原罪という奇妙な考えはなぜ生まれたのか
キリスト教には、原罪思想という不思議な考え方がある。神との約束を破って知恵の実を食べたアダムとイブの子供である我々は、生まれながらに罪人であるいう。
実に不可解だ。なにもそんなに、人をネガティブな存在と見做さなくても良さそうなものなのに。いったいぜんたい、どこからこんな奇妙な発想が出てきたのだろうか。
これは全く推定にしか過ぎないのだけれど、そこにはある、枠組み崩しの必然があったのではないかと思う。
キリスト教に先立つユダヤ教は、十戒に象徴されるような、言葉で書かれたルールによって、神との間に契約関係をむすぶものだった。
これは、人間が適当に決めたルールではない、超越的なルールとか、絶対的な正義って物があるということを主張しているわけだ。
善とか悪とかいうものは、古くは小さな部族集団の中で合意された、相対的なものにすぎなかったはずだ。
たとえば山賊の集団だったら、仲間以外の人を襲って金品を奪うことは、善い行いだったろう。つまり、部族が違うと何が正しくて何が悪いかは、違っていて当然だった。
ところが、エジプトから脱出する際に、多数の部族をまとめなければならなかったモーゼは、それでもめごとが起きることにほとほと困り果てたのだろう。あっちでは牛の神を拝み、こっちでは犬の神を拝んで、お互いに譲らずいがみ合うばかりの人々……。
そこでモーゼは、十戒という成文法によって、ただ一つの神のもとの、超越的で、絶対的な真理、正義という概念を編み出したわけだ。
これは、出エジプトのプロセスにおいては、人々の心を一つに保ち、大いに役にたったことと思う。
しかし、それによる副作用が、やがて人々を苦しめるようになる。
新約聖書の中に、姦淫の女の逸話がある。キリストがエルサレム東方のオリーブ山で説教していると、そこに不倫の現場で捉えられた女性が引きたてられてきたって話だ。
で、姦淫の罪はモーゼの法では、石投げの刑にすることになっているけど、イエスさんはどうするのって聞かれたわけだ。するとキリストは、あなたがたの中で、罪のないものが、まず石を投げなさいと答えたという。
うまい事いうよね。この言葉にガーンとショックを受けた人々は、石を投げることなく、その場を去っていった。
この逸話のキモは、裁きは人が行うべきものではなく、神の手にゆだねられるべきだという、キリスト教の根本理念だ。そして、これが逸話として残された理由は、この逸話が採用された当時、正義の毒が社会に蔓延していたからじゃないかと思う。
絶対的な正義が硬直的に信じられている社会では、罪を冒したものは救われることはない。何か、止むに止まれぬ事情があったとしても、それが斟酌される余地はなくて、罪が明らかになった瞬間、その人は社会から指弾され、排除されてしまう。
姦淫の女の逸話は、そういう絶対的正義の害に対する、カウンターの役割を担うものだ。当時の誰もが当然のことと信じていた、絶対的な正義の妥当性という枠組みを揺るがす事で、その古びた枠組みでは救えない人への、救済の道を切り開いたわけだ。そして原罪の思想は、これを理論的に普遍化したものといえる。
つまり原罪があれば、「ワタシは全く罪を犯したことないもーん」というような厚顔無恥な人でも、生まれながらに罪があるんだから、他人を裁くことは許されないってことになるわけ。
しかし、人間は非常に賢いので、人の救済のために編み出された新しい枠組みも、すぐに別のことに使いはじめる。そして、それがまた害を産む。
キリスト教内部でも、カソリックとプロテスタントは、別の宗教といっても良いくらい違っている。この宗派の分離は、免罪符の濫発に代表されるカソリックの腐敗に対する批判、つまり宗教改革によって行われたわけだ
免罪符なんて、今の日本人の感覚からするとバカバカしい感じがするけれど、当時はそれを欲しいと願う人が少なからずいたわけだ。それは人々の心の中に、自分は罪深いんじゃないかという不安が、常に存在してたからだろう。
これは、原罪思想の副作用だ。だから免罪符も、はじめは、その不安を慰撫するためにできたものだったのかもしれない。しかし、これはお金を稼いだり、何らかの便宜を引きだすのに都合が良かったので、そういう使い方が主になってしまった。この腐敗に抗議する形で、聖書に忠実であろうとするプロテスタントが産まれたわけだ。
面白いことに、人間の生命のはじまりが出産の時からではなく、受胎の瞬間からと考えはじめたのは、この宗教改革と関係がある。宗教改革によって、プロテスタントが勢力を伸ばしたことによって、カソリック内部でも改革が起こり、それまでの腐敗を一掃する努力が行われた。
同時に、新しい心の救済法として、出産前の洗礼ということを始める。これは、当時多かった流産した児をもつ親の苦悩を慰撫するために、編み出されたものだ。
出産前に洗礼を施すことが妥当であるためには、人のはじまりは出産時ではなく、受胎時としなければならない。こうして、受胎が人のはじまりとされるようになったわけだ。
しかし、その古い救いの概念が、今やファンダメンタリストたちによって歪められ、堕胎を行う医師は、殺してしまえって事にまでなっている。
こんなファンダメンタリズムの歪んだドグマも、いつか誰かによって、枠組みを変えられる日が来るのだろうか。
最終更新時間 2005年11月30日 18:55
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カソリックの信者のひとに聞いた話なんですけど、洗礼とか堅信とかをすると、なまじ原罪がクリアになるでしょ? で、マメに告解(懺悔)にきなさいっていうのは、ようするに教会のエイギョウをにぎやかにするためのシステムなんだろうけど。
洗礼後は、うまれながらに誰もがもっている罪はもうないので、もってる罪は「ぜんぶ自分の罪!」 。ああもう罪をおかせない、おかしたらアカン!って「ものすごくプレッシャーがかかる」んだって。それって、「いまなら少年Aですむ」みたいな感覚かね。
たぶんこのひとはマジメだからそう思うので、「どんな罪おかしたって、告解すればチャラなんじゃ~ん?」って思うなら、ぜんぜん平気なわけだし、外国の小説とか読んでると、「誰でもやるようなくだらないアヤマチ」をいともたいそうなことのように涙ながらに告解して、ナントカを何回祈れとかいわれて、「ああ、これでまたキレイになった。自分はなんてマジメなえらいやつなんだろう」みたいな態度とるオバカサンもいたりするんだよね。
宗教って、ほんと不思議だ。
投稿者 くみにゃ : 2005年12月01日 08:39
人間の状態を、ソウとウツで分けたら、ウツの時には「許し」を求め続けるんだと思います。私だけもしれないけど。
この「許し」につけこんでいるともいえるし、これを解決する都合が良いシステムだとも言えなくも無い。
宗教は。
でも、罪を煽るのはやめてほしいな。営業活動なのかもしれないけど。
投稿者 yamada_h2 : 2005年12月04日 19:56










