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2005/10/31

じだいはふいんき

 SF者なら知っていると思うけど、大阪大学の物理学の教授で菊池誠さんという方がいる。ニセ科学関係の啓蒙活動なんかも積極的に行っていて、それが非常に丁寧かつ論理的で面白いんだよね。

 反ニセ科学というと、テレビでお馴染みの、大槻義彦さんみたいにヒートアップしちゃうお笑い芸人的な芸風を思い浮かべる人もいるかもしれないけど、それとは全く違った味わいがあって、とても良い感じ。

 その菊池さんのkikulogで、「ふいんき(なぜか変換できない)」という話題が出ていた。

 実は、この表現については、前から書こうと思ってちょっと調べていたりして。

 ぼくがこの表現の存在を気づいたのは2ちゃんねるの書き込みで、いつかは思い出せないくらい前の事だった。

 で、実際どれくらい前のことかと調べてみると、「ふいんき(←なぜか変換できない)のガイドライン」というスレッドがあった。これは、すでに過去ログも消えていてリンクが張れないんだけど、そこの1番最初の書き込みに、

 密かに2chで流行語になりつつある「ふいんき」。
 変換できないのは正しい言葉は「ふんいき」だから。
 そんな「ふいんき」のスレです。

 とある。つまり、この頃が2ちゃんねる内でも出始めの時期だったんだろうね。
 で、このスレッドが立ったのが2003年12月3日のことだ。
 意外に古くないのね。

 ところで、「ふいんき(←なぜか変換できない)」という表現はわりと新しいとしても、そのもとになった「ふいんき」はどうなんだろう。

 ぼく自身は、この表現のことは、うっかりミスをネタにしたものだと思っていた。
 タイプをする時に「ん」と「い」の順序が入れ替わってしまって、だけど字面を見ただけではすぐには間違っている事に気が付かずに、「なぜか変換できない」ということになっているのだと思っていたワケね。

 つまり、「ふいんき」という表現を、本気で使っている人なんているわけないと信じきっていた。

 ところが、NHKの午後3時代にやっている、「ことばおじさんの気になることば」
を見ていて、驚くべき事実に気づかされる。

 この番組、ことば関係のあれこれが抜群に面白い、超お薦めのコンテンツなんだよね。
 残念ながら、普通にお勤めしている人には見づらい時間帯だし、しかも放送時間が決まっていない(だいたい午後3時30から4時までの間のどこか)から、録画も難しいし、放送休止も多いのが難点なんだけど。
 こういう番組は、ネットでアーカイブして、いつでも見られるようにして欲しいものだにゃあ。まあ、ポッド(ビデオ)キャスティングで流してくれても良いんだけど。

 で、これの6月28日放送の『「フンイキ」「フインキ」どっち』を見て、実際に「ふいんき」といっている人がいる、それも若い世代を中心に少なからずいるということを知ったのでした。

 そこで改めて、ネット上で使われている様子をgoogleで検索してみると、今日の時点で

 ふんいき があって、 ふいんき がないページは、46,500件
 ふいんき があって、 ふんいき がないページは 66,100件

 という結果で、なんとすでに「ふいんき」を使っているほうが多いのだったりして。
 いやあ、時代はもうふいんきですよ。みなさん。

 また、ふんいき も ふいんき もあるページは 18,600 件あって、つまりそこでは両者の違いに言及しているページなんだろうね。

 では、この言葉をどういう人が使っているのかというと、ことばおじさんの気になる言葉、独自のアンケートでは、およそ35歳を境目にこの言葉を使うようになっているのだそうだ。

 これは、日本語Q&A 「ふんいきをふいんきとよみますか」
 の結果を見ても、だいたいそんなもんだろうということが解る。

 じゃあ、どうしてこういう読み間違いが生まれたのかというと、ことばおじさんによれば、

『杏林大学外国語学部教授の金田一秀穂さんは、『耳から覚えて誤って使ってしまう言葉、というのがあります。例えば、体育(タイイク)を“タイク”。女王(ジョオウ)を“ジョーオ-,ジョウオー”と言うなどがあるのではないでしょうか』と話してくれました。』

