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2005/10/21

芸術は爆発だ(その1)

 ラマチャンドランのお笑いの話で、枠組みの変更って事が出てきた。
 それで昔、枠組みの変更と芸術との関係を考察した事を思い出したんだよね。
 そこで、それを紹介しようと思う。
 これは、ログインの1989年10月6日号に掲載されたものだ。
 古い原稿なので、あげている例がちょっと古かったりして。(^_^:)


 芸術ってなんだろう。それは、爆発だぁ……なのかもしれない。
 なんというか、この芸術という言葉は、それ自体すごく抽象的なもので、ちょっとでも美的だったり、ちょっとでも技巧が凝らされているものだったら、なんだってゲイジュツといっちゃってかまわないようなところがある。前衛的なものから、民芸品や大道芸みたいなものまで、みんなまとめてめんどうみよ~って感じだ。

 これはまあ世の中のコンセンサスだから、それに異を唱えてもしかたがない。だけど、もっと芸術の本質といえるようなもの、芸術というものの爆発している波頭の領域だけを、とりあえずここでは「芸術」と呼んでみたい。

 それじゃあ、そういう芸術っていったいなんだろうか。それは、ひとことでいうと認識の破壊というか、ゆらぎを引き起こすものなんだと思う。

 だから、美術館とか美術書で見ることのできるいわゆるゲイジュツっていうのは、その芸術の爆発炎上する先端が通り過ぎた後に残された、残りカスってわけ。ま、いってみれば太古の超新星爆発の波面が通り過ぎた後に、星々が生まれたのと同じようなものだな。

 じゃあ、認識の破壊とかゆらぎというのは何なんだろうか。それはたぶん、人間の脳の情報処理と密接に関わったものだ。

 人間っていうのは、こうしてぼーっとしているだけでも、瞬間瞬間に膨大な量の情報を受けとっている。目から入力される光や、耳から入る音、そのほか触覚、嗅覚、味覚など、情報は様々な形で五感を通って絶えることなく脳に流れ込んでくる。

 この量は一説によると、一秒当たり10億ビットくらいになるそうだ。もちろん、この情報をすべて認識できているわけではなくて、最終的に人間の意識にのぼるのは、せいぜい100 ビットのオーダーになってしまう。これは、ちょうど本を一心不乱に速読している時に、頭に入ってくる内容くらいの情報量だ。

 それでは、残りの999999900 ビットはどうなっちゃうかというと、その多くは無意識的な前処理によって削り落とされているはずだ。

 たとえば視覚や聴覚は、外部から目や耳に入力される物理的な刺激として捉えるなら、様々なスペクトルの混交した単なる光だったり、空気の無秩序な振動に過ぎない。実際、音なんて鼓膜の部分をみる限り、とても意味なんて含まれていそうもない、グチャメチャな震えでしかないんだよね。

 それなのに、ぼくたちはやすやすとザワメキの中で会話できるし、耳に飛び込んでくる断片的なキーワードを瞬間的に聞き分けて、回りで話されている興味深い話題に聞き耳をたてることもできる。

 こういうノイズだらけの物理的な刺激の中から意味のあるものをよりわけるのは、そーとー高度な情報処理が必要だ。恐らく脳のパワーのかなりの部分が、この無意識的な情報処理に費やされていると考えていいんじゃないかな。

 都会の雑踏を離れて、田舎の静かな環境に身をひたすと心が落ち着くのは、たぶんこういう無意識の情報処理の負担が減るからだ。

 人間というか動物に、こういった情報処理能力があることは間違いない。だけど、その方法については、現在の人類の知恵ではまだどうやって真似をしたらいいのか、そのアプローチの方法すら完全に解明できたとはいい難いんだよね。なにしろ、瞬間的に7桁もの情報をけずって意味を抽出できるんだから、こりゃあ凄い。1千万人の群集の中から、瞬間的にたった一人の恋人を選びだすようなものだ。

 ただ、若干見当がついているのは、この処理を行うには一種の予想、予見、予断のようなものが不可欠だってことだ。つまり、こういう状況なら、たぶんこんな情報入力があるだろうという一種の予断があって、それが情報のフィルターの役目を果たしているわけ。

