テレパシーマシンを作っちゃおう(その3)
今年は、どうやらSFの当り年になりそうだなあ。
翻訳物のSFというのは一種の波のようなものがあって、良い作品が集中して訳される年と、散発的にしか粒よりの作品と巡り会えない年がある。ここ数年は、どういうわけか、面白いめの作品はぽつりぽつりとしか訳されて来なかったんだよね。
ところが、今年はどうですか。出だしこそ、「荒れた岸辺」くらいしか見るべき物がなかったものの、夏に入ってから続々面白いものが翻訳され始めている。
ギブスンの「ニューロマンサー」を始めとして、スターリングとかサイバーパンク系の作品が続々出版されるみたいだし、それ以外にも楽しみな物が随分ある。この原稿を書いている時点で、ティプトリーの「老いたる霊長類の星への賛歌」とかラファティとかがすでに出ているし、この先「スター・タイド・ライジング」のブリンとかも出るという話だ。
久々に、楽しげな小説をたくさん読めそうで、ほんとシアワセよ。なかでも期待は、スターリングとブリン。
スターリングは良いよお!今までは短編を読んだことしかないけど、どことなく大原さんの未来史ものの質感と通じるところがある。おっと、そういえば、前回「スキズマトリクス」をギブスンの作品と誤解していたけど、実はこれはスターリングの作品でした。どうも、すいません。タイトルが、ギブスンのサイバー・スペースを連想させるので、混乱してしまったのでした。
さて、それでは本論であるところの、テレパシーの話の第三回目にとりかかるとしましょうか。このところ、難しい話が続いて、脳ミソがオーバーヒートしそうだから、一応この話は今回で切り上げるぞ、と。
で、どこまで話たっけ。たしか、テレパシーを可能にするための、ソフトウエアの問題についてだったな。脳のソフトウエアは、個々人でコンパチビリティがなさそうだから、テレパシーは難しそう、ということがいいたいのだった。
もっとも脳のソフトウエアの内容が、どういうものかは全くわからないから、コンパチビリティの有る無しも、厳密にはわからないはず。ただ、脳はソフトウエアが、神経回路の結線の仕方によって定まる、アナログ・コンピュータだろうから、脳の神経回路の微細構造が個人個人で違っているなら、ソフトウエアもそうである可能性は大きい。
それに、記憶の問題もある。つまり、記憶のしかたというのは、人によって随分違っているように思えるんだよね。
記憶力というのは不思議なもので、どんなことでも総て良く覚えている、という人は非常に稀だと思う。ところが、ある特定のことに関しては、異常に強力な記憶力を発揮する人というのは、結構多い。と、いうより、たいていの人はその人独自の、得意とする分野に付いては、格段に優れた記憶力を持っていることが多いような気がする。
その種の記憶力は、その人に取って、全く苦労して覚える必要も無く、あんまり易々と覚えられるものだから、自分の記憶力が良いということすら気が付かないことがあるくらいだ。
例えば、このページのイラスト(?)を担当してくれている米田さんは、電話番号を異常に良く記憶している。このしとには、多分電話帳なんか必要ないんじゃないかというくらい、あらゆる知人の、電話番号を空んじることができるんだよね。
彼にこのことを話すと、「いや、これは良く掛ける番号だから」とかいうんだけど、一回くらいしか掛けたことのない番号だって、しばらく考えていると思いだしたりする。どう考えたって、普通じゃないよ。
だいたい、ぼくなんかは、電話番号なんて全く覚えられないタチで、百回掛けたって、そのつど手帳を見ないと、番号を思い出せない。
こりゃまあ、どちらかというと記憶力が悪い部類に入るか。でも、別に数字が全く記憶できない訳じゃなくて、例えば引っ越ししたときに、自分の電話番号が変わったり、住所が変わったりというときは、記憶しようというという努力を全くしないでも、それを覚えることができる。
それに、通っているエアロビクス・スタジオの会員番号も、別に覚えようと思ったわけじゃないけど、暗唱できるぞ。
電話番号なんかのほかにも、人の名前とか、異常に記憶している人がいるよね。飲食店とか、水商売をやっている人なんかに、こういう人がよくいるよなあ。ぼくも、以前あるレストランで、こんな経験をしたことがある。
たまたま、知人とその店に一緒に入ったのだけど、そこはこじんまりして、10人も入ればいっぱいになっちゃうような所だった。しかも、ここの料理が意外と(というかものすごく)うまい!後で聞いたところでは、結構有名な店だったようだ。
で、あんまりうまいんで、カウンターごしにマスターに、「絶対また来るからね」なんて言っていたのだった。
ところが、どういうわけかその後その店に行く機会がなくて、二度目にそこを訪れたのは、一年以上もたった後だったわけ。
すると、くだんのマスターは、それでも僕のことを覚えていて(それどころか、前来たときの状況とか、話の内容まで覚えていた)、どひー、とびっくりしたというわけ。
最初に行ったときに、よっぽど印象に残ることをしていたなら、覚えていても当然だとは思うけど、決してそんなわけではなかっったんだよね。さすが、プロフェッショナルは違うと、ホトホト感心したよなあ。
こういう能力があれば、客は絶対何度もこの店にくるな、と思いましたよ。で、僕はというと、それ以来そこには行っていないのだった。なぜかというと、なぜだろね?ーきっと、むちゃくちゃ高いせいだろうね。