 とのこと。
 これと似たような事は、夕刊フジ、2005年9月12日の日本語を書けない子供たち
 で言及されていて、

 小学校の教師、Aさんは、最近の小学生の〝日本語事情〟を次のように語る。

 「漢字の読みを書かせると、原因を『げいいん』、全員を『ぜいいん』、大丈夫を『だいじょぶ』など、耳で聞いたまま書きます。文章を書かせても、話し言葉口調ばかり。まともに作文が書ける子は非常にまれです」

 彼らはメールでも話し言葉しか使わない。彼らの私生活において、書き言葉を使う機会はほぼ皆無でしょう。

 (携帯電話には)予測変換という機能がついている。……省略語だけですべて処理できるため、正しい読み方を知らなくても、表示された漢字の中から選ぶだけで難なく漢字を打つことができる……これにより、読めない/書けない子供たちがどんどん増えていくことになる。

 まあ、これ自体は変化を認められない「近頃の若い者は論」の一つにすぎなくて、ツッコミどころ満載なワケだけど。
 時代が下るにつれて、ある程度、今までとは違った読み方、書き方をする人は増えていくのかも知れないけど、ブログをやる人も増えてきている今日、書くという事を習慣的にやることで上手な表現ができる人も、今までより多くなっていくかも知れないもんね。

 それに、森山和道さんのmixi日記で読んだんだけど、近頃の30代40代は、本を読まず、書店で見かけるのは50代以降と10代20代だという話もある。
 帰ってきた炎の営業日誌 杉江由次 10月27日(木)とある書店さんで聞いたお話

 ちなみに、近頃の若い者はなっとらんというのは、大昔から言われていたことだということはみなさん知っていると思うけど、その元ネタがなにか忘れちゃっているんじゃないでしょうか。ぼくは忘れていたんだけど、この間、古くからの友人が教えてくれました。

 それは、星新一編訳の『アシモフの雑学コレクション』の、

「紀元前2800年ごろの、古代アッシリアの粘土板にある文。「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不斉の横行は目に余る」

それから2000年後の、ソクラテスの言。
「子供は暴君と同じだ。部屋に年長者が入ってきても、起立もしない。親にはふてくされ、客の前でも騒ぎ、食事のマナーを知らず、足を組み、師にさからう」

プラトンは自分の弟子について
「最近の若者は、なんだ。目上の者を尊敬せず、親に反抗。法律は無視。妄想にふけって、街であばれる。道徳心のかけらもない。このんままだとどうなる。」

 というもの。
 昔も今も、人が感じることは同じってワケね。

 なんか話がずれてしまいましたな。
 まあ、「ふいんき」が耳から入った音を間違えて覚えてしまった言葉であっても、それが雰囲気という漢字に対応している事は多くの人が知っている。で、だんだん雰囲気をふいんきと読むようになりつつあるって事は間違いないわけだ。

 こういう変化の事を音韻転換とか音位転倒とか、音韻交替、音位転換、音転移……などなど色々言うらしい。スプーナリズムとかメタセシスともいうらしい。

 たとえば、山茶花 はさざんかと読むけど、字面を見ると解るとおり昔は「さんざか」と読んでいたんだそうだ。
 同じように、

 あたらしいとあらたしい
 あきはばらとあきばはら

というのもあるし、

シミュレーションとシュミレーション
コミュニケーションとコミニュケーション

 なんてのもある。

 ぼくはまあ、わりと若者言葉みたいなのも、言葉の乱れとは感じなくて、面白ければ自分も使う、そうでなければ使わないって感じ~なんだけど(^_^)、ふいんきとはたぶん一生発音しないだろうな。実際に言おうとすると、そのほうがぼくには言いにくいし、まあ普通は、漢字で雰囲気としか書かないしね。

 しかし、世の中は、さらに進んでいるのだ。

 なんと、すでに不陰気という表現もあったりして。

 google によると、
 「不陰気」を使っていて、「雰囲気」を使わないページの検索結果 約 28,400 件……
 (デンドンデンドン……ここでおどろおどろしいBGMをかけてください)

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2005/10/21

芸術は爆発だ(その2)

