育種と優生学(下)
ところで、この育種という考え方を、人に適用すると、どうなるだろう。
誰でも、自分がもっと足が速かったらとか、もっと記憶力があったらとか、思ったことはあると思う。また、たいていの親は、子供が自分より優秀であって欲しいと願うものだ。
だとしたら、より良い子供を生み出だすために努力するのは、良いことのように思える。でも、本当にそうなのだろうか。こういう、育種を人類に適用する考えかたを、優生学という。
優生学はチャールズ・ダーウィンの従弟に当たるF・ゴルトンという人によって、1883年に、ギリシア語の「良い種」という意味の言葉から作られたものだ。もともと民族の遺伝的素質を肉体的、精神的に向上させることを目指したもので、大きく積極的優生学と、消極的優生学の二つの方向性がある。
積極的優生学は、人類にとって良いと考えられる性質を持った遺伝子を、増やしていこうとするもので、逆に消極的優生学は、人類にとって好ましくない(有害)遺伝子を、減少させようというものになる。
これだけ聞くと、優生学はそれほど悪いアイデアではなさそうに思える。でも、歴史的には、この優性学が、とてつもない悲劇を引き起こした。つまり、ヒトラー率いるナチスドイツのやった大虐殺だ。
ナチス政権が成立した直後、断種法という法律ができている。これは、民族から「悪い血」を取り除く、消極的優生学を具体化したものだ。
これで実際に行われたことは、何万人もの精神病患者や、身体障害者を、去勢したり、ガス室に送って殺すことだった。そして、この考え方をさらに発展させる形で行われたのが、ユダヤ人の大虐殺だ。ナチス政権にとって、ゲルマン民族はあらゆる民族の中で最も優秀で、ユダヤ人は劣等民族だから、ユダヤ人の断種は消極的優生学にかなうことだった。そして、秘密政策として600万ユダヤ人が殺されていった。
より良い子孫を願う気持ちが、何でこんな酷い形に、ねじ曲がってしまったのだろう。こういうことがあったから、優生学は倫理的に赦されないことだとする人もいる。でも、倫理というのは、時代や文化を越えて普遍的なことではないので、説得力に乏しいと思う。たとえば、歴史的な酷い経験をふまえて、現代ならもっとちゃんとした優生学ができるといわれたら、そうかもしれないと思うんじゃないだろうか。
でも、まあ、ぼくはそうは思わないんだけどね。優生学の問題点は、どういう性質が優れていて、どういう性質が劣っているのかが、実は誰にもわからないという点にある。
たとえば、アフリカ系アメリカ人には鎌状赤血球貧血という遺伝病がある。これはとくに、ジェット戦闘機のパイロットで見つかったものだ。
この遺伝病を持った人は、日常生活では、健康な人と何の違いもない。ところが、ジェット戦闘機で飛行する時のような短時間の激しい気圧の変化を受けると、赤血球が鎌のような形につぶれて貧血を起こし、昏倒してしまう。だから、この病気を持つ人は、航空機パイロットになることはできない。
これは病気だから、「悪い血」のように思うかもしれない。しかし、同じ性質が、マラリアという病気に対して、抜群の抵抗力を持っているのだ。
マラリアは、マラリア原虫という寄生虫が、赤血球に潜り込んで増え、起きる病気だ。ところが、鎌状赤血球貧血の人の場合、マラリア原虫が赤血球に潜り込もうとすると、赤血球がつぶれて原虫も死んでしまう。
つまり、これはジェット戦闘機乗りには致命的な遺伝病でも、マラリア多発地帯では、生存確率を大幅にアップする優れた性質なのだ。それでも、これは「悪い血」といえるだろうか。
これの意味することは、「良い血」「悪い血」という価値判断が、しょせんは、ある時代の、ある目的に、あっているか、あっていないか、ということに過ぎないってことだ。そういう枠を取り払ってしまえば、その判断も意味を失う。つまりこれは、優劣の違いではなくて、個性の差なんだよね。
そんなこといったって、やっぱり頭が良かったり、体力があったりした方がいいじゃないかと思うかもしれない。
そこで、たとえば記憶力を強化して、一度見たり聞いたりしたことは、決して忘れなくなったとしよう。テストなんてチョロいもんだ。しかし、そのせいで色々な嫌なことを忘れることもできず、心が沈んで、自殺したくなっちゃうかもしれない。
何かをよかれと思って改良しようとしても、必ずそれに連動して思わぬ事が起きてくる。もちろん、試行錯誤をたくさんやれば、いつかは希望に近い子ができるかもしれないけれど、それは人間にはできない相談だ。この子はあまり記憶力が良くなかったから、断種しようとか、できないもんね。
家畜や作物の育種が強力なのは、たくさんの実をつけたいというような、ある目的が設定できるからだ。
ところが、人間の場合は、この目的が設定できない。目的を設定するということは、目的にあわないものを排除することで、それは人間の中に内在している可能性を、削ってしまうことになる。それは長い目で見て、人間という生き物の衰退につながるだろう。だから組織的な優生学は、やっても意味のない事なのだと思う。
ただここで誤解して欲しくないのは、ある人が、頭のいい人とか、体力のあると思う人に魅力を感じて好きになり、子供を設けることには、何の問題もないということだ。個人が感じるその魅力は、みんながそれぞれ微妙に違っていて、一つの物差しでは測れない。良いなと思ったことが実はゼンゼン誤解で、それとは別の良いところを見つけてしまうこともある。結果として、集団の中に遺伝的に色々な可能性を持った子が生まれてくる。多様な人の多様な物差しがあるからこそ、人々の未来は豊かになるんだよね。
最終更新時間 2005年05月31日 04:58
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すばらしい!!
投稿者 ゆう子 : 2005年05月31日 08:13
すごくわかりやすいです。
「多様性」は生物には欠かせない進化の源泉なんですね。
良し悪しは「しょせん」ある時代の価値判断に過ぎない、って、なんだか素敵な考え方です。
ビバ!多様性!^^
投稿者 to : 2005年06月02日 17:10
ああ、面白かった。
あいかわらず、分りやすい。
どんどん書いてね。
投稿者 futya : 2005年06月02日 18:09
ちょうどいま立岩真也氏の『弱くある自由へ』(青土社)を読んでいる身からすると、ここでの議論は失礼ながらかなりナイーブに感じられます。
> 優生学の問題点は、どういう性質が優れていて、どういう性質が劣っているのかが、
> 実は誰にもわからないという点にある。
と書かれていますが、ある種の先天性の障害者は社会的に劣っていると歴史的にみなされ続けています。出生前診断の技術の確立はこうした人々を生まれてこなくさせる可能性を高めます。
> 多様な人の多様な物差しがある
とは言ってもその多様さが実は減じているという状況が起こりうるわけです。いま現に生きているある種の障害者がそうした状況をこころよく思わないとしてもそれは当然のことでしょう。
そのことをどう考えるかはすぐには答の出ない難問だと思います。
こういったことをすべて考慮した上での文章であるとしたら非礼をお詫びします。
投稿者 Juno : 2005年06月24日 12:50
こんにちは。
私は 優生学を人生設計に生かしているものです、
・・よい所を伸ばせば悪いところも伸びる(精神・脳細胞)と言ってましたが 悪い事を知らないようにすれば?
人間は みな 同じ機能大きさを持った脳ですよね、脳の能力は遺伝で触らなくても 余裕のある大きさ 能力を持っているのでは?
大事なのは 肉体では? 断片的であり集中的な課題と言った後 多種多様と結論付けているようですが・・・
庶民レベルでは考えないのでしょうか?
投稿者 nademo : 2007年01月17日 10:34