 一種の、というのは、これが意識的な予想とはだいぶ違ったものだからだ。予想というと意味的な情報処理のような感じがするけど、もっと単純なもの(たとえば、ワープロの辞書引きみたいなもの)から、意味処理といえるものまで、いろいろなスペクトルのものが含まれている。

 つまり、物理的刺激から情報、情報から意味、意味から要旨へと変換されていく途中に、何重にも予断のフィルターがかけられているわけね。認知心理学でいうスキーマっていうのもこの一つで、いってみれば意識にのぼる直前の予断フィルターにあたるんじゃないかな。

 問題は、この予断フィルターは必ず適当なものが用意されるとは限らないことだ。まあ、こんな情報がくるだろうと待ち構えていたところに、それとは全く別の刺激がきてしまうということが、時々おきることがある。

 そうなると、本人の実感としては予想を裏切られた、なんて甘っちょろいものじゃあすまない。なんか、ものすごい体験になるんだよね。それが何だか認識できないどころか、場合によっては自分さえわからなくなるワヤな状態にになってしまう。

 たとえばよくある話としては、交通事故にあった人が、そのときの瞬間を何かいつもと違った風景として印象深く覚えていたりするってことがあるよね。スローモーションぽく覚えているとかね。あるいは、人は死の直前にそれまでの人生をアリアリと思い出すって話もある。

 こういう不思議な体験は、現に起きていることとスキーマが一致しなくて、世界を正しく解釈できなかったから起きるのだと思う。その不思議な認知体験を、あとから記憶を再構成して、できるだけ現実的に解釈しようとするから、何か印象深い奇妙な体験として思い出されるのだろう。

 この現象を、とりあえず認知のゆらぎと呼んでおこう。
 ぼく自身も、似たような体験をしたことがある。まあ、たいしたことじゃないんだけど、グラスに入ったコーヒーを、完全に麦茶と信じこんで飲んだときに、ドカンというかクラクラというか、世界が半回転したようなすごいショックを味わったことがあるんだよね。
 これがあまりにも面白いので、またやってみたいと思っているんだけど、どうも同じ方法では二度とはできないらしい。その後も麦茶とコーヒーを間違えるということをしたことはあるんだけど、その時は瞬間的に「ああ、これはコーヒーだったか」と解釈できてしまった。人間の認知能力は、同じ手で何度もアザムケるほど、簡単なもんじゃないようだ。

 そんでまあ、芸術に話をもどすと、ある天才が新しいスタイルを産み出したとき、世の中に与えるショックというのは、こういった認知のゆらぎなんじゃないかという気がするんだよね。

 たとえば、絵画には詳しくないのであまりカッコいい例はだせないんだけど、ピカソって人がいるよね。ぼくのような素養のない人間が、今という時代の中でピカソの作品を見ても「ふ~ん、なるほどね……」ってな感じで、とりたてて感動はおきない。

 だけど、かつての写実的な手法が画家たちの基本的なスキーマだった時代には、これは本当に凄い衝撃を与えたんじゃないかってことは想像できるんだよね。

 当時の画家にとっては、絵画は基本的に写実的に認知、解釈されるものだったはずだ。そこにひょっこり、同一平面上に様々な角度から見た像を重畳させるといったトンでもない手法が現われたわけで、当時の常識的なスキーマでそれを見ようとすると、認知のゆらぎが起きて不思議はない。

 ピカソはデッサン力も優秀だったから、その作品は完全な無秩序の情報ではなくて、古い頭でも部分的には解釈できるところを多く残していたはずだ。ところが、全体としては、これまでのスキーマでは解釈不可能な作品になっている。部分的には解るのに、全体としてはバクハツしている。これが、当時の芸術家たちに、言葉では十分にあらわせないような、不思議な体験=認知的ゆらぎを引き起こし、新しいムーブメントへとつながっていったのだろう。

 それにしても、意図的にそれまでの芸術家のスキーマを打ち砕く作品を作り出したところが、ピカソが天才といわれる所以なんだろうね。

最終更新時間 2005年10月21日 09:57

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