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2005/11/30

原罪という奇妙な考えはなぜ生まれたのか

 キリスト教には、原罪思想という不思議な考え方がある。神との約束を破って知恵の実を食べたアダムとイブの子供である我々は、生まれながらに罪人であるいう。

 実に不可解だ。なにもそんなに、人をネガティブな存在と見做さなくても良さそうなものなのに。いったいぜんたい、どこからこんな奇妙な発想が出てきたのだろうか。

 これは全く推定にしか過ぎないのだけれど、そこにはある、枠組み崩しの必然があったのではないかと思う。

 キリスト教に先立つユダヤ教は、十戒に象徴されるような、言葉で書かれたルールによって、神との間に契約関係をむすぶものだった。

 これは、人間が適当に決めたルールではない、超越的なルールとか、絶対的な正義って物があるということを主張しているわけだ。

 善とか悪とかいうものは、古くは小さな部族集団の中で合意された、相対的なものにすぎなかったはずだ。

 たとえば山賊の集団だったら、仲間以外の人を襲って金品を奪うことは、善い行いだったろう。つまり、部族が違うと何が正しくて何が悪いかは、違っていて当然だった。

 ところが、エジプトから脱出する際に、多数の部族をまとめなければならなかったモーゼは、それでもめごとが起きることにほとほと困り果てたのだろう。あっちでは牛の神を拝み、こっちでは犬の神を拝んで、お互いに譲らずいがみ合うばかりの人々……。

 そこでモーゼは、十戒という成文法によって、ただ一つの神のもとの、超越的で、絶対的な真理、正義という概念を編み出したわけだ。

 これは、出エジプトのプロセスにおいては、人々の心を一つに保ち、大いに役にたったことと思う。

しかし、それによる副作用が、やがて人々を苦しめるようになる。

 新約聖書の中に、姦淫の女の逸話がある。キリストがエルサレム東方のオリーブ山で説教していると、そこに不倫の現場で捉えられた女性が引きたてられてきたって話だ。
 で、姦淫の罪はモーゼの法では、石投げの刑にすることになっているけど、イエスさんはどうするのって聞かれたわけだ。するとキリストは、あなたがたの中で、罪のないものが、まず石を投げなさいと答えたという。

 うまい事いうよね。この言葉にガーンとショックを受けた人々は、石を投げることなく、その場を去っていった。

 この逸話のキモは、裁きは人が行うべきものではなく、神の手にゆだねられるべきだという、キリスト教の根本理念だ。そして、これが逸話として残された理由は、この逸話が採用された当時、正義の毒が社会に蔓延していたからじゃないかと思う。

 絶対的な正義が硬直的に信じられている社会では、罪を冒したものは救われることはない。何か、止むに止まれぬ事情があったとしても、それが斟酌される余地はなくて、罪が明らかになった瞬間、その人は社会から指弾され、排除されてしまう。

 姦淫の女の逸話は、そういう絶対的正義の害に対する、カウンターの役割を担うものだ。当時の誰もが当然のことと信じていた、絶対的な正義の妥当性という枠組みを揺るがす事で、その古びた枠組みでは救えない人への、救済の道を切り開いたわけだ。そして原罪の思想は、これを理論的に普遍化したものといえる。

 つまり原罪があれば、「ワタシは全く罪を犯したことないもーん」というような厚顔無恥な人でも、生まれながらに罪があるんだから、他人を裁くことは許されないってことになるわけ。

 しかし、人間は非常に賢いので、人の救済のために編み出された新しい枠組みも、すぐに別のことに使いはじめる。そして、それがまた害を産む。

 キリスト教内部でも、カソリックとプロテスタントは、別の宗教といっても良いくらい違っている。この宗派の分離は、免罪符の濫発に代表されるカソリックの腐敗に対する批判、つまり宗教改革によって行われたわけだ

 免罪符なんて、今の日本人の感覚からするとバカバカしい感じがするけれど、当時はそれを欲しいと願う人が少なからずいたわけだ。それは人々の心の中に、自分は罪深いんじゃないかという不安が、常に存在してたからだろう。

