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2005/09/30

人はなぜ笑うのか(その2)

 ところで、お笑い現象がなぜ生じるか、深層心理の観点から解明しようとした最初の人は、あのフロイトだった。

 フロイトの深層心理論によると、人間の心には意識することができる自我(エゴ)の他に、超自我(スーパーエゴ)と、イドってのが、あることになっている。
 超自我はモラリストで、社会的に正しい行い(思考)以外の一切を否定しようとするものであるのに対して、イドはワガママ勝手に、己の欲望のままに振る舞おうとする「本能」的な存在だ。ようするに、心の中には、天使と悪魔がいて、いつも戦い、葛藤しているというモデルのわけね。

 超自我っつーのは、強力な検閲官で、悪い考えは、決してできないようにいつも見張っている。だから、普通は、イドの欲望ムキダシの思考はできないんだけど、でも超自我もそれほどお利口さんではないので、表面的な意味が問題ないなら、検閲を通しちゃうんだよね。

 で、ユーモアは表面的な意味は問題ないので、検閲をすんなり通ることができる。でも、自我がそれを改めてゆっくり検討してみると、その意味がそーとー破廉恥だったりするので、すると、抑圧されていた心的エネルギーが一気に開放されて、嬉しくなっちゃう……とまあこう考えるわけ。

 しかし、まあ、この考えは、それ自体がお笑いだなあって感じがある。なにしろ、深層心理理論っていうのは、それ自体、全く科学的ではないからねえ。

 もちろん、人間の脳が、自分では意識できない情報処理を行っていることは、疑う余地もないくらい確実だ。たとえば、ぼくたちは、物理的には空気の複雑な振動に過ぎないものを、「キミヲアイシテルヨ」というささやきだと認知することができる。

 こういう物理刺激から、意味を抽出するには、膨大な情報処理が必要になるけど、そのプロセスを人間は一切意識することはできない。つまり、意識以外の情報処理プロセスは確実に存在しているわけだ。

 でも、だからといって、その無意識的な情報処理が、擬人的なサブシステムによって行われているという根拠は全くない。

 フロイトが20世紀のはじめ頃に、人間の精神には、意識できる部分以外の領域があるということを洞察したのは、素晴らしい業績だった。だけど、その意識以外の部分を説明する、深層心理論は、それを実証する方法がないんだよね。だから、深層心理論は、面白いお話程度には聴けるけど、科学にはなりえないわけ。

 実をいうと、人間の精神のような、分割してとりだすことのできないものは、これこれこうだからこうなるというような、原因論的に追求していっても、証明のしようがないので、科学にはたぶんならない。

 じゃあ、笑いの科学というのは成り立たないのかというと、そんなことはないんだよね。そのためには、原因ではなく目的を追求すればいい。

 笑いはいかなる目的に使用されるか、使用したら有効かということなら、その仮説を実証することは、原理的には可能だから、科学的な理論になりうる。で、この方向で、笑いについて考察しているのが、人工知能研究の第一人者の、マーヴィン・ミンスキーだ。

 ミンスキーは、お笑いの笑い、笑いの発作のいちばんの特徴として、行動停止と、思考停止に注目している。

 お笑い回路が活性化されていると、ひー、くるし~、もうかんべんしてくりーって、感じで、お腹は痛いは涙は出るは、それまでの思考を続けることは一切不可能になる。つまり、お笑いの笑いは、思考を停止させるし、それまでしていた行動も、遂行不可能にしてしまう力をもっている。では、なぜ、そのようなものが必要になるのだろうか。

 ぼくたち人間は、何百万もの事実を知っているし、その事実をどのように組み合わせて推論したらいいかという、推論規則も同じくらいの数を知っている。

 このとき問題になるのは、ある状況の時に、それにふさわしい事実を、ふさわしい推論方で推論するには、どうしたらいいかということだ。すぐにも反応を返さなければならない時に、その特定の目標とは全く無関係な推論規則をいじくりまわして迷走したり、同じ推論部分に堂々巡りしてもどってきたりしていたのでは、この素早く変化する世界の中を生き抜いて行くことはできない。

 状況にふさわしくない、有効でない推論を避けるには、それを関知するセンサーが必要になる。そして、このセンサーが、お笑い回路を利用しているわけだ。つまり、ふさわしくない推論が始まると、逸早くそれをキャッチして、それ以上その推論が進まないようになっているわけだ。

 ここで推論を進めないようにしているというと、そんなことはない、バカな話はいくらでも延長して行くことができると思うかもしれないけど、それはここでいう推論とは意味が違うんだよね。

