせよ、こういう描写の力によって、見るものの心をものすごく巧みに今こここでないところに導いている。多くのエンタテイメント作品がそうであるような、ストーリーをひたすら眺め、物語の先を知りたいと感じさせるようなタイプの作品ではなく、少なくともある瞬間は、作中人物の目で見、耳で聞いているような感覚を味あわせてくれるような作品になっている。
 これは本当に、天才ならではの仕事だと思うなあ。

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2005/12/10

今日は父の命日なのです(その2)

 父は、青い珊瑚礁(ブルー・コーラルリーフ)という、いちおう有名なカクテルを創ったり、日本バーテンダー協会のえらい人をやったりで、その分野には貢献した人だったと思う。
 でも、そのへんの事情について、ぼくはほとんど何も知らない。バーテンダーの業界の事は何も知らないし、カクテルのカの字も教えて貰った事はない。作っているところを見た事すらない。
 そもそも父とは、あまり顔をあわす事もなかった。
 仲が悪かったわけではなく、ただ疎遠な感じ。
 幼い頃に遊んで貰った記憶もないし、好きな事がしたかったのだろう、自分用のマンションに住んでいて、ぼくのいた家には平日昼に仕事のついでに来て、夕方には帰るという感じだった。だから、小学校高学年から中学、高校時代は姿を見る事も少なかったし、日曜日は家に来たっけかな……どうも思い出せない……くらい縁遠かったんだよね。
 覇気のあった時は、あんまり家庭とか子供に興味はなかったみたい。
 でもまあ、ぼくが東京に住むようになって、たまに帰省すると、少し手の込んだ手料理を準備して、迎えてくれたりしたものだ。
 父は、炊事、洗濯、掃除、アイロンがけ、散髪まで自分でやった。おしゃれにはかなり気をつかうほうで、紫色の靴とかまで持っていた。
 葬式の時、おそらく父の若い頃、苦楽を共にした仲間なのだろう、何人かの方が声をあげて泣いてくれた。それは、父が実りある人生を生きたことを示してくれたようで、とても嬉しかった。