 芸術は爆破だあの第二回。
 これはログイン、1989年10月20日号掲載されました。


 前回は、「芸術は爆発だあ~」っていうようなハナシをした。今回もその続きでいってみたい。で、まあ、その前にこれまでのおさらいをちょっとしてみよう。

 人間というのは、こう、ただぼーっとしているように見えても、時々刻々、膨大な量の情報を受け取っている。この情報はほとんどが、脳に組み込まれたソフトウェアでできたフィルターでろ過されていて、そこで漉しとられて残ったものが情報の持つ意味になる。
 意味を漉しとるフィルターっていうのは、一種の予断のようなもので、認知の枠組み=スキーマなんていうのもそのひとつだ。そして、この無意識の予断があるから、人間は世界を認識できるんだよね。

 たとえば、英語のヒアリングなんかは英語能力がそれほどなくても、話されている文脈がわかると、けっこう聞き取れるようになる。これは、文脈を把握したことで、話され易いだろう単語を、記憶の中から優先的に検索できるようになるからだろう。また、聞き取れなかった部分も、文脈に応じて補完している事も確実だ。

 認知フィルターのソフトウェアは非常に優秀で、ある状況下でどの記憶がもっとも優先度が高いかを間違えることは事実上ないといっていい。ところが希に、予想もしない突発的な事件などに遭遇すると、この予断フィルターが現実の情報入力と一致せずに、ナニガナンダカワケノワカラナイ状態になることがある。

 芸術というのは、この状態を意識的に作りだそうとする、過激なオコナイじゃないかってわけ。またそうでなければ、芸術といえない。つまり、「人間のソフトウェアの裏をかこうとする行為」といえばいいのかな。

 もちろん、こういう真の芸術っていうのは、そうそうたやすく行えるものじゃない。たいがいの芸術家と呼ばれる人のやっていることは、美術かエンターティメントにすぎないんだよね。じゃあそういう芸術のいい例はないかなって探してみると、実はそういうものが1960年代には大量にチマタにあふれ出したことがあったみたいだ。

 いまでは「路上観察学」の創始者として有名な赤瀬川原平の著作、『東京ミキサー計画』(PARCO出版)や、『今やアクションあるのみ』(筑摩書房)なんかをみると、60年代の芸術家たちは、町中に芸術体験を持ち込もうと考えていたことがよくわかる。

 たとえば、高松次郎の『カーテンに関する反実在性』という芸術は、長い長い紐にサマザマなガラクタが結びつけられて黒く塗られたもので、展覧会場をあちこちのたくるというワケノワカランものだった。しかも、そのうちに何物かの手によってその芸術の末端にはロープが連結され、芸術は展覧会場からズルズルとはいだいし、上野公園の広場を横切り電車の線路に接続して、日本全国のネットワークにつながるなんて事件までおきている。

 また中西夏之の『洗濯バサミは攪拌行動を主張する』という芸術は、キャンバスから無数の短い紐を生やして、そこにアルミニューム製の小さな洗濯バサミを無数にとりつけたものなんだけど、作品の下に置かれたタライにも山盛りの洗濯バサミがあって、床中にもその芸術が散らばっているというモノだった。そのうち不用意な観客が足元の芸術を蹴飛ばし、それをまた別の誰かが蹴飛ばして、いつのまにか遠くの会場まで、芸術が広がってしまう。それをまた別の誰かが見つけて、見知らぬ人のコートの裾にこっそりはさんだりする。こうして洗濯バサミ=芸術は世界中に向けて無限に拡散していったりする。

 そして赤瀬川源平は芸術作品としての偽造千円札(当時の価値なら、今の1万円よりも高額なイメージじゃないかな)を作って、これを燃やしたり、千円札のシートでモノを梱包したりしていた。

 この3人は、ハイレッド・センターという芸術集団を作って、いまでいうパフォーマンス、しかし当時はまだ芸術だった行為を巷で繰り広げたんだよね。たとえば、髪の毛といわず、瞼やクチビルや顔中に洗濯バサミをはさんで歩き回ったり、銀座の道路をゾーキンがけしたりしたらしい。

 1960年代はこういう芸術が、巷にあふれていた時代のようだ。
 劇なんかでも、いきなり観客に汚物をぶちまけるなんていった過激なものまであった「ハプニング」という手法が流行したし、テレビ番組でも今は亡き寺山修司が構成した『あなたは……』(1966年・TBS )という番組があって、通りがかりの人に、インタビュアーが畳み掛けるように質問を浴びせる、なんてことが行われていた。