僕の記憶力は、全体として、お世辞にも良いとはいえない。電話番号はもちろん、人の名前も、場合によっちゃ顔さえも覚えていられない。突然知らない人に挨拶されて、それが結局誰だったか、最後まで思い出せないなんてことさえある。
芸能人の名前とか、野球の選手の名前なんかも、全くといっていいほど頭に入らない。ほとんど記憶に不自由な人といっても良いくらいの物なんだよね。
だけど、どういうわけか、科学関係の言葉、事実、関係なんていうのは全く苦労せずに、いくらでも覚えておける。ほとんど、何の意味もないように思える、ガンマ・アミノ酪酸とか、カイロミクロンとか、ギムネマ・シルベスタとかいう言葉でも、一度かせいぜい二度みれば頭に入ってしまうんだよね。ま、これのおかげで、今のような仕事をしているわけだ。
こういう、自自身を振り返ったり、他の記憶力の良い人を見たりすると、どうして自分の(おそらく)興味をもっている物に付いては、いとも易々と記憶できるのかと思う。
いや、厳密にいうと、どうして、簡単に、記憶を再生できるのだろうか。
記憶と一口にいっても、それを再生するためには、まず第一に、脳のどこかに記憶できなければならないし、第二にその記憶が消去されてはならないし、第三に的確にその記憶をサーチして意識に登らせられなければならない。
この三つがそろって始めて、記憶を思い出すことができる。
で、記憶が再生されないときは、元々覚えていないのか、覚えたのに消去されたのか、サーチが旨く行かなくなったかの、どれかというわけ。
ときたま、古い心理学関係のほうから、人間は生まれたときから、殆ど全ての記憶を持っているんだけど、たまたまそれが思い出せないだけだ、なんてことがいわれる。その証拠に、催眠術をかけると、幼い頃のことまでアリアリと思い出すことができるようになる、なんてね。
しかし、これはちょっとおかしい。脳がそんな非効率なことをしているわけない。そんなことしてたら、ガベージ・コレクションがたいへんだよ。
催眠術で、いつもは全く思い出せないような過去を思い出せたりすることは確かなんだけど、それにはしばしば事実と違う内容も混じってくるんだよね。正しい記憶ももちろん有るんだけど、そこから一種の物語を作って、全体のつじつまをあわせようとするらしい。もちろん、これは嘘をついているんじゃなくて、一種の夢のようなものなんだけどね。だからこそ、催眠術でどんどん過去に遡って、前生の記憶なんてものを呼び覚ましたりできるわけだ。
だから、記憶というのは普段自分が意識しているよりも遥かに多くの事を記憶してはいるにしても、経験の全てではない。そもそも記憶が成立していないために、思い出せないというケースは確実にある。
もう一つの、記憶が消去されるというのも、十分ありうることだろう。神経細胞は毎日何十万か、確実に死んでいくんだから、形成された記憶が消滅する可能性は大いにある。
ただ、神経細胞が死滅することは、すなわちちパーになるということでもないけどね。実際、神経細胞の数だけでいうなら、生まれる直前か直後くらいが最大なんだよね。
これは最初は、あらゆる可能性を想定して、できる限りの細胞を作っておくという事だと思う。そして、生まれ落ちてから外部の環境にあわせて、不必要な細胞をゴソッと死滅させて、適応的な構造を作るというわけ。細胞は死んでこそ機能を発揮できるようになるというわけね。
とはいえ、年とって、脳の隙間が段々広がっていくのは、やっぱり寂しいけど。
で、記憶について一番本質的なのは、やっぱりサーチの問題ではないかと思うわけ。脳の中には、何らかの秩序に従って、記憶がしまいこまれていて、それに沿って記憶がサーチされ再生される。
ここんとこが、人によって、記憶の得意技のある原因のような気がする。 つまり、記憶するということは、有る秩序だった樹木のようなものがあって、そこに葉っぱを取り付ける作業のようなものじゃないか、ちゅうわけ。
つまり、慣れ親しんだ木に、葉っぱを取り付ける場合は、木のどの位置にそれを付けたら良いかすぐ分かるので、易々とあっというまに記憶でき、再生できるわけ。そして、その木をしばらく使わ無かったり、あるいはその木には微妙におさまりきらない記憶だったりすると、思い出すのに時間がかかったりする。
この木の形が人によって、全く違うから、記憶力に得意な分野が現れてくるってわけだ。
もっとも、全ての記憶がこの木のアナロジーで成り立つわけじゃない。それほど得意な分野じゃなくても、全く記憶できないわけじゃないからね。ただ、記憶の木が作られると、記憶と再生の効率が上がるんだろうね。
例えば、英語の単語なんて、英語を始めた頃よりも、かなり慣れ親しんでからのほうが、覚え易くなったと思わない?これは、たぶん英語の単語に関する、新しい木が作られたんじゃないかな。
記憶の木といったけど、これはあくまで便宜的なもので、別に記憶がツリー状に構築されているというわけじゅない。その実態は今のところ確かなことは分からないし、前回いったような振動の協振みたいなものが本当かも知れない。
しかし、これこそテレパシーによって、人に伝えたいものではないだろうか。人それぞれの記憶の枠組み。個人個人によって、たった一つの言葉や体験、行動などから想起される、記憶は全く違っている。そして、それこそその人の個性でありアイデンティティのはずだ。