 ぼくたちは、世界を、フレームという予断の枠組みでもって、いつも眺めている。たとえば、そこにあるねじ回しは、ねじを回したいと思って手にとった時は、ねじを回すための道具だとしか思えない。

 でも、実際には、その道具を切れの悪いナイフとして使うこともできるし、タコ焼きを突き刺す串として使うこともできる。つまり、ぼくたちは、ねじを回したいという状況下では、それをねじを回す道具というフレームで捉えているわけだ。

 フレームというのは、あるものについての条件の羅列みたいなもので、抽象的な概念も含めて、この世のあらゆるものはフレームで表され、それがお互いにゆるやかなネットワークを作っている。そして、このフレームのネットワークは、生涯にわたる経験によって形作られて行く。

 こういうネットワークでは、ほとんど必然的に無意味な連鎖ができてしまう。で、その連鎖に添ってフレームを起動する、つまり推論をすると、状況にふさわしくない推論や、どうどうめぐりがおきることになる。

 ミンスキーは、あらゆる種類のユーモアにもっとも良く見られる要素は、思いがけないフレームの置き換えではないかという。ある言葉によって、その光景の要素すべてが、瞬時に全く異なった見え方をするようになるのが、ユーモアってわけだ。

 こうした転換は、ほとんどの場合単なる無意味なものにしかならない。だから、笑いによって、それがバグであると印をつけておく必要がある。で、いっぺん印がつけられると、もうそのフレームの連結は起きなくなるから、だから一度聴いた笑い話は、もう余りおかしくはなくなるわけだ。

 また、こういう自分のフレーム・ネットワークの内部にあるバグは、なるべく少ないほうが、いざという時に有利になる。だから、人間はフレームネットワークのバグとりをいつも熱心にできるように、お笑いが非常に快感として感じられるように作られているわけ。

 ぼくは、こういった、思いがけないフレームの置換というのは、芸術の本性だとも思う。思いがけないフレームの置換が起きたとき、それが無意味にならず、新しい意味を産み出した時、それが芸術は爆発だーになるんじゃないだろうか。

 フロイトの深層心理論とミンスキーの理論の大きな違いは、ミンスキーの側は、笑いを機械にインプリメントすることを考えているってことだ。

 つまり、笑いというものを人間が持っているなら、それは情報処理のなかでどのように使われるべく、脳内に組み込まれているかという、目的論で考えられている。こういうアプローチだと、最終的にはこの理論に従って、人工知能を作ってやれば、理論を証明することができる。笑いは、確かにフレームネットワークのバグ取りとして、使えるかどうか評価できるから、充分、科学的な理論といえるわけだ。

 いつの日か、高度に知的な人工知能が創られる時、その人工知能はきっと笑うことができるだろうね。なにしろ、ミンスキーがそういっているのだから、マチガイはないよ。

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人はなぜ笑うのか(その1)

 ヒトはどうして、笑うんでしょうねえ。

 笑うことって、とても楽しい。いつも笑って暮らせれば、どんだけステキだろうとか思うもんね。でも、必ずしも楽しさとは関係しない笑いというのもある。

 期待が満たされた時や、優越感を感じた時には笑うことが多いし、ものすごく恐い状況から抜け出したときのように、緊張が緩んだ時に思わず出る笑いもある。それから、社交的に、対人関係を円滑にするための微笑みとか、誰かを嘲笑ったり、笑ってゴマカスなんてのもあるしね。

 お笑いということだと、ナンセンスというか、意味がありそうでないとか、甚だしく間違っているとか、そういう時も思わず笑ってしまう。このへんは、芸術ともあい通じるところがあるような気がするな。

 この他にも、いろいろな状況で、人間は笑う。つまり、笑いは一つではなくて、この言葉には、凄くたくさんの要素が盛り込まれているということだ。

 そのためか、笑いというものを、科学の視点から解明していく作業というのは、まだあまり進んでいない。何千ピースもある巨大なジグソーパズルのうちの、数十ピースぐらいがようやく置かれはじめたかなって段階だ。(まあ、もっと広く、感情というものの研究自体、まだ数が少ないのだけど)ようするに、これからの研究分野ってわけ。

 そんでまあ、笑いとは何かを解明するための切り口の一つとして、表情からのアプローチがある。

 笑いには、文化的に違った面がたくさんあるだろうけど、表情としての笑いには、文化の差はあまりないようだ。どこの人でも、笑い顔をみれば、それが笑いだということは、ちゃんとわかる。つまり、表情とての笑いは、本能のような、人間の基本プログラムの一つといっていいだろう。