 これは、原罪思想の副作用だ。だから免罪符も、はじめは、その不安を慰撫するためにできたものだったのかもしれない。しかし、これはお金を稼いだり、何らかの便宜を引きだすのに都合が良かったので、そういう使い方が主になってしまった。この腐敗に抗議する形で、聖書に忠実であろうとするプロテスタントが産まれたわけだ。

 面白いことに、人間の生命のはじまりが出産の時からではなく、受胎の瞬間からと考えはじめたのは、この宗教改革と関係がある。宗教改革によって、プロテスタントが勢力を伸ばしたことによって、カソリック内部でも改革が起こり、それまでの腐敗を一掃する努力が行われた。

 同時に、新しい心の救済法として、出産前の洗礼ということを始める。これは、当時多かった流産した児をもつ親の苦悩を慰撫するために、編み出されたものだ。

 出産前に洗礼を施すことが妥当であるためには、人のはじまりは出産時ではなく、受胎時としなければならない。こうして、受胎が人のはじまりとされるようになったわけだ。

 しかし、その古い救いの概念が、今やファンダメンタリストたちによって歪められ、堕胎を行う医師は、殺してしまえって事にまでなっている。

 こんなファンダメンタリズムの歪んだドグマも、いつか誰かによって、枠組みを変えられる日が来るのだろうか。

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2005/11/28

勇気と深読み

SFマガジン 2004年9月号掲載

 小学生による異常な事件が続いて、またまた問題になりましたな。
 とくに長崎、佐世保の小学6年女児殺傷事件。
 わずか12歳の児童が、同級生の首をカッターで切って殺してしまったのは、ショッキングな出来事だけあって、その後しばらく、メディアはこの話題でもちきりになっていた。
 一体どうして、こんな幼い女児が、同年の女児を殺さなければならなかったのか。その理解不能性に加えて、被害女児の父親の喪失感に溢れた手記が、深い同情を誘うなど、メディアにとってこれは扱いやすいネタだったんだと思う。
 それにしても、この事件の大きな特徴は、何の前触れもなく、凄惨な事件が起きてしまったことだろう。
 加害女児は素行不良だったわけでもないし、それどころか、被害女児とは仲の良いお友達だったらしい。それがなぜ、突然こんな恐ろしい出来事を、しでかしてしまったのか。
 メディアは、急いでその理由付けを探そうとした。そして、彼女たちがホームページを作って掲示板への書き込みをしあっていたことを取り上げて、文字だけのメッセージ交換はヒート・アップしやすいというような、コンピュータ・リテラシーの議論が展開されたりした。
 でも、そんなの完全に的はずれだよね。
 今の小学生にとって、ネットはごくありふれたものだから、彼女らもそれを使っていたというだけのこと。それがこの事件を引き起こした、決定的に特徴的な要素だったわけがない。
 今回の事件では、たまたまホームページの掲示板への書き込みが、もめ事の原因になっていたのかもしれないけど、同じような事は、クラブ活動とか、塾とか、掃除当番とか、飼育係とか、ありとあらゆる日常活動の中で起きえた事だったと思う。
 そもそも、毎日会っているような関係なので、文字だけのやりとりだから云々なんていう話は、まるでトンチンカンなことだしね。
 それから、カウンセラーのような専門家に、『バトル・ロワイヤル』の影響を受けて加害女児が書いていた小説を分析させたり、描いた絵を鑑定させて、いわゆる「心の闇」を探らせたりもしていた。
 赤えんぴつで書いた、しっぽが蛇の可愛いうさぎみたいなクリーチャーのことを攻撃性の現れだとかナントカ。