個性には、常時肉体が受け取っている物理的な刺激のうち、どれをもっとも価値のあるものとして評価し、大脳で処理するに足るものとするか、ということもあるけどね。これは、ギブスンのシムステイムだろうな。
想起されてくる記憶の全てを共有して始めて、本当に相手を理解できたことになる。本当に、相手の視野で世界を眺めることができることになる。
ただ、これを、自分のアイデンティティを保ったまま、受け入れることはできないんじゃないかな。
この記憶の木は、脳の内部では物理的な実体を持った、神経回路のネットワークだから、これを伝えるには、相手の脳神経のネットワークを、送信側と全く同じにしなければならない。つまり、同じ人間になっちゃうわけ。
じゃあこれは無理なのか?そこでSFだ。
脳の記憶構造(ソフトウエア)を、何らかの形で読みだせるとしよう。これを、別人の脳に共生させた(あるいは連結した)サイバー・マトリックス・コンピュータ上で、シュミレーションさせればいい。
これは、まあ一種の現代制御理論だね。つまり、一方の脳から常時パラメータを検出して、それと同じパラメータを持つ思考を、コンピュータ上でシュミレーションするというわけ。
シュミレーションだから、100 パーセントの個性再生は難しいかもしれないけどね。しかし、こういうことができれば、本当の意味で、他人の感じかた、考え方を共有し、楽しめるだろうなあ。
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テレパシーマシンを作っちゃおう(その2)
今回は、テレパシーの話の2回目。
でまあ、前回の復習から、ボチボチいきまひょか。
前回は、主にテレパシーと、そのハードウエア上の制約について考えてみた。ハードウエアといっても、脳だから、”ウエットウエア”と呼んだほうがカッコよかったかな。
ともかく、ウエットウエア的に見て、ブレインストーム型、テレパシー・マシンの実現は、非常に難しい、というのが前回の結論だった。
それはつまり、こんなワケだ。
この世には、二人として、同じ人間はいない。それと同じように、脳もまた二つとして同じものがない。
もっとも、脳の神経細胞などの、素子レベルの特性は、誰もほぼ同じと考えていいと思う。これは、コンピュータでいうなら、ICレベルのコンパチビリティだ。
今あるコンピューターは、ほとんどが素子レベルでは、シリコンのICを使っていて、その基本的特性は、どれでも同じといえる。シリコンじゃなくても、トランジスタのレベルなら、どれだってだいたい同じようなものだ。
人間の脳細胞も、似たような遺伝子から作られているわけだから、基本的な性質にそれほど差はないだろう。
ただ、神経細胞レベルでコンパチブルでも、テレパシーには余り役には立たない。
難しいのは、もう一つ上のレベルの問題なのだ。もう一つ上というのは、素子を組み上げた、回路レベルの問題だ。
これも、コンピュータとの対比で考えてみるとわかりやすい。つまり、同じ基本的な性質を持ったICで構成されているCPUでも、たとえば80系と68系では、その回路は全く違っている。
人間の場合はこれよりもっとひどくて、二人として、同じ神経回路を持ったものが存在しない。これは、脳の形が、マクロに見ても、一人一人違っていることからも、容易に想像できる。
マクロな形に違いがあっても、ミクロレベルでは、トポロジー的に同じという可能性もある。もしそうなら、テレパシー・マシンの思考ピックアップを工夫すれば、なんとかいけるかもしれない。
しかし、トポロジー的にみても、脳はコンパチブルではないだろうなあ。 それはまあ、記憶の問題を考えてみればいい。
記憶は最終的に、脳内の神経回路のパターンとして定着する。つまり、全く同じ記憶を持たなければ、同じ回路の脳にはならないはずだ。
そこで、ブレインストーム型の装置を使ったテレパシーは、まず不可能ということになる。
ブレインストーム型の装置は、脳内の電気パターンを読み取って、記録し、それを別の人の脳の中に再現するものだ。だから、これでは再現された電気パターンが、何か意味のある内容になっている可能性はほとんどない。
ちょうど、8086の内部で生じている電位変化を三次元的に記録して、それを6800の中に再現しても、全く意味をなさないことと同じ事だ。
せっかく作った、テレパシー・マシンだけど、これじゃあ何の役にも立たない。せいぜい、自分自身の記憶を再生できる程度だ。これも、余り時間がたつと難しいだろうけど。
しかし、せっかくの超マシンを、いきなりゴミ箱へ捨てるのももったいないよな。そこで、この装置の、別の使い道を考えてみる。
まあ、良くしたもので、人間の脳というのは、さすがに一から十まで全部違うということない。やっぱり、おんなじ種だし、似たような遺伝子から、自己組織化されるんだから、当然だよね。
たとえば、記憶を司っているのは海馬と側頭葉だとか、感覚はどこだ、運動はここだ、なんていう大雑把なところでは、誰でも、だいたい同じなわけだ。
そこで、ブレインストーム型の装置を使えば、少なくとも体の感覚などについては伝達ができるだろう。
ウイリアム・ギブスンの”シムスティム”は、こんな感じの装置だと思う。
シムスティムについては、「クローム襲撃」で読んだだけだから、余り詳細はわからんけど、この夏に翻訳される「スキズマトリクス」には、もうちょっと詳しくでてくるかもしれない。出てこないかもしれんけど。