 それを示す別の証拠として、たとえば笑いてんかんというのがある。これは、本人は決して面白くもおかしくもないのに、てんかんの発作の出る直前に、笑い転げてしまうってものだ。この時の笑いは、傍目には本当におかしいことがあって笑っているのと、全く区別がつかないという。

 てんかんという病気は、脳神経の異常放電で、精神の病ではない。つまり、この笑いてんかんのケースは、脳内にある身体的な笑いを引き起こす回路が、異常放電によって活性化されてしまうのだろう。

 つまり、身体的な笑いを引き起こす回路は、人類に共通のものとして、脳の中にあるのだろう。

 ただ、脳の中の回路というのは、単なる肉体的な道具に過ぎないわけで、それがどういう状況下で、どう使われるかというのは、それとは全く別の問題になる。

 たとえば、赤ちゃんが笑いはじめる時、非常に早い段階から、笑いはいくつかの目的をもって使用されている。

 赤ちゃんは、生後4日とか7日で微笑っぽく、口を歪めるような表情をするようになる。定説では、この時点ではまだ、赤ちゃんは反射的な表情を、表しているにすぎず、これを笑いと見るのは、親の贔屓目ということになっている。

 もっとも、オッパイを飲んだ後とか、眠る直前にこういう表情をするので、ひょっとすると、これも満足感と関係しているのかもしれない。まあ、こればっかは、赤ちゃんに聴いて確認をとるわけにもいかないから、何ともいえないんだけどね。
 また、生後36時間くらいの赤ちゃんでも、目の前で、根気良くゆっくりと同じ表情を繰り返してやると、それを真似しはじめるので、反射的な笑みといっても、それほど機械的なものではないだろう。

 人間の赤ちゃんは、実は霊長類の中でも、もっとも成熟した、コミュニケーション能力を備えて生まれてくる。

 たとえば2週齢くらいの赤ちゃんでも、オッパイを吸う時、連続してずっと吸いつづけることは決してない。あるていど吸うと、吸うのをやめてしまうんだよね。すると、おかあさんは、赤ちゃんをよしよしって感じで、少しゆすぶる。これは、ほとんどの場合、おかあさんも意識せずにやっている動作なんだけど、そうすると赤ちゃんは、再びオッパイを吸いはじめるわけ。で、こういう交互のコミュニケーションのリズムが、ほぼ一定の間隔で繰り返されていく。

 生き物にとって、栄養の吸収は生存のための重要な課題だから、本来なら休まずオッパイを吸った方がいいに決まっている。

 実際、人間以外の動物の子は、みんな連続的に乳を吸いつづけるし、多くの点で人間と共通する類人猿たちでさえ、こういうことはしないらしい。
 しかし、人間の赤ちゃんは、栄養補給の効率よりも、おかあさんとのコミュニケーションの方を、重視しているわけだ。

 これは、人間にとって、他者とコミュニケーションをすることが、栄養を補給することに並ぶか、それ以上に重要な、本能的行動だということを意味している。そして、笑いはこのための重要な道具のひとつなのだ。

 赤ちゃんは、生後3週半くらいから、人の顔を見つめるようになり、4週目に入るとそれが頻繁になって、5週目ころからには視覚刺激に基づいて微笑むようになる。つまり、おかあさんの笑い顔をみると、笑い顔で応えるようになるわけだ。

 つまり、笑いはまず自分の満足を表現する信号として使われるみたいなんだけど、それとほとんど同時にコミュニケーションの道具としても、使われる。

 このような笑いと、お笑いの笑いとは、しかし少し様子が違っている。
 お笑いの笑いは、楽しいってことはもちろんあるけど、お腹の皮がよじれちゃうとかいう感じで、もっとこう爆発的なところがある。満足やコミニュケーションの笑いは、くつろぐ感じがあるけど、お笑いの笑いは興奮に近い。
 だとすると、お笑いの笑いとは、いったいどんな目的で、脳の笑い回路が使用されているのだろうか。

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2005/09/26

ソニーの明日はどっちかな

ソニー、新経営方針を発表。05年度営業利益は200億円の赤字
-エレクトロニクス15事業撤退。HDやCellを積極推進

 ソニーが好きだった人は、少なくないと思う。

 かく言うぼくも、かつてはソニーが好きで、古くはスカイセンサーとか、βとか、トリニトロンとか……を買ったりした。

 その理由は、やっぱり、ソニー製品は性能が良いし、デザインもカッコ良かったこと。 それから、実際に使ってみると、その使い心地もなかなかよろしかった事だ。
 おそらく、ソニーはユーザー・インターフェースについての検討を、他のメーカーよりは時間をかけてきちんとやっていたのだろう。(今は知らないけど)