以下、SFマガジン 2000年2月号 掲載を若干改稿

 ぼくが父の病室に泊まり込みをはじめた頃は、父はまだ、まともな部分を多く残していた。時々おかしな話をするし、幻覚も見ていたけれど、普通の会話ができる時間もわりとあった。
 それで、病院はやることがあまりなくて退屈だったので、色々なことを話してもらった。父の子供時代や、軍隊時代のこと、終戦後、函館で魚を仕入れて東京で売って稼いだ話などなど。そういう話題も尽きると、好きな小説の話もした。司馬遼太郎の『坂の上の雲』は良いぞ。あれはただ面白いだけの話じゃなくて、日本のことを深く考えているから、とか。
 でも、日に日に父の病状は進んでいく。
 昨日できた事が今日はできない。テレビのリモコンが使えない、ファスナーが巧く開けられない、日によっては文字が書けなくなったり、言葉が出ないらしくてジェスチャーをしていたこともあった。まるで朦朧とした半覚醒の状態のようで、睡眠薬を飲むと、幻覚症状がとくに強く出てくる。床が濡れているようにみえたり、色々な人が尋ねてきていると勘違いしたり。どんどん、まともな会話ができる時間が減って、2週間もするとそれは一日30分以下になっていた。
 そういう父の幻覚症状について、ぼくは慌てることなく、素直に受け入れていた。それは、昔、こんな事を読んだことがあるからだ。
 盲人は、視覚機能に障害がある人だけど、それは人間としてつき会うことに何の問題もない。それと同じで、精神機能の一部に傷害がある人とでも、人間としてつきあうことに何の問題もない。
 これが念頭にあったから、父の奇妙さも、そういうものとして受け入れて、普通につき会った。もし、そうできなくて、こちらが取り乱していたら、父の心もかなりかき乱されたのではないかと思う。短い時間とはいえ、正気に近い状態の時はあるので、その時には、自分がおかしくなっている事に気がついていたから。
 でも、そうしなかったことで、見ている幻覚についても、感情的になることなく、色々な話ができた。
 たとえばベッドの上に鍋があって、ぐつぐつ煮えているという。それは幻だねというと、そうだな、よく見ると線画みたいで厚みがないな。お、今肉を持ってきた。誰かが運んできてるの?いや、そうじゃなくて、気がつくと置いてあるんだ。あそこにある傘は本物かな?そうだよ。じゃあ、あの棚の上にある箱は。ティッシュの箱ならあるね。その向こうにある蛇の目傘は?うーん、それはぼくには見えないな。そうか、難しいな。
 幻覚のリアリティは、本物と同じくらいあるらしい。だからちょっと見ただけではだまされてしまうけれど、注意すると細かい違いがあるという事だった。
 たとえば、老眼なので本当にあるものは、ぼんやりとしか見えないのに、幻覚はいつもはっきりと見えるらしい。また、色はわかることもあれば、そうじゃない時もあるという。後に、『脳の中の幽霊』を読んで、その幻覚は目を閉じても見えるのかどうか、聞けば良かったと思った。残念ながら、その質問はできずじまいになってしまったけど。
 後からわかった事だが、この一連の症状はぼけではなく、せん妄というものだった。せん妄は、色々簡単なことができなくなるし、記憶が混乱したり、マトモじゃない事を口走り始めるので、よく痴呆と間違えられる。
 でも、実際には全く別ものだ。
 これは覚醒水準の障害で、深い眠りを取ることができず、また完全に覚醒する事もできなくなった状態だ。このため、はたからみると起きているようでも半覚醒状態で、白昼夢を見ながら何日間も全く眠らず行動するようになる。
 病院で普通に処方される睡眠薬=ベンゾジアゼピン系のマイナートランキライザーは、深い眠りを抑制する働きがある。そのため、これを服用するとせん妄症状が、かえって悪化することがある。うちの父は、眠れないからこのクスリが処方され、まさにそれで症状が悪化していった。そして、それさえなければ、もっと安静を保って治療が受けられたはずで、こんなに早く父が逝ってしまう事もなかったろう。まあ、全ては後知恵ではあるのだけれど。
 それにしても、3ヶ月少々の間だったけど、本当に色々な事が起きた。
 夜、寒いからというので、布団をかけると布団が重いといって文句をいう。それで、違う布団にかけなおしたり、床擦れができないように下に敷いている枕の位置を変えたり、そんな事を延々と、6時間も8時間もやり続けないといけない。足をずっと按摩してあげたり、あるときはどうしても寒いっていうんで、わかった、じゃあ添い寝して体で暖めてやるといって、同じベッドに寝た事もある。よせよ、とか言いながら、けっこう嬉しそうだったりして。
 ある時は、どうしても聞き分けてくれず、病院のビルの管理人にかけあって暖房をつけさせろといい出す。そんなの絶対に無理だよ、といっても聞き分けてくれない。それじゃあお前、なにか、人間はみんな、過去に誰かがやったことと同じ事しかしちゃいけないのか、やってみなくちゃわからないじゃないかと、妙に説得力のあることをいう。でも、深夜の3時に、さすがにそれは無理だよね。
 どんなにいってもわかってくれなくて、喧嘩のようになってしまう。こんなに親不孝な子供は殴ってやりたいというので、じゃあ殴ってくれといって頭をさし出す。すると、殴れん……おまえ父さんの事が好きなんだろという。ああ、好きだよっていうと、父さんも好きだ、こうしているとどんどん好きになっていく、だって。
 嗚咽というのは、しゃっくりとか、くしゃみの発作みたいなものだ。最初、その衝動につかまると、体が自動的にそのように反応する。でも、猛烈な感情はその刹那だけだ。感情の渦はすぐに収まる。収めることができる。でも体がする嗚咽の発作は、しばらくは止まらない。鼻もつまっちゃうし。
 まあ、肉体的にはとても大変だったし、毎日のように予想外の事件が起きて、その状態がいつまで続くのか、これから先どうなっていくかなど、まるで見当がつかない中で日々をしのいでいくのは、けっこうしんどくはあった。もしぼくに子供がいたら、同じような苦労は決してさせたくないとも思う。しかし、それでもこの、正気でない父と、最後の時間を過ごせたのは心底良かったと感じている。
 あのなんというか濃密な時間の中で、たぶん、正気のままだったら決して見ることはなかったろう、父の人間としての全て、悲しいところ情けないところ小ずるいところから、優しさや理想を求める心や良心といったものまで、すべてをまのあたりにすることができたから。人間てのはやっぱ面白いもんだよな。