シムスティムは、ウオークマン型の装置で、感覚ソフトを再生して楽しむものなんだけど、読んだ限りでは、基本的に、視覚を再現するもののようだ。
シムスティムの作家は、特殊な義眼を移植されていて、その作家の見た世界を記録する。つまり、作家の視線が記録されるわけだ。
これは、網膜から、視交叉にかけてくらいまでで、神経の興奮パターンを記録すればできるだろう。ようするに、網膜に写った映像を、そのまま他の人の網膜上に再生するのと同じことね。 どうして、もっと脳に近い側で、神経の興奮を記録しないのかというと、これより先の脳の内部にいくと、結構いろいろな情報処理が行われて、コンパチビリティを維持するのが難しくなってくるからだ。
視覚というのは、脳の中で相当情報処理されて始めて成立するものだから、回路的にも随分違っているはずだ。
実際、開眼者(幼い頃に失明したが、長じてから手術によって目の機能を回復した人)は、目がみえても、物を見ることが出来ない。訓練すれば、だんだん出来るようになるみたいだけれど、健常者と同じような、完全な視知覚ができるようには、なかなかならないようだ。これは、目からくる神経興奮の情報を、解釈するためのソフトウエアが作られなかったため、と考えられる。
しかし、シムスティムのように、視線のみの記録では、やっぱり今一つつまらないような気がする。
その点、わが社の、ブレインストーム改・感覚伝達マシンというのは、もう少し、別の感覚も記録・伝達できる。そのうえ、気分とか感情といったものまで、伝達できるのだよ。
こういう機械を想像すると、やっぱり一番面白いのは、嗅覚とか、味覚とか触覚が伝達できることだろうね。
視覚や聴覚については、すでに今のオーディオ・ビジュアル機器で、ある程度できちゃっているものだから、新鮮さに欠けるところがある。
視覚に関しては、誰かの物の見方で世界を眺められるというのは、それなりの面白さがあるだろうけど、聴覚となるとそういう評論的な味付けもできないだろうし。
音の場合は、誰かの耳に入ってくる音は再現できても、何を聞いているかは再現できない。何を聞くかというのは、やっぱり高度な情報処理に属するからだ。
耳というのは、様々な音を同時に受けているけれど、そのなかから必要なものだけを聞くことができる。必要でないものを、ノイズとして処理してしまえるのは、相当な情報処理だ。
嗅覚や、味覚、触覚だって、もちろん高度な情報処理はともなうから、たとえば、味覚や嗅覚の敏感な人から記録した情報を、他の鈍感な人が再生しても、微妙な感覚の差が味わえるわけではない。
けれど、それ以前の、ただの刺激の部分だけでも伝達できれば、今までに無いメディアが生まれることは間違いない。とくに、触覚なんかは芸術の域にまでもっていけるんじゃないか、という気がする。
さてと、話をテレパシーの方にもどそう。テレパシーは、ハード的にかなり難しいことは確かなんだけれど、なんとかふんばれば、どうにかなるかも知れない。
ようするに、ブレインストーム方式を諦めて、もうちょっと別の、テレパシー伝達マシンを考えればいいのだから。
たとえば、脳内の神経インパルスを記録・再生するためのセンサ部分は、一人一人、特注品にして、そこから得られた情報を送れるようにすれば、なんとかなるかも知れない。深く考えると、駄目のような気がするけど、とりあえず出来るかも知れない、として、と。
次に、問題になってくるのは、ソフトウエアのコンパチビリティということになる。
ソフトウエアのコンパチビリティといっても、脳のソフトウエアそのものが、それほど分かっているわけではないので、これを云々することはあまりできない。
たぶん、これも大雑把には同じでも、デテールはかなり違っているだろう。
脳の場合は、ソフトウエアが、神経回路のつながりかたできまる、アナログコンピュータだから、ハードウエア・イコール・ソフトウエアというところがある。だから、ハードウエアの場合と同じようになると予測できるわけ。
ただ、もうちょっと、難しい面もある。それは、記憶の問題だ。
人間の脳が、どういう形で、どこに記憶を蓄えているかということは、はっきりしていない。
もちろん、RNAとか何等かの分子が、ある記憶に対応していることはありえないけどね。いまだに、記憶の話になると、あのプラナリアの出鱈目な実験を例に持ち出して、将来は薬で記憶を移せるなんていう人がいるけど、そんなことあるわけないじゃん。
ある分子が、ある記憶に対応するなんてことが、ありえるはずがない。
たとえば”あ”という文字の記憶は、分子Aに対応するとする。すると、誰の頭にAを注射しても、”あ”という文字が思い浮かぶわけだ。それはたしかに、一つの考え方だ。
しかし、もしそうだとすると、我々が経験したり、知覚したり、想像したりして生じる、あらゆる記憶に対して、あらかじめそれを意味する分子が存在していなければならない。
まあ、分子の数はいくらでもあるし、遺伝子みたいに、一種の文章にしてしまうという手もある。そういうことが無いとは断定できない。
そこで、百歩ゆずって、この世のあらゆる事象が、ある分子と対応づけられたとしよう。
しかし、その分子が何を意味するか解釈できる脳というのは、予め記憶できることを総て知っていなければならなくなる。われわれが、今まで見たこともないような事象についても、脳はあらかじめ知っている必要がある。