 ぼくの大阪出身の知人の一人は、当時の東京は、道を歩いていると何をされるのかわからなくて、上京するのが恐かったと証言しているくらいだ。

 素朴な人たちが何気ない日常の中に身をおいて油断しきっているところに、突然おかしな人間が自分に迫ってくるわけで、これは思わず異世界をカイマ見てしまったような体験になっただろう。

 つまり、芸術は見るものが体験することで、作品そのものじゃない。非常にパーソナルなものなんだよね。

 もっとも、同じスキーマを共有している集団に属していれば、同時に同じ体験をして、一つのムーブメントとなることもある。

 音楽の世界でも、ジャズが生まれたときや、ロックが生まれたときなんかは、こんな衝撃があったんじゃないだろうか。

 しかし、まあ、こういう形での日常に芸術をあふれ出させる行為は、もう不可能になってなってしまった。現代人はスレちゃっているからね。たとえば、今時、電車のホームで顔を白塗りにした男が、妙なタマゴのようなオブジェにかじりついていたって、ああパフォーマンスやってらあ、なんちゅう具合に一瞬にして理解されてしまう。もはやこの方法では、脳のソフトウェアの裏をかいて、人に認知的なゆらぎを体験させる芸術にはなりえない。

 赤瀬川源平という人は、根っからの芸術家で、路上観察学というものを作ったおおもとには、この芸術家ダマシイがあったんじゃないかと思う。

 もともと路上観察学は、その元にトマソンというものがあったわけだけど、赤瀬川原平がトマソンに興味を持つようになったのは芸術体験はもはや人為では難しいってことに気がついたからじゃないだろうか。そのとき、人為と自然の狭間のようなところで、トマソン物件という不思議な芸術を発見しちゃったんだとおもう。もともと「観察」の好きな人だしね。

 そういう意味では、「トマソン」は路上観察学の基になった芸術の超新星爆発の波涛で、路上観察学はその後に残されたキラ星というわけね。

 ところで60年代の芸術体験というのは、一方でなにか妙におかしくて、笑っちゃうようなところがある。ひょっとすると芸術と笑いというのは、通底する部分があるのかもしれない。

 そんな感じの一例が、パソコン通信で手にはいる、パブリック・ドメイン・ソフトウェアで体験できる。これは「MK」っていうわりと有名な自動文章作成ソフトで、これを使うと現代詩風のこんな文章をつくったりできるわけだ。

「私と虫たち」
 ラジオ体操第2をする
 私と虫たち
 ラジオ体操第2をする
 私と虫たちよ
 お前の背中は熱くなる
 それは!?
 そう、熱くなる背中
 ああ、それでも虫たち、
 秘部をまさぐる者を見よ

 アルゴリズム的にはそれほど高度なことをやっているわけではなくて、基本文のなかのいくつかの単語を、別に用意した辞書の中からランダムに選んで挿入するだけのものだ。ところが、選ばれる単語というのが、人間の予断ソフトウェアでは絶対に選ばれないようなものになる。そして、ガハハハハと思わず笑わずにいられないような文章が作られちゃうんだよね。

 こういうのを見ていると、人間とは異なったソフトウェアでできている知性があれば、それは芸術的な心を刺激するものになるんじゃないだろうかって気がしてくる。

 人工知能がきちんとした小説を書いたり、音楽を作曲するのはまだ当分無理だと思う。だけど、芸術の媒介者となることはそれほど難しくはないのかも知れないね。

(終わり)


 ちなみに、ラマチャンドランの『脳の中の幽霊、ふたたび』の中には、脳と芸術の関係を考察したアートの10の普遍法則の話がある。
 これは、ぼくのよりももっと広い意味での芸術全般について考えられていて、これもとても面白いよ。

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芸術は爆発だ(その1)

 ラマチャンドランのお笑いの話で、枠組みの変更って事が出てきた。
 それで昔、枠組みの変更と芸術との関係を考察した事を思い出したんだよね。
 そこで、それを紹介しようと思う。
 これは、ログインの1989年10月6日号に掲載されたものだ。
 古い原稿なので、あげている例がちょっと古かったりして。(^_^:)


 芸術ってなんだろう。それは、爆発だぁ……なのかもしれない。
 なんというか、この芸術という言葉は、それ自体すごく抽象的なもので、ちょっとでも美的だったり、ちょっとでも技巧が凝らされているものだったら、なんだってゲイジュツといっちゃってかまわないようなところがある。前衛的なものから、民芸品や大道芸みたいなものまで、みんなまとめてめんどうみよ~って感じだ。