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今日は父の命日なのです(その1)

 ぼくは宗教を全く信じていない。
 主義主張とかで激しく信じないというのではなく、まあ淡々と、そういう超自然はないよなあと感じるんだよね。
 なので、他の人が宗教やオカルトを信じていても(一緒にしちゃまずいか(^_^;))、それがその人の心の真実なら尊重している。もちろん、社会的に迷惑なものの場合は、それはちょっと……と言わせて貰いますが。
 当然ながら、宗教的儀式にはあまり熱意が持てない。お仏壇にお祈りしたり、お墓参りとかも、母におつきあいでする感じ。
 人は死ねば、無に帰るのです。
 でも、その人の事は、おりにふれて思い出す。
 ぼくの父は、6年前の今日、亡くなりました。

以下、SFマガジン 2000年1月号 掲載を若干改稿

 昨年(1999年)の暮れ、82歳で父が逝った。
 直接の死因は肺炎の悪化によるものだけど、その肺炎は肺癌の摘出部に端を発するものだった。しかし、本当の意味で父の死を早めたのは、せん妄症状だったのではないかと思う。
 父が肺癌だとわかったのは、去年の春先だった。右肺腺癌で、手術前の見立てではステージがIIまたはIIIA(ローマ数字です)という。肺癌は通常、肋骨などに邪魔されて発見し難いため、気づいた時にはあちこちに転移していて、手術できないことの方が多いのだが、ステージIIIAはぎりぎりいけるというレベルだ。
 そこで、書籍や資料を片っ端から読みあさり、友人の医師に相談したり、インターネットのセカンドオピニオンをしてくれるサイトで、複数の専門医に相談したりして、最も妥当と思われる治療方法を、ぼくの責任で決断した。それにしても、インターネットの存在は、本当にありがたいものだ。実は、ぼくの古い友人も、ほぼ同時期に父上がうちと同じ病気を抱えていたそうだが、やはりインターネット上での相談で大いに助けられたという。その父上も、うちの父の10日ほどあとに亡くなられたのだが。
 治療には、色々な選択肢があって、何を目差すかが重要だ。ぼくの目標は、これからの父のクォリティ・オブ・ライフを最善にすることだった。
 父は年の割には若く(外見は60代くらい)て丈夫だったものの、調べたところでは通常80代の患者に肺癌の手術を行うことはないらしい。術後の肉体的ダメージは大きいから、仮に手術しても自由に動けなくなったり、寿命が変わらなければ、やらない方がマシなのだ。
 父の場合は、手術をしなければ1年は持たないという話だった。しかし、手術が成功すれば3年は確実に生きられるという。また、体力も、発作性の心房細動はあるものの、肺活量など十分手術に耐えられるという判定だった。
 そこで父に告知して、手術をすることを選んだ。告知前の父は、自分の病状をずいぶん不安に感じていたと思う。「俺はガンなんだろう」と言いながら、食い入るように母の顔を見つめ、表情の変化を読みとろうとするあの必死の目つきが、今でも忘れられない。でも、告知をし、疑問に感ずることの全てを丁寧に解説したことで、ようやく落ち着きを取り戻してくれた。手術にはかなり前向きで、術後の肺活量の不足を補うための呼吸訓練など、熱心にやっていたものだ。
 そして、手術。
 しかし、残念ながらあけてビックリ玉手箱だった。原発部位の右肺上葉の大きな塊は取れたものの、それとは別に縦隔リンパ節にあった一部が肺動脈にがっちり食い込んでいたのだ。
 縦隔リンパに異常がありそうなことは、事前のCTでもわかっていたけれど、気配程度のものなので、あっても取れるだろうというのが、執刀医の判断だった。しかし、術中に外に出てきた執刀医は、これを無理して取ると、片肺を全部ダメにしてしまうかもしれないという。