そうでなければ、全く新しい出来事に対応する分子が、何を意味するか解釈できないから、それを見ることすらできなくなってしまう。
さすがに、これはありえんと思う。
こういうアイデアと、ゲーデルの定理とか、人類とはアミノ酸組成の違う知性生物の認識力の差、なんてテーマでSFを書けば、バリントン・ベイリーみたいな作品になるかもしれんけどね。
もちろん、今では記憶が分子に対応すると考えている専門家はいない。 じゃ、どうなっているかというと、いろいろな説がある。最終的に一個の神経細胞にたどり着く、”おばあさん細胞”説とか、神経回路の形が記憶に対応するという説とか。この二つは、根本的にパーセプトロンの考え方に基づいているから、本質的には余り違わない。
後者はいくつかの細胞が、同時に興奮することが、ある記憶に対応しているわけで、記憶が脳の中に分散して存在している。すると、一部が欠落しても、記憶の再生が可能という点が、おばあさん細胞とちょっとちがっている。
脳の記憶はホログラフィだという説もあるけど、これもあるホログラフィー・パターンが、ある記憶に対応するという意味では、前の説と同じだ。
それに、脳がホログラフィーだというのは、アナロジー以上の意味は無いとおもう。昔はおもしろいなあ、と思ったアイデアだけど、ニューサイエンスと結び付いて、邪悪な説になってしまったし……。
記憶は、ある種の振動であるという説もある。このいい方は、いかにもいかがわしい臭いがあるけど、実はわりとマトモで面白い。
これは、東大の清水博教授開発している、ホロニック・コンピュータの原理だ。同じ物を、世界的にはシナージェスティック・コンピュータと呼ぶことが多いけどね。
これは、ある記憶がある振動に対応すると考える。人間の脳には様々な電気的、化学的な振動=リズムがあるから、その発想はあり得ないことではない。早い話、脳波だって振動だもんね。
記憶を振動とすると、似たような記憶は似たような振動になって、お互いに引き込みあう、という現象がおきてくる。たとえば、4本足という記憶の振動は、犬とか馬とか机とかいった記憶が引き込みあって、一つの振動を作っていると考える。
こうすると、連想とか抽象化なんていう、人間の高度な情報処理が、うまく説明できそうだってわけ。
うむむ、またページがつきてしまった。これらの、記憶の諸説と、テレパシーの関係は次号に続きまっせ。
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テレパシーマシンを作っちゃおう(その1)
脳から情報を取り出して、何らかの装置とつなげる研究の事を、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)という。つまり、脳に電極を刺すなどして信号を取りだし、それを使って機械を動かしたり、コミュニケーションを行うもので、90年代の終わり頃から非常にリアリティを持ち始めた分野なんだよね。
これの最近の動向と、「精神のダウンロード」や「テレパシーマシン」についてちょっと書いてみたいんだけど、それに先だって、ぼくが20年ほど前に書いた考察を紹介しておきたい。
これは月刊ログインに86年の8月号から10月号まで掲載されたコラムで、今読み返すと、さすがに若書きでちょっと恥ずかしい感じだけど、まあ基本的な考え方は今も変わっていなかったりするので。
それでは、いってみましょう。
さあ、サイバーパンクがやってくるぞ。ブルース・スターリングが、ウイリアム・ギブスンが。ぼくも、SFしなくっちゃな。
と、いうことで、先々月から予告していたテレパシーの話を、ようやく始めようってわけだ。
テレパシーというのは、今ではすっかり一般的な言葉になって、知らない人のほうが少ないんじゃないか、てな感じになっている。アイドル歌手の歌の歌詩の中とか、コマーシャルのなかにも、テレパシーって出てくるもんね。でも、これはもともと、SF三種の神器ともいうべき、念力、テレポート、テレパシーのうちの、一つだったんだよね。
時代は流れて行くなあ……。
それはともかく、SFの中で使われているテレパシーというのは、どんなものか、ちょっと思い出してみよう。
まず、テレパシーっていうのは、お互いに心と心を伝えあえる、マコトに結構な、愛に満ちたものだった。もちろん、そこにはウソの入り込む余地もなければ、言葉の差による障害もない。それどころか、ミミズだろうが、エイリアンだろうが、どんな生物とだって、コミニュケーションが取れてしまう。これは便利。
そこから派生して、テレパシストは集団と個が一体化しているので、孤独になるとすごく寂しいとか、やたら人の考えが読めるのはうっとうしい、というような物語りもたくさんあった。
お、ここで昔話をひとつ思い出したぞ。テレパシストの見つけかたというのを、高校時代に考えたことがある。なぜ、テレパシストを見つけるのか。そこにテレパシストがいるからである。違うか。
これは割と簡単にできる。まず、比較的すいている電車の中などの、ある程度人間が集まっていて、その人たちをだいたい見渡せる場所に行く。相手は、自分の心を読むので、気どられぬように、心の中で口笛などを吹きながら行くのがよい。
そうしておいて、頃合を見計らって、おもいっきり大きな心で「わっ」と叫ぶのだ。もちろん声を出しちゃ駄目ね。
すると、油断していたテレパシストは、きっとびっくりした顔をするに違いない。テレパシストの中にも臆病なやつがいるはずだら、ひよっとすると「ひえっ!」とか声を上げるかもしれない。