 これはまあ世の中のコンセンサスだから、それに異を唱えてもしかたがない。だけど、もっと芸術の本質といえるようなもの、芸術というものの爆発している波頭の領域だけを、とりあえずここでは「芸術」と呼んでみたい。

 それじゃあ、そういう芸術っていったいなんだろうか。それは、ひとことでいうと認識の破壊というか、ゆらぎを引き起こすものなんだと思う。

 だから、美術館とか美術書で見ることのできるいわゆるゲイジュツっていうのは、その芸術の爆発炎上する先端が通り過ぎた後に残された、残りカスってわけ。ま、いってみれば太古の超新星爆発の波面が通り過ぎた後に、星々が生まれたのと同じようなものだな。

 じゃあ、認識の破壊とかゆらぎというのは何なんだろうか。それはたぶん、人間の脳の情報処理と密接に関わったものだ。

 人間っていうのは、こうしてぼーっとしているだけでも、瞬間瞬間に膨大な量の情報を受けとっている。目から入力される光や、耳から入る音、そのほか触覚、嗅覚、味覚など、情報は様々な形で五感を通って絶えることなく脳に流れ込んでくる。

 この量は一説によると、一秒当たり10億ビットくらいになるそうだ。もちろん、この情報をすべて認識できているわけではなくて、最終的に人間の意識にのぼるのは、せいぜい100 ビットのオーダーになってしまう。これは、ちょうど本を一心不乱に速読している時に、頭に入ってくる内容くらいの情報量だ。

 それでは、残りの999999900 ビットはどうなっちゃうかというと、その多くは無意識的な前処理によって削り落とされているはずだ。

 たとえば視覚や聴覚は、外部から目や耳に入力される物理的な刺激として捉えるなら、様々なスペクトルの混交した単なる光だったり、空気の無秩序な振動に過ぎない。実際、音なんて鼓膜の部分をみる限り、とても意味なんて含まれていそうもない、グチャメチャな震えでしかないんだよね。

 それなのに、ぼくたちはやすやすとザワメキの中で会話できるし、耳に飛び込んでくる断片的なキーワードを瞬間的に聞き分けて、回りで話されている興味深い話題に聞き耳をたてることもできる。

 こういうノイズだらけの物理的な刺激の中から意味のあるものをよりわけるのは、そーとー高度な情報処理が必要だ。恐らく脳のパワーのかなりの部分が、この無意識的な情報処理に費やされていると考えていいんじゃないかな。

 都会の雑踏を離れて、田舎の静かな環境に身をひたすと心が落ち着くのは、たぶんこういう無意識の情報処理の負担が減るからだ。

 人間というか動物に、こういった情報処理能力があることは間違いない。だけど、その方法については、現在の人類の知恵ではまだどうやって真似をしたらいいのか、そのアプローチの方法すら完全に解明できたとはいい難いんだよね。なにしろ、瞬間的に7桁もの情報をけずって意味を抽出できるんだから、こりゃあ凄い。1千万人の群集の中から、瞬間的にたった一人の恋人を選びだすようなものだ。

 ただ、若干見当がついているのは、この処理を行うには一種の予想、予見、予断のようなものが不可欠だってことだ。つまり、こういう状況なら、たぶんこんな情報入力があるだろうという一種の予断があって、それが情報のフィルターの役目を果たしているわけ。

 一種の、というのは、これが意識的な予想とはだいぶ違ったものだからだ。予想というと意味的な情報処理のような感じがするけど、もっと単純なもの(たとえば、ワープロの辞書引きみたいなもの)から、意味処理といえるものまで、いろいろなスペクトルのものが含まれている。

 つまり、物理的刺激から情報、情報から意味、意味から要旨へと変換されていく途中に、何重にも予断のフィルターがかけられているわけね。認知心理学でいうスキーマっていうのもこの一つで、いってみれば意識にのぼる直前の予断フィルターにあたるんじゃないかな。

 問題は、この予断フィルターは必ず適当なものが用意されるとは限らないことだ。まあ、こんな情報がくるだろうと待ち構えていたところに、それとは全く別の刺激がきてしまうということが、時々おきることがある。

 そうなると、本人の実感としては予想を裏切られた、なんて甘っちょろいものじゃあすまない。なんか、ものすごい体験になるんだよね。それが何だか認識できないどころか、場合によっては自分さえわからなくなるワヤな状態にになってしまう。

 たとえばよくある話としては、交通事故にあった人が、そのときの瞬間を何かいつもと違った風景として印象深く覚えていたりするってことがあるよね。スローモーションぽく覚えているとかね。あるいは、人は死の直前にそれまでの人生をアリアリと思い出すって話もある。

 こういう不思議な体験は、現に起きていることとスキーマが一致しなくて、世界を正しく解釈できなかったから起きるのだと思う。その不思議な認知体験を、あとから記憶を再構成して、できるだけ現実的に解釈しようとするから、何か印象深い奇妙な体験として思い出されるのだろう。

 この現象を、とりあえず認知のゆらぎと呼んでおこう。
 ぼく自身も、似たような体験をしたことがある。まあ、たいしたことじゃないんだけど、グラスに入ったコーヒーを、完全に麦茶と信じこんで飲んだときに、ドカンというかクラクラというか、世界が半回転したようなすごいショックを味わったことがあるんだよね。
 これがあまりにも面白いので、またやってみたいと思っているんだけど、どうも同じ方法では二度とはできないらしい。その後も麦茶とコーヒーを間違えるということをしたことはあるんだけど、その時は瞬間的に「ああ、これはコーヒーだったか」と解釈できてしまった。人間の認知能力は、同じ手で何度もアザムケるほど、簡単なもんじゃないようだ。

 そんでまあ、芸術に話をもどすと、ある天才が新しいスタイルを産み出したとき、世の中に与えるショックというのは、こういった認知のゆらぎなんじゃないかという気がするんだよね。

 たとえば、絵画には詳しくないのであまりカッコいい例はだせないんだけど、ピカソって人がいるよね。ぼくのような素養のない人間が、今という時代の中でピカソの作品を見ても「ふ~ん、なるほどね……」ってな感じで、とりたてて感動はおきない。

 だけど、かつての写実的な手法が画家たちの基本的なスキーマだった時代には、これは本当に凄い衝撃を与えたんじゃないかってことは想像できるんだよね。

 当時の画家にとっては、絵画は基本的に写実的に認知、解釈されるものだったはずだ。そこにひょっこり、同一平面上に様々な角度から見た像を重畳させるといったトンでもない手法が現われたわけで、当時の常識的なスキーマでそれを見ようとすると、認知のゆらぎが起きて不思議はない。

 ピカソはデッサン力も優秀だったから、その作品は完全な無秩序の情報ではなくて、古い頭でも部分的には解釈できるところを多く残していたはずだ。ところが、全体としては、これまでのスキーマでは解釈不可能な作品になっている。部分的には解るのに、全体としてはバクハツしている。これが、当時の芸術家たちに、言葉では十分にあらわせないような、不思議な体験=認知的ゆらぎを引き起こし、新しいムーブメントへとつながっていったのだろう。

 それにしても、意図的にそれまでの芸術家のスキーマを打ち砕く作品を作り出したところが、ピカソが天才といわれる所以なんだろうね。

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人はなぜ笑うのか(その3)

 V・S・ラマチャンドランという、アメリカの神経科学者の著した『脳の中の幽霊』(角川書店)という本がある。


 これは、理系文系問わず、誰が読んでも知的に楽しめる、超お薦めの一冊だ。

 たとえば、幻肢症という、病気や事故で腕や脚を失っても、その部分がまだ存在しているように感じ続ける疾患がある。単に幻を感じるだけなら良いんだけど、無いはずの足先が猛烈に痛んだり、腕をあらぬ方向にねじり上げられているように感じたりすることがあって、そうなるともう、その苦痛は治めようがない。

 この奇妙な症状は、どうして生じるのだろうか。

 ラマチャンドランは、そんな脳の神経回路に起因する様々な疾患の分析をもとに、大胆な仮説をたて、その仮説を検証する実験を考える。そして、可能ならそれを実行して、人間の認知の謎を解き明かし、疾患の治療法まで編みだしていく。

 その発想と論理展開が、もう、メチャクチャ頭いい~って感じなんだよね。

 で、この続編の『脳の中の幽霊、ふたたび』という本が最近出たんだけど、この中に笑いについてのとても面白い仮説があった。

 それは、痛みを感じると、クスクスととめどなく笑い出してしまう、「痛覚失象徴」という不思議な疾患をめぐる考察だ。

 一体どうして、そんな奇妙な病気が存在できるのだろうか。
 この問いに答えるために、ラマチャンドランはまず、笑いの進化的な意味を考える。

 笑いは、世界のあらゆる文化に見られるもので、これが人類の遺伝子に組み込まれていることは明らかだ。
 そして、その遺伝情報に基づいて、脳というハードウェアには、笑いを司る回路が存在している。

 痛覚失象徴は、この笑いを司る脳回路のどこかに、異常があるわけだ。

 それにしても、いったいどうして「笑いの回路を」形作る、「笑いの遺伝子」などというものが、自然選択によって生まれたのだろうか。

 すべてのお笑いに当てはまる共通点は、まず、予想外の展開(警戒すべき展開)が起きて、それによって与えられた事実を解釈し直さなければならなることだ。

 たとえば道をすまし顔て歩いている紳士が、突然、バナナで滑って転んだとする。
 ……あまりにベタで、予想外じゃないって?
 まあまあ、それはおいておいて、ここでは何事もなく歩いていた人が、突然転ぶというところが、予想外の展開って事ね。

 しかし、予想外のことが起きるだけでは、笑いにはならない。
 たとえば、転んで額を割って血まみれになったりしたら、それを笑う人はいないだろう。

 笑いが起きるために重要なのは、オチがあることだ。

 たとえば、滑って転んだ人が痛てててと起きあがったとき、ズラがズレて前後反対になっていたりしたら、とたんにおかしくて笑いたくなる。

 これはつまり、枠組み変更を余儀なくされた時の新しい解釈が、危険じゃない、どうということのないものだったということだ。

 このことから、ラマチャンドランは、笑いは、今出た警報は誤りだと知らせるための、自然に備わった仕組みではないかと考える。

 笑いという、リズミカルな断続音は、回りにいる遺伝子の共有者に、ある情報を伝える。
 それは、「今出された警戒警報は、間違いでした。安心して良いよ」というメッセージなんだよね。

 うーん、なるほど。これはすごく納得できる。
 たとえば、あまり親密ではない人のお葬式で、なぜだか笑えちゃって困るという人がいる。これはたぶん、死という恐ろしいものを予感させる場所にいるけど、実際には自分には危険がない=警戒警報は間違いということが、笑いを誘うのだろう。

 また、笑うと緊張がほぐれたり、あまり恐いと(心理的な安定を求めて)かえって笑っちゃうということも、これで説明できる。

 ラマチャンドランは、さらに件の痛覚失象徴の患者の脳をCTスキャンで調べて、脳の側面にある島皮質のそばに損傷がある事をつきとめている。

 この島皮質は、皮膚や内蔵からの痛覚信号を受け取る場所だ。ただ、ここに信号が入力しただけでは、痛みを実感として味わうことはできない。

 島皮質からは扁桃体、扁桃体からほかの辺縁系、そして前部帯状回につながる回路がある。そして、こういうわりと古い脳の部分に信号が届くと、痛みに対する情動的な反応がおきるわけだ。

 このことから推定すると、この患者はどうやら、島皮質から扁桃体や全部帯状回へ至る経路が傷害されて、信号が届かなくなっているらしい。

 つまり、痛みを生の刺激として感じる島皮質には信号が入って警戒警報が出ているのに、扁桃体や前部帯状回にはその信号が届かないので、警戒は誤りだということになって、それで笑っちゃうんじゃないかというわけ。

 面白いのは、この仮説が正しいとすれば、群れで生活する動物には、おなじような警戒の誤りを正す信号があって不思議はないってことだ。
 もちろんそれが、ヒトと同じようなリズミカルな断続音とは限らないけれど、機能的には同じ役割を果たす信号を持っていて不思議はない。

 まあ、チンパンジーなら人間と同じような方法で笑っている可能性は高いけど、馬とか羊とか、群れをなす鳥とかはまた違った笑い信号を持っているだろう。それにアリやハチのような社会性昆虫は、笑いを意味する化学物質を持っているかも知れないね。

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