 父の年で片肺になるというのは、呼吸器をつけ、自由にベッドを離れて動けなくなるということだ。そんなことなら最初から手術は選択しなかったわけで、結局、ガンの一部は残すことにした。もちろん、本人には手術は成功、完全に取れたということにして、用心のために放射線をかけると偽って治療を継続した。
 それにしても、合点がいかないのは、手術後、主治医から何度か制ガン剤を使った方がいいかもというニュアンスの言葉を聞かされたことだ。肺腺癌に対しては制ガン剤が効く科学的なデータはないようだし、制ガン剤は体に大きなダメージを与える。だから、術前からその選択肢はないと言ってあったのに。こういう医者の心理ってのは何なんだろう。効かないだろうけど、用心のためと思うのだろうか。まあ、保険点数を稼ぎたいってことは、ないと思うけど。しかし、少なくともそれは、ぼくが願うクォリティ・オブ・ライフの高い余生という観点とは、違うところで行動しているようだった。でも、医者から制ガン剤もといわれて、それを断るのは、かなりの決断力を要する話だった。たいていは、たぶん受け入れて制ガン剤をやっちゃうんだろうなあ。
 放射線は体に負担がほとんどないので、徐々に体力が戻ってくると、本人は退屈で早く退院したくてしようがない。ただ、こちらとしては、ガンが急に壊死して肺動脈が破れれば即死だから、ヒヤヒヤしてはいたんだけど。
 術後、執刀医には、余命は3ヶ月か6ヶ月か、もって1年といわれた。しかし、5週間の放射線治療が終わる頃には、わりと元気で、ぼく自身は案外長生きできるかもと思い始めていた。腫瘍マーカーの値も下がっているし、余命1年と言われて、10年生きる人もいるもんね。
 もう少し元気になったら、父の故郷の函館にいっしょに行こうと約束して、東京に戻ったのが夏の終わりだった。
 しかし、退院して一月少々経った深夜、母から電話がかかってきて、父の様子がおかしいという。心臓が苦しいから救急車を呼んでくれといっているというのだ。
 すぐに病院に連れて行くようにいって、連絡を待っていると、救急病棟に入院させたけれど、軽い心房細動の発作で、とくに心配はいらないと知らせがあった。まあしかし、いずれにせよ、その翌日には実家に様子を見に帰る予定だったので、一日繰り上げて名古屋に向かった。
 病院に行って驚いたのは、父が不精髭を生やしていた事だ。おしゃれな父の、そんな顔なんて見たことがない。どこかうつろで、まるでぼくのことがわからないようなのだ。前は、帰省すれば嬉しそう笑ってくれたのに……。救急担当の医師に状況を聞くと、彼はどうやら父が惚けていると思っているらしい。そんなバカな。ほんの数日前にも電話で普通に会話していたのに、惚けているわけがない。でも、夜中にうろつき回って、色々とおかしな事をするから、夜は病棟で付き添ってくれという。実際、しばらく様子を見ていると、明らかに何かおかしいのだ。
 検査の結果、心臓はともかく、軽い肺炎があることがわかって、しばらく入院することとなった。思えば、それから3ヶ月、本当に色々なことがあったと思う。
 とくに最後の2ヶ月余りは、月曜日から金曜日までの毎日、最低20時間は病院で、アルジャーノン化した父ととことんつきあった。それは、肉体的にはものすごくヘビーで、出口の見えない辛い日々ではあったのだけれど、充実して濃密な生を生きられた時間でもあった。今にして思えば、面白かったとさえ感じる。普通の親子なら触れることがないだろう、人間の心の情けなく悲しいところから、気高く愛情深いところまで、その複雑さの全てを父は見せてくれたのだ。あの体験は、ぼくにとって生涯の宝物だ。(続く)

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