ガンジーならどうする?
昨晩、マルコと僕は「Doors of Perception in India」の閉会式を取り仕切らせてもらったのだけど、本当に素晴らしい会議でした。会議場にWiFi がないとか、手配上の瑣末な問題はあったけど (数日間ブログを更新できなかった僕の言い訳です)、本当に素晴らしかった。内容はスラムにおけるメーカーのネットワークの自己組織化や、代替通貨から最新 Web 情報まで、多岐に渡るもので、これを企画・実行したチーム全体に本当に感謝しています。
会議のラップアップで、僕はオープン・インターネットが担うボトムアップ型の革新や内向き指向の作業に対する役割、さらに独占企業がもたらす障害についていろいろと話をしました。独占企業を解体するのは政府の役割であり、我々だけで解体できるものでもない。また、クリエイティブコモンズは選択肢を提供するためにあり、従来のメディアやコンテンツ制作モデルを否定するものではないことも説明しました。
すると、ある老人がふと立ち「すべての知識はすべての人物に提供されるべきであって、著作権の問題に関して妥協すべきではない」と発言しました。「我々は、企業の独占を覆すために街頭を行進し、戦う準備はできている。政府が事を起こすまでただ待っている必要はないのだ」と。後で判明したのですが、その老人はかつてマハトマ・ガンジーの僧院で彼と共に住んでいたそうです。
その言葉を聞いて、僕の心に痛みが走りました。僕は、自分の発言している映像がインターネット上に流れる事を想定して、無意識のうちに自己防衛策として柔和な言葉を選んでいたことに気がついたからです。もっと自分の信念のもと、強い姿勢で臨むべきだったのではないか。昔ガンジーの映画を見た時に、貫き通された信念の力や純粋さは暴力や妥協なしに国家を動かすことができることを認識し、自分のやり方について自問自答したはずではなかったか・・・。(それがハリウッド映画であるというところが皮肉だけど)
僕は常に自分の役割を、グループ間の対話の手助けをする「ある種の大使」または「架け橋」と考えてきました。電話オペレータや旧態依然とした企業との対話では、僕は彼らの“挑戦”について語り、左翼のアーティスト達には独占企業による圧制について語ってきました。
ところが最近、僕のスピーチの音声や映像がオンラインで流される傾向があり、そのことが僕のこの二重の人格/振る舞いを保つことを困難にしているのです。
オンラインでいろんな情報が流通するのはいいことなんだけど、友人とのプライベート会話での発言に対して批判を受ける政治家や、エンロンの電話を少し思い出してしまうのです。僕自身これを助長し、からかったこともあるので、自分が背筋も凍るような批判を受ける側に立つということは興味深いことではあります。でも、僕が伝えるメッセージの内容に変わりはないけど、その伝達方法はやや弱まったものとなってしまいます。
大半の人には僕が伝えたコンテキストで、僕の発言を理解してくれていると思うのですが、時々僕のしゃべる内容はブログで伝えるような言い方とは異なる場合があります。僕の頭の中では、これは観客の枠組みの中で観客が理解できる言葉に翻訳するという建設的な作業ですが、ある意味、不誠実でもあります。また、観客を完全に害してしまい、僕の発言内容が拒絶されてしまうような“過激な”発言を控えるようにしてしまいます。
※とはいえ、人を怒らせてしまったことは何回もあるけど。フィンランドのとある出版社の人から、僕のクリエイティブ・コモンズに関するスピーチは“最低だ!” と言われたこともあります。
そういう面で、ブログはおそらく僕の中で一番“バランスがとれた状態”で発言されていると思います。実際に過激派の人と話をする時は僕の発言はもっと過激で、逆に保守派の人と語る時にはもっと“柔和”になっているはず。でも僕が疑問に思うのは、このように観客に適した言葉を選ぶということは「妥協」なのか?そして「適切な言葉を選ぶ」ということと「姿勢を変える」ということの線引きは一体どこであるかということです。
こんなとき、ガンジーならどうするんだろう?
最終更新時間 2005年03月30日 17:41
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トラックバック時刻: 2006年05月01日 21:07
「最適な言葉を選ぶこと」=「妥協」だとは思いません。
英語しかわからない人には英語で話し、日本語しかわからない人には日本語で話すことが妥協だとは言わないと思います。
相手に合わせて言葉を変えたからといって、話す人の信念に変わりはないと思います。
また、興奮していきり立っている人に話すのと、悲しみに打ちひしがれている人に話すのとでは、声の調子がかわるでしょう。
だからと言って、伝えたいことが変わるわけではない。
「自分が伝えたいこと」が一貫していることが大切だと思います。
投稿者 katsuno : 2005年04月04日 09:31
「最適なことばを選ぶこと」=「妥協」というより、正しい日本語(英語)を選ぶことの方が大切だと思います。それによりおのずと表現がきまってくるように思います。
これに声の調子が変わって味わいのある表現になるのではないでしょうか。
投稿者 損子(孫子の子孫) : 2005年04月05日 11:35