一度や二度では駄目かもしれないが、何十回、何百回とやっていれば、そのうちびっくりするやつが必ず出てくる。要は根気である。
見つけ出したテレパシストは、煮て喰おうが焼いて喰おうが、貴方の自由だある。
とにかく、これは誰にでもできて、非常に簡単なので、みんなも暇があったらやってみてね。
しかし、こうしてテレパシー、テレパシーと連発していると、この言葉は随分古ぼけている感じがするなあ。今どきのSFじゃ、テレパシーなんて言葉をそれほど使うことないしね。使うとしても、「ちょっとトイレに行ってくる」、というときのトイレという単語みたいな、軽い感じでしか使わない。トイレパシー、なんつって。いまさら、テレパシーのことなんかいったってしょうがないかもしれない。
しかし、まあ、レトロ趣味ということもある。温故知新という言葉もある。だからどうしたというわけでもないが。
で、まあ、こうしてテレパシーとはどんなものだったか、と思い出してみると、非常に素朴なものだってことに気がつくわけだ。
心と心が通じあえたら、嘘がなくなったり、言葉の壁がなくなったり、どんな生き物とでも通じ会えるようになる、なんてプリミティブな考えにすぎるよね。
たとえば、ぼくたちが物を考えるときは、明らかに言語によって考えている。ぼくの場合なら基本的に、日本語の、音声で、物を考えている。
もっとも、厳密にいえば、音声言語とはちょっと違ったところもある。必要に応じて、画像イメージ的なものや感覚的なものも、一種の単語のような感じで使うことができる。それに、生まれながらに耳の不自由な人は、自分の思考を音声的なものとは考えないだろうしなあ。
ただ、そうはいっても基本は、母国語にある。日本人なら日本語、アメリカ人なら英語で思考しているはずだ。だから、いくら直接心を読み取ることができたからといって、相手の人間の母国語が理解できなければ、何を考えているかわからないだろう。
ましてや、他の動物や異性人などとコミニュケーションが取れるはずがない。テレパシーなど、ただの夢に過ぎないわけだ。
しかし、そういってしまってはミもフタもない。
テレパシーのアイデアの、万能性と、プリミティブさは、これがすごく漠然とした夢だった、ということに原因があるんだろうね。
ちょうど大昔の人が、月に行ってみたいと考えたのと同じようなものだ。あるいは、ギリシャ神話のようなものにまで、ロボットの原型を見つけることができるのと、同じようなものだ。
こういった、素朴な夢は、夢だけあって完璧で、凄いイメージであることが多いのだけど、完璧であるが故に、じきに飽きがきちゃう。
ところが、いっぺん飽きちゃったものでも、これを可能なテクノロジーや、科学の範囲で、現実のものにしようと考えると、またもういちど楽しめることが多いんだよね。
たとえば、月へ行きたいという漠然とした夢より、実際のロケットや、月に行くために必要な、科学、テクノロジーのほうが、豊かな発想があって、はるかに面白い。
現実の法則、限界というものを設定すると、それに矛盾せず、夢を実現しようというところで、それまで考えもしなかった発想がたくさん出てくるわけだ。
そこでだ。現実の科学、テクノロジーの延長上に、テレパシーというものを考えてみると、これまた面白いんではなかろうか、てなわけだ。
というわけで、テレパシーの話をするのである。いつもながら、前置きが長いなあ。
まず、テレパシーを現実のテクノロジーの延長上に考えられるか、というところから検討してみよう。超能力型、のテレパシーでもいいんだけど、それだと荒唐無稽すぎて、現実の科学とどう結び付けてよいやら、ちょっとわからないものね。
だけど、機械を使って、思考を人から人へダイレクトに伝えられるようなものを考えると、もうちっと条件がはっきりしてくるだろう。
たとえば、そんな機械としては、映画「ブレインストーム」に出てきた、思考の記録マシンなんかがある。あの装置は、ヘッドセットを被ることで、思考や感覚を、磁気テープに記録、再生できるものだった。この装置で、磁気テープの記録を仲介せずに、二つのヘッドセットを結べば、リアルタイムの思考伝達マシンになりうる。
たしか、物語中では、この装置を使って、思考によって戦闘機などを操縦しようといった、軍事利用なんかも考えられていたなあ。
このような装置は、どのような仕組みによるのだろうか。当然、思考を記録するわけだけだから、思考と対応する物理的実体をキャッチできなければならない。果して、そんな物理的実体なんてあるのだろうか。
そのようなものとして、真っ先に思いつくのは、やっぱり脳波だろう。最近(でもないけど)は、EEGトポグラフィという方法で、脳のだいたいどのへんからどんな脳波が出ているのか、というのがグラフィックに表示できるようになっている。
これは、頭のあちこちに十数個の電極を取り付けて、各点の脳波を記録し、コンピュータ処理でグラフィック化するものだ。これを使うと、前頭要のあたりからアルファ波が出ている、とかが分かって、結構面白い。
もっとも、頭の表面に電極を取り付けているだけだから、電極各点で記録しているのは、脳の奥行き方向の電位変化の総和だけなのだ。つまり、CTのように、3次元的なデータは得られないわけだ。それに、分解能もそれほど良いわけではないしね。
ただし、これはあくまで現在のテクノロジーの範囲に過ぎないから、将来的にはもう少し手のこんだ方法で、CTのように、脳のどの部分の電位が、どう変化しているかが、3次元的に高分解能で分かるようになるだろう。
現在の大雑把なトポグラフィ装置でさえ、気分みたいなものくらいは知ることができる。だから、脳のシナプス一個一個の開閉まで記録できるようになれば、思考を記録することもできるだろう、というわけ。
ここで問題になるのは、果して脳波が、思考を反映しているか、という点だろう。現在の科学では、実のところ、脳波が、いったい脳のどんな活動にともなって出されているのか、はっきりしていないんだよね。
神経細胞中を伝わる電位変化の総和なのか、あるいはシナプスの開閉の総和なのか(これは余りありそうでないな)、それとも一種のクロック的なものなのか。色々考えられるのだけど、現時点ではしらべようがない。
ただ、未来の超技術で、神経繊維の中を流れる電流を完全に記録できれば、それは、思考から、肉体の運動などまで、すべて記録できているはずだ。
記録したものを再生するには、記録したのと同じ電位変化を、脳内に再現してやればいい。こういうのは電波を使って誘導電流を起こすといった方法で、なんとかなるだろう。あああ、東大のヤスダ講堂から俺のアタマに電波を飛ばすやつがいるんだ……。
こんなシステムを考えれば、なんとか思考を記録し、それを再生することができそうだ。しかし、問題はまだある。
つまり、脳というのは、人間一人一人の、顔や体つきが違うのと同じように、人によって結構違った形をしているのだ。マクロにみて違った形をしているのだから、ミクロレベルでは全く違うといっていいだろう。
だから、脳の電位変化を記録したテープは、それを記録した人のみに限って再生が可能になる。別人の脳で再生した場合は、たぶん全く無意味な内容にしかならないだろう。
これでは、せっかくの思考記録装置の用途が限られてしまう。テレパシー装置には到底なり得ないわけだ。
ただ、これは脳内の電位変化を記録する方法を少し工夫すれば、なんとかなるかもしれない。
つまり、脳の神経回路網を、三次元の絶対座標で表すのではなくて、トポロジー的に表現するのだ。神経繊維の一つ一つの大きさは無視して、どこで何回分岐して、何処へ綱がるかという情報に注目するわけだ。
これだったら、脳の大きさや形に左右されずに、どの神経細胞からどの神経細胞に情報が伝達されたかを記録、再生できる。
ただ、そうはいっても、総ての人の脳の神経回路が、トポロジカルに同じであるという保証はない。というか、トポロジカルにも、相当違っていると考えるのが妥当だろうね。
もっともこれは、脳の神経回路をすごくミクロなレベルから眺めているからそうなるわけで、もっと大雑把に見れば、だいたい同じと考えてもいいとおもう。なにしろ、人間という同じ生物なんだし、基本的に大差のない遺伝情報から、脳の神経回路の基本は組み立てられているんだから。
だから、こういった方法を使えば、思考の完全な再現は無理としても、多少ピントのボケた程度には、再生できるのではないか、とまあ希望が持てるわけだ。この辺についても、現代の科学でははっきりしたことは何もいえないな。
と、まあここまでは脳のハードウエアのコンパチビリティを問題にしてきたわけだ。
しかし、脳にはソフトウエアのコンパチビリティという問題もある。実をいうとこちらのほうが問題は遥かに難しい。
脳のソフトウエアがどうなっているか、ということは現時点ではほとんど分かっていない。けれども、少なくともこういったことは想像がつく。
ブレインストーム型、脳電位記録装置では、脳の神経回路のハードウエアの状態は知ることができるだろう。しかし、そこからどんな情報処理がされているかは知ることができないということだ。
これは、ちょうどコンピュータの内部の電気の変動を知ったからといって、そのコンピュータが、まさにその瞬間、どんな情報を処理しているのか、わからないのと同じことだ。
はやい話、脳がハードウエア的に完全にコンパチブルでも、脳の何処に記憶がしまわれているのか、の違いがあると、情報を再生しても全く無意味になってしまうのだ。
ページがつきちゃった。以下次号ね。
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宇宙戦争を見てきたよ
映画「宇宙戦争」を見てきましたよ。
いやあ、面白かった。久々に映画を堪能したって感じ。
実は、この作品、見に行く前は、あまり期待していなかったんだよね。
なんでかというと、ネットでの映画評が、どうも芳しくなかったからだ。
たとえば、google で「宇宙戦争」「映画評」というキーワードを使って検索すると、上位にくる結果の多くが、基本的にはがっかりって感じの評価をしている。
また、プロの映画評でも超映画批評では、『宇宙戦争』100点満点中35点 とか、散々ないわれようだ。
しかし、実際に見てみたらその印象はゼンゼン違っていた。
これは名作ですよ。
少なくとも、僕が今まで見たパニック・ムービーのなかでは、ベストの作品だなあ。
特に素晴らしかったのは、群集心理の描き方だ。
ついさっきまで、平和で平凡な生活を営んできた人々が、突然、理不尽で理解を越えた脅威にさらされる。彼らはみんな、恐怖心でいっぱいになっているんだけど、それと同時に、パニックを起こしたら終わりだということもまた、よくわかっている。
