くるま社会、ネット社会
『フューチャリスト宣言』梅田望夫/茂木健一郎 著(ちくま新書)にこんなことが書いてありました。
p.131「ネットへのアクセスは基本的人権」、茂木氏の発言から。
《(前略)どんな貧しい人でもネットへのアクセスは保障されるべきだと思う。だって、ネットにアクセスできなかったら、いまどき何もできないですよ。求職もできない、情報も集められない。ネットへのアクセスって、いまや基本的人権の一つだという気さえする。》
随分と前、TVで「くるま社会」というのを端的に表現しているキャスターがいて(番組名とか、いつのことだったかはとっくに忘れてしまっていて書けません)、「くるまがあることを前提としていていて、くるまでしか行けない場所がある」というような趣旨でした。
くるまがあることを基本的な前提条件にして成り立っている社会のことを「くるま社会」というのだと。
「ネットワーク社会」という表現をしたときも同じで、ネットワークが張り巡らされていることを前提として、圧倒的多数がそれにアクセスできることが当然のこととして扱われる。そこにはネットを介してしか行けない場所があり、ネットを通じてしか経験できない擬似的な現実があるというわけです。
”XX社会”という言い方に対しては、常にこうした説明付けが可能になると思われ、だいたい一般論としては腑に落ちる。
しかしこういったロジックに関して実は自家用車を所持していない私は、くるま社会がもたらす恩恵の少なくとも一部からは疎外されていることになるので、奇妙な感じがしないでもない。「別にくるまなんてなくてもいいじゃん」でも「宅配便はきちんと届いて欲しいな」という感覚です。
きっとネットワークも同じで、「別になくても」と「コンビニのATMは便利だな」が混在するんでしょう。
自動車の場合は所有すると税金も余計にかかるし、保険やら車検やら、日常的にはガソリン代・駐車場代。忘れてならないのは自分で運転するという行為のコスト。
総計するとかなりの額になります。ウィークデーは会社に出勤していて土日しか乗車しないとしたら、その移動の全てをタクシーに置き換えても、そちらの方が安上がりになるのではないかと試算できるはず。
果たしてネットはどうなんでしょうか?
最終更新時間 2007年07月13日 10:00
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