 でも、小学生なら、そんな絵を描く事だってあるよな~って誰でも思ったんじゃないだろうか。それを、さも、闇とか、深淵とか、アビスとか、おどろおどろとか、なんじゃらもんじゃらとかが、ありそうに語ってしまうメディアのありかたに、嘘だよねえと思った人は多いと思う。
 結局のところ、この事件は、いくら専門家がこねくり回して分析しようが、精神鑑定をしようが、何もわかりはしない類のものなんだろう。
 それは、多くの人が直感的に分かっていたんじゃないだろうか。
 この事件は、ちょっと表現が難しいけど、どうしようもなく哀しい、偶然の巡り合わせの結果としか、いいようがないと思うんだよね。
 仲が良かった友達とケンカになって、トイレで制裁みたいな事は、小学生の頃なら、わりと経験したことがある人は多いんじゃないだろうか。そういえば、ぼくも小学生の時に、トイレでブラシ振りかぶり、ホースで水を掛け合って仲の良い友達と大立ち回りしたことあった。
 この事件も、ひょっとしたら、そういうありふれた小学生のエピソードで収まっていた可能性もあったんじゃないかと思う。
 だけど、不幸なめぐりあわせによって、殺人という取り返しのつかない事態に至ってしまった。
 そうなる前に、ほんの少しでも違うことが起きていたら、たとえば被害女児が加害女児のいわれたとおりに、空教室についていかなかったら、あるいは目を塞いで後ろを向くのは断固拒んでいたら、最悪でも傷害程度ですんだかもしれない。それどころか、ひょっとしたら刃物を見せて脅かしたというレベルで、終わったかもしれない。
 報道によれば、加害女児にはかなり強い殺意があったようにも思えるけど、たとえそうだったとしても、所詮は小学生の一時の決意に過ぎなかったはずで、何かアクシデントが起きて、計画通りに進まなければ、こんなにうまく殺人が完遂できたはずがない。アクシデントが起きなかった事が、被害者にとっても、加害者にとっても、やるせなく不幸な運命だったのだと思う。そして、そうだからこそこの事件は唐突に起きたわけだ。
 あるいはもっとドライに、統計的に見てしまうという事もあり得る。
 小学生による殺人事件は、決して今回初めて起きたものではない。
『少年犯罪』(鮎川潤著・平凡社新書)によると、昭和以降の小学生による殺人事件が5件以上紹介されている。
 その内容は、小六の男児が小二の女児に悪戯して殺害したり、小四の女児が小二の女児をマンションから突き落としたりと、いわゆる子供らしさという枠には収まりきらないものばかり。そんな事件が何度も起きていて、その時は騒がれはするものの、やがて忘れ去られるという事が繰り返されてきているのだ。
 つきつめると、小学生でもある確率で殺人事件は起こしてしまうということが言えると思う。
 つまり、この事件に闇なんてない。いくら分析したって、真相をほじくり返そうとしたって、加害児童が精神的におかしかったわけではないだろうし、ましてや両親の育てかたが悪かったわけでもないだろう。
 この事件の真相は、誰にでもあり得る幼い頃の日常の諍が、数奇なめぐりあわせによって悲惨な結果に至ったに過ぎないのだ。
 それにも関わらず、メディアは分析を止めることはない。それは結局のところ勇気がないからだ。あるいは、視聴者の好奇心をどうにか満足させるためか。
 原因なんて存在しない、ただの不慮の事故みたいなものだと言ってしまっては、いつまた第二、第三の同様の事件が起きるかもしれないという恐怖を押さえる事ができない。そんな不安を慰撫するために、ないものをほじくり返すようにして、色々な分析が再生産される。
 本当は、この世には分からないこともあるんだよね。これは、それを認め、分析を止めるべき類の事件なのだ。でも、メディアには、それができるような自浄作用は存在しないみたいなんだよなー。