なんとかして理性を保とうとしながら、何かのきっかけでハジけてしまいそうな、そういう心理的な内圧が、ギリギリまで高まっている状態のふるまいが、とてもリアルに描写されていく。
こういう映画では、サービスのつもりなのか、信じられないようなバカをやる人間が出てきて危機感を煽るコトがありがちだ。でも、それって逆に白けちゃう事のほうが多い。 この宇宙戦争ではそういうことは一切なくて、もしこういう状況に自分が追い込まれたら、他に振る舞いようがないというような必然性を感じさせてくれる。
全体の感想としては、
と全く同意見。
エンディングの家族の描き方は、必要にして十分で、ぼくにも満足のいくものでした。
あと、ネットでつまらないといっている人の中には、設定が不自然だとか、エイリアンたちの意図がわからないという意見が結構あったと思う。
でも、この作品は、「ある災厄を奇跡的に生きのびた家族のドキュメンタリー」という形式なんだよね。だから、登場人物たちは、起きている出来事に対する確かな情報を何一つ持っていなくて当然だ。
たとえばトライポッドが、100万年前から地面に埋められているなんてあり得ないっていう意見がある。
そりゃあ、まあそうでしょう。そんなに昔から埋まっていたんなら、とっくの昔に誰かが掘り起こしていなくちゃおかしいよね。
でもこの説明は、登場人物たちの推測に過ぎなくて、劇中の「真実」とは限らない。
ひょっとすると、エイリアンは、超テクノロジーで、スタートレックの転送みたいに、地球の土を材料に元素転換を行って、トライポッドや自身の肉体も再構成したのかも知れない。
まあ、ぼくはもともと、一見おかしな設定でも、こう説明すれば納得できると言う事を考えるのが好きなので、よけいそう思うのかも知れないけれどね。
宇宙戦争を見た人で、ここがおかしいと思うコトがある人は、ぼくに聞きなさい。説明してあげましょう。(^_^)
そんなワケで、宇宙戦争は超お薦めです。
ただ、エイリアンが微生物によってあっさり自滅するというオチを知らない人は、最後で衝撃的にがっかりしてしまうようなので、それはあらかじめ知ったうえで見たほうが良いのかも。
それと、あえて不満点をあげるとするなら、宇宙人のデザインが月並みで、ちょっと画面に出し過ぎだったなあってコトくらいかな。もっと得体の知れないものが、チラッと映るだけのほうが良かったとは思う。そのへんは、昔のジョージ・パル版のほうが巧かったなあ。
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第二の緑の革命
名古屋大学と、理化学研究所、ホンダの共同研究グループが、従来のコシヒカリより背丈が約18%低く、かつ粒数が約20%増加した品種の作出に成功した。
朝日新聞:品種改良成功でコシヒカリ大幅増収
読売新聞:収穫2割増で風雨に強い、“スーパーコシヒカリ”開発
毎日新聞:収穫量左右する遺伝子を特定 名大などの研究チーム
これは、背丈が約1・1メートルのコシヒカリと、背丈が約90センチで、収量がコシヒカリの2倍あるインディカ米の「ハバタキ」をかけあわせて作ったもの。(遺伝子組換えでなくて品種改良で作っている)
なんで背丈も低くするのかというと、米粒が増えると、先っぽが重くなって、台風とかの風で倒れてダメになりやすくなるから。
ただこの研究のキモは、収量の多いコシヒカリを作り出した事にあるワケじゃない。
、食糧増産と言う事だけなら、ハバタキそのものを使えばいい。世界的にはインディカ米が好まれている地域の方が多いわけだし、収量もその方がうんと多いわけだから。
今日のNatureの、
番外編: 収量2割増しで倒れにくいコシヒカリが誕生
に、そのキモの部分が書かれている。
「イネは全ゲノムの解析が終了した穀物ですが、ゲノム解析によって得られた情報と交配の結果とを比較する事で、経験に頼ることなく有用な性質の有無の判断が行える為、短期間で効率的に品種改良が行えるという利点が得られています。」
一つの作物の品種改良には、普通なら、十年とかそれ以上かかる。それを劇的にスピードアップする手法の一つが、遺伝子組換えだ。
でも、遺伝子組換えは、一般に危険なんじゃないかと思われてしまった。
僕自身は、遺伝子組換えという技術をそう毛嫌いする必要はないと考えている。
素性の解っているタンパク質を組み込む遺伝子組換えは、突然変異などで、よくわからないタンパク質が組み込まれてしまうようなコトに比べても、リスクが高いとは思えない。
だけど、世間がそうなっちゃっているんだからしょうがない。とてももったいないコト(せっかく遺伝子組換えで有用な品種を作っても結局日の目を見られない)だとは思うけど覆水盆に返らず。
「芦苅助教授は以前、『まだ人々の間に不安がある遺伝子組換え技術を使わず、従来の育種技術によって増産できる品種に迫るのが、私たちの研究のミソだ』」
というのは、非常に現実的かつ有用なアプローチだと思う。
研究チームはコシヒカリにハバタキを、たった5回掛け合わせただけで、目的を達成している。これは、遺伝子地図が明らかにされたために、目的の遺伝子を絞り込んで掛け合わせができたからだ。
ゲノムの解析がこんな風に役に立つなんて、ナイスアイデアだよね。同様の手法は、遺伝子が似ているトウモロコシや小麦にも応用できそうだから、それが第二の緑の革命といえるくらい、非常に大きな意味を持っているワケね。