 でも、不思議な事に、いつの頃からか、ソニー製品を購入する事はほとんどなくなってしまった。

 その時期は厳密にはよくわからない。
 今日のソニーの凋落ぶりは、先代社長の責任だと言われたりもするようだけど、その傾向はもっと前からあったような気がしないでもない。

 なぜ、ぼくがソニー製品を買わなくなっていったか。
 それはたぶん、ぼくが勝手に思っていたソニーらしさが、ソニーの中から徐々に失われていったからだろう。

 独自の規格を作っては転けるというのは、ソニーの良くあるパターンで、βもある意味そうかもしれないし、Lカセットとか、名前も思い出せないような規格が山のように産み出されては消えていっている。

 ソニーが新しい規格のものを出した時、ぼくは大抵こんなふうに考える。
 あー、またこんなの出してる。こんなの売れるわけないよな~。
 ……でも、こういうところは良さそうだね、この部分は意味あるね。
 そんな感じ。

 メカや技術が好きな人間なら、言葉で説明されなくても解る何かが、そこにあった。
 まるでソニーの技術者が、ぼくはこういうものがあったら嬉しいと思うから作ってみたけど、どうだろう?と、問いかけてくるような。

 でも、今のソニー製品からそういうものを感じる事は余り無い。

 たとえばカール・ツァイスのレンズを採用したデジカメとか言われると、ちょっと、ピクっとくるものはある。でも、だからどうなのよ。そんなのただのブランド名に過ぎなくて、ぼくの求めるものはそこにはない。
 色々ご託を並べられて、凄い性能とかアピールされても、なんかちょっと違う感じ。

 ぼくは、デジカメだったら、パナソニックのLUMIX DMC-FZ1 みたいなものに心引かれる。
 このカメラは、CCDなら受光面面積をフィルムより小型にできることを利用して、掌の上に乗る小型カメラでありながら、焦点距離が35ミリ換算で35~420ミリの12倍ズームかつ、全域解放絞りF2.8という、フィルムカメラではあり得ない性能を実現した。
 これは今までにない、デジカメでなければなし得ない、全く新しいアイデアだ。

 考えてみると、いつの頃からかソニーには、こういう新しいアイデアが乏しくなっていったような気がする。

 一時のソニーは、優れた実装技術を使うなど、軽薄短小化の最先端を走っていた。パスポートサイズのビデオカメラとか。でも、それは量の革新であって質の革新ではない。(というのは、ちょっと言い過ぎなんだけどね。高密度実装には地味ではあるが新しいアイデアがたくさん必要だから)

 新しいアイデアの減少。それはぼくがソニーに魅力を感じなくなっていった、一つの理由ではあったと思う。

 規格のコトに話を戻すと、ソニーの新規格で、これはもうムリと、ゲンナリしてしまったのがメモリースティックだった。

 この規格は、他のものより後発で、しかも技術としては他より劣っていた。かつてのソニーだったら、技術的になるほどと思わせる何かが必ずあったものだけど、これに関してはそういう輝きは微塵もなくて、ただ、独自の規格にしたいがためだけに出したものとしか思えなかった。

 それから、シリコンオーディオやICレコーダーで、MP3をあくまで排除して独自規格にこだわり続けた事。

 独自規格というビジネスは、確かに成功すればウハウハだろう。
 たとえばプレイステーションは、近年のその成功例だ。
 また、著作権の侵害も、規格の力で押さえ込んでしまいたいのだろう。

 そういう「大人」的な考えは、まあ立場としては理解できなくもない。
 でも、それは企業側の事情を優先させ、ユーザーの満足感を犠牲にするやり方だったのではないかと思う。

 かつてのソニーが新しい規格を提案する時、新しい技術で新しい世界を切り開こうという気概があったように思える。それは、ちょっと青臭く、バカっぽいところもあったけど、ユーザーに良いと信じるものを提供しようとしていた。うはー、夢が広がりんぐって感じ。そこがソニーの格好良さだった。

 でも、今のソニーの規格は、目新しくもなく、限られた世界を囲い込むために作られたようなものでしかない。そういうものに、ぼくは全く面白みを感じない。

 ただ、今のソニー製品でも、たまに断片的に昔の香りが漂うものもある。そういうのを見ると、昔ながらのソニーマインドを持った少数の人たちが、今でもがんばっていて、でも、立場的に恵まれていないんじゃないかといらん心配をしたりして。

 今回の改革で、ソニーは高級ブランドのクオリアを止める事にしたようだ。
 これは結構な事だ。

 クオリアは、デジタル機器の高級ブランドを確立しようと考えたのだろう。
 でも、それなら、デジタル機器の宿命である速い性能の陳腐化をどう補うかを、真剣に考える必要があった。
 ところがクオリアは、ただ、とんでもない高価格さえつければ、消費者は高級品だと誤解してくれるだろうという、浅ましい考えに基づく製品群にしか見えなかった。

 一方、キュリオの開発も縮小されるというのは、ちょっとどうかと思う。
 キュリオは、昔ながらの技術のソニーのイメージを残す、数少ないものだからだ。
 キュリオは、たぶんそれ自体が市販される事はない。
 でも、「インテリジェンス・ダイナミクス研究所について思う事」で書いたように、これをプラットフォームにして、次の時代を切り開くような基礎よりの研究がされている。

 まあ、200億円も赤字を出してしまっては、なかなか難しいのかも知れないけれど、収益性だけを考えてこういう基礎を犠牲にすると、結局は先細りになっていく可能性は大きいと思う。

 いずれにしても、ソニーにはがんばって欲しいとは思っている。そして、できれば昔の雰囲気を取り戻して欲しいものだにゃあ。

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男と女の違いとか

 今さらいうほどの事でもないかも知れないけれど、男性と女性には、肉体のみならず精神的にも、遺伝的な素因による傾向の違いがある。これは差別でも何でもなくて、厳然たる事実だ。

 ずいぶん前の話になるけど、チンパンジーのアイと共同研究している、京都大学霊長類研究所の松沢哲郎さんに取材したことがあった。

 その時、類人猿を使った言語学習ってどうして、被験者(類人猿)に女の子ばかり使うんでしょうねと聞いてみた。

 当時、ぼくが知っていたその分野の研究としては、最初に手話を覚えたチンパンジーのワシュー、プラスチック・チップを使った言語を覚えたサラ、図形文字を覚えたラナ、そして500サインを覚えているゴリラのココなど、みんな女の子だったのだ。

 ちなみに、この当時はまだボノボのカンジのことは知らなかった。

 で、そういえばそうだ、ということになって、考えてみると、研究が成功した例というのは、類人猿の側が女子であると同時に、研究者の側も女性か、あるいはせめて夫婦の場合に限られているなあと松沢さんはいっていた。

 ココの研究者はペニー・パターソンで女性、サラはプレマック夫妻。ラナはランボー夫妻。ワシューはガードナー夫妻で、松沢さんによると、奥さんのほうが賢いからできたような研究だそうだ。それから、カンジはスー・ランボーだし、アイプロジェクトも、はじまりは室伏靖子さんがリーダーだった。

 一方、チンパンジーには手話は覚えられない、できてもそこに文法的構造は見出せないと主張した、コロンビア大学のハーバート・テラスは、男性で、使ったチンパンジーもニムという男子で、こりゃあ最悪の組み合わせだったわけだ。

 この違いの原因は何だろうか。

 アイの場合、言葉を覚えるには、何日も何千何万回もくり返し勉強をしなくちゃならない。アイにはその忍耐があった。

 しかし、一緒に学習をはじめたアキラにはそれがなくて、すぐに気が散って遊びたくなってしまう。

 その気持ちはよーくわかる、と松沢さんはいっていた。なにしろ、こっちだって、アイほどの忍耐はないんだからって。

 社会生物学的では、男女の生殖戦略の違いから、女性は忍耐や継続の意志が強く、男性は基本的に移り気になりがちな傾向があるといわれている。まさに、その傾向が、ここに現れているんじゃないかというのが、松沢さんの意見だった。

 この他にも、野生の大型類人猿の研究でも、野生チンパンジーのジェーン・グドール、野生ゴリラのダイアン・フォッシー、オランウータンの、ビルーテ・ゲルディガスなど、長期継続研究のパイオニアはみんな女性だ。

 ゴリラは、シガニー・ウィーバー主演の映画『愛は霧のかなたに』を見るとわかると思うけど、フォッシーの前にシャラーという人が2年観察して7割はわかった、あとは君に任せるといったんだけど(移り気だから)、彼女が残りの3割とされていたところの研究を始めると、実は最初の7割も、少しも判っていなかったことが判ってしまったといういきさつがある。

 科学研究の中には、こういう地道な努力を継続的に非常に長期間続けて初めて何かが見えてくるというものがある。それについては、女性タイプの生存戦略が大いに威力を発揮するわけだ。

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