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心の闇

SFマガジン2001年6月号掲載

 メディアの言うことって、あまり信用できないってのは、まあ、常識だと思う。
 たとえば森首相。あの人は失言の多い人という印象が強けれど、でもそれはメディアが作り出したイメージって感じがしないでもない。つまり、「神の国」発言をきっかけに、メディアがあいつは迂闊なことを口走るヤツだと認識してからは、ホント、微に入り細に入り揚げ足を取るように、「問題発言」が片っ端からニュースにされちゃっていた。普通、誰でも色々話をしていれば、ある程度口が滑ったりするものだ。しかし、たいていそれは無視されて終わる。ところが、森サンの場合は、他の人なら見逃してくれるようなものも100パーセント、ニュースになっていたのだろう。
 普通の人間なら容認される程度のことでも、それを全て大々的に取り上げられれば、印象はすごく悪くなる。その点、森サンは可哀想だと思っていた。でも、やっぱりあの人のことは、迂闊な人だと感じてしまう。これって、割と怖いことなんじゃないだろうか。
 なんつーか、昔、横山光輝の忍者もの(だったかな?)のマンガに、催眠術で操られそうになった忍者が、その手には乗らないぞと、小刀で自分の太股を傷つけて正気を保とうとするってエピソードがあった。ザクザク自分を刺しながら、途中で「はっ、俺はどうしてこんな事をしているんだ」って、一瞬気がつくんだけど、でもすぐ「いかんいかん、やつの術に落ちてしまう」と思い直してザクザクザク……で、結局死んでしまうのでした。術にかかるまいとしているのに、その行為自体が術の中なのね。
 メディアからやってくる情報は、量的に圧倒的に多いから、その術にはかからないぞと思っていても、思わず知らずその内部に取り込まれてしまう。その圧力に抵抗するのはかなり難しい。
 もう一つ典型的な例をあげるなら、このところ青少年の凶悪犯罪が増えているという常識も、その例の一つだ。
 これに関しては、社会学者の宮台真司氏も前々からいっているけれど、統計的にはそんな事実はない。たとえば殺人は終戦後1965年までは年間2~400人台で増減を繰り返していたけれど、1975年代以降は100人を割って、さらに現在まで70~90人の範囲で推移している。また、強盗も1965年まで2~3000人で推移していたのが、近年は1000人前後に減っている。(平成に入って微増傾向にはあるが誤差の範囲)また強姦に至っては、1965年前後には4000人いたのに、今では200人台に減っている。
 検挙者の数だけじゃなくて、実際に刑が確定した人に限ってみても、大坂弁護士会が最高裁の家庭裁判月報に基づいて調べたところでは、過去45年間に故意の犯行で被害者を死亡させたケースは129件で、そのピークは1961年の11件だった。事件数は68年以降年間1~4件で、それはここ数年も変わらない。
 と、まあ、これくらいのことは、SFを読む人なら、たぶん先刻承知だと思う。
 ただ、「心の闇」ってやつについてはどうだろうか。
 近年の、青少年犯罪の大きな特徴として、彼らがいったい何を考えて、そんな酷いことをしたかわからないということが問われている。彼らをそうさせたのは、いったい何が原因なのか。いろいろな人がいろいろなことを言っているけど、結局それはよくわからない。不気味だ。最近の若者は、昔とどこかしら違うのだ。
 ……って、まあ、こういう事が言われはじめたのは、たぶん酒鬼薔薇事件の時からだろう。では何故今、心の闇が生まれてしまったのだろうか。
 その答えは、実は簡単だ。つまり、昔は心の闇なんて問わなかったのだ。
 理解を絶する凶悪な事件も、本当は昨日今日始まったものではない。いつの世も、ある割合でそれは存在していた。
 おとなしくてまわりからも良い子と思われていたヤツが、突然キレるということは、ものすごく昔からあったことだし、先ほどの大阪弁護士会の調べでは、同級生の首を切り落として蹴飛ばすなど、理解できない残忍な事件も、過去に18件あったそうだ。
 つまり、昔も今も何も変わっていない。
 ただ変わったのは、昔はそういうケースは、ワケわからんと深く突っ込まないか、異常者だからそういうことをしたんだとアッサリ分類して、それですんでいたわけだ。ところが今は、そのワケをわからなければならないと、分析しはじめた。その結果、心の闇という概念が作り出されしまったのだ。
 でも、人がどうして犯罪を犯したかなんて、本当はわかるはずのないことだ。
 悲劇はつねに、本当に数奇な運命の巡り合わせで起きる。途中の何ごとかがほんの少しでも違えば、それは起きないのが普通だ。たとえば原潜の緊急浮上で上にいる船に命中させるなんて、狙ったってできることじゃない。ところがえひめ丸は、数奇な運命の巡り合わせによって、現実に沈没してしまった。
 それと同じように、凶悪な犯罪も、本人の思いだけで達成できるものではなく、それが実現されるような環境条件が整ってしまったときに、はじめて現実に生じるものだ。邪悪なことをしてみたいという妄想だけなら、恐らく大半の人は思ったことがあるだろう。でも、そういうものはたいてい実現されずに終わる。今は昔よりも妄想が実現されやすい環境なのかというと、それもないと思う。なぜなら、事件の数は昔より減っているからだ。
 心の闇という概念は、犯罪は人の心の内部に原因があって生じるという、暗黙の前提からでてきたものだ。でも、それはフィクションにすぎない。そして何故こんなフィクションが、リアルに信じられているのかというと、臨床心理に対する、誤認識があるからじゃないかと思う。
 臨床心理学は、原因の追及には役に立たない。臨床心理学は、心の中に隠された真実を見つけだすものではなくて、ある症状に悩んでいる人がいたとき、その症状がもたらす不便を緩和するべく、その人と治療者の間に作り出されるフィクションだからだ。それは、リアルであっても、症状をもたらす真の原因じゃない。真の原因など本当は意味ないのだ。
 さいころを10個、同時に振ったら、いつもはみんなバラバラの目が出るのに、ある時すべての目が1で揃ってしまった。一体どうしてそんなことが起きたかわからない。謎だ。これが心の闇の実体だ。
 心の闇という言葉の使われ方を見ると、それは異様なできごとを、納得しようと使われているわけじゃない。納得したいのなら、ある結論を出してしまうはずだ。でも、メディアの論調は、心の闇はわからないとい言い続けている。つまり、わからながる事を求めているわけだ。これはつまり、リアリティあふれるホラーというエンターテインメントなんだよね。

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スタ☆メンがおもしろい

 日曜日の夜10時から、フジテレビでやっている「週間人物ライブ☆スタメン」が面白い。

 メインMCが阿川佐和子、メインパネラーを爆笑問題の太田光が担当して、前の週に起きた事件などをネタに生放送で色々とコメントしていく。この二人が喋るというだけで、もう月並みなワイドショーやニュース番組とは全然違うことがわかるよね。

 例のタリウムによる母親毒殺未遂事件のときは、昔、グータンという番組で芸能人のカウンセリングをやっていた、精神科医の名越康文さんをゲスト・コメンテーターとして呼んでいた。

 この人は、グータンを見る限り、洞察力がすばらしくて、カウンセラーとしては、かなり腕が良い人じゃないかと思う。

 で、番組サイドとしては、少女は多重人格ってことで分析させようとしていたようだ。

 ところが、太田はその意図を瞬殺する。

 名越は、登場すると「私には、こういう事件がいつか起きるんじゃないかという予感があったんです」と言い始めた。

 そのとき僕が思ったのは、あーこれは月並みでつまらない話が始まるなって事だ。

 カウンセラーは、相手が無意識に期待していることを喋るのが、お仕事上の技のひとつだ。で、名越は、よくあるバーチャルこわいよ論が、聴衆が期待している話だと判断したようだ。それで、そういう方向に、話を持って行こうとするのが見えちゃったんだよね。

 ところが太田はそれを察して、いきなり「ぼくは心の闇なんてデタラメだと思うんですよね……」と言い始める。

 がははははは。思わず笑ったね。

 カウンセラーを呼んでおいて、心の闇を語るなと言っちゃったら、もう喋ることなんてないじゃない。こういう展開は、太田で、生放送じゃなきゃあり得ないよなあ。

 実際名越は、うまく取り繕ってはいたけど、ほとんど話すことが無くなって、以降、太田の独擅場になる。

 太田の主張は、僕が昔書いた、心の闇という物は存在しないという話(「心の闇」「勇気と深読み」)とわりと似ていて、やっぱ同じように考える人がいると解って嬉しかった。

 あと、犯罪も自己主張の一形態ではあるけど、オリジナリティはないし、全く誰にも評価されない下らない物だと言っていた。

 まあ、この主張は、知恵の足りない若者による、模倣犯の登場を阻止したいが故のものだろうけど、ちょっと無理があったように思うけど